兄貴の失踪

 兄貴と山崎運転手が消えて、三ヶ月が経った。全く見つからない。花札組長の跡を継いだ、岩櫃組長も、法名満月となった、花札前組長もそれぞれのコネクションを活用して日本国中にあたりをつけたが、芳しい答えは返ってこなかった。仕方がないので、無駄だと分かってはいるが警察に行方不明人の捜査を依頼した。当然見つからない。俺たちは焦燥感が募るばかりだった。

 まず考えられるのはマフィアに拉致、誘拐されたということである。しかし、岩櫃組長は「今のところ、各国のマフィアが上陸したという情報はない」と否定した。『横浜エンペラー』の残党による犯行も可能性が薄いとされた。でも、一応捜索はしてみる。生き残りの中で一番格上だった森田という男を捕まえて、問いただす。「おい、ウチの兄貴を拉致していたりしないだろうな?」「し、していません。あれからはバイクにも載っていません。暴力団の恐ろしさ、身にしみています」森田は失禁していた。「俺たちは暴力団じゃねえ、やくざだ任侠だ」俺は森田の尻を蹴り飛ばした。

 次に考えられるのは兄貴の気まぐれである。兄貴は何にでも熱しやすく冷めやすい。兄貴がいなくなって、古書店は開店休業である。品物がないのだ。本好きの岩櫃組長が一度ブックオ●に本を大量に仕入れに行ってトラブルとなり、それ以降、商品の仕入れをしていない。今ある本は人気のない、誰も買わない本である。館長の山田さんが「名誉館長が戻られるまで、閉店したらどうか」というので一時閉店した。

 店は閉店してしまえばそれでひとまず片付くが、そうはいかないのは新婚の宏恵さんである。恋しい旦那を思っているけれど、音沙汰なし。もしかしたら、新しい女を捕まえて何処かへ行ってしまったのではと、心を痛める。じっとしていても始まらないと『居酒屋 小料理 涼子』でホールの仕事をまた始めたが、ミスを連発し、皿洗いになった。そこでも一日五枚は皿を割る。板長も事情を知っているから、怒るに怒れない。非常に、空気が悪くなる。そういうものは伝染するから店の雰囲気が悪くなって、客足が減る。とうとう、板長は「明日から休んでください」と宏恵さんにお願いをした。

 事故は考えられない。警察は事故で死者が出ると必死に身元を確認する。兄貴と山崎運転手の手配は済んでいるから該当があればすぐ連絡が来るはずだ。あとは、にわかには考えられないが、自殺という目もある。まさか、兄貴にはそんなことあるまいが、山崎さんに何か不都合があって、発作的に車を海に転落させたってこともありうる。でも、これだって警察が見つけて捜査するだろう。もうこれで、手詰まりだ。

 なんにしても可哀想なのが宏恵さんだ。仕事を事実上のクビになり、家事でも失敗を立て続けにやらかし、ご母堂から「こんな時だからしばらく休んでいなさい」とここでも事実上の戦力外通告。他にすることもなし、一日中部屋にこもるようになった。これで大将がおしゃべりだったりすれば、気も紛れるところだが、いたって無口。焼き鳥を焼く以外趣味はなしだから救いようがない。もう兄貴は何をしてんだ。がんで入院中の時も、宏恵さんを苦しめ、今また苦しめる。いくら宏恵さんが気丈でも限界がある。ある日とうとう宏恵さんは倒れてしまい、救急車で病院に運ばれた。

「おめでたですね」ご母堂に先生は言った。「へっ」ご母堂驚く。「三ヶ月です」兄貴が失踪して三ヶ月、日数は合う。「流産しかかっていましたので、当分入院していただきます」先生が言った。事態はそれほど切迫していたのだ。全部、兄貴がいけない。今すぐ見つけて殴りたい気持ちだ。


 警察が来た。湘南の海に若い男の遺体があがったという。特徴が兄貴にそっくりなんだそうだ。「行方不明者は歯医者に通った経歴はありますか?」「いいえ、ありませんのよ。歯は馬鹿みたいに丈夫な質で」「部屋で指紋を採取しても良いですか?」「ええ、でも前科一犯ですから警察に指紋が残っているはずですわ」「えっ、そうなんですか。では失礼」「ご苦労様です」ご母堂は嫌味ったらしく言った。「港北警察署でウチの子を知らないなんて甘ちゃんよ」結局、遺体は別人だった。

