兄貴燃ゆ
兄貴はなかなか車椅子の生活から脱出できなかった。脊髄を損傷したわけではないので、一生車椅子というわけではないのだが、がんを取るために大腿部の筋肉を相当切り離している。それに腹部に、大量の皮膚がんが見つかって切除。腹に力の入らない状況が続く。腹部は再生されるので、心配はいらないけれど再生には時間がかかる。顔は奇跡的に無事だった。クールなイケメンは健在である。ただし頭部は脳腫瘍を切除したので、かっぱ状に髪の毛を切られている。少し髪の毛は伸びてきたが兄貴は恥ずかしがって、毛糸の帽子をかぶっている。一番問題なのは内臓で胃、十二指腸、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、肺の一部を切除した。末期だった胃を全摘しないで済んだのはドクターZが奇跡的な名医だったからである。 兄貴の意識が戻ったのは手術から一ヶ月後だと言ったが、それは正確な言い方ではない。意識が戻ったのは確かだが、記憶の一部を失っていた。これは治るか治らないか微妙な線であった。脳の仕組みはまだ解明されていないから医師も判断のつけようがないのだ。まず、ご母堂のことは分かる。当然だ。自分をほとんど一人で育ててくれた人だ。次に俺だが、ありがたいことに覚えていてくれた。病床で「タ、タカシ……」とつぶやいてくれた時の感動は忘れられない。人目もはばからず、俺は泣いた。兄貴についてきてよかったと思った。花札組長のことは記憶になかった。花札組長は直情径行の人である。兄貴の記憶に自分がいないとわかった時、「なんでだ!」と兄貴の体を揺さぶり、医師に止められると、また「なんでだ!」と叫びオイオイと泣き出した。俺は組長に「いつか記憶の戻る日もきますよ」と言って慰めた。組長はいつまでも泣き崩れ、その日の午後の予定はすべてキャンセルになった。それはそうと、一番悲惨だったのは宏恵さんだった。兄貴は宏恵さんを見た瞬間「光姉さん!」と亡くなった姉の名前を呼んだのだ。その日はあまりにショックだったのだろう。宏恵さんは泣きながら病室を飛び出した。俺はとても悲しくて声をかけることすらできなかった。ご母堂は、「あの子は確かに光に似ている」と妙に感心していた。そんなこと言っている場合じゃないのに。だが、宏恵さんはタフだった。翌日からは自分を「光」として、病床の兄貴の世話をしだしたのだ。宏恵さんは兄貴の三歳年下だった。それが六つ上の姉、光を演じるのだ。その心労たるや察すると涙が出てきてしまう。俺はいけないことだが、兄貴は死んでしまえば良かったのではないかと考えた。組長や宏恵さん、その他多くの人を悲しませている。この悲しみは兄貴が完全に意識を取り戻すまで続く。でも死んだならば、悲しみは一気に噴き上がり、そして沈静化して日常生活に戻る。葬儀、告別式、そして骨上げは、悲しみを最大限に持っていくための仕掛け、セレモニーだ。最大限に悲しんで、急速に鎮める。日本の葬式はある面、理にかなっている。他方、兄貴は生きている。喜ばしいことだ。でも元通りではない。いつ、寛解するかはわからない。期日の分からない悲しみ。無期懲役みたいなものだ。俺は宏恵さんの心がそれに耐えられるか心配だった。
でも宏恵さんは毎日病院にやってきた。店は当分、アルバイトに任せると言う。なんて、けなげなんだ。そして、「光」姉さんとして兄貴に接する。兄貴が一番の笑顔になる時は、宏恵さんがやってくるときだ。「姉さん」動かぬ体を無理に動かして兄貴は宏恵さんを抱擁する。光姉さんとして。こんな残酷なシーンはホラー映画にもない。けれど宏恵さんはへこたれることなく兄貴の世話をする。そして夕方、食事の手伝いをして帰る。「またね、お姉ちゃん」「じゃあね」手を振る宏恵さん。廊下へと消えていくその背中は泣いているように見える。俺はもう我慢出来なくなった。この怒りを誰にぶつけよう。俺は怒りをなんと、ご母堂にぶつけてしまった。叱られるかと思った。しかし「あの子の光に対するものは姉弟の愛ではなかった。一人の女として愛していたかもしれない。あたしはそれを見て見ぬふりをしてしまった。いつか大人になれば、そのような感情も消えると思った。