兄貴の開業

 兄貴はマフィアや『関西連合』をひとまず撃退し、その身が安全になったので、宏恵さんと籍を入れることになった。季節はちょうど春だ。しかし、問題がすぐに生じた。兄貴は先日の妙蓮寺の屋敷の爆破事件で死んだことになっているのだ。「警察もいい加減なものだな」兄貴はぼやきつつ、神奈川県警港北署に行った。兄貴はやくざではない。しかし、ある意味、警察では有名人である。その登場に港北署は騒然となった。捜査課長の野鹿自らが、事情聴取をする。「なんで、生きていたことを今まで黙っていた?」「爆破の衝撃で、記憶を失っていました。今日、目覚めたのです」「今まで、どこにいたんだ?」「放浪の旅を続けていたようです。記憶はほとんどありませんが」「ところで本牧、石川町、日ノ出町で大きな爆発事故があったのは知っているな」「はあ、ニュースで見たような気がします」「その事件の首謀者がお前だというタレコミがある。どうなんだ」「そんなことしていたら警察になんか来ませんよ。死んだことになっていた方が色々と楽ですから」「それもそうだな。ところで、マフィアたちは再びやってくると思うか?」「当分は来ないでしょうが、いずれは現れるでしょうね。警戒を厳重にしてください。私は屋敷を襲われた被害者なんですから」「そうだな」

 そのあと兄貴は区役所で戸籍を回復し、宏恵さんと入籍した。それから場所を『ハーベスト妙蓮寺』の写真スタジオに移して、先日購入した、花嫁衣装とウェディングドレスに着替えて記念撮影行った。兄貴は手持ちの紋付袴をきていた。やくざの親分にしたら、さぞかし映えるだろうと俺は思った。

 改装なった妙蓮寺の屋敷は今、春真っ盛りである。ソメイヨシノが溺れんばかりに花を咲かせている。二人はここでも、カメラマンを雇って、記念撮影を行った。花嫁衣装のピンクと桜色の花吹雪がマッチして、えも言われぬ美しさだ。

 ついで、花見を兼ねた披露宴が行われた。招待客は内輪のみで、花札組長、岩櫃若頭、ご母堂、大将、優秀さん、山崎運転手、俺だけだった。仕出しは『居酒屋 小料理 涼子』の板長と吉田くんが準備してくれた。板長は張り切って、マグロの解体ショーを行ったが、この人数では食べきれない。そこで、寿司にして、いつもご迷惑をおかけしている、ご近所さんに引き出物として配って歩いた。大好評であった。新婚旅行は早春の北海道に三ヶ月滞在することになった。俺が行きたかった北海道である。俺は「警備が役目だからついていく」と猛烈にアピールしたが「今回は新婚旅行だからお前は遠慮しな」とみんなに言われた。がっくりである。兄貴のいない三ヶ月間、俺は真金町の『鯨組』に妙蓮寺の屋敷から通って行って、岩櫃若頭のレクチャーの元、様々な銃器の使い方をマスターした。人も恐れる、岩櫃若頭と仲良く行動する俺を、他の三下たちは羨望の眼差しで見ていた。気持ちがいい。その上、階級も三下から本出方に出世した。いいことづくめである。


 四月の北海道はまだ寒い。兄貴と宏恵さんは札幌に留まって、食事や、ショッピングを楽しんだらしい。特にスイーツが豊富で、東京や、横浜では食べられない日持ちのしない、生クリームたっぷりのお菓子が何種類もあって、甘党の兄貴は大喜びしたという。もちろん、海産物やラーメンなど、他の食べ物も美味しくて、ズボンがはち切れそうだ、と兄貴は手紙に書いてきた。手紙を書くなんて、ものぐさな兄貴にしては珍しいことだ。

