兄貴の坂道

 兄貴が立案したシルバー世代のためのショッピングセンター『ハーベスト妙蓮寺』が華やかにオープンした。主賓に横浜市長を迎えての開店セレモニーには政財界の著名人を集め、人気アイドルSK−Ⅱ48も駆けつけてヒット曲“フライング・ヘブン”を歌って場を盛り上げた。だが、言い出しっぺの兄貴は病気静養中という理由でセレモニーを欠席、代理に俺が来ているのである。ああ、場違いだ。兄貴はショッピングセンター建設が軌道に乗った時点で、それに対する興味を失い、建設の表舞台からフェードアウトした。要するに面倒くさくなったのである。それでもいくつかはアイデアを出し、日ノ出町で閉館した名画座の復元を作って、懐かしい映画を上映したり、妙蓮寺駅と近隣駅の菊名、白楽からショッピングセンターへ直行するシャトルバスを考案したりして、オープニングに協力した。ショッピングセンターの運営会社(元の妙蓮寺商店会)は兄貴を名誉館長に任命した。

 さて、その売り上げの方はといえば、シルバーパワーは予想以上に恐ろしかった。想像を超えた購買力。日本って金持ちが多いのねと、俺は感心した。すると兄貴は「今度は子どもをターゲットにした商品展開をしろ」と山田館長に命令した。お年寄りは孫が可愛い。孫のためなら金をいくらでも使うだろうという考えだ。館長は慌てて、アメリカ最大手のおもちゃチェーン『トイプードル』を招聘した。これまた大当たりで、小さい子どもを連れた三世代の客が増大した。「商機は絶えず動く。私が口出ししなくてもいいようにしてください」と兄貴は山田館長に苦言を呈した。館長もたいへんだ。元はと言えば、ただの畳屋さんなんだから。

 兄貴はまた、空白地となった元の妙蓮寺商店街を、格安住宅街に作り変えた。全邸、建て売り住宅である。これが、「遠くても駅から五分」のキャッチフレーズで売り出されると、若いファミリー層から応募が殺到、『えびす不動産』の電話は鳴り止まず、すぐの完売となった。ほくほく顔の恵比寿社長。妙蓮寺一帯は景気が盛り上がり、「東横線の急行を妙蓮寺に止めよう」という署名活動まで起こった。東急首脳は真剣にこのことを考えているらしい。お祭り騒ぎが続く中、それとは無縁の森に囲まれた妙蓮寺のご母堂邸。その一室で、兄貴は俺に足のマッサージをさせながら、夢現つとなっているようだった。気だるい。アンニュイだ。兄貴はショッピングセンター建設に燃え上がった後、急速にやる気をなくし、部屋にこもることが多くなった。とにかく、飽きっぽい人である、兄貴は。「タカシよ」兄貴は俺につぶやいた。「なんですか?」「ヒマだな」「そうですね」「なんか面白いことでもないかな?」「宏恵さんでも誘って、デートでもすればいいじゃないですか」「宏恵さんは仕事だ。邪魔したくない。それに、私がしたいことはそんな小さいことじゃあない」「じゃあ、何がしたいんで?」「それが分からない」「だったらショッピングセンターの仕事に力を入れたらいいじゃないですか」「ああ、もう軌道に乗ってしまったものには興味が出ない。新しい、何かを創造したい」「兄貴は神になりたいんですね」「神だと? 私は宗教には興味はない」「何か新しいものを作れるのは神様だけですよ」「そうなのか? じゃあ、神になろう」「何のです?」「それが分からないから、こうやってぼんやりしているんだ。お前も考えろ」兄貴は俺の頭を軽く、グーでパンチした。


