兄貴は狼
俺は兄貴の元を離れて、真金町の『鯨組』に帰ってきた。組長の花札満に挨拶すると「随分ともった方なんじゃないのか。あいつは変わり者だからな。まあ戻ってきたからには組の仕事をちゃんとやれ」と言われた。怒られはしなかった。かといって歓待されているわけでもない。考えてみれば、俺はただの三下で、兄貴にくっついていたがこそ、組長と話をできたわけだ。今の俺は虫けらみたいな存在なんだ。
虫けらの仕事は厳しい。朝早く起きて組前の掃除、朝飯の支度、掃除、洗濯、みかじめ金の回収、先輩のおつかい、夕飯の支度、町内の見回り、などなど休むヒマもない。兄貴のところに居れば、ご母堂の作った食事を摂り、掃除、洗濯はなく、昼食も夕食も出て、食べ放題。給仕もしなくていい。夜も兄貴に従って『居酒屋 小料理 涼子』に行って、たらふく焼き鳥を食べられたのに、今じゃ、ちょっとした休み時間にコンビニで買ったお菓子を先輩に見つからないようにこっそりと食べるのが唯一の楽しみだ。俺は兄貴の元を飛び出したことをかなり後悔していた。花札組長に頼み込んで、兄貴に詫びを入れて戻ろうかと思った。その矢先、「タカシ」と花札組長が俺を呼んだ。これはそうだ、きっとそうだ。兄貴が俺に帰ってきて欲しいと花札組長に頼んだんだ。俺はウキウキと組長室に入った。中には凶暴で知られる若頭の岩櫃がいた。身が引き締まる。岩櫃は些細なことで、人をボコボコにすると言われて、鬼と恐れられている。目を合わさないように挨拶をする。すると組長が「お前、今日から岩櫃の下で、働け。あいつの下にいられたんだから、岩櫃でも大丈夫だろう」天国から地獄に突き落とされた。よりによって鬼の岩櫃の配下だなんて。でも断れる状況じゃない。目の前に岩櫃がいる。断ったらボコボコだ。俺は仕方なく、「喜んでやらしていただきます」と言った。花札は「そうかよく言った。ところであいつなんだが、もう護衛はいらないって言ってきた。俺は危険だと思うんだけどお前どう考える?」と聞いてきた。もう戻れない家だ、俺は「俺がいる間、一度も敵に襲われませんでした。無理に護衛を置くこともないんじゃないですか」とぶっきらぼうに言った。「お前、案外冷たいやつだなあ。まあいいや。お前がそう言うなら護衛は送らないことにしよう」組長は言った。
さて。鬼の岩櫃である。俺が改めて挨拶をすると。「押忍」と一言だけ返してきた。怖い。しばらく後ろを歩く。真後ろを歩くと、ゴルゴみたいに怒られそうなので、斜め後ろを歩く。岩櫃は特に何も言わない。そのまま、歩いて組の外へ出る。若頭なんだから車もあるだろうに、徒歩でのお出かけだ。しばらく歩くと、コンビニがあった。「スポーツドリンク」そう言って岩櫃は三百円よこした。二本買えという意味だろう。体が大きいから、汗もかくだろう。コンビニでスポーツドリンクを二本買って、公園のベンチに座っている岩櫃に差し出したら、一本俺に向けて渡し、「お前のだ」と言ってくれた。俺は感激したね。鬼の岩櫃にこんな優しさがあったのかと。それを甘受できた俺は幸せ者だな。それから公園のベンチで岩櫃はぼそっと話した。「俺は口が上手くない。下手だ。子供の頃からそれでいじめられた。悔しいから格闘技を覚えて、いじめた奴に復讐した。そしたら乱暴者のイメージがついちまった。俺はな、タカシくん。本当は気が弱いんだ。このことだけ、知っといて欲しい。お前は気が強くておしゃべりもうまい。どうか俺を助けてくれ」「はい」俺の目から涙が出てきた。鬼の岩櫃と言われた男の、悲しい過去と今を語られて。俺はこの人の子分になると決めたんだ。「岩櫃さん、一つお願いがあるのですが」「なんだ」「岩櫃さんを兄貴って呼んでいいですか?」「ああ、いいよ。照れくさいけどな」「ありがとうございます」こうして新しい兄貴ができた。それは前の兄貴との決別を意味していた。