でも光は白血病で死んでしまった。あの子の落ち込みようは凄まじかった。自殺するかと思った。だがね、あの子は光との思い出を心の一番、奥底に掘って埋めたんだよ。そうやって耐えていた。それが今回の揺り戻しでその思いが表面に出てきてしまった。それを元通りにするには、あの子を正気に戻すしかない。あなたはその方法を考えなさい。あたしも協力するわね」ご母堂も今のままではいけないと思っているのだ。俺は考えた。脳に刺激を与えれば、脳が活性化されて失われた記憶が取り戻せるのではないか? それに一番いいのは「脳トレ」だなと考えた俺は大学病院近くの書店で、「脳トレ」関連の本をしこたま買ってきた。それを兄貴にやらす。兄貴は面倒くさそうだったけれど、無理やりにやらせた。まずは論理を支配する左脳を鍛えるのがいいと思って、計算ドリルと漢字ドリルをやらせてみた。そしたら、全部満点である。さすが大卒。脳に少しの支障があってもこの程度の問題は出来るんだ。左脳はいいようだ。次は感性の右脳を鍛えよう。俺は買ってきた中から、塗り絵を兄貴に渡した。もちろん十二色の色鉛筆を付けて。「これは好きに色を塗っていいのか?」兄貴が聞く。「ええ、兄貴の好きなように塗ってください。俺はちょっとトイレに行ってきます」一人落ち着いて作業ができるように、席を外した。喫煙所で煙草を吸い、売店でスポーツ放置を買い、東京キングの勝ちを確認する。ついでに横浜マリンズの負けも確認するようになってしまった。この新聞は兄貴には見せられないので(マリンズが負けたからだ)ゴミ箱に捨てる。部屋に帰ると、あれだけあった、塗り絵が全部なくなっている。あっという間にやり終えてしまったのだ。塗り絵をパラパラめくる。ものすごく丁寧に塗られている。でもちょっと待て、チューリップの花が黒、緑、茶色に塗られていて、葉っぱが赤、白、黄色に塗られている。どこから見ても気色悪い。兄貴は右脳をやられているのだと分かった。右脳を甦らすにはどうしたらいいだろう。俺は無い知恵を絞って考えた。「そうか、左手を多く使えばいいんだ」いい考えだと思った。俺は兄貴に、「食事は、箸を左手で持って食べてください。ペンなどを使うときも左手で描いてみてください」と命令した。「それで効果が出るなら、そうしよう」兄貴は納得した。そして、「水彩画がやりたい用意してくれ。もちろん左手でやるよ」兄貴は言ってくれた。
兄貴は水彩画に没頭した。病院の窓からは公園が見える。来る日も来る日も兄貴は絵を描いた。だが、その絵はピカソが描いたんじゃないかと思うような抽象画だった。いや抽象画なんて言ったら抽象画に怒られる。要するにデタラメな絵だった。兄貴はそれを見て満足そうにうなずく。兄貴には今、世界がこのように見えているのかと思い、俺は衝撃を覚えた。さすがの宏恵さんもこの絵を見て「もう、治らないかもしれないね」と言って瞳を潤ませた。そんな日が三ヶ月も続いた。兄貴は俺の命じた通り、なんでも左手でこなした。食事、歯磨き、脳トレ、そして水彩画。初めはおぼつかなかったけれど、だんだんと様になってきた。花札組長などは「お前、左利きだったっけ?」と兄貴に尋ねたくらいだ。すると、「叔父貴、私は右利きですよ。左手を使うのはタカシが脳のリハビリにいいと言ったからです」兄貴がさりげなく喋った。「おいお前今、俺のことを叔父貴って呼んだな!」花札組長は涙を浮かべた。「俺が分かるんだな」「当たり前じゃないですか。花札の叔父貴」兄貴は何を当たり前のことを言っているんだという顔をした。兄貴が花札組長の記憶を取り戻したんだ。俺は小躍りして喜んだ。「一歩前進だ!」だけど、それは本当に、一歩だけの話だった。俺は期待していた。このまま、宏恵さんの記憶も戻ることを。だけど、病室に来た宏恵さんを見て兄貴は「お姉ちゃん」と呼んで微笑んだ。『光』という人の存在は、兄貴にとってどれだけ大きかったんだ。花札組長を思い出せて、なんで宏恵さんを思い出せない。俺は悲嘆にくれた。「兄貴、元どおりになってくれ」病院の屋上で俺は叫んだ。