 そんな時、兄貴の弟が実家に帰ってきた。弟分じゃあない。本当の弟。実弟である。兄貴は面倒くさそうな顔をした。「私はあいつが苦手だ、面倒くさい。部屋に尋ねてきたら、適当にあしらって追い返してくれ」と俺に言った。でも遅かった。「聞こえていますよ、お兄さん。僕のこと嫌いとか言って、本当は可愛くてしょうがないのでしょ」と言って、弟さんが現れてしまった。「嫌いだとは言っていない。面倒くさいと言ったんだ」「そうですか。ところで、こちらのお方はどちら様です?」弟さんは僕に目をつけた。「タカシだ。色々と世話を受けている」「そうですか。兄がいつもお世話になっております。弟の優秀まさひでです。どうぞよろしくお願いします」丁寧な挨拶をいただいた。だから俺も「初めまして古村隆です。タカシって呼んでください」と挨拶を返した。本名を名乗るなんて久しぶりだ。「タカシさんはいわゆるやくざなのですか?」「そうです」「ピストルなどは持っているのですか?」「いいえ、今は持っていません」「命の危険などは感じないのですか?」「死ぬのが怖いなんて言っていたらやくざは勤まりません」「将来は組の幹部になりたいのですか? それとも組長として独立したいのですか?」「まだわかりません。そんなこと」「好きな食べ物はなんですか?」「カレーです」「好きな女性のタイプは?」「優しい人です」「お付き合いされている人はいるのですか?」「いません」「そうですか。長々とお付き合いいただきましてありがとうございます。また疑問が頭に浮かんだら質問させていただきます」優秀はどこかへ行った。なんだこの質問攻めは? 芸能レポーターでもこんなに質問しないぜ。俺は疲れてしまった。「な、面倒くさいだろう」兄貴が失笑しながら近付いてくる。「優秀は質問魔なんだ。何か疑問に感じると、質問しないではいられないんだ」「兄貴には何も質問しませんでしたね。大病の話とか。手術の話とか」「ああ、あいつにはこう言ってあるんだ。今後、私に質問してきたら、殺す」兄貴の目が冷たく光った。たぶん、本気だろう。「ところで、優秀さんは今までどこに行っていたんですか?」「南極だ。何か、疑問ができたからって、南極観測隊員のメンバーに応募して行ってしまった」「その前は?」「アフリカのタンザニカ共和国で動物の観察をやっていたみたいだ。何か疑問があったんだろう」「アクティブですねえ」「疑問に感じると正解を求めてどこへでも行ってしまう」「ウィキペディアじゃ駄目なんですかね」「そういや、あいつがインターネットを使っているところ見たことがないな。今度聞いてみよう」

 夕食の時、俺は優秀さんにウィキペディアのことを聞いてみた。「なんですかそれは?」やっぱり知らなかったんだ。インターネットで調べる百科事典ですよ」「百科事典ってなんですか?」優秀さんはとんでもないことを聞いてきた。「百科事典を知らないんですか? 世界の万物の説明がしてある本です」「そ、そんなものがあるのですか?」「このウチにもありますよ」「どこに?」「書斎に」「書斎ってなんですか?」「えっ? 書斎も知らないんですか」俺はこの茶番に疲れてきた。あまりにも無知すぎる。でも頭が良くてアクティブなんだ。どうかしているぜ。「で、書斎ってなんですか、どこにあるのですか?」優秀さんはなおも尋ねる。「二階の兄貴の部屋の隣ですよ」優秀さんは飛んで行った。

 それから一週間、優秀さんは食事も摂らずに書斎に篭りきりになった。「大丈夫ですかね?」俺が聞くと兄貴は「全然、問題ない。俺に似てタフだから」と軽くいなした。そして今朝、「なんで、こんな素晴らしい書物があると、誰も教えてくれなかったのでしょう。これさえあればどんな疑問にも答えてくれる!」と興奮して優秀さんが書斎から出てきた。「もしかして完読してきたんですか?」と俺が聞くと「当たり前じゃないですか。この世のあらゆる疑問に答えてくれる。こんな素晴らしい書物、途中でやめられません」「お疲れでしょう。少し、休んだら」「いや、あなたの言っていたウィキペディアを拝見します。ちょっと私の部屋に付き合ってください」優秀さんは俺を自室に連れ込んだ。兄貴がそれをニヤニヤと見ている。ああ、地獄が始まりそうだ。

 優秀さんは頭脳明晰だ。ほとんど触ったことのないインターネットの取り扱いをすぐ覚え、ウィキペディアについてもすぐに理解した。「これで、フィールドワークに行く回数が減る。研究に集中出来るぞ」優秀さんが行った。「優秀さんって何を専攻しているのですか?」俺は聞いた。「動物行動学です。東京生物大学の教授をしております」元やくざの弟が大学教授か。俺は少し、びっくりした。「特に鳥類の研究をしています」「へえ」「ペンギンの子育てやハチドリの求愛行動など、興味は尽きません」「でも、他の物事にも興味を持たれますね」「そうなのです、いろいろなことにすぐ、興味を覚えてしまうのです。あなたがなぜ、ウチにいるのかも興味があります。なぜですか?」「理由は俺にも分かりません。兄貴が俺を譲ってくれと組長に頼んだからです」「そうか、そうするとこれは永遠の謎になってしまいましたな」「なんでですか? 兄貴に聞けばいいのに」「兄に、質問をすると殺されます」「あっそうか! 兄貴に脅かされたんですよね」「あの、冷たい目をした時の兄に逆らってはいけません。あれはまるで、狼が牙をむいた時と同じです」優秀さんはちょっと震えた。

