着り変える:13.5

 雨粒の音が強くなってきた、午後五時。

 一年生への指導を終えた直人たちが、それぞれの個人練習に移っていく。

 真矢と凜はいつも、巻藁まきわら部屋で四、五本引いてから的前まとまえ練習を始めるタイプだった。一方で直人は、軽いストレッチで体をほぐしてすぐに的前まとまえ練習に取りかかる。

 そのため、着替えを終えた一年生たちが帰る頃になると、射場しゃじょう弦音つるねが鳴り響くというのがいつものパターンだった。

 しかし今日の直人は、大会が近いことから胴着に着替えて練習することにした。

 一年女子に男子更衣室も使わせているため、他の一年男子と同じく、廊下や巻藁まきわら部屋で着替えることに。賑やかな話し声が行き交う中、直人は黙々と着替えていく。

 ジャージを上下とも脱いで、まずは上衣じょういに袖を通す。

 上衣じょういえりを腰元まで辿った先には紐がついており、先に右の衿紐えりひもを左脇腹の内側にある紐と結び、続いて左の衿紐えりひもを右脇腹の外側にある紐と結ぶ。

 股下まである長い裾を軽く手で払い、シワを取って次の行程へ。

 次は帯だ。

 直人が締めようとしている紺色の帯には、真一文字の白い線が引かれていた。

 その白い線を、腰骨の前側に出っ張っている部分――正式名称は上前腸骨棘じょうぜんちょうこつきょく。弓道的にわかりやすく言い変えれば『執弓とりゆみ姿勢しせいとなった際に両手が触れる部分』である――と被せるようにして、時計回りに帯を締め重ねていく。

 帯の結びは、最後尾を三十センチほど残した部分で九十度折って垂れさせ、腰に巻き重ねた帯と十文字を描くようにしてまた巻き重ねる方法だ。これは『結ぶ』と言うよりは『締める』と言った方が適切だろう。これを慣れた手つきで背中側で締め上げる。

 帯の結び方は様々あるが、これは直人の我流だ。というのも、それは直人の体型的に退きならない理由があったためである。

 実は、男性の和装というのは『少し太った人』向きに作られているのだ。

 帯を真横から見てやや前傾となるように締めるのも、膨れた下っ腹に帯が密着することで、位置のズレや緩みを抑制することができるためである。

 そういう訳で、下っ腹がまったく出ていない直人の場合は、拳一つが帯と下腹部との隙間に入るくらいが本来の位置となる。

 ただ、それでは当然ながら帯の緩みやズレは避けられない。

 帯と体の間にタオルなどで詰め物をする対策法はあるが、直人は試行錯誤の末に『なるべく何もしない』形に落ち着いた。

 着付けに手を加えない代わりに、普段の日常生活を胴着姿で過ごすことで動作の運び方を見直し、帯の緩みやズレを最小限度に留められるようにしたのである。

 直人は中学時代の三年間、家では普段着用の胴着で毎日を過ごしてきた。そのおかげで着付けに手間取ることはなくなり、痩せた体型でも着崩れる心配は大幅に減った。

 それでもなお改善点は多く、その最たる例である帯の締め方と結び方は、変えられない体型ゆえの苦肉の策なのであった。

 そうして帯が決まれば、続いてはかま

 男性が穿はかま騎乗袴きじょうばかまと呼ばれ、その名の通り、馬にることを想定して作られている。

 中心へと向かうようにして折られたヒダは左側に三つ、右側に二つ、そして真ん中で交差し隠れた二つの計七つ。その見た目はまるで長いスカートのようだが、その中身は、またがるためにズボンのように二股に分かれているのだ。

 先に股へ通す足は、左足から。

 もしこれを右足から先に通せば〝死に装束しょうぞく〟の穿き方となってしまうのだが、もちろん直人は穿き違えることなく左、右と足を通す。

 股に足を通して次は、締めた帯を隠すようにして下腹部にはかまを縛り付けていく。

 はかまを腰に縛るための紐は、前後に二本ずつの計四本。

 前側の紐は左右の上前腸骨棘じょうぜんちょうこつきょく付近にあり、長さは約一メートル半。

 これを帯の上部を伝って左右とも一周させ、ヘソから拳一つほど下で交差させたら、今度は帯の下部を伝うようにしてまた背後へ。紐が緩まないように締め付けつつ、帯の結び目に重ねて抑えつけ、蝶結びでしっかりと縛る。