 五月になると北海道の花たちは一斉に芽吹くという。花の競演が見られるという。兄貴たちは、北海道中をドライブして周り、再び、満開の桜の名所を何ヶ所も見ることができたという。羨ましい限りである。二ヶ月も旅行していると喧嘩もしがちになるが、兄貴と宏恵さんにはそういうことはなかったという。兄貴がきっとやさしいからだ。戦闘の時以外の兄貴はどちらかといえば、ぼーっとしている人だ。最近は物忘れもひどい。そのためにメモ帳を買ったのに、そのことを忘れちゃっていることもある。ちょっと心配でもある。

 六月の北海道は最高だったらしい。北海道には梅雨がない。蝦夷梅雨という言葉もあるが、気象の専門用語ではないそうだ。その蝦夷梅雨にも会わず、快適な空気の中、まっすぐな道を延々とドライブするのは気持ちがよかろう。俺は想像するに羨ましく思った。俺も結婚したら新婚旅行は北海道にするぞと心に誓った。まだ、決まった相手もいないけれど。

 あっという間に三ヶ月がすぎて、兄貴たちが戻ってきた。俺の『鯨組』日参もおしまいである。岩櫃若頭とも当分、お別れである。そう思うとなぜか泣けてきた。「タカシくん、何で泣く」岩櫃若頭が慰めてくれる。「あのお方に会えるんじゃないか。君の好きな、一番大好きな」そうだ、兄貴に会えるんだ。そう思って、気分を入れ替えた。でも、会えなかった。

 兄貴たちを乗せたGAL108号便、新千歳空港発羽田着は、青森県上空で、ハイジャックに遭った。

 犯人の目的は北朝鮮に向かうことだった。北の本格的なキムチが食べたいという。機長はガックリきた。「じゃあ、韓国でいいでしょう」「駄目だ。韓国のキムチは日本人の味覚に迎合している。平壌に向かわなければ、この爆弾を爆破させるぞ」ハイジャック犯は手にした小型爆弾を機長に見せた。それはタバコのヘブンスターを加工したもので、一本一本手作りで仕上げたタバコにしか見えない、精巧な爆弾だった。ハイジャック犯は二十代後半の男性。からだはぶくぶくして、強そうではない。「誰か捕まえればいいのに、あなた!」宏恵さんは兄貴に言ったそうだが、兄貴は、「もう少し、成り行きを楽しみましょう」とのんびりしたものだったという。飛行機は犯人の指示に従うため、一度新千歳空港に戻った。機長が「平壌に行くには燃料が足りない。一度着陸させてくれ」といい、犯人が了承したからである。犯人は世間知らずのようだ。航空機には通常、飛行ルートの三倍の燃料が積んである。充分、平壌に行けたのである。「さて、北海道に戻っちゃいましたね。一仕事して、塩ラーメンを食べましょう」「味噌ラーメンじゃないの」「塩ラーメンがいいんだ」そう言い残すと兄貴は忍者のごとく操縦席に侵入し、もっていたペットボトルの水をハイジャック犯が手に持っていた爆弾にかけ、効力を亡くしてから、思いっきりハイジャック犯を蹴り倒した。一発で気絶するハイジャック犯。周りの男性たちが、ハイジャック犯を押さえ込んでいる間に、兄貴は残ったペットボトルの水を飲みながら、席に帰ってきた。「やったのね」「手応えのない相手でしたよ」兄貴はペットボトルの水を飲み干したという。その間に、警察の特殊部隊が侵入し、犯人を逮捕。感謝を述べる機長に兄貴は「また、北海道に戻れて嬉しい」とトンチンカンなことを言ったらしい。兄貴の活躍は、兄貴が遠慮したにもかかわらず、乗客全員に伝えられ、大いに拍手を送られた。さらに、タラップを降りると、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌の記者に囲まれて、ヒーローインタビューまで受けてしまった。兄貴、やりすぎだ。そのあと、北海道警から感謝状と金一封を頂き、GALからは特別航空券をもらったそうだ。兄貴は金一封で念願の塩ラーメンを食べ、滞在を一日延長して、新千歳空港近くのホテルに宿泊した。連絡を受けた俺たちは命が無事で安心したというより、兄貴がノリノリでテレビに映っていることから、調子に乗りすぎていることを心配した。