脳の方は一進一退だけれど、体の傷は着実に良くなってきている。兄貴はリハビリテーションを始めた。まずは歩行である。大腿部の筋肉を切り取った上、何ヶ月も寝たきりだったから、兄貴の脚はやせ衰えてしまっていた。まずは歩行補助棒を使っての訓練である。「あれ?」兄貴は首をひねった。「どうしました?」俺が聞く。「足が前に出ない」兄貴は額にどっと汗をかいた。その大部分が冷や汗だったのだろう。「タカシ、俺の右足を持ち上げてくれ」「はい」俺は言われた通り、右足を持ち上げた。「そしたら、前方に降ろしてくれ」「はい」俺は右足を前方に一歩分出して兄貴の脚を地面につけた。「今度は同じことを左足でやってみてくれ」「はい」「よし、今度は交互に続けてやってくれ」「はい」これは重労働だ。腰を低く屈めて兄貴の脚を交互に動かす。俺の筋肉が悲鳴をあげる。だが俺は歯を食いしばって我慢した。兄貴だって頑張っている。なんとか歩こうと努力しているのだ。やがて補助棒の終点まで来た。「タカシ、ありがとう。コツはつかめたと思う。今度は一人でやってみる」兄貴は反転すると、補助棒をつかみ、一人歩き出した。がんばれ、兄貴。恐る恐るだが、兄貴は補助棒を使って歩くことができた。これが半月続いた。病室に戻ると兄貴は水彩画を描いた。前よりはまともになっている。描いたものが何なのか分かる。「これは、いぬですね」「いや、ねこだ」そういうこともたまにはある。
半月後、兄貴は補助棒なしで歩くことができるようになった。兄貴は日に日に自信を取り戻しつつあった。「病院の庭を散歩したい」兄貴が言い出したのは自力歩行できるようになって十日目のことだ。「兄貴、焦りはいけません。外は道に凹凸があるからちょっと危険です」俺は止めた。すると兄貴は「…………」黙って冷たい目をした。「兄貴!」俺は思わず兄貴に抱きついた。狼の牙のように冷たい目。兄貴の怖さが戻ったんだ。「おいおい、なぜ私を抱きしめる。私にそういう趣味はない」口調も軽やかだ。「じゃあ、行きましょう。庭へ」俺はウキウキした。庭の散歩は時間にして三十分くらいだったけれど、兄貴は危なげなく歩くことができた。こうなれば、退院も近いんじゃないか? 俺はそう思った。
でも、やっぱり宏恵さんのことは思い出せない。「お姉ちゃん」とすり寄るばかりである。宏恵さんは「もういいの。私は光さんとして生きるの。一生、お姉ちゃんとして過ごすの」と半ば達観してしまった。このままでは尼さんにでもなってしまいそうだ。なんとかしなければいけない。でもどうにもできない。大きなジレンマが俺を襲った。
そんな状況が変わったのは、あの事件が起こったからだ。その日は花札組長がお見舞いに来ていた。兄貴のところに来る時、組長はガードマンをつけない。俺がいるし、兄貴が堅気になっているからだ。その日は宏恵さんが朝から来ていて、リンゴの皮をむいていた。その時、突然扉が開いた。俺は医者か看護師が来たのかと思った。ノックもせずに失礼な。しかし、入り口にいたのはハゲたデブと、サングラスをかけたチンピラだった。手にはトカレフを持っている。「やばい!」俺は花札組長の盾になろうとした。兄貴には悪いが、俺の雇い主は組長だ。兄貴は瞬間的に宏恵さんをかばってベッドの下に隠すと、宏恵さんの持っていたナイフを投げた。ナイフはハゲたおっさんの右手に刺さりピストルの音が明後日の方向に消えた。兄貴は続けざまにリンゴをサングラスのチンピラの股間に投げた。リンゴはチンピラの金的に命中し、チンピラは青い顔をして倒れた。兄貴は豹のようにしなやかに飛び、ピストルを回収すると、二人の腹を踏みつけて止めを刺した。兄貴の全盛期が突然戻ってきた。これは命の危険に際して、脳が活性化し昔の記憶が戻ったからに違いない。「叔父貴、ここにいると警察が来てややこしくなる。早く逃げてください」兄貴は真顔で言った。「ああ、すまないがあとは頼む」花札組長は走り去った。「宏恵さん、大丈夫ですか?」これは俺の声じゃない。兄貴の声だ。えっ? 「だ、大丈夫です。あなたは?」「平気さ。それよりタカシ。二人をネクタイでふんじばれ」「はい」やった。兄貴が宏恵さんを思い出した。襲ってくれたこの二人に感謝だぜ。その思いを込めて、俺は強烈に二人を縛り上げた。
