兄貴の逃亡
俺が兄貴のところに帰って、二ヶ月が経った。妙蓮寺の屋敷ではご母堂が珍しく、兄貴と口喧嘩していた。「結婚式も披露宴も挙げないなんて、宏恵さんがかわいそうでしょうに」「私と宏恵さんの二人で決めたことですから口を挟まないでください」「黙ってはいられませんよ。結婚式は女の花道ですからね。あたしの時なんざあ、千人もの人を呼んで、三日間も宴をしたものさ」「