 翌日の飛行機で、兄貴は無事、羽田に帰ってきた。「こういう時って、飛行機墜落するのになあ」兄貴はいかれたことをいう。「馬鹿なこと言わないの」と宏恵さんに怒られた。その日は屋敷で、ご母堂特製のご馳走を頂き、兄貴夫婦の無事の帰還を祝った。

 次の日に、二人は兄貴の家の菩提寺である横浜市、鶴見区の苦災寺にお墓まいりに行った。苦災寺とは因業な名前の寺である。これには俺もついていった。寺は森の中にあるので、車は途中までしか入れない。山崎さんは途中で待機となった。森は上り道で険しい。そこを三十分かけて歩く。汗が噴き出す。すると山門に小僧さんが居て「お疲れ様でした。いらっしゃいませ。茶室で、住職がお待ちです」と俺たちに伝えた。そして、茶室に案内する。潜りを抜けて、中に入ると、結構な老人がいた。住職であろう。「花札住職、お久しぶりです」兄貴が挨拶する。花札? どっかで聞いたような苗字だな。「住職、これが私の妻、宏恵です。それから護衛役の古村隆」「宏恵でございます。よろしくお願いいたします」「古村隆です」俺、久々に本名、名乗ったよ。「うん、よしよし。わしが、当寺の住職、花札任天じゃ。タカシくんは『鯨組』のものか?」「はい」「おう、我が愚息が世話になっとるな」「はい?」よく理解できない俺。すかさず、兄貴が「住職は組長のお父様だ」と教えてくれた。「ええっ?」「驚くのも無理はない。僧職に仕えるものの息子が極道ではのう。あやつには早く帰ってきて跡を継いでもらいたいものじゃ」「組長が住職ですか?」俺がびっくりしていると、兄貴が「親分は仏教学校を出ている」と教えてくれた。意外や意外である。「さて、宏恵どの」「はい」「この男の父親は極道であり、本人も未だ極道とつながりを持っておる。ゆえに、いつ死ぬか分からん。それでも良いのか?」「はい。覚悟はできております」「そうか。では何も、もう言うまい。幸せに暮らせよ」「はい」「では、本堂にて祈祷をしよう。タカシくんはここで待て」「はい」本堂には御本尊の黄金不動明王が安置されている。俺も見たかったなあ。残念。

 祈祷が終わると墓まいりだ。「言ったかもしれないけれど、この父は僕の実父ではない。姉、光の父だ。優秀だけが両親の実子だ」「はい」「私の実父は警察官をしていたというが、その後の行方は分からない。探す気もない。いないものと考えてくれ」「はい」その後、兄貴と宏恵さんは線香をあげ、花を供えたんだ。そして和尚に別れを告げ、三十分かけて車に戻る。墓まいりは終わった。


「何か仕事をしないといけないと思う」兄貴が突然言い出した。「何をするんですか?」「私には任侠と読書しか知識がない」「それで?」「ミステリー専門の古本屋をやろうと思う」「へえ、いいんじゃないですか。儲かるとは思えないけれど」「言うな、タカシ」兄貴は少し、冷たい目になった。「場所は『ハーベスト妙蓮寺』なら、無理がきくだろう。面積は五十坪もあれば充分だ。三十坪でもいい」兄貴は『ハーベスト妙蓮寺』の名誉館長だ。館長の山田さんに言えば、なんとでもなる。早速『ハーベスト妙蓮寺』に行き、山田館長に面会する。「ええ、場所はありますよ。ただねえ」「どうしました」「その場所、店がいつかないんですよ。何かに取り憑かれているんじゃないかな」「そんな馬鹿なことないでしょう。そこ、借ります」兄貴は即決した。ただし、兄貴も霊は怖かったらしい。友人で陰陽師の安倍生命あべ・せいめい氏に悪霊ばらいを頼んだ。

