兄貴!

『小林探偵事務所』から電話が入ったのは三日目の夜遅くであった。かなり待たされて、ご母堂は機嫌が悪かった。

——小林探偵事務所の団です。お電話遅くなって申し訳ございません。

「ああ、一日千秋の思いで待っていましたよ。で、結論はどうなんだい?」

——今夜は情報第一弾ということでお願いします。今夜言えることは息子さんは九十九パーセント、ご存命です。山崎さんも九十九パーセントご存命が確定しました。今夜言えることはこれまでです。第二弾をお待ち下さい。

「ちょっと、情報を小出しにして、また金を取る気じゃないでしょうね?」

——そんな気、さらさらありません。お金はもう一切頂きませんから。

「ほんとだね?」

——本当です。信じてください。では次の情報が入りましたらご報告いたします。

 電話は切れた。

「どうだったんですか?」俺がご母堂に聞く。「とりあえず、二人とも生きているみたいだよ」「あとは? 場所は? 迎えに行きますか」「うるさい、わかったことは二人が九十九パーセント生存していることだけだよ」「えー、それで一億円。これって詐欺でしょ」「また、報告があるそうだ。それを気長に待とう。だけど早くしないと嫁が完全に壊れてしまう。それが切ない」ご母堂の宏恵さんに対する愛情は人一倍であった。なくした義理の娘、光にそっくりな宏恵。その生き生きとした働きぶりは、ご母堂の心の贖罪をさせた。「死んでしまった娘が帰ってきましたよ」と仏壇に祈った。それが今度の事件で、精神を病み、苦しんでいる。一刻も早く、救いたい。それには息子が必要だ。生存していることは今夜、分かった。でもそれでは足りない。この目で、息子を見、この耳で息子の声を聞き、宏恵さんの元に連れて行く。ご母堂の願いはそれだけだった。


 一方、別の部屋では大将が、優秀さんにセットアップしてもらったパソコンで、ブログをアップしていた。『戦後の乱歩はもう、少年ものに進むしかなかった。大人を恐怖に陥れる、サスペンスと推理合戦。それを書く才能は乱歩には残ってなかったのだ……』長い論評が終わり、オススメ書籍の紹介を書こうとしていた時、俺が大将の部屋の扉を叩いた。「おう、どうした」「事後承諾で悪いんだけど、大将のぬいぐるみ五百体作ったから。明日から店で売ってね。売り切れたら増産体制に入るからさ」「勝手に作るのはいいが、儲けはどこに行く。まさか、やくざに入るんやないだろうな!」「当たり前だ。『鯨組』はせこい商売はしない。全額、ご母堂に渡すと話が付いている」「そうかい。それなら精一杯売らせてもらうよ。でも売れるのかな?」「俺もそれが心配で」でも心配ご無用。千五百円で販売した「大将ぬいぐるみ」は読書女子のハートをドキュンとさせたみたいで、一日で全部売れた。追加は一週間待ちで、予約だけで千件を超えた。慌てた沼田副組長は別のおもちゃメーカーにも頼んでもう千個作ってもらった。再販売当日は開店前から『ハーベスト横浜』に大量の行列ができた。一度火がついたものは止まらない。ジャパンテレビの朝の情報番組『DEEP』で、「大将ぬいぐるみ」の売れ行きが放送されると、なんでも欲しがるギャルや中年のおばさんまでが買い求め、またもや売り切れ。工場もパンクして、たいへんな事態に陥った。ここで、大手企業磐梯ばんだいが登場する。一度に五千体作れる機会を用意しているとして、沼田を納得させ、契約をもぎ取った。世間は飽きるのが早い、やめどきが肝心と考えた沼田はこの五千体で販売中止を宣言する。磐梯は「まだいける」と言ったが、ここはやくざの勘が勝り、「大将ぬいぐるみ」は八千体売れたところで下火になった。これで、ご母堂が出した一億円の少しは足しになるだろう。

「ありがとよ」感謝したご母堂はその金を沼田副組長に返し、「善いことに使っておくれ」と伝言した。副組長は日本赤十字社に全額寄付した。

 二回目の電話が来たのは「大将ぬいぐるみ」騒動の真っ最中であった。

——小林探偵事務所の団です。ご連絡が遅れて、申し訳ございません。今日は息子さんの大まかな所在地を確認できましたのでご報告申し上げます。

「大まかってなんだい。ズバリ、言いなさいよ」

——申し訳ございません。今はっきりと申し上げると、最悪、戦争が起きます。

「なんだって、大げさな」

——いえ、大げさではございません。こちらも調査中に何人か死傷者が出ております。

「なんだって。そんな大事なのかい」

——はい。では申し上げます。息子さんと山崎さんは、日本の警察が管轄していないところにいます。しかし、海外ではありません。二人はそこに行くことを自ら望んでいたようです。