 兄貴と山崎さんがいなくなって半年になった。こうなってくると、兄貴がいないのが当たり前になってくる。俺はといえば、また真金町の『鯨組』に通うようになり、かつて、岩櫃組長に教わった、銃器の使い方を三下たちに教える仕事をしだした。なんにもできなかった俺に銃器の取り扱いを教えてくれた岩櫃組長に感謝である。何にしても仕事があるのはいいもんだ。妙蓮寺の俺の部屋で、ダラダラしていると兄貴を思い出してしまう。思い出すのが悪いことではないけれど、その場に停滞してしまうんだ。俺はまだ若い。前進前進また前進だ。

 屋敷の方に、風変わりな客が来ていた。背鳥弾釈である。ご母堂は彼のことを覚えていた。「ああ、懐かしい、本屋さんだね」「そうです。よく覚えていてくださいました」「まあ、とにかくおあがりください。茶でも淹れますから」「お構いなく」と言いながら背鳥は玄関から居間に上がる。「それにしてもいきなり、どうしたんですの?」「聞きたいのはこちらの方です。息子さんの古本屋、どうして閉じてしまわれたんですか?」「はい、肝心の息子が行方不明になりましてな」「ええっ?」「仕入れをするものがいなくて、やむなく一時閉店なんですわ」「それはもったいない。ウチの人間に仕入れをさせますから、店をお続けなさい」「でもウチに店番する人が……」いないとご母堂が言いかけると、「わしがやりましょう」と大将が出てきた。「でも、あなたさん、接客は苦手なんでしょうに」「何、『これいくらだと思う?』と客に問いかけるだけなら、わしにでもできるでしょう」「なら、早速今日にでも本の手配をしましょう」「わしも頑張りましょう」こうして、みんな兄貴のことを忘れようとしていたんだ。宏恵さんを除いては。宏恵さんはいくら看護師さんや、カウンセラーの人が言っても兄貴の写真を掴んで離さなかった。これはもう、精神科の領域ではないかと看護師たちや、担当医は話し合っていた。夜も寝ていないようだが、胎児への影響を考えて、安易に睡眠薬は与えられない。悪循環が続いた。

 大将の古本屋はそこそこの売り上げを上げていた。レジに立つ。老年の厳つい男。誰もが古本の目利きだと思ってしまった。だから本を買うとき、「いくらだと思う?」と重低音で言われると、「千円……いや三千円」とみんな高い値を言ってしまうのだ。まさか店主が、本なんてもの一度も読んだことない。ひらがなだって怪しい人間だとは思いもしなかった。それに、背鳥の店、『教育堂』の品揃えも良かった。兄貴が仕入れていたときにはなかった外国のミステリーも入れて、棚を充実させた。大将は毎日よく売れるミステリーを見て、「そんなに面白いんだったらわしも読んでみよう」と国語辞典片手にミステリーを読みだした。最初に読んだのが島田荘司の『占星術殺人事件』だったのがいけなかった。すっかり、ミステリーにはまってしまい、今までの人生を取り戻すかのように、ミステリーを耽読した。時にはお客さんが目の前に来たことに気づかないほどだった。「すみません」と言われ、慌ててお客さんの顔を見たときの大将の目のきらめきはどうだったのだろう。「す、すみません」とお客は逃げ出した。大将は「まずいまずい」と頭を掻いた。それでも、大将がいてくれるおかげで、店は活況を取りもどした。大将に感謝である。

 すっかり、忘れていたがねこのチビは元気である。エサの世話、ねこトイレの掃除、全部俺がやっている。そのせいだか知らないが、最近、俺に懐いたようだ。足の臭いを嗅いだり、足首のあたりに首をくっつけて自分の臭いをしみこませたりする。俺が組から帰ると、玄関まで迎えに来てくれる。これはとても嬉しい。もちろん、ねこだから、無視もするし、食べたものをゲロすることもある。それを乗り越えると至福の時が待っているのである。モフモフ。

 

 宏恵さんの状態は変わらなかった。宏恵さんは兄貴のことを心から待っているだけなのだ。それが心のすべてを覆い尽くし、他のことが見えない。聞こえない。何も言わない。人としてのコミュニケーション能力を失ってしまっている。薬はある。しかし胎児への影響を考え、投与を控えている。唯一の救いはお腹の子に異常が見られないことだ。