「えい! 青龍、白虎、朱雀、玄武、空陳、南寿、北斗、三体、玉女」生命氏が唱えると、「グワー」とものすごい髪の量の女が十二単を着て、大きな扇子を持ち、恐ろしい表情で生命氏に襲いかかった。大変だあ! 危し、生命氏! しかし、生命氏、落ち着いて立ち上がると口を信じられないくらい大きく開けて、女を揉み込んでしまった。腹が妊婦さんのように膨れる。だがそれもつかの間で、お腹はへこんでいく。消化されたようだ。「除霊、完了いたしました」そう言うと生命氏は去って行った。「なんだったんでしょう? 今のは」「なんか見てはいけないものを見てしまった感じだな。コーヒーでも飲んで、気分を変えよう」兄貴と俺は喫茶店に行った。

 悪霊が去った三十坪の場所に兄貴の蔵書、十万冊を搬入する作業が行われた。蔵書は兄貴がトランクルームに置いていた本で、爆破の被害から難を逃れていた。ほとんどが文庫本だったが、全集みたいな貴重本もある。「蔵書を売っちゃって本当にいいんですか?」と俺が聞くと「ミステリーはほとんど再読しないから、いいよ。犯人を知っていて読んで、面白いのとかほとんどないだろう?」「そりゃ、そうですね」作業は家族総出で行われた。はたから見たらおかしかっただろう。着物姿のおばあさんに、板前姿の老人。ラフな格好の男女四人に、きちんと三揃いのスーツを着たおっさんが、あーでもない、こーでもないと言いながら働いているのだ。

 兄貴は棚を作者五十音順にした。それを単行本、新書、文庫の順に並べる。案外、綺麗に並んだ。「タカシ、店番は頼むぞ」「いいですけど、値段とかどうするんですか?」「オール、単行本四百円。新書三百円。文庫二百円だ」ああ、なんという、殿様商売。潰れるのは目に見えている。「兄貴は何をするんです」「補充用の本の仕込みだ。神保町に行ったり、ブックオ●に出物がないか探しに行ったりする」「そっちの方が楽しそうですね」「お前に本を見る目があるなら代わってやる」「いや、いいです」

 翌日、開店した。俺は客なんて来ないだろうと思っていたが、開店と同時に客が入ってきた。「まあ、小島与志雄先生の『海賊ノア船長の回想』の初版本なんて手に入ると思わなかったわ」中年のお客が騒ぐ。「おいくらなの?」俺は遊んでみた。「いくらだと思いますか?」「そうね、一万円」「じゃあ、一万円です」「ああそう」お客は文句も言わずに買う。これは儲かる。この手を使って、俺は午前中で三十万円稼いだ。それだけ、兄貴の蔵書は内容がいいんだ。何も定額制にする必要はない。兄貴はいちいち査定するのが面倒くさいだけなんだ。その点、こんな店に入る客は目利きだ。本当の価値を知っている。俺は、レジの前に、『価格は相談制』と張り紙を貼った。すると、「ここにある本を全部、二千万円で買いたい」という、老人が現れた。「現金のみ、配送そちら負担でよろしければ」と言ってみるとそれでいいという。俺は早速、中にいた客を追い出し、二千万円もらい、日本運輸に来てもらって、箱詰めから何まで全部やってもらって客と一緒に送り出した。「ありがとうございました」あれは蒐集狂だなと思った。そうなると明日以降は売り上げがぐんと下がるな。兄貴の見立てがよっぽどよければ別だけど。しばらくすると兄貴が帰ってきた。十万冊全部売れたというと「ほう」と一言だけ言った。フクロウかよ。「まあ、あの本は売れるとわかっていたからまた十万冊仕入れてきた。タカシ、詰め込みよろしく」うわあ、重労働が待っていた。すると兄貴がレジ前に貼った。張り紙に気がついた、まずい。「タカシ」冷たい声がする。殺される。すると「お前、良い方法、思いついたな。売り上げはいくらだ?」「二千万円くらいです」端数は省いた。