「分からないねえ。判じ物みたいだねえ」

——次こそは各所の意見をまとめて、正確な情報をお届けします。では。

 団は電話を切った。

「海外でなくて、日本の警察が管轄していないところって、どこだい?」ご母堂が俺に聞く。俺はピンと来たねえ。「ご母堂、それは各国の大使館、領事館ですよ!」「よく言った。数はいくつあるんだい?」「多過ぎてわかりません」ウィキペディアを検索した俺だったが、数があまりに多いのでギブアップしてしまった。「ご母堂、第三の情報を待ちましょう。ここまで待ったんだ。あと少しです」「ただねえ、あたしは宏恵がかわいそうで」ご母堂は泣いた。激しく泣いた。古本屋で、ギャルといちゃついている大将に見せてあげたい姿である。そこに、優秀さんがのこのこ現れて、「大使館だったら、イーストランド王国じゃないかな?」と言う。「なんでですか?」「確か兄さん、何年か前に、イーストランド王国の大使が狭心症に苦しんでいるのを助けて表彰されなかったっけ?」「そんなことあったかねえ」ご母堂は思い出せない。「あの時、拳銃が二発打ち込まれて、護衛官が一人亡くなって。そう、私立探偵がいた。小林耕五郎だったかな。変な名前だったから覚えている」「小林耕五郎?」俺はこの名前に記憶があった。「そうだ! 苦災寺の黄金不動明王を怪盗から守った名探偵だ」「明日、ご母堂綱島に行って小林耕五郎に会いましょう」「そうね」話し合いは終わった。


 翌日、車で綱島に出かける。道は真っ直ぐでいいんだけど、一車線で混みすぎ。道も狭いし、自転車も多い。最近、自転車は車道左端なんて言っているけど、全く守られていない。危険だ。なんとか前回と同じパーキングに停める。『小林探偵事務所』に今日、行くことは言っていない。アポなしだ。チャイムを押す。「どなたですか?」女性の声だった「依頼しているものです」「今、開けます」ドアが開く。初見の人だった。「あたし、小林悦子と申します」かわいい人だった。少し惚れた。「つかぬ事をお伺いしますが、小林耕五郎さんは」「私の主人です。あの隅でコーヒーをミルで粉にしているのがそうです。呼びますか?」

「お願いします」俺の恋は十秒で消えた。「あなた、お客様よ」「はあい。まずはコーヒーを召し上がれ」「いただきます」やっぱり美味しい。「美味しいですね」思わず口にする。「ところで、私に何の用ですか。私は名探偵を引退している」名探偵なんて言うところに、男の矜恃を感じる。「早速質問します。あなたは数年前のイーストランド王国大使殺人未遂事件の時に、その場にいらっしゃいましたね?」「おりました。ただ犯人を追って、相棒と追いかけてしまったので、その先を知りません」「大使が救急車に乗るのは?」「遠くから見ました」「大使を抱えた人物は?」「遠くて分かりませんでした」「そうですか」「あなた方はイーストランド王国大使館にいるかもしれない二人を探していらっしゃる」「ええ」「ならば、行きましょう。イーストランド王国大使館へ」「えっ?」「さあ、早く準備を、ロメロさんに久しぶりに会いたくなった。それから通訳の平田くん」

 とんだ展開となった。俺は高速道路が怖いので、下の道を行った。着いたのは夕方近かった。チャイムを押し、しばし待つと、通用門から衛兵が出てくる。話が通じない。小林はしきりに「ヒラタ、ヒラタ」と連発する。しばしすると小太りの優しいジャイアンみたいな男がやってきた。平田氏みたいだ。これで話がスムーズに進む。大使のロメロが室内に入れと手招きをする。「久しぶりだな耕五郎」ロメロは日本語が堪能だ。「ところで、こちらは?」「率直に聞こう。あなたは二人の日本人を匿っていないか?」「ああ、日本人の親子を匿っている」「親子?」「父親は末期のすい臓がんだ。残された余生をのんびりと過ごさせてあげたいと」「その父親はずんぐりムックリのデブですか?」ご母堂が聞いた。「いいえ、とても痩せていらっしゃる」山崎さんだ。俺の勘が叫ぶ。山崎さんはなんで、父親として兄貴のそばにいるんだ? 俺は軟らかい脳で考えちまった。そしてご母堂に尋ねた。「別れた旦那さんは年が離れていましたか?」「あたしが六歳年上。太っていてねえ、頼りなくって、頭にきて家を飛び出しちゃった」「兄貴と一緒に?」「それっきり、会っていない?」「会っていないわ」一度席を離れたロメロが戻ってきて行った。「ジャパニーズゲストはお二人に、お会いになりたくないそうです。父上のお命はあと二日か三日。その間、親子二人で過ごしたいそうです」それを聞いてご母堂は激怒した。「宏恵はどうするのよ。見殺しにするの!」だが返事は届かなかった。