 ご母堂は『鯨組』に乗り込んだ。「岩櫃組長はいるかね」「失礼ですがどちらさんで」三下が聞く。「お主、この組にいながらこの私を知らないのかね。妙蓮寺のババアが来たと言えば分かる」三下は慌てて事務所に行った。すぐに岩櫃が飛んでくる。「ご母堂、どうしました?」「どうしたもこうしたもないよ。ウチの息子はなんで見つからないんだい」ご母堂の瞳に涙が溢れた。「さあ、まずは応接室に」岩櫃はご母堂を連れて行った。「ご母堂、ウチの組は全国四十の組と杯を交わしております」「うぬ」「それら全部に兄貴と山崎の写真。身長などの基礎データを送っています」「そうかい」「ですが、どこからも二人に関する情報を得ていません」「そうなのか」「二人が別々にいる可能性も考え、情報を伝達したのですが……」「分かりました。よくやってくれているのだね」「ありがとうございます。ただ……」「ただ、なんだい?」「兄貴と山崎が警察の施設にいたとしたら、我々には見つけられません」「警察!」「兄貴がなんらかの事情によって、警察の施設に留置されていたとしたら……」「留置って、期日が決まっているだろう?」「国家権力をなめちゃいけません。警察は合法的マフィアです」ご母堂はたじろいた。「神奈川県警に駆け込んだって無駄だよね」「そうですね」「本当に警察ってやつは!」「でもこれは、あくまでも可能性の問題ですから」「こうなったら、探偵でも雇うかね」ご母堂は立ち上がった。玄関口には三下と俺が列になって並んで、「ごきげんよう」と挨拶をした。


 ご母堂は綱島に来ていた。ここに優秀な探偵がいるらしい。ご母堂は話を聞いてみて使えそうだったら契約するつもりでいた。今日は俺が付いている。ご母堂の運転手である。綱島は道路が狭い。何度か人を轢きそうになりながらやっとのことでパーキングに入れる。探偵事務所は歩いて十分のところにある。ホームページにあった地図を頼りに、なんとか探偵事務所の入ったビルに着く。ここの二階だ。面倒くさいので階段を使う。ご母堂は健脚だから、安心だ。『小林探偵事務所』間違いない。ここだ。チャイムを押す。男性の声がする。「こんにちは。どちら様でしょう?」「一時に予約したものです」「はい。只今ドアを開きます。少々お待ち下さい」ドアが開くと、長身、イケメン男子が立っていた。「ようこそ、小林探偵事務所へ。応接席にどうぞと左手を指差す。中に入るとコーヒーのよい香りがした。見ると部屋の隅で、若い男性がコーヒーを淹れている。他には電話番らしきおじいちゃんがいる。男ばっかりだ。なんかホストクラブみたいな気がした。隅の男性がコーヒーを持ってきてくれる。一口飲む。美味い。男性は静かに礼をすると隅のところに戻った。あそこが定位置なんだろう。しばらくすると、先ほどの、長身、イケメンが席に着いた。「お待たせいたしました。わたくし、小林探偵事務所の所長をしております、団太郎と申します」そう言うと名刺を二枚差し出した。「あたしは妙蓮寺で……」「そこまで言わなくても大丈夫です。私どもで、確認しております。それよりも、ご用件をどうぞ」優秀そうだと俺は思った。「実はあたしの息子が運転手と姿を消して半年になります」「ご長男ですか? それともご次男」「長男の方です」「ああ、その道では有名な方ですね」「そうなんですか?」「こんな田舎探偵の耳に入るくらいですから、相当有名でしょう」「へえ」「それで、ご依頼はご長男と運転手の方の消息が知りたい。これでよろしいですか?」「はい」「では、お二人の写真、身長、体重、ああ、大まかで結構です。それと運転手の方のお名前をフルネームでお書きください」そう言って団は書類を二枚出した。「はい、ありがとうございます。それでは調査にかからせていただきます。どうぞ、お気をつけておかえりください」団は退席を促した。「どうぞよろしくお願いいたします」とご母堂は丁寧にお辞儀をした。「ご丁寧にありがとうございます。さようなら」団は手を振った。これじゃあ、幼稚園だよ。「それにしても随分丁寧な応対だったね」「そうですか? なんか事務的にやられて、こっちの話は全然聞かなかった感じで、俺は不満です」「そうかい。ここまで来たついでに、苦災寺にでも墓参りに行こうかね」「ご母堂、あの坂道、上れますか」「電話をすれば、小僧さんたちが駕籠を背負ってくれるんだよ。電話しておくれ」そうだったのか。知らなかった。とりあえず、俺は駕籠を一人前予約した。俺は歩いていく。意地でもな。