 俺が優秀さんから解放されて、兄貴の部屋に行くと、相変わらず、ぼーっとして、テレビを見ていた。飽きもせず、野球だ。また、マリンズが負けている。「兄貴、そんな負け試合見てないで『居酒屋 小料理 涼子』に行きましょうよ」「ああ、そうだな」俺たちはショッピングセンターに再々オープンした、『居酒屋 小料理 涼子』へと向かった。「いらっしゃい。毎度どうも」板長が挨拶する。「空いているかい?」俺が聞くと「もちろん。超満員でもあの部屋は開けてあります」と嬉しいことを板長は言った。あの部屋とは、『居酒屋 小料理 涼子』が商店街の外の暗い魔物でも出そうなところに立っていた頃、兄貴がオーナーになって諸方に交渉して、駅前の一等地に再オープンさせた時、兄貴が勝手に作った、兄貴専用の小部屋である。駅前の一等地に立てた店は大盛況だったが、兄貴自身が立案したショッピングセンターに転居することになり、閉店。もう、その頃はオーナーじゃなくなってしまった兄貴だが、大将、板長、宏恵さんの三人で兄貴に小部屋をプレゼントしてくれた。ありがたいことである。「優秀さんも連れてきてあげればよかったですね」俺が言うと、「あれは味音痴だから無駄だ」と兄貴は答えた。そこへ、宏恵さんが姿を現す。「久しぶりね」「ショッピングセンターができたばかりでしょ。落ち着かないと思うから遠慮していました」と兄貴が口を開く。「本当は面倒くさかっただけでしょ」「人の心を読むのは良くないです」兄貴は痛いところをつかれたようだ。そこにいつもの焼鳥が山のようにやってくる。持ってくるのは兄貴が推薦した吉田二郎くんだ。「お、お待たせいたしました」緊張の表情の吉田二郎くん。「おお、二郎くん、店には慣れたかい?」と聞く兄貴。「ま、まだです」冷や汗を垂らす吉田二郎くん。「そうか、頑張れ」と言って焼き鳥を食らう。すると「あれ?」と首をひねった。「どうしたんですか?」と聞く俺。「一本食べてみろ」兄貴が言うので食べてみる。「美味いですよ」「うん、美味い。だけど、いつもと違う。宏恵さん、大将は?」兄貴が聞く。「今日は腰痛で休んでいるのよ」「じゃあ、焼き鳥を焼いているのは?」「二郎くんよ」宏恵さんは平然という。「まだ入門して数ヶ月じゃないか」兄貴が少し興奮して聞くと、「あなたが天才だって推薦したんじゃない。二郎くんは一ヶ月で焼きをマスターしちゃったわ。みんな、びっくりよ。板長も天才と呼んでるわ」「そうか」兄貴は落ち着いたのか、席に着いた。「そんなに天才だったとは私も思わなかった。味で、大将に勝っている。本当に田○魚菜の生まれ変わりかもしれない」兄貴はその日、焼き鳥を五十本食べた。俺も珍しいことに二十本も食べた。食べれば食べるほど、欲しくなる味だったんだ。

 翌日。兄貴は言った。「天才少年っていうのは本当にいるんだな。私は全国の天才少年をスカウトしてその才能を伸ばす手伝いをする」

 兄貴の情熱に火がついたらしい。「タカシ、お前車の運転をしろ。優秀、お前ヒマだろ、インターネットで全国の天才と呼ばれる少年を検索して、私のタブレットに送っておいてくれ」「はい、いいですよ。ヒマですから」俺たちは何の当てもなく、出発した。「兄貴、これは無謀な挑戦ですよ」「だがな吉田二郎くんのような天才は必ずいるんだ。それを見つけて、眠っている才能を目覚めさせるのだ」「眠っているから探すのが難しいんじゃないですか?」「タカシくん、黙って運転しなさい」兄貴の目が少し冷たくなった。