それからというもの、俺は岩櫃若頭に献身的に勤めた。他の三下は俺が岩櫃にいじめられるところを想像してニヤニヤしていたんだけど、いじめられるどころか信頼を得ているのを見て、びっくりするやら、恐れるやらで大騒ぎだ。とにかく、俺は岩櫃若頭の後ろ盾を得て、三下でも一目置かれる男になったんだ。ざまあみやがれ。
兄貴の重要な仕事は、花札組長の身辺警護だ。俺のほかに五人の子分がいる。俺はそいつらのリーダーになった。岩櫃若頭の推薦である。今まで言わなかったけれど、俺は空手の黒帯である。『質実剛健流』フルコンタクトの本格的空手である。他の五人も柔道、キックボクシング、レスリング、テコンドー、相撲と格闘技を会得している。『鯨組』は古き良き、穏健派のやくざだから、組長が狙われる可能性は非常に少ないんだけれど、関西系の暴力団や、中国・朝鮮系の新興マフィアにロシア系マフィアたちがこのハマを狙っているとの噂もある。ウチの組は情報戦に弱いから、奴らの動きがほとんど見えてこない。それに実際に戦争が始まったら、ウチの貧弱な銃器じゃ、とてもかなわない。そんなことは花札組長も重々承知しているが「ウチは暴力団じゃねえ、やくざだ。堅気の衆の安全を守り、それで少しのお金をいただく。それが俺たちだ」と古いことを言っている。それじゃあ、関西や外国系マフィアには勝てない。だから岩櫃若頭は組長に黙って、外国の銃器を買い集めている。先見の明があるんだ。でも組長にばれたら破門になるかもしれない。それを覚悟の上で、岩櫃若頭は銃器を揃えているんだ。男だ。男の中の男だ。俺はすっかり惚れてしまった。♪男心に男が惚れる♪ってやつである。
「タカシくん、飯に行こう」ある日の夕方、岩櫃若頭が俺を夕飯に誘ってくれた。他の三下たちが羨んでいるところを悠々と進む。俺はちょと調子に乗りすぎていたかもしれない。それはともかく、近くの中華料理店に入る。「食べながら聞いてくれ」岩櫃若頭が入った。「ロシア系のマフィアと朝鮮系のマフィアとが今日、ハマの海で武器の売買をするらしい。俺たちは海上保安庁に変装して、武器を略奪する」「ええっ?」「どうした。ビビったか?」「正直、少しビビりました」「少しか。俺はすごくビビている」「そうは見えませんよ」「そういう顔だからだ」「それはそうと二人で行くわけじゃないですよね?」「もちろん、後の五人も行く。今やつらは海上保安庁の船を強奪に行っている。やっぱり本物の方が、リアリティってもんがあっていいからな」岩櫃は煙草に火をつけて笑った。「ところで、タカシくん。君は人を殺したことがあるか?」「い、いいえ」「そうか。じゃあ、今日がその日になるかもしれないな」「本当ですか?」「相手が撃ってくれば、俺たちも撃つ。威嚇じゃない。自分の命を守るために相手を殺すんだ。できるか?」「兄貴のためならやります」「そうか、俺が見込んだだけはあるぞ、タカシくん」「兄貴、そのタカシくんはやめませんか。タカシでいいですよ」「すまん。俺は呼び捨てが嫌いでな。我慢してくれ」「そういうことなら、それでいいです」「じゃあ、取引の時間は十一時だ。十時には組にいてくれ」「はい」俺と岩櫃若頭は一旦別れた。俺はその足で、ゲームセンターに行き、シューティングゲームをやりまくった。ゲームと実戦が違うことは分かっている。それでも、なんかやらなくちゃ足の震えは止められない。実戦で岩櫃若頭に恥ずかしいことはできない。せめて格好だけでもつけとかなくちゃな。俺は五千円も使って、シューティングゲームを独り占めにしていた。
十時になり組に戻る。中には岩櫃若頭しかいなかった。「この件、組長には話していないから。そのつもりでな」岩櫃若頭は言った。「これを着てくれ、似合うはずだ」岩櫃若頭は俺に海上保安官の制服を渡してきた。「これが身分証だ」岩櫃若頭は芸がこまかい。俺の顔写真入りの身分証まで作ってある。「それで、これが一番大事なものだ」と自動小銃を差し出した。「こ、こんなものを」驚く俺に「実際に海上保安庁で使われているものだ」と岩櫃若頭は言った。若頭は、こだわり屋さんなんだと、よくわかった。