 帰りの車で、俺はご母堂をなだめるのに苦労した。「あの、やせっぽちの山崎が私の別れた亭主だったっていうの。信じられないわ。カバみたいに大きかったのよ」「時の流れが山崎さんを変えたのでしょう。彼は元革マル派を名乗っていた。でも実際は警察官だった。つまりSです。心労もあったでしょう」「それより、許せないのは駄目な実父をとって、愛する妻を地獄の底に突き落としたことよ」「きっと、兄貴流の愛し方で、許しを請うでしょう」「私は許さない。宏恵に対する態度に少しでも不満を感じたら、その時は勘当するわ。ウチには優秀だっているんだし」

 車は渋滞にはまり、室内は愚痴に満ち溢れ、俺はかなり、苛立った。


 十日余りすぎた。病院に現れたその男はまだ寒さの中心に日本がいるというのに白いジャケット、白いワイシャツ、白いスラックス、靴や靴下も白だ。それが白いマフラーだけで防寒して病院の玄関に入る。ここまでは、タクシーで来たようだ。なら、寒さも凌げよう。ナースセンターでお見舞いの申請をしているが、なんかもめている。耳を澄まして聞いてみよう。「あなたが面会することで、患者さんの容体が悪化するかもしれません」「その、あなたの格好を見て、攻撃的になるかもしれません」「患者さんに無用の刺激を与えないでください」看護師たちが口々に言う。しかし、男の答えはこうだった。一言「ノーだ。宏恵は私の妻だ。私が宏恵を治す。精神科の医師なんて私は信じない。宏恵の主治医は私だ。さあ、必要な申請書は書いた。鍵を渡しなさい。これは命令だ」男は冷たい目をギロリと看護師たちに向けた。まるで、狼の牙のような視線だ。看護師たちは恐怖に支配されていた。おとなしく鍵を渡す。「それでいい」男はつぶやいた。「部屋はどこだ?」男が尋ねる。「107号室です」看護師が泣きそうに答える。コツコツコツ男の足音が遠くに移っていく。やがて止まった。男は鍵を開け中に入る。中には鍵音に怯えた宏恵がいた。男は部屋の中央まで進む。そして立ち止まりじっと、宏恵の目を見る。瞳を凝視する。そこには先ほどまであった。冷たさや、狼の牙のようなさっきはなく、暖かさだけがあった。宏恵は怯えるのをやめ、信じられないことに、微笑んだ。男は宏恵に駆け込みキスをした。淡いキスだった。それが終わると男は胸ポケットからルージュの口紅を取り出して、宏恵につけた。「よく似合う」男は言うと、「この俺の白い体をルージュで赤く染めてごらん」と両手を開いた。宏恵は狂ったように、首筋、胸、肩、右腕、左腕、腹、腰、背中、腿、くるぶしと唇についた口紅を真っ白な男の衣装に塗りつけて行った。その顔には満面の笑みがこぼれていた。「宏恵、喋れるか?」「はい」「宏恵、私が誰だか分かるかい?」「はい」「私が誰だか言ってみよ」「私の旦那様」「もっとはっきり言ってみろ」「はい、妙蓮寺龍虎さま」「そうだ! お前は俺の大切な妻だ。それを放っておいてすまなかった。これには深い事情があった。だが今は言わない。言っても分からないからだ。今、君は私の妻である現実をゆっくり確かめればいい。ちょっと着替えてくる。待っていられるね」「はい」

 男が出て行くと、看護師たちが宏恵を取り囲む。「お名前は?」「妙蓮寺宏恵」「年齢は?」「二十四」「お母さんの名前は?」「亡くなった母は涼子、義理の母は妙蓮寺鷹子」「お父さんの名前は?」「比内金太郎」「お仕事は?」「家事手伝い」「完璧だわ」「寛解している」「一般病棟に戻しましょう。産婦人科の方ね」