 森の入り口で小僧たちが駕籠を背負って待っている。「妙蓮寺のご母堂ごきげんよう」小僧たちが声を揃えて言う。俺は、と自分を指差すと、「誰だっけ?」

「妙蓮寺の坊ちゃんのお付きの人だ」「タケシさんだ!」「タケシさん。ごきげんよう」「ありがとう。惜しかったね。タケシじゃなくてタカシだけど」とガンを飛ばした。「ああ、やっぱり間違えた〜ごめんなさい」元気に謝る小僧さんたち。怒った俺が悪かった。駕籠はゆっくり、丁寧に山を上る。これだと、一時間くらいかかるな。まあ、別に用事があるわけじゃないからいいけど。

 五十分かかった。「ああ、お疲れ様」ご母堂は小僧、一人一人に菓子を与える。ちゃんと初めからここに来るつもりだったんじゃん。一言言ってくれればよかったのに。いけずなばあさんだ。「茶室に、新住職と前の住職がおります」小僧の一人が言った。「では参りましょう」俺たちは茶室に、向かった。新住職=前『鯨組』組長、花札満である。俺は身だしなみを整えた。潜りを抜ける。俺は笑いそうになった。前組長がスキンヘッドで袈裟を着ているんだ。(笑ったら殺される。笑ったら殺される)と心で唱えて席に着いた。すると新住職が「タカシくん。君、笑ったね」と静かに言う。「い、いえ決してそのようなことは」と必死に弁明する。すると新住職が「笑ったっていいんですよ。世俗から離れるために頭を剃るんですからね」とありがたいお言葉をいただいた。笑いの震えが治まった。旧住職、花札任天が言う。「この度のご子息のことたいへんなご心痛と存ずる」「ありがとうございます。今日は最後の砦といたしまして評判の探偵に息子の消息を託しました」「探偵? もしかして綱島の」「そうです。小林探偵事務所と言います」「おお、あそこなら安心じゃ。昔、わが寺のご本尊、黄金不動明王が怪盗に狙われた時、窮地を才覚で救ってくれたのが小林探偵事務所じゃった。確か、小林耕五郎とかいったな」「じゃあ、違う探偵さんだわ。あの人の名刺、団太郎になっているもの」「代替わりしたか。ウチと同じだな」任天が笑う。前組長こと現住職、花札満月はピクリともしない。さすが、修行のたまものと内心褒めていると、「父上、足が限界です」と満月が泣きを入れた。「何事も修行じゃ、我慢せい」と厳しく鍛える任天。「は、はい」耐える、満月。元やくざなんだから根性だけは誰にも負けないはずだ。頑張れ前組長じゃなくて満月さん。そのあと四人は茶を喫し、黄金不動明王にお参りすることになった。今回は俺も拝観できることとなった。満月が「お前みたいな、クズほど見る価値があるんだ」と言ってくれたからである。本堂に着く。扉が開かれる。眩しい光が前方から飛び出してくる。巨大な黄金の塊がすごい存在感を持って、俺に襲い掛かってくる。「なんじゃこりゃ」俺は叫んでいた。「馬鹿、叫ぶな。ご本尊の前だぞ」満月に叱られる。「皆、心を静めよ。不動明王様に祈りを捧げるのじゃ」任天が仕切る。ここはまだ満月には荷が重いのだろう。「良いか。では不動明王真言を」


のうまくさんまんだ ばざらだん

せんだまかろしゃだ そわたや

うんたらた かんまん


 荘厳な儀式は終わった。


 「では帰ろうかね」とご母堂が言った。「はい」帰りは下り坂だから、ご母堂も歩いて坂道を下りた。秋風が寒く感じられた。春に消えた兄貴を晩秋の今、探偵に頼んでも見つけることは難しいであろう。どうせならもっと早く、頼めばよかったんだ。俺はハンドルを握りながら初動の甘さを痛感していた。