太田橋のたもとに隠してある船に向かう。船は漁船に偽装されていた。このまま港までは漁船のまま進み、海に出て、敵を発見したら海上保安庁の船に変身させる。なかなか手が込んでいる。「いいか、敵がおとなしく逮捕されたら、手錠をかけたまま海に蹴り落とせ。反抗してきたら自動小銃とショットガン、狙撃銃で、殺せ。生かしておく必要のあるやつはいない」岩櫃若頭は冷たく言った。俺は前の兄貴を思い出した。いずれにせよ、敵は殺すのか。のんびりと幸せだった頃が頭をよぎる。もうあの頃には戻れない。さらば青春の光。蛍の光、窓の雪。「タカシくん、ぼんやりするな」岩櫃若頭の叱咤が飛ぶ。敵船は近い。
「こちらは日本の海上保安庁です。当該船に武器密輸の疑いがあります、停船して、当局の査察を受けなさい」俺は正式な海上保安庁の停船命令を知らないから適当に喋った。岩櫃若頭が拍手を送ってくれる。しかし、相手の船舶から出てきたのは降伏の白旗ではなく、ライフルの発砲音だった。「よし、敵船に接近して、乗り込むぞ!」岩櫃若頭は命令し、偽の海上保安庁の船が、密輸船に突っ込んだ。敵はそうくるとは思わなかったらしい。慌てて逃げようと旋回を始める。そこを一気に攻めむ。「乗り込め!」若頭の命令が下り、俺たちは敵船に乗り込んだ。これは朝鮮系マフィアかロシア系マフィアなのか? それすら分からない。とにかく敵だ。ピストルを持っている。俺は目をつぶって自動小銃を打った。「ワア」という悲鳴が聞こえ、海に何か落ちた。「よくやった」と岩櫃若頭が褒めてくれる。人を殺したのは初めてだ。こうなりゃ、一人も二人も同じだ。俺は次々現れる敵をシューティングゲームのように打ちまくった。「ハハハハハ」俺は笑いながら打ち続けた。やがて弾が切れた。俺は弾の替え方を知らなかった。慌てて後退する。敵が好餌を得たように撃ち込んでくる。なんとか味方の陣地に着いた時には全身傷だらけだった。それが一発でも命中していたら、俺は御陀仏だったであろう。「よくやったな。弾がえの仕方を教えていなかったのは俺のミスだ。許せよ」「とんでもない。俺は兄貴のためなら死ねますぜ」「馬鹿者。この作戦は一人も死んでは駄目なんだ。親分になんて言い訳する」「そうですね。で、戦況は?」「敵は後三人だ。だがこの船には銃器がなかった。引き取り手の朝鮮系マフィアの船だった。今度はこの船に潜んで、敵を待つ。海上保安庁の船は、港に漂流させる」その時、相撲から「敵を殲滅しました」と報告が入る。「衣服を剥いで着られる服を着ろ。お前は大きいから着られないかもしれないな。その時は毛布でもかぶっていろ」岩櫃若頭は相撲に言った。キックボクシング、柔道、レスリング、テコンドーが今殺したての人間の服を着用いている。「若頭とタカシさんの分だ」柔道が服を投げてくる。俺は心で「南無阿弥陀」と唱えながら着替えた。若頭は場慣れしているから平然と着替える。「気が弱い」と俺に告白したのは嘘か? それとも、恐怖を克服したというのか? 「ロシアが来ないな?」「気づかれたか」「銃器の日本流入だけでも避けられたらそれで良い」岩櫃若頭は言った。その時、明かりを真っ暗にした船舶が近寄ってきた。ロシアの船舶だ。警戒している感じはしない。「敵に悟られるな。先手必勝!」俺たちの船は正面から敵船に突っ込むと、一気に飛び込んだ。敵は少数のようだ。俺たちは圧勝し、敵の死骸は海に投げ込んだ。「南無阿弥陀」「よし、作戦成功だ。この船を漁船に偽装させ、埠頭に行き、いつもの倉庫に銃器を搬入するぞ」「はい」作戦はうまくいった。銃器は手に入り、秘密の倉庫に保管された。味方に死人は出ず、花札組長に作戦が知られることはなかった。全てがうまくいったと思われたが、とんでもない支障が起きた。それというのも、かくあろう、俺である。岩櫃若頭は、俺は気が強いというけれど、それは一般人に比べたらである。