警察が来て、俺はいろいろと取り調べを受けた。兄貴はその道で有名な人だけれど、今は堅気になっていること、病気で入院中だということで、取り調べを免除された。警察は兄貴に対する逆恨みだろうと俺に言った。容疑者二人には花札組長を狙ったと警察に言ったら、家族、恋人を殺すぞとスマホを押収した兄貴に冷たい目で言われたから、黙秘でもしているだろう。
そして、春。兄貴は一年掛かって退院した。満開の桜が兄貴の帰還を祝福する。兄貴は車椅子に乗っていた。足がまだ元に戻っていないからじゃない。歩くのが面倒くさいからである。脳が元に戻るに連れ、ものぐさも戻ってきた。車椅子を押している、俺の身にもなってほしい。「今日はささやかながら、快気祝いと花見を兼ねて宴会をするよ」ご母堂が張り切っている。自分で手料理を作るつもりだ。それを宏恵さんが手伝う。これはうまい飯が食べられる。これまでずっと病院の売店のサンドイッチかおにぎりだけだったからな。今日は食べるぞ。客人は花札満組長、藪圭一医師、木更津から飛んできてくれた、風車小次郎夫妻、宏恵さんのお父さん、魚屋のトシさん、肉屋のよっちゃん、八百屋の五郎さん、えびす不動産の恵比寿社長の九人だった。
「退院、おめでとう」乾杯の音頭が主賓の花札組長によってとられる。「いやあ、でも今回のお手柄はあいつに胃カメラを飲ませた藪先生ですな」花札組長がしきりと藪医師を褒める。「そんなことありません。本当の功労者は二十四時間掛けてあいつを救ったドクターZです。今日の会にも呼びたかったのですが所在不明で連絡が取れませんでした」「ふうん、そうなのか」俺は風車夫妻の相手をしていた。「農業はいかがですか?」「いやあ、思った以上にたいへんで、思った以上に楽しい」「春は種まきの季節ですね。そんな忙しい時に来ていただいて申し訳ないです」「いや、元はと言えば、僕のがん。身代わりになってくれて感謝の言葉もありません」ああ風車さん、まだ勘違いしているんだ。まあ、いいか。あっちの席では宏恵さんとお父さんがもめている。「どうしたんですか?」「父が皆さんに焼き鳥をご馳走したいってうるさくて」「いいじゃないですか。焼いてくださいよ」「でも、ご母堂の上品な料理の中に、焼き鳥なんて加えたら……」「よろしいわよ。お父様、ジャンジャン焼いてくださいな」ご母堂が味方になる。「じゃあ、やらせてもらいます。ここにレンガを置いて炭火を使わせてもらって構いませんか」「ええ、よろしいですとも」宏恵さんのお父さんは作業を始めた。さすが職人、一時間もするといい匂いが空いてきた。すると、「大将、モモ、ネギマ、ハツ、カワ、ボンジリ、セセリ、スナギモ、食道、つくね、二本ずつお願いします」どこからともなく、今夜の主役、兄貴が現れた。「そんなに食べて平気なの?」宏恵さんが聞く。「一年間、食べていないんだ。もう我慢ならない」兄貴は珍しく、ニコニコして焼き鳥を食べている。それを見て、宏恵さんとお父さんも喜んでいた。
宴もたけなわ、中締めになって兄貴が挨拶をした。「この度は、皆様にご心配をおかけして、申し訳ございませんでした。死すべき命を、生きながらえたのですから今後の人生は世のため、人のために使おうと思います。みなさま困ったことはございませんか?」突然、そんなこと言われてみんな驚いた。でも、兄貴の気まぐれは町内でも有名だ。みんなからかい半分のことを言い出した。「商店街の客が半減して困っている」「肩こりが辛くてかなわん」「わしの後継者が育たなくてなあ」「みんなが僕を藪医者っていうのが嫌だ」「良い物件がなくて困ったよ」
「よく分かりました。私が解決致します」といって会は中締めとなった。