「そんなもんか」兄貴は呟いた。兄貴はいくらぐらいだと思ったんだろう。「この調子だと明日は五万冊くらい売れるな。タカシ、もう一回補充に行ってくる。棚づめ頼んだぞ」兄貴は去って行った。十万冊、一人で入れるのかよ。俺は泣きそうになった。

 翌朝は筋肉痛だった。特に肩が痛い。この状態で今日も店番するのか。こりゃあ、一儲けしなけりゃ、やってられない。あの爺さん、やってこないかな。そう思っていたらやってきた。そして、「一日でこれだけ、そろえ直せるとは、相当の目利きだ。店主を紹介してくれるか」と言って名刺を差し出した。『背鳥弾釈せどり・だんしゃく』と書かれてある。なんて読むのかわからない。でも聞くのは失礼だと思って黙っていた。「主は午後に参ります。お伝えしておきます」と俺が言うと、「そうか、また来る」と言って何も言わずに帰って行った。

「背鳥弾釈? 古書界じゃ伝説的な人だ」兄貴が珍しく驚く。「そんな大物に私みたいなひよっこが合うなんておこがましい。ばっくれよう」兄貴がつぶやいたところに、背鳥氏が現れた。「あんたが主人かね」「ええ、そうです」仕方なく、兄貴は名乗った。「君の父上は『大門組』の幹部だったあいつかあ」「そうです、義理の父親ですが」「そうか、あの男も本好きだったからな。だんだんわかってきたぞ」「何がですか?」「君から買った本は、僕が君の父親に売った本なんじゃ」「そうですか」「それをあれだけ、綺麗な状態に保つのはたやすくない。君はビブリオマニアだな」「マニアだったら、本を売ったりしませんよ。私は本を読むのは好きですが、装丁とか製本法には興味ありませんし、蒐集癖もありません」「淡白な男だのう。じゃが目利きはしっかりしている。ウチのバイヤーにならんか」「私は、宮仕えはこりごりです」兄貴は申し出を断った。当たり前だ。兄貴が真面目に働く姿など想像できない。「残念じゃな。気が変わったら連絡してくれ」背鳥は残念そうに帰って行った。二日目になって店舗は落ち着いてきた。というより、ヒマになってきた。兄貴が放出した、マニア垂涎の本たちは背鳥弾釈に全部買い取られてしまったし、兄貴が新たに仕入れてきた本は価値が高いとは言え、稀覯本とまではいかない。それに相談販売制度というのも客にとっては面倒くさいらしく、一部のマニアしか買い物をしない店になってしまった。これではまるで図書館である。「まあ、趣味でやっている店ですから」と兄貴は鷹揚に言うけれど、一日中レジに立たされている身にもなってもらいたい。だいたい、俺は兄貴のボディガードなのに、接点が朝御飯だけではヤバイだろう。本来の職責を果たしていない。俺は兄貴に、店の改革を強くお願いした。「さて、どうするかね」考えた兄貴はフェアをすることにした。まずは人気作家の伊佐坂幸太郎の本を集め、『伊佐坂幸太郎の世界』というフェアを開いた。俺はよくわからないんだけど、伊佐坂幸太郎という人は、単行本と文庫では内容が大きく変わる人らしい。つまり単行本を読んだだけで終わりではなくて、文庫本も読んでその違いを楽しむのが伊佐坂ファンなんだそうだ。ところが、彼のデビュー作、『オーディエンスの祈り』の単行本は刷り部数が少ない上にすでに絶版になっていて、古書店でもなかなか手に入らないらしい。今回、兄貴はそれを二十冊、どこからか仕入れてきた。なんか裏ルートがあるのであろう。そしてそれに一万円の値を付けた。俺だったら五万円にするとこだけどな。兄貴は商売向きじゃない。『オーディエンスの祈り』は広告も出していないのに開店一時間で売り切れた。目玉が売り切れちゃったので、フェアは一時間で撤収である。「次は渋いところを突こう」兄貴は小島与志雄という作家を持ち出した。初日に中年のおばさんが興奮していた作家だ。「この人は、一作一作、設定が違うんで、シリーズ好きの日本人には、あんまり受けなかった。それでもコアなファンは絶賛して、個人全集の企画もあった。文庫本だけどね。でも、売上が悪くて、途中で打ち切りみたいになってしまった。私たち、ファンはたいへん悔しい思いをした。そして、あろうことか、小島先生がもう病気で執筆ができないと書置きをして失踪してしまって早五年。おそらく、もうこの世の人ではないだろうとみんな言っている。私は諦めていないが! だから小島先生の人気に日がつくよう、私がその先鞭をつける」兄貴はそう言って、『小島与志雄全作品』フェアを開催した。兄貴は珍しく、ポップまでつけた。『豊潤なワインのように匂い立つ極上のミステリーをどうぞ』なんて書いちゃって、バラの花束までディスプレイしている。よっぽど、入れ込んでいるんだな。この作家に。このフェアの売れ行きは、まあまあだった。しかし、伊佐坂のあの勢いに比べたら全然だ。それでも読書好きは、小島与志雄を知っているらしく、「あの行方不明の作家よね」と本を手に取る。一度買った、お客さんは続けてくる。ハマるのだ。「次は何がいい?」と俺に聞いてくる。俺は分かんないから「この門松文庫の『症例X』なんて売れていますよ」というとそれを買って行った。「これで小島先生の知名度が上がれば、先生の見つかる可能性が広がる」兄貴は満足げだった。