今まで、ろくに、出入りも、喧嘩もしていない俺がいきなり、自動小銃をぶっ放して、見ず知らずの外国人を五人も殺したのだ。精神に異常をきたさないわけがない。俺は強烈な鬱状態になり、起き上がることができなくなってしまった。「タカシくん、大丈夫か」岩櫃若頭は毎日お見舞いに来てくれるけれど、それも辛い。あの時のことがフラッシュバックしてしまうのだ。「ゆっくり休め、いずれ良くなる」岩櫃若頭は言葉を掛けて去って行った。次に、花札組長がやってきた。「医者はなんて言っていた?」「重度の鬱病です」「やくざが鬱病とは笑っちゃうね。どうだ、どっかに療養にいかないか?」「療養?」「いいところ、知っているんだ。草木に囲まれて綺麗なところだぞ」「今は動きたくありません」「そういうな。もう迎えが来ている」「迎え?」そこに長身のイケメン男子が現れた。「あ、兄貴!」現れたのは本物の兄貴だった。「歌丸師匠にご挨拶に行った帰りにここに寄ったら、お前が大変なことになっているというじゃないか心配して聞いてみれば、鬱病だという。なら、我が家に来て、療養すればいい。ウチなら気兼ねがないだろう」「兄貴」俺は泣いた。悲しくて泣いたんじゃない。一度は裏切った俺を受け入れてくれるという優しさ。申し訳ない思いでいっぱいだった。「有無は言わさない。若い衆、悪いがタカシを車まで運んでくれ」「へい」俺は三下に抱えられて玄関に連れて行かれた。「岩櫃よう」兄貴は岩櫃若頭に話しかけた。「はい」頭を下げて聞く岩櫃若頭。「タカシは気が強そうに見えても、繊細なんだ。お前の人を見る目はまだまだだなあ」
「申し訳ございません」「謝ることじゃあ、ないや。タカシが戻ったらハードな任務は避けてやるべきだな」「はい」「じゃあ、行くわ」「ご忠告ありがとうございます」鬼の岩櫃が頭を下げたなんて、後で聞いた俺はびっくりした。そりゃあ、花札組長がNo.2にしようとした男だ、兄貴は。だけど、武闘派の岩櫃若頭が頭を下げて謝るなんて普通じゃ考えられない。兄貴はやっぱりでかい男なんだ。それを小さい男とみなした自分が恥ずかしい。俺は車の中で一言も発しなかった。兄貴も黙っている。兄貴専属運転手の山崎さんだけが、ラジオに合わせて鼻唄を歌っている。それが、場を和ませた。やがて深緑に包まれた妙蓮寺のお屋敷が見えてくる。半年ぶりだ。大した期間じゃないのに、遠い記憶に感じる。屋敷の玄関にはご母堂、優秀さん、それに大将と宏恵さんがいた。「なんだい、病気だというから心配したが、元気そうじゃないか」「ご母堂の顔を見たら元気になりました」「冗談が言えるなら大丈夫だ」大将が言う。「大将、店の仕込みはいいんですか?」「いいんだ。わしはオーナーになった。店は板長に任せる」「宏恵さんは?」「花嫁修業」顔を真っ赤にして宏恵が言う。「宏恵さんには苦労をかけさせた。男の義務を果たさなくてはならない」兄貴は真面目な顔をして話した。「さあ、病人をいつまでも立たしといちゃいけないよ。さあ、中にお入り」ご母堂が優しく迎え入れる。俺は心を壊したけれど、兄貴の元に帰ってこられた。この喜びを味わおう。俺は思った。
「おい、起きろ」時刻は午前五時だ。「まだ早いですよ。寝かせてくださいよ」「何、言っている。ジョギングの時間だ。心は病気でも体は平気なんだろ。走るぞ」兄貴は俺を無理の起こすとジョギングをさせた。眠かったけど、気持ちはよかった。朝食は大将と宏恵さん親子の競演。ご母堂の肩の荷が下りたようだ。兄貴の超偏食も治ったらしく、毎日、毎食別のものを文句も言わずに食べているようだ。あと、優秀さんの質問癖もなくなったようで、黙って食事をしている。優秀さんといえば『トエンティのジュニアスクール』神奈川統括の仕事はどうしたのかと思って聞くと、「ああ、あれは僕の性に合いませんでしたので、半月でやめました。子供は僕に色々質問してきます。僕は人に質問されるのは大嫌いです。それでやめました」なんという身勝手。「僕への質問はインターネットでやってもらいます。