「個室で頼む」後ろから男の声が言う。その声は軟らかい。


 病院からの知らせを受け、ご母堂、大将、優秀さん、俺は病院に駆けつけた。あれだけ狂っていた宏恵が、兄貴に逢っただけで正常に戻るなんて神秘の世界だ。

 俺たちに続いて、岩櫃組長、沼田副組長まで来てくれた。遅れて花札任天、花札満月親子もやってくる。しかし、病院で坊さんにあったらいい気分しないだろうな。

「ところで、あいつはどうしたんだ?」満月が聞く。「病院内にはいるはずなんですがねえ」と優秀さんがのん気に言う。すると、「どうも、お待たせしました。この病院、更衣室がなくて。看護師の部屋を借りてきました」といきなりジョーク炸裂。「そんなことはどうでもいい。失踪の理由を言え」満月が大きな声を出した。病院では静粛に。「はい、申し上げます。私の運転手だった山崎、実は私の実父でした。そして末期のすい臓がんでした。彼がそれを私に話したのは失踪する日。つまり『鯨組』から帰宅する道すがらでした。私は何か、希望はあるかと聞きましたところ、『実の息子と二人でのんびりして死にたい』と申しました。そこで私は、イーストランド王国大使館の大使に貸しがあるのでしばらく泊めてくれとお願いし、了承されました。私が誰にも連絡しなかったのは、父の希望です。私はそれを裏切ることはできませんでした。半年の間、皆様にご心配、ご心痛をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます。父はイーストランド王国大使館のご配慮で荼毘に付されました。今ここにおります」兄貴は白い包みを上にあげた。「ご住職。空いている墓などありますか?」「いくらでもある。好きに使え」「ありがとうございます」

「ところで龍虎! 宏恵のことどうする?」「私と会ったことで、精神的病は霧散しました。あとは元気な子どもを生んでもらうため、出産まで入院させます。もちろん私は毎日見舞いに来ますから精神は大丈夫です」「そうか。そこまで考えているならあたしはなんにも言わん」「じゃあみなさんで宏恵をお見舞いしてもらって解散としましょう」

 皆はぞろぞろと宏恵の病室に入った。やくざあり、僧侶あり、学者あり、焼き鳥屋ありと風変わりなメンバーが揃ったものだ。


 その日の夜。俺は兄貴に『居酒屋 小料理 涼子』に連れて行かれた。板長が、「あら、生きてたんですね」とひっくり返っていた。座興である。「個室は空いてますぜ」

「タカシ、話がある」「なんでしょう」「今日限り、俺を兄貴とは呼ぶな」「えっ? じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」「そりゃあ、妙蓮寺さんよ」「へえ、しっくりこないな」「それでな、お前が兄貴と呼ばれる立場になれ」「そいつは難かしいや」「簡単だよ、お前がこれだというやつを見つけて、お前の威厳で、兄貴と呼ばせるんだ」「そんなこと言わないで、ずっと兄貴と呼ばせてくださいよ」「駄目! それからお前は春になったら組に帰れ。岩櫃と沼田が待っている」「ご冗談を」「冗談じゃない。お前はNo.3だ」「えー?」「人生は川の如し、いろいろ流れて最後は死ぬ。俺の実父は母との離婚後の苦労を一つも言わずに逝った。男は黙って、背中で泣いてだな」「兄貴、いいえ妙蓮寺さん、浪曲ですかそれ?」「知らないの? ロックバンド、レアメタルの新曲『男子』だよ。若いのに流行に乗っていないね。吉田くん、焼き鳥百本!」


 こうして、兄貴と俺の関係は終わった。俺はやくざのNo.3になり、手下を導く立場となった。兄貴、いや妙蓮寺龍虎氏は気まぐれに事業を起こし、成功すると売却する方法で資産を何倍にも伸ばしていった。また子宝にも恵まれ五男四女生まれた。本人は「これで野球チームが作れるな」と浮かれていたようだ。妙蓮寺氏は子煩悩だった。その晩年は不幸にも親元を離れて施設で育てられている子を引き取り、勉学、スポーツに励めるような環境作りにも邁進したという。子供達は妙蓮寺氏を敬意を込めてこう言ったという。「兄貴!」

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兄貴。 よろしくま・ぺこり @ak1969

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