「次は何をやろうか?」兄貴が俺に、聞いてきた。本をほとんど読まない俺に聞いても仕方ないだろ、と思ったけれども、なんか気の利いたセリフの一つでも言いたい。俺は「アクション物がいいですね」と言った。うん、気が利いている。「アクションものね。あんまり読まないんだよな……寿々木剛と大阪譲なんてどうだろう?」と兄貴は俺に聞く。だから、そんな名前知らないよ。俺は調子を合わせて、「いいすね。それ」とはしゃいであげた。優しいな俺。「では、本の調達に行ってくる」と兄貴は出かけた。すると「よう」と声をかけられた。花札組長と岩櫃若頭だった。「古本屋始めたなんて聞いてねえぞ」組長は俺のおでこをデコピンした。「イテテ、兄貴が一切宣伝するなというからですよ」「あいつらしいな。順調なのか?」「思ったより順調です」などと話していると「これは小島先生の『野獣神』じゃないか!」と岩櫃若頭が呻いた。「岩櫃、どうした?」「組長、ずっと探していた本がここにありました。感動です」「そうか、よかったな。お前、読書家だもんな」そうなんだ。岩櫃若頭って、読書家なんだ。意外だ。「まだまだ掘り出し物がありそうだな。親分、ちょっと棚を見てきていいですか?」「おう、いいよ」組長は軽く手を振った。「だけど、タカシよ。あいつがこんな小さな古本屋の亭主ってのも情けない話じゃないか」「そう言われると、そうですね」「俺さあ、実は組長をやめようと思っている」「えっ?」「実家の苦災寺を継ごうと考えている」「組長が住職?」「馬鹿にするもんじゃねえ。ウチの御本尊の不動明王さまだって紅蓮の炎の中に住まわれている。つまり、やくざと同じだ」「そ、そうですかね」「そうだ。しかし、俺がやめるとなると、現状なら代貸の沼田が組長だが、あいつにはその器量はない」「そうですか」「だからさ、あいつに組に復帰して、組長をやってもらいたいのよ」「たぶん、断られると思いますよ」「そんなことは充分承知だ。承知の上で、お前に頼んでいるのよ」「な、何をですか?」「あいつの機嫌のいい時に、そっと組長就任の話を持ちかけるのさ」「む、無理です。下手したら殺されます」「それはないだろう、あいつとお前の中だ」「一応努力してみますが、期待はしないでください」「いや、大いに期待するよ」というと花札組長は百万円の束をポンと投げてよこした。「本当に期待するよ」顔は笑っていたが、目は虎のそれだった。『ハマの虎』花札組長の若き日のあだ名だ。組長の本気度が目で分かる。