想定される質問の八割はインターネットが答えます。そのために、携帯用インターネット、マイフォンを作りました。ネットの他に、電話もかけられます。これを量産すれば大儲けできます」それはよした方が良いと思います。「で、今はどんなお仕事をしているのですか?」「東京生物大学の教授に戻り、動物生物学を教えています」ああ、まっとうな仕事に就いたのね。「兄貴はなんかしているんですか?」「いや、充電中」もう半年以上充電しているんだ。漏電しちゃわないかな? 「それより、タカシ、随分元気だな」「なんかここに、帰ってきたら元気が戻ってきました」「それはよかったのう」ご母堂が喜んだ。「いっそ、組なんかやめて、ここに住んじゃえばいいのに」宏恵さんが言う。「組を抜けるのはたいへんです、小指を詰めるくらいじゃすみません」「でも、あの花札組長がそこまでやるかしら」「組長が許しても三下たちが許しておきません」
「そこは坊ちゃんが中に入って」大将が口を開いた。「タカシ、一人くらい足抜けさせるのは簡単だ。俺が花札組長に頭を下げればいい。だけど問題は、後の三下が雪崩のように逃げ出すことだ。今、ハマには古き良きやくざの他に、中国・朝鮮系のマフィア、ロシア系のマフィアなどが勢力を強めてきている。『鯨組』もその渦に巻き込まれようとしている。組には岩櫃という武闘派がいて、なんとか勢力を維持しているが、兵隊である三下がいなくなっては戦争ができない。私は花札組長には恩義がある。あの人を危険にさらすことはできない」みんな黙ってしまった。「いやあ、俺のこと皆さんで考えてくださってありがとうございます。俺、元気になったら組に戻りますんで」俺は重い空気を跳ね飛ばすため、わざと明るく喋ってみた。すると、「タカシ、お前元気になるな!」と兄貴が命令した。「病気でいる限り、お前はここにいていい。お前重度の鬱病だろ。一年や二年で治る病気じゃない。寛解するまでずっといろ。ただし、寛解するな」「兄貴!」「それは名案じゃ」ご母堂までもが拍手する。大きな仕事をするという夢は絶たれたが、愉快に生活するという楽しみができた。
兄貴は俺のいない間に、ねこを飼っていた。雑種のキジトラで名前はチビ、捨てねこを拾ってきたのだという。「かわいいだろう?」チビの首筋を撫でながら話す兄貴。口元がほころんでいる。「俺はいぬの方が好きですね。主人に忠実だから」「じゃあ、お前はいぬだな。私は自由を求めるねこ」「兄貴は自由を求めているんですね」「そうだ。誰にも邪魔されない世界」「そんな世界あるんですかね?」「作るんだよ、自分で。」「へえ」その時は兄貴が何言ってるのかよく分からなかった。
俺のリハビリに、チビへのエサやりとねこトイレの掃除が加わった。ねこエサは缶詰をパカっと開けるだけだけれど、これが猛烈に生臭い。それに耐えながら皿に盛る。ガツガツ食べるぜ、チビのやつ。まるまる太ってやがる。生後半年だろ、どうかしてるぜ。ねこトイレはもっと臭い。俺はマスクと手袋で防菌対策をして、ウンチとオシッコの塊をレジ袋に入れて、外の生ゴミ入れに突っ込む。息はその間止めっぱなしだ。面倒くさいぜ、ねこ。いぬも面倒くさいだろうな。俺はペットを飼わないと心に誓った。
屋敷での生活は思った以上に快適だった。鬱病なんてすぐに治ってしまうと感じた。実際心の重苦しさなんて簡単に吹き飛んでしまった。けれど、そう正直に言っちゃうと組に戻らなくてはならなくなるので、黙っていた。それがいけなかったのかもしれない。