 優秀さんからの連絡は昼前に来た。「うーむ、天才少年は野球とサッカーが多いなあ、こりゃ駄目だ」「なんでですか?」「野球やサッカーはもう周りに大人たちが付いている。金目当てにな。そんなところに付け入る隙はない」「つまり、美味しくないということですね」「私は金目当てでこの仕事を始めたわけではない」「でも利益が出なくちゃボランティア活動ですよ」「ふん。次を見てみよう。将棋の天才か……」「どうなんです?」「駄目だ。将棋はしかるべき師匠に付いて奨励会に入らなければならない。天才でも時間が掛かる」「時間がかかってもいいじゃないですか」「私は吉田二郎くんのような、隠れた即戦力を探している」「それだったら幼児教育をやればいいじゃないですか」「幼児教育だと」「ええ、今東京の方じゃ『トエンティのジュニアスクール』ってのが大流行りだそうですよ。幼児から通うとスポーツもできて勉強もできる、天才がわんさかできるそうです」「面白いな。何で知った?」「毎日、兄貴が読んでいる新聞ですよ。兄貴はどこ読んでいるんですか?」「うるさい。見逃しもあるだろう。ではその『トエンティのジュニアスクール』の本部の住所と電話番号を調べてくれ」「はい」

 俺たちは東京文京区にある『トエンティのジュニアスクール』本部を訪ねた。電話でアポイントメントを取っておいたので、本部長の小林氏に面会することができた。「初めまして。本部長の小林です。今日は何の御用でしょう?」「私はこの世に埋もれている、天才少年、少女を探しています。日の目を浴びてもらうためです。なので、もしかしたらここにそういう子がいないかなと思いまして、見学させてもらいたいと考えました」「こちら随分と変わった方だ。見学は自由ですが、あなたの考える天才とウチの生徒は違うと思いますよ」小林氏は言った。結構歳のいったおじいちゃんだ。だがかくしゃくとしている。とりあえず俺たちは見学させてもらうことにした。「ところでトエンティって外国の方ですか?」俺は聞いた。「ご存じないか? かつて日本の警察を怯えさせた大怪盗、怪人トエンティ・フェースを」「ああ、いつも最後名探偵に捕まっちゃって、またすぐ、脱獄する。経費ばっかり掛かって、実害のない怪盗ですね」「その通りじゃ。その彼が次代のトエンティ・フェースが生まれるように考え出したのが、トエンティメソット。これが幼児教育に良いと分かって、我々はトエンティ・フェースからメソットを買い取った。そして、悪事に関わる部分を切り取って始めたのが、『トエンティのジュニアスクール』というわけです」「じゃあ、もともとは悪党養成のプログラムだったんですね」「そうです。もちろんさっき言ったように、悪事に関わる部分は排除してあります」小林氏は自信たっぷりに言った。「でも、プログラムを見ていますと、『怪盗入門』なんてのもありますねえ」「ああ、それは『探偵入門』と対になっております。昔やったでしょう。『泥巡』とか『泥警』といった遊びを」「やりました」「それを脳がもっと活性化するように考え出したのが『怪盗入門』と『探偵入門』です」「なるほどねえ。素晴らしい」兄貴は拍手した。「私にも投資させてくれませんか? 横浜市に教室を作りたい」「それは渡りに船です。あなたに神奈川部門の統括をお願いしたい。もちろん優秀な職員を何人かつけますから実務、経理や総務に心配は要りません」「ありがたいことです。早速、調印しましょう」兄貴はさっさと契約してしまった。なんか、最初言っていた計画と全然違うような気がするのは俺だけだろうか。とにかく兄貴は『トエンティのジュニアスクール』の神奈川統括に就任してしまった。


「まずは妙蓮寺校を作って神奈川県の旗艦校とする。それから横浜、川崎、相模原と大都市を攻めていき。最終的には全市町村に最低一校は置くぞ」「おー」

本部から来た職員は若くて張り切っている。良いことだ。とかいって老人ぶってはいられない。俺だって若いんだ。神奈川統括補佐としてスクールの成功に寄与しなくてはならない。