 夕方、兄貴が帰ってきた。俺はストレートに、いうことにした。回りくどいことは面倒くさい。男は黙って、いや黙っちゃいけない。喋って勝負だ。「兄貴」「なんだ?」「兄貴がいない間に花札組長がいらっしゃいました」「あ、そう」「それで、組長は引退して、鶴見の苦災寺を継ぐそうです」「ははん」「なんですか?」「それで、沼田じゃ、頼りないから、私に戻って来いとでも言ったんだろ」「なんで、分かるんですか?」「叔父貴の考えることくらいお見通しよ」「さすが兄貴」「話はこじれないうちにまとめといたほうがいいな」兄貴はそういうとどこかへ出かけて行った。たぶん、『鯨組』だろう。

 兄貴は出入りのような勢いで『鯨組』に突入したらしい。「叔父貴、沼田、岩櫃はいるか!」その大音声に三下はびっくりしてひっくり返った。「なんだ、騒がしい。ああ、お前かもう決心がついたのか?」「その逆です。叔父貴に決心を促しに来ました」「俺に? 出家を止めさせる気か? そいつはならない」「ええ、どうぞ、ご自由にご出家ください。だけど『鯨組』の跡目争いに、私を巻き込むのはやめてください」「なんだ、断るつもりか?」「もちろん。私は堅気の人間です」「堅気が二百人からの人を殺すかい」「さて、なんのことでしょう?」「とぼけるのか。自分の心の狼を見て見ぬ振りをするのか?」「狼だって、ずっと家にいれば、いぬになりますよ。私はいぬ、いやねこかな?」「いぬでもねこでもいい。とにかく事務所に上がれ」「はい。ただし、いくら説得されてもやくざには戻りません。それより、いい方法を教えてあげます」「なんだと」「とにかく、沼田と岩櫃をここへ」「おう」しばらくして代貸の沼田と若頭の岩櫃が現れた。「さあ、二人が来たぞ。いい方法とやらを教えてくれ」花札組長が吠えた。兄貴はにっこりしてそれを受け返した。「沼田、岩櫃のご両人は、叔父貴が組長を引退して、出家されることをご存知か?」「い、いえ」沼田が動揺する。一方岩櫃は「存じています」と答えた。「有り体に聞こう。沼田、お前は組長として、この組を引っ張って行く自信があるか?」「……男なら、あるって言いたいところですが、俺にはその器はねえ」沼田は答えた。「正直な答えだ。そこがお前のいいところだ。ついで岩櫃、お前は組長になって、この組を引っ張っていけるか?」「わかりません」「なぜだ?」「やったことがないからです」「なら、やってみろ。やってみて駄目なら次の策を考える」「しかし」「しかしもカカシもない。お前の度量は俺も知っている。なかなかのものだ。一方、沼田は正直で、経理や人事、総務に明るいからNo.2にはもってこいの人材だ。二人がいがみ合うことなく仲良くかじ取りすれば、組はもっと良くなる。どうだ? 二人とも」「俺は喜んでNo.2をやります」沼田が言う。岩櫃は答えない。「どうした、岩櫃」

「じ、自信がありません。それに沼田の兄貴の上に立つのはちょっと」「馬鹿だなあ。自信なんてない方が慎重に物事を運べる。それに誰が沼田の上だと言った。二人は同格だ」「……それならば、お引き受けします」「よし、やったあ。組長、これで話はまとまりました。私の役目はこれで終わりです。ではまた」兄貴はそう言って、山崎さんの車に乗り『鯨組』から去った。


 以後、二人を見た人は今日現在までいない。

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