事件は起きた。「タカシ、起きろ」真夜中に、寝ている、俺を起こす声が聞こえる。かなり緊迫した声だ。兄貴だった。「ど、どうしました?」「組長と、岩櫃が撃たれた。俺は病院に行ってくる。くるか?」「も、もちろん、行きます」俺は慌てた。あの岩櫃若頭が撃たれるなんて。「状態はどうなんですか?」「まだ分からない」兄貴の声は冷静だ。大丈夫。あの二人なら生命力が強い。俺はそう信じて、病院に向かった。病院はみなとみらい総合病院。組の連中が押しかけ、警官ともみ合っている。兄貴はその間をすーっと通ってしまう。フォースでも使ったみたいだ。病室はすぐ分かった。警官が立哨しているからだ。警戒する警官に兄貴は何事か耳元で囁く。すると警官は敬礼をして、兄貴を病室に入れた。医師と看護師が一人ずついた。医師が「君は何だね。ここは面会謝絶ですよ」というと、兄貴はまた耳元で何事か囁いた。「な、ならば仕方ありません。ただし十分間ですよ」「それで結構、命に別条はないんだよね」「いや、分からない。出血がひどい」「頼みますよ」兄貴は医師にいうと、花札組長の耳元に近づいた。「組長、気を確かに。何か言い残したいことはありませんか?」「ば、馬鹿野郎。それじゃあ、死ぬみたいじゃないか。ええと、そうだな、組のことは当分お前に任す。組長代理だ」「ご冗談を」「約束したろ、組に何かあったら駆けつけるって」「だから駆けつけました」「そうじゃねえ、組の危機を救え!」組長は興奮し、脈拍と血圧が上がった。「もう、これ以上はやめてください」医師が叫ぶ。「分かりました。退散しましょう」兄貴と俺は病室を出た。次は岩櫃の病室へ行く。こちらには警官はいなかった。「岩櫃、災難だったな」兄貴が言った。「不覚です」一言岩櫃若頭がつぶやく。若頭の怪我は軽傷のようで、頭と、右腕に包帯を巻いているだけである。「警察の取り調べは済んだのか?」「はい」「じゃあ、組に帰ろう」「えっ? 親分は」「あの人は死にはしない」「はい」「それからしばらくの間、私が組長代理になった。よろしく」「ええっ?」「組長の遺言、失礼、死んでなかった。伝言だ。協力を頼む」「分かりました」「まずは子分どもを落ち着かせて、組に帰りましょう」兄貴は穏やかな表情で言った。
横浜、真金町の『鯨組』の座敷には総勢四十一人の組幹部、組員が結集していた。その上座に兄貴が座る。兄貴を知らない三下が「あれ誰だ?」と言い合っている。もの知らずめ! 「まずはみんな聞いてくれ」代貸の沼田が口を開く。「知ってのとおり、今夜、花札組長が撃たれた。犯人はわからねえ。これから探し出して仇は討つ。みんな頼むぜ」「おう」「では組長代理どうぞ」「私が組長代理になりました。どうぞ、よろしく」「押忍」「まず組長の生命は大丈夫でしょう。あの人は殺されても死なない。ここ笑うところです」「ハハハ」「あと沼田代貸が犯人を探すといいましたが、そんなまどろっこしいことはしません」「ええっ?」「どうせ、犯人は中国か朝鮮かロシア系のマフィアでしょう。奴らの本拠地はわかっているはずです。なあ、岩櫃?」「はい」「それらを全員で各個撃破します」「でも、武器が?」「岩櫃、武器はたんまりあるな」「事前に準備しています」「おう、さすが若頭」三下がつぶやく。「では全員で車に分乗して、敵の本拠を攻撃します。まずは全員で武器庫へ!」「おう!」
その夜、本牧、石川町、日の出町の三ヶ所で大規模な爆発が起きた。当局は連続爆弾テロかと緊張が走った。しかし狙われたのが、朝鮮料理店、中華料理店、ロシア料理店だったため、何を狙っての犯行だか全く見当がつかず、頭を悩ませていた。しかも迫撃砲など重火器も使われていたため、「これは戦争ではないか?」との声も上がった。いずれの店も全焼、全壊し、中にいた人は絶望視されている。生き残ったものはいない模様。
一週間後、花札組長が退院した。恐ろしい生命力である。その顔は笑顔満面である。兄貴に向かって「よく、仇を返してくれた。礼をいうぜ」と感謝を口にした。「久しぶりに良い汗かきました」と兄貴は平然と言う。あの日、三ヶ所の本拠地に一番で飛び込んで、首領の
俺は晴れて妙蓮寺の屋敷に戻ることができた。これも全て、兄貴のおかげである。もう二度と兄貴の元を離れるもんかと心に誓った。
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