 前が決まったら、次は後ろだ。

 男性のはかまの特徴である腰板こしいたは、台形に加工された厚紙やゴム板、木材などが下地に使われている。叩けばコツンと音が鳴るその堅さは、姿勢を正すためであると同時に、動作を妨げない程度のしなやかさを併せ持つ。

 それを帯の結び目の上に位置するよう、腰板こしいたの内側――その根本にある小さなヘラを帯と上衣じょういの間に差し込み、体の中心線上で位置を仮止め。

 本止め用の後ろ側の紐は、腰板こしいたの左右の付け根にある。長さは前側の紐の約半分だ。

 腰板こしいたを体に密着させるようにして左右の紐を前へと回し、ヘソ下で交差させていた前側の紐を巻き込んで結び目を作る。この時、結び目を内側へと隠すように作るのがポイントだ。そうすることで正面からは四角い結び目となって見えるようになり、見栄えが良くなる。

 ここの結び目は四角く作るのが難しく、それゆえに、その出来映えがその人の着付けの熟練度を示すとも言われている。直人は三年間の試行錯誤を経てきたことで、すんなりと形を整えることが可能になっていた。

 四角い結び目を作りながら、次の行程へ。

 余った紐の端は、帯の下部を沿うようにして背後に回す。はかまの側面から紐の端が見えないよう、前側の紐と巻き重ねながらはかまの後ろ影に隠し、最後は帯の内側へと挟み込んだ。