 まずは妙蓮寺校の建設だ。『ハーベスト妙蓮寺』横の空き地を整備して鉄筋地上五階、地下二階のビルを猛スピードで作らせた。兄貴の権力おそろしである。完成次第、生徒の募集をかける。新聞に載っていたくらいだからお母様の中には『トエンティのジュニアスクール』の評判をご存じの方も多い、それを取り込むため、兄貴は『開校特別無料学習』を一週間開いた。その間、訪れた親子は二千組、全員入校したら建物はパンクだ。しかし、兄貴は「そんなことある訳ないだろう。入って三分の一だ」と冷静に考えていた。実際、蓋を開けると、入校者は見学者の三分の一にも満たなかった。「地元で実績を作らなきゃ、人は集まらないよ」と兄貴は気にした風もない。「まあ、開校を祝して『居酒屋 小料理 涼子』へ行こう」兄貴は俺を誘った。「いらっしゃい。空いていますぜ」板長が威勢良く言う。いつもの小部屋だ。早速、宏恵さんが来る。「いらっしゃい」「ああ、久しぶり。今日の焼き鳥は?」「二郎くんよ。お父さんはお通し作りに格下げ」「大将を貶めちゃいけないよ」「自分が好きでやっているの」「それならいいが」「それよりスクールはどうなの?」「予想より、苦しい船出だな」「元はと言えば、怪盗のメソットなんでしょ。上手くいくかしら」「やってみなくてはわからない。それが楽しいんだ」フフフと兄貴は笑った。兄貴はピンチや危機に陥ると笑うんだ。苦境を楽しんでいるんだ。常人では考えられない神経である。「さあ、二郎くんの焼き鳥をじゃんじゃん持ってきてくれ。今日は百本に挑戦しようかな」兄貴は病気が治って食欲も旺盛になった。でもこれ、暴食だよね。「ところでタカシ、頼みがある」「はい」「この地図に赤く丸をつけた神奈川の主要駅の周りにスクールに使えるような建物や土地があるか、調べてくれ」「はい」俺は地図を見た。県内真っ赤だった。これは一人ではできない。『鯨組』の三下を何人か借りよう。

 初め、閑古鳥が泣いていた『トエンティのジュニアスクール』妙蓮寺校だったが、ここにきている生徒が体育の時間に素晴らしい記録を出したり、テストで満点を取ったりしたことがお母さんたちの間で話題となり、入校希望者が引きも切らぬようになった。兄貴の読み通りである。兄貴は早速、菊名校、白楽校を作り、勢力を広げた。そして第二の旗艦校として横浜校をデパートの『いそごう』の最上階に作った。開校日に受付は黒山の人だかりとなり、最上階への入場規制も行われた。当然、預けられる子の人数にも限界があり、入学できなかった子の母親がヒステリックに兄貴に詰め寄った。兄貴は平然と、「ご安心ください。神奈川県内の各駅前に、二ヶ月以内に我がスクールを開校いたします。今しばらくのご辛抱を」と大口を叩いた。俺は驚いた。この時点でそんな計画、全く立っていなかったのだ。「タカシ、駅前ビルの買収は進んでいるか」兄貴は冷たい目で俺をにらんだ。「まだ、四分の一程度です」「そうか、少し鞭を入れないといけないな」俺は鞭で本当に叩かれると思った。兄貴は俺の肩を優しく撫で、「頼んだぞ」と一言だけ言った。もうこうなったらやるしかない。『鯨組』の三下を使って脅したり、なだめすかしたりして買収工作に力を注いだ。その間、敵になったのが『やるもん式教室』で、欲しい物件が似ていて、往生した。こんな時は兄貴の出番だ。例の冷たい目で見つめれば、相手はビビり、退散した。俺は二ヶ月で、神奈川県の全駅の駅前ビルを買収した。疲れた俺は高熱を出し、ぶっ倒れた。ご母堂が献身的に看病してくれた。優秀さんは「これ、アフリカの人が作った、熱冷まし。効くよ」と言って、気色の悪い、液体を持ってきた。俺は飲もうか飲むまいか大いに悩んだが優秀さんを信じて一気に飲んだ。「なんだ! この苦さは」猛毒のような苦さに俺は気絶した。目をさますと、熱は下がっていた。よく効く薬のようだが、二度と飲みたくない。そこへ、兄貴が来た。「熱が下がったんだってな。よかったな。ところでビルの買収工作で『鯨組』の三下を使ったな」「は、はい」「そのことで脅迫罪の罪でウチのスクールが訴えられている」「えっ?」「お前一人の考えでやりましたと謝ってこい。そして、示談に持ち込め。今すぐ行け!」仕事に燃える兄貴は鬼だった。

