最新話

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 礼に始まって礼に終わる。

 あらゆる武道がそうであるように、弓道もまた然り。

 道場への出入りでは、道場の神様を祀る神棚にその都度一礼するのが習わしだ。

 明仁高校弓道部では、これを部活開始の時の坐礼ざれいで一括して行っており、部活終了の坐礼ざれいでもまた一括して礼を示している。限られた部活時間と礼儀を示す心遣いとの折衷案として、部長である凜が定めた簡易版の「しきたり」だ。

 そうして道場への礼を示した次は、相手に対する礼儀。

 対戦相手と向き合って一礼を交わし、決着後にもまた一礼する……これは武道に限らず様々なスポーツ競技でも行われていることだが、弓道の場合は少々異なる。

 弓道の競技が行われる際、それぞれが向き合うまとに対して礼を示すのである。

 雌雄を決する相手とは向き合わず、自分自身の内面と向き合うということだ。相手も自分も、やることはただ一つ――射法八節しゃほうはっせつを正しく行うということ。闘う相手は常に自分自身であるということを表した、弓道ならではの競技の形だ。

 自分と向き合う時間。

 自分自身と闘い合う戦場。

 弓道における射場しゃじょうとは、本来はそういう場なのである。

 一年生たちの指導が終われば、和気藹々とした会話や指導の声はもうそこにはない。

 射場しゃじょうには今、直人が一人だけ。

 直人は射位しゃいから一メートル半ほど手前――本座ほんざと呼ばれる位置にすわって、廊下から聞こえてくる物音が静まるのを待っていた。

 両足を隙間なく揃え、爪先を内側に向けたまま腰を降ろす……このすわり方は跪坐きざと呼ばれ、いつでも次の動作に移れるようにするための『構え』だった。

 直人が跪坐きざで待機しているのは、一番後ろの〈五的ごてき〉の本座ほんざ

 執弓とりゆみ姿勢しせいで形作る弓矢の二等辺三角形を崩さないまま、弓の末弭うらはずを床に付けている。視線は自身の鼻筋を通して二メートル先――床に描かれた逆ハの字型の掠れた跡、その左足が位置するあたりへと注いでいた。

 しかし今まさに自分と向き合っているせいか、その眼差しに焦点は定められていない。まぶたが少し下がり気味なこともあって、まどろんでいるようにも見えるだろう。

 事実、その呼吸は眠っている時のようにゆっくりとしたペースだ。

 鼻から漏れ出るかのように息を吐き、それと同じだけ時間をかけて、腹部を膨らませながら息を吸い込んでいる……だが上衣じょういのシワの伸び縮みが一目でわかるほど、その呼吸は深い。

 そんな呼吸と連動しているのが、まばたきだ。

 まばたきは毎回吸う息に合わせて行われており、その速度は一瞬。人が暮らしの中で無意識に行っている時のそれと等しく、かつ意図したタイミングで繰り返されていた。

 リラックスしているように見えるその佇まい。

 けれどよく見れば、隙のない動作の連続であることがわかる。日頃の修練で培ってきたモノが自然と溶け込んだ、生きた動作として昇華されているのだ。

 そんな跪坐きざの構えが、わずかに動きを見せた。

 動き始めのきっかけは、道場の玄関扉が閉まる音。

 すなわちそれは、大半の一年生が家路につき、掃除当番の者も役目を終えて道場から退出したということだ。道場全体から活気に溢れた空気が抜け、静寂に取って代わっていく。

 直人が動き始めたのは、そんな瞬間だった。

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白羽の矢を立てて @ya-hagi

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