それから一週間後、『藪内科・皮膚科・心療内科』に、突然兄貴と絶世の美女が現れた。その女性のあまりの美しさに患者たちは腰を抜かした。兄貴は患者さんの順番も無視して、診察室に入る。「なんだ、お前か。今、診察中だぞ……」と言った、藪医師の顎が外れた。兄貴の連れが超美人だったからである。「こ、こちらの方は?」ドキドキしながらたずねる藪医師。「玉手姫子と申します」「この女性はな、東京医師大学を首席で卒業された才女だ。専門は外科、整形外科でお前とかぶらない。お前、今お付き合いしている女性はいるか?」「いや、いない」「じゃあ、この人と結婚しろ。ただし、条件がある、結婚する際、苗字は玉手にすること。この病院の名前も玉手医院にすること。以上だ」「ちょっと、急に言われても」「なんだ、こんな美女に文句があるのか。それに、『藪医者と言われるのが嫌だ』といったのはお前だ。苗字が変わって、病院名が変更になれば、誰も“藪医者”とは呼ばなくなる。いいな。彼女は置いていくからゆっくり話し合いをしろ」兄貴は病院を出て行き、『藪内科・皮膚科・心療内科』は臨時休診になった。
妙蓮寺のご母堂の所有する山が突然、造成された。マンションができるらしい、全件南向きの好物件だ。『えびす不動産』の恵比寿社長は店舗から望める好立地のマンションをよだれを垂らして見ていた。ご母堂はウチのような小規模不動産屋に仲介なんかさせてくれないよな。とぼやいていると、突然兄貴が『えびす不動産』に現れた。「どうしました?」社長が訊くと、「ウチが建てるマンション百戸、おたくに仲介任せるから。絶対売れ残させるなよ」「は、はい」社長は怯えながら答える。「第二、第三の計画もある。完成したら、それもおたくに任せるから」そう言いながら兄貴は去って行った。
八百屋の五郎さんは慢性的な肩こりに悩まされていた。もう十年来になる。マッサージや鍼灸に通ったこともあるけれど、効果は全くなかった。これはもう持病と諦めていた。そこに、兄貴が二人の人物を連れて現れた。「五郎さん。今から肩こりを直してもらうからジャンパー脱いで、そこに座って。じゃあ、先生、お願いします」先生と呼ばれた人物にもう一人が話しかける。先生は頷いて、両足を広げ、「かあっ!」と気合を両手に込めると、五郎さんの右肩にあてがった。「ああ、右肩が軽い」五郎さんが言う。次! とばかりに先生はまた両足に力を入れ、両手に気をこめると「たあっ!」と左肩に押し当てた。「はあ、左も軽い。天国に行ったようだ」五郎さんは吐息を吐いた。「五郎さんよかったね。この先生は中国の東北部の山奥で四十年気功を修行していた。
『居酒屋 小料理 涼子』の調理場で、宏恵さんのお父さんは今日も焼き鳥を焼いていた。気合を込めて、丁寧に焼く。塩はフランスのゲラントを使い、タレは醤油と酒、砂糖に秘伝の香味料を入れる。継ぎ足し継ぎ足しで四十年ものだ。妙蓮寺の坊ちゃんがこのタレを気に入ってくれている。素直に嬉しい。だが自分は老いた。早く後継者を見つけたい。だが今、板場を任せている板長は刺身や小料理は一流だが、生の鶏肉を触れられないという性分で、とても教えられない。あとの若い衆も根性が今ひとつで教える気にならない。ガッツがあって、真面目な子が現れないかとぼんやりと考えていた。そこへ、兄貴が一人の少年を連れて現れた。「大将、見つけましたよ。後継者」「なんだって?」「本当は私がなりたかったのですが、飽きっぽい性格なので修行に耐えられません。私にとっては焼き鳥は食べるものです。それで代わりに連れてきたのが……」「吉田二郎、十五歳。青森県出身です。よろしくお願い致します」「こ、この子が後継者っていうのかい?」なんの変哲も無い子供だ。「二郎くんは恐山に捨てられていた、かわいそうな子どもなのです。しかし、町の篤志家に拾われてすくすく育ちました。特に何の特徴も無いと思われていましたが、小学校の家庭科の時間に突然、才能が開花しました。料理です。授業中に懐石料理を一人で作ってしまったのです。彼を救ったイタコの一人が口寄せしてみると、あの田○魚菜先生の生まれ変わりだと分かりました」「ええっ?」「教え甲斐あるでしょう」「ありすぎる」「じゃあ、後継者は決まりですね。急ぐのでまた」兄貴は走り去った。