 なんとか、事件を穏便に示談で済まし、全校開校に持って行った兄貴だが、またもピンチに襲われる。それは指導員不足だ。ローテーションなどを考えても一校に五人の指導者が必要だ。神奈川県に駅は三百五十あるから五掛けると千七百二十五人必要になる。それもある程度、子供と真剣に向き合え、指導できる人材だ。そんなにいるわけない。時給を五千円にしても難しい。兄貴は奇策を用いた。S社の人型ロボット『ホット』を千台導入し、教育用プログラミングを施し、配置したのだ。子供はロボットが大好きだ。なんでも言うことを聞く。それにロボットは体罰を振るわないから、安心だ。故障の危険があるけれど、兄貴は冷たい目で、S社の担当者に、「三十分以内に修理できなかったら違約金をもらう」という契約を取り付けた。S社の担当者は翌日に会社を辞めて、真言宗の僧侶になったという。

「タカシ、当初の目的とは違ってしまったが、天才的子どもを育てるという目的だけは果たせたな」「そうですね」「私はほっとしたよ」俺は嫌な予感がしてきた。「私は少し休みたい」やっぱりだ。「だから、今の私の役職を誰かに譲りたいと思う」「まさか、俺ですか?」「馬鹿を言うな。お前は俺のそばにいてもらわなくては困る」「では誰ですか?」「優秀、来なさい」「はい」「優秀さん!」

「優秀を『トエンティのジュニアスクール』の神奈川統括にする。これは東京の小林氏にも了承済みだ」「僕は子どもの脳の発達に大変興味があります。それを身近で見られるなんてすごい。それにS社の『ホット』も人工知能搭載で、こいつの人工知能の研究も合わせてやらせていただきます」優秀さん、大張り切りだ。「これで、引き継ぎは済んだ。私は帰るとしよう。タカシ、いくぞ」「は、はい」俺は不承不承ながら兄貴について部屋を出た。「兄貴、せっかく、すべてにカタがついてうまく回ろうって時に辞めちゃうんですか?」「タカシ、まだお前は私の性格を分かってないようだな」「えっ?」「私はルーティンが嫌いだ。いつも何か違うことをやりたいと思っている」「でも毎晩のように『居酒屋 小料理 涼子』で同じ焼き鳥食べているじゃないですか」「馬鹿か。ルーティンが嫌いなのは仕事だけ。私生活にルーティンは必要じゃないか。朝起きて、ご飯食べて、新聞読んで、ご飯食べて、本を読んで、ご飯食べて、プロ野球観て、『居酒屋 小料理 涼子』に行って、風呂に入って、寝る。これは外せないルーティンだよな」「そうですけど」「この数ヶ月、私生活のルーティンができなかった。明日からはルーティン三昧だ」兄貴は結局、生来の怠け者なんだ。俺は思った。だいたい『鯨組』に居れば、No.2の立場にいられたのにそれを蹴って実家に帰り、『ハーベスト妙蓮寺』の計画を一人で実践して、完成させたらすぐやめてしまう。今度の『トエンティのジュニアスクール』もそうだ。兄貴だって、俺だって血のにじむような苦労をして、やっと始動したら優秀さんに委ねてしまう。これもみんな自分がサボりたいからなんだ。兄貴には何かどでかいことをやってくれそうな気がしていたけど。しょせんは遊んで暮らしていたいだけなんだ。がっかりした。俺が今まで付いてきた人は、そんな駄目な人だったとは。俺は兄貴に言った。「兄貴、俺『鯨組』に帰りたいんですけど」「えっ? そうなの。いつからそう思っていたの?」「今です」「そうか、それは良かった。お前に長年ストレスを感じさせていたわけではないんだな」「はい」「じゃあ、荷物をまとめて帰りなさい。今までありがとう」あっさりしたお別れの言葉だった。俺は「はい」と言い、自分の部屋で荷物を片付けた。相変わらず、リュックサックとボストンバッグで事足りた。ご母堂がやってきて、「自分からやくざの世界に戻るなんて馬鹿だねえ」と俺をひっぱたいた。「すみません」俺の目から涙がこぼれた。「あの子はねえ、お前を信じていたんだよ」ご母堂が涙を流していた。「ご母堂、俺、大きなことがやりたいんです。兄貴の下じゃ何もできない」「大きなことなんてほんの一粒の人にしかできないんだよ。あとの人は一生懸命、普通に生きるんだよ」俺は一瞬エアポケットに入った。ご母堂の言葉が心にしみる。でも駄目だ。俺は最後の決心をした。「もう決めたことですから。ご母堂、今までありがとうございました」俺は深々と礼をした。そして屋敷を出る。兄貴は見送ってくれなかった。

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