 あとは上衣じょういのシワを伸ばし、はかまの紐や腰板こしいたの位置を微調整。

 いつもの着慣れた感触であることを確認すると、直人は帯の右側面を何度か叩いた。

「よし」

「いや、相撲すもう取りじゃねぇんだから」

 と、隣で着替えていた大悟から、そんなツッコミが入る。

 ……そう言われてみれば。

 今のは土俵入りする力士りきしが塩を撒いたあとの、まわしを叩いて手についた塩を落とす動作に似ているかもしれない。

「あ、なるほど」

 大悟の喩えに、直人はポンと手を打って納得した。

「……ほんと、ボケにもツッコミにも真面目に返すのな」

「え?」

「天然って話だ。気にするな」

 大悟は額を抑え、呆れた調子でそう答える。

 天然……今朝の凜にも同じ事を言われたばっかりだ。

 その時はあまり深く考えはしなかったのだが、今またこうして言われると気になってきてしまうではないか。

 けれど、大悟はこれ以上を話すつもりはないらしい。

 話題を変えるようにして、直人のはかま腰板こしいたをトンと叩いてきた。

「つーかぇよ。俺らが学ランに着替えるのとほぼ一緒ってどういうことだ」

 周りを見てみれば、他の男子たちはまだボタンを締めている最中の者が多い。

 大悟もまだ第一ボタンがかかっていないが、話す間も一向にかける素振りは見せなかった。

「え、普通に着替えただけなんだけど……慣れてるからかな?」

 言いながら、直人は脱いだジャージをささっと丸め、リュックに詰める。

「慣れてるにしても早すぎだっつーの」

 まだ疑う大悟に、直人は中学時代に胴着姿で過ごしてきた話をした。

 すると、その話が聞こえていた周囲の男子たちが――

「普段着ではかまって……マジか」

「大神さん、ガチで半端ねぇな」

「むしろ逆にぇ」

「時間の概念が崩れるわ」

「それだけ濃密な時間を過ごしてきた、って事なんだよ」

 ――そんな一誠の一言で、一瞬だけ静かになる。

「一誠がシメた、だと……?」

「……え? いや、単純な感想を言っただけで――」

「さすが、市販の指南書を見ただけで今朝の試験に受かる男」

「大神さんの未だ計り知れない足跡を一言でまとめるそのセンス、俺らには真似できないぜ」

「……え、ちょっと、それ、褒められてる気がしないんだけど……?」

「やっぱり才能あるヤツってのは、見てるモノが違うんだな」

「あー、なるほど。崎守と良い雰囲気なのはそれが理由か」

「ちょ――大悟さん!?」

「聞き捨てならねぇ!!」

「女子を見る目も違うだとぉ!?」

「なんでだ!? お嬢に見向きもしねぇとか男として失格だぞ!!」

「お嬢の『取り巻き・そのG』とか目指して外伝に絡むんじゃなかったのかよ!?」

「そ、そんなつもりないから! 僕は元々、同じ中学の和泉さんに誘われて入部して――」

「副部長と二股だってことかぁぁああ!?」

「おい天内、ちょっとツラ貸せ!!」

「ついでに、てめぇの爪のあかせんじて飲んでやる!!」

「き、昨日切ったばかりだから伸びてないよ――って、オヴッ!」

 一誠の悲鳴と男子たちのおふざけ半分な声が、廊下に響いて賑やかさを増す。

 男子たちが取っ組み合うその光景を静観しながら、直人は口元がフッと緩んだ感触を覚えた。

「楽しそうで、いいね」

「まあな」

 自然と口から出た直人の言葉を、隣の大悟が拾う。

「けど、ちょっと油を注ぎすぎた感はあるな。反省反省」

「そっか。じゃあ消火だ――」

 直人は一息挟んで、

「――みんな、そろそろ静かにしてもらえる?」

 ふざけ合う男子たちの声と声の間を狙って、そう差し込んだ。

 そしてそれはちゃんと届いたようで、組み合う一誠たちをはじめ、廊下にいた男子たちの話し声が急速に静まっていった。

 心なしか、外の雨音も弱まったような気がする。

「……っ……!」

 隣にいる大悟が、息を呑んだのがわかった。

 息を呑むような事態は何も起こっていないはずだが……唾を飲み込んだだけだろうか?

「? 新牧さん、どうかした?」

「い、いや……なんでも、ねぇよ?」

 ? ……まあ、いいか。

 直人の練習はこれからが本番だ。

 胴着に着替えたことで、意識はもう切り替えた。

 あとは集中力をどんどん高めていかないと。

「そう。じゃ、新牧さん。今日もお疲れさまでした」

 そう言い残し、直人は射場しゃじょうへと向かた。

 小振りの手提げ鞄を両手で携えながら、静かになった男子たちに「お疲れ~」と、すれ違いざまに軽く声をかけていく。

 そうして直人が通った跡には、混雑していた廊下に一筋の道ができあがっていた。



 直人の姿が射場しゃじょうへと消えたのを合図に、その場で立ちつくす男子たちは口々に呟き始める。

「……見事な玉ヒュンだったぜ……」

「一声で黙らすとか、すでに歴戦の貫禄じゃねぇか……」

「正直チビッたわ。……あれが、本気の空気ってヤツか?」

「いや。アレでまだ本気じゃないらしいぞ……」

「大悟、それマジで言ってんのか……!?」

「ああ。大神さん、大会は『堅実』に行くって言ってたからな……」

「実力がブレない所で勝負に行く感じ、って和泉さんも言ってたね」

「アレでまだ『上』があるってのか……。なんてこったい……」

「大神さん、本当に同い年かよ……?」

「認めたくねぇが、お嬢が惚れ込むのもわかるような気がしてきたぜ……」

 と、女子更衣室の戸が少し開き――

「でしょウ?」

 ――無邪気な笑みを浮かべたドミニクが、ひょこっと顔を出す。

 一瞬の隙間から覗く女子更衣室秘境の光景……しかしすぐに「ちょっと! まだ着替え中!」と、巴がドミニクの後ろ首を掴んで更衣室の中へと引っ込めた。

 思春期真っ直中の男子高校生ならば誰もが憧れる千載一遇せんざいいちぐうのチャンス……しかし男子たちは誰一人として、女子更衣室秘境の中を覗き込んでなどいなかった。

「「……っ……!」」

 ドミニクの、広告塔としての作り笑顔ではない、感情の発露による素直な笑顔。

 まばゆいばかりの破顔は自信に満ちあふれ、純粋な好意を誇らしげに見せるその様には、さきほどの戦慄した記憶が『ときめく甘い記憶』として上書きされるほどの浄化作用があった。

 そんな笑顔に、心を奪われない男子などいるはずもない。

 男子たちはその衝撃に再び身を固まらせつつも、改めて気づかされたドミニクの魅力にまた惚れ直していたのであった。

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