 屋敷に帰ると『小林探偵事務所』から電話があった。さすがの速さである。

——小林探偵事務所の団と申します。

「はいはい、あたしです」

——今の段階で分かったことをお知らせします。心を落ち着けて聞いてください。

「何か悪い情報ですの?」

——いいえ、ただ落ち着いて聞いてもらいたいだけです。

「はい」

——今日は全国に広がる、探偵網を使って調査しました。これを使えば、九十パーセント以上の確率で、人の生死がわかります。その結果は……

「何ですか? 焦らさないで」

——申し訳ございません。探偵網では判別不能、行方しれずと出てしまいました。

「ええっ? じゃあ、あなたでも分からないと言うの?」

——そうは言っておりません。これで、警察網、探偵網では息子さんたちを見つけることができませんでした。でも、最後の手段があります。

「そうなの? 何でそれを初めから使わないの?」

——ぶっちゃけて言いますと、ギャランティが高いので、お勧めできません。

「いくらなの?」

——一億円です。しかも、百パーセントの確率じゃありません。過去に二度、失敗例があります。わたくしは今の予算で、じっくり調査することをお勧めします。それでも見つかる可能性はあります。わたくしどもは独自のルートを使って、息子さんたちが海外に出た確率を調査しました。答えは密航でもしない限り、確率はゼロでした。息子さんたちは国内にいます。それをしらみつぶしに探すのです。

「いいえ、あたしは一億円出します。一刻も早く息子を探してください。このままだと、嫁が狂い死します」

——そうですか。分かりました。特殊ルートを使います。一億円はネットバンクに振り込んでください。番号は●●●●●です。振込を確認次第、特殊ルートを発動させます。期間は二、三日かかります。では、結果がわかり次第連絡いたします。

 電話は切れた。ご母堂は呆然としていた。だが、俺を見つけると「明日銀行に一億円引き出しに行きます。まず、銀行に電話して、一億円用意させます。次にネット銀行というのに振り込みます。あなたはお金の護衛頼みます」というから俺は、ATMで直接やれば、金を引き出す手間が省けて安全ですと教えた。「そうなんだ。楽じゃの」ご母堂は言った。しかし、この家は不思議だ。大金持ちで、屋敷も広いのに、お手伝いさんがいない。なんでもご母堂がやっている。それではこのネット時代についていけないだろう。俺だってギリギリなのにばあちゃんが全部できるはずがない。誰か、もう一人、いるんじゃないか? 俺はそう思った。この家にはもう一人誰かいる。俺はこっそり、屋根裏部屋から地下室まで、すべてを開けてやった。現状住人以外、誰もいなかった。ああ、そうだ、この家は一度爆弾で爆発炎上しているんだ。もしかしてその時に死んだ? いや、そうすると、今、家計を担っているのは誰だ? あの爆発の時に逃げ出して、今はいない人。あっ、兄貴じゃないか! ということは、ばあさんは兄貴が生きているって知っていることになるではないか。俺は猛烈な怒りを胸に、今の質問をぶちまけてみた。すると、答えは「とんちんかんなことを言うねえ。家計を見ているのは優秀だよ」とあっさり答えられた。俺は探偵には向いていないな。俺はふて寝した。でも頭が冴えちゃって眠れなかった。