妙蓮寺商店会。妙蓮寺商店街と街外にある数店で構成されている自治会のようなものである。現在は畳屋の山田さんが会長である。そこへ、兄貴が乗り込んできた。「会長さん、話がある」「なんでしょう?」「妙蓮寺商店街の土地な、あれを全部ウチに返してほしい」「ご、ご冗談を」「冗談じゃない。本気です」「なぜ、突然そんなことを言い出したんです?」「ああ、商店街の客足が半減したっていうから、そのテコ入れに私が乗り出したというわけです」「それがどうして、土地の返却につながるんですか?」「この際、商店街を大きなショッピングセンターにしてしまおうと思います」「ショッピングセンター?」「ああ、鴨居や、大倉山にでっかいのあるでしょう。あんなのを作れば、売り上げが上がるんじゃないかな?」「しかし、相当な時間と金がかかりますよ。それに私たちの生活はどうんるのですか」「そうですね。じゃあ、皆さんで次善の策を考えてみてください。良い案が浮かばなかったらショッピングセンターにします」兄貴はそう言うと去った。
「さて困った」会長の山田さんは臨時の会員総会を開いた。「我が商店会の地主である、妙蓮寺の坊ちゃんから、土地返却の申し入れがありました。ショッピングセンターを作るそうです。それから逃れるためには商店街の売り上げアップする方法を皆で考え、坊ちゃんに了承を貰うことが必要です」それを聞いて肉屋のヨシさんは冷や汗をかいた。あの快気祝いの席で坊ちゃんに「商店街の客が半減して困る」と言ったのは自分だ。坊ちゃんが近頃、何かと動いていることは知っていた。だが、ここまで話が大きくなるとは思わなかった。この話がもし、皆に知れたらオレは殺される。ヨシさんは大きな体を小さくしていた。(魚屋のトシや八百屋の五郎が、ちくったりしないだろうな)ビクビクものである。「合同のフェアやバザールをやったらいいと思います」靴屋の鈴木が提案した。「新鮮味がないよ」トシが反論する。「ワゴンセールなんてどうだい?」乾物屋の磯野が言う。「その程度のことで坊ちゃんが納得するかな」金物屋のテツが首を傾げた。「いっそ、坊ちゃんのショッピングセンター案に乗っちゃえばいいんじゃないの?」洋服屋の青山が斬新な提案をする。「でもショッピングセンターって言ったらファッションやら雑貨やら、若い人向けのものばっかりで、我々の入り込む隙はないんじゃないかなあ」会長の山田がため息をついた。
「そこでです!」兄貴が突然、商店会臨時総会に現れた。「なんですか急に?」山田が怯える。「私が考える、ショッピングセンター案についてご説明申し上げます。コンセプトは“シルバー世代のショッピングセンター”です」「シルバー世代?」「そうです、既存のショッピングセンターは基本的に若い家族をメインに考えています。私は逆にシルバー世代を取り込めば、売り上げが伸びるのではないかと考えます。お年寄りは結構お金を持っています。そこから財布を開けさせるのです」「おー」関心の声が上がった。「でもショッピングセンターができるまで、我々はどうすればいいんだ?」磯野が尋ねる。「安心してください。ショッピングセンターの場所は今の商店街から南に二百メートルいった私の家の土地に急ピッチで建設します。もし、今日の臨時総会で、皆さまの同意を得られたら明日にでも地鎮祭を開きます。どうですか?」「賛成の起立を求めます」山田が叫ぶ。「賛成」「全会一致。本案は可決されました」「ありがとうございます」頭を下げる、兄貴。でも地鎮祭に出席した後、急速にショッピングセンターへの興味を失ってしまったんだ。「達成感は充分に得たよ。後は商店街の皆さんが頑張ればいい」って言ってまた怠惰な暮らしに戻って行った。でもその方が兄貴にとってよかったかもしれない。何せ、あの大病をした後だ。体だって、本当は完璧じゃないかもしれない。兄貴が頑張ったのは一種の躁状態だったのかもしれない。これ以上頑張っていたら、今度は人の迷惑になってしまったかもしれない。ここで、ストップを自分にかけられたのは脳が正常に働いている証拠だ。
「じゃあ出かけてくるよ」兄貴は宏恵さんと岸根公園デートだ。緑の映える季節になった。散策にはちょうど良いだろう。兄貴は宏恵さんが作ったおにぎり百個の入ったリュックサックを重そうに持っている。帰ってくる頃にはそれがお腹に詰まっているわけだ。それにしても兄貴が宏恵さんを思い出してよかった。俺はちょっと切ない気持ちになった。
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