 翌日、朝一番でご母堂は市民のメインバンク横浜銀行妙蓮寺支店からネット銀行に一億円振り込んだ。行員たちは「それは振り込めサギです」と止めにかかったが、「一億円、ドブに捨てても構わない!」と力一杯宣言して、振り込みボタンを押した。あーあと脱力する行員たち。その正義感と仕事熱心さに拍手を送ろう。もうあとは待つばかりである。俺はとりあえず『小林探偵事務所』に電話してみたらとご母堂に言って、電話をさせてみた。ところが女性の職員が出て、団は不在だという。お金の話は分かるかと聞くと、入金はされているとの答え。ご母堂は安心して、電話を切った。俺は「安心するのはまだ早いです。一億円払っても絶対成功するとは限らないんだから」と言って気を引き締めさせた。あとは二、三日後の電話を待つばかりである。ヒマだ。俺は大将の仕事ぶりを見るために、『ハーベスト妙蓮寺』へ行ってみた。すると大将が、ニコニコしながら若い娘と話している。「あそこまで事件もなく、読ませるところが戸栗鼠川先生のすごいところだね」「おじさま分かってる〜」なんの話だ? 分からん。店は適当に混んでいる。大将は相変わらず、「いくらだと思う?」と聞いている。でも変わったのは「千円」とお客が入ったのに対し、大将が「千円はないだろう」と言い、お客が「そうですよね、お見それしました。二千円」と言葉のキャッチボールをして、値段を決めているのだ。大将どうしちゃったんだ。俺は知らなかったんだけど、「占星術殺人事件」を読んだ、大将は完全にミステリーにはまり、新本格から現代までのミステリーを読み漁り、今は古典に戻って江戸川乱歩全集を読んでいるらしい。そのあとは海外物の古典を読む、と張り切っている。それに、ミステリーの解説書も読み漁り、マストリード本には赤ペンでチェックを入れる念入りさだ。そして、なんと驚くことに、自分のミステリーの感想をブログにアップして、一部マニアから「焼き鳥も職人、ミステリー読解も職人」ともてはやされているそうである。だから、今いるお客の大半が大将のファンなのだ。若いギャルが大将のことを「ぬいぐるみ、みたい」だと言って触っている。あんた、実の娘が苦しんでいる時になに楽しんでいるんだと思ったが、言わないことにした。もし、兄貴がここにいたら、大将のぬいぐるみを発注しただろうな。俺にはそのコネがない。兄貴には信じられないようなコネがある。岩櫃組長はどうだろう? まあ無理か。沼田副組長とは縁がないからな。気安く付き合うのには遠慮がある。

 それから俺は病院に行って、宏恵さんのお見舞いをしようと思った。出産まで、あと三ヶ月、少しでも心が戻ればと思って行ったけれど、期待は裏切られた。症状はひどくなる一方でついに、閉鎖病棟に入ることになった。俺は面会を申し入れたが、親族ではないため却下された。せめて一目見さしてくれと言ったら看護師が「見ないほうがいいかもしれません」と言った。俺は構いませんと宣言し、扉のガラスから中を見た。新聞雑誌がビリビリに破かれている。クマのぬいぐるみの首が取れている。みんな宏恵さんがやったんだそうだ。本人はといえば、髪を振り回し、獣のようにベッドの破壊を試みている。宏恵さんは何もかも破壊したがっているんだ。それは非常な現状を破壊しようとしているんだ。その気持ちがあれば、必ず治る。絶対治る。そう信じて、俺は病院を去った。兄貴がいなくてもみんな、それなりに生きている。俺もだ。宏恵さんだけがすべての悪いことを背負っている。それが悲しかった。

 俺は真金町の『鯨組』に顔を出した。岩櫃組長にしばらく、銃器の練習の師範を務められないと詫びを入れるためである。「そんなことは構わない。タカシくん。妙蓮寺は探偵を雇ったんだって?」「はい、一億円払いました」「そいつはすまないことをした。沼田さん、ウチからも見舞金出しましょう」「そうだな。でも百万くらいしか出せないよ」「そうですか」ここで、俺はあのことを思い出した。「大将のぬいぐるみ」である。俺は思い切って、聞いた。「副組長、ぬいぐるみのメーカーと付き合いないですか?」「おう、あるよ。クレーンゲームの景品とか発注しているよ」案外気さくに答えてくれた。「作りたいぬいぐるみがあるんですけど」「どんなんだい?」「このオヤジさんです」「ガハハハ、こんなおっさん、売れるわけないだろ」「ところが女子に大人気なんです」「本当か?」「はい」ここで沼田副組長の顔色が変わった。「よし、試しに五百作ってみよう。利益が出たら、とりあえず妙蓮寺への見舞金に足す」「ありがとうございます」『鯨組』はいい人ばっかりだ。沼田副組長に遠慮していて損した。これからはみんなに積極的に話しかけよう。俺は宏恵さんを見て落ち込んだ気持ちが組に来て晴れたことを喜んだ。あと二日ぐらいでくる、『小林探偵事務所』の報告がいいものであることを願って屋敷に帰った。夜空に星が瞬く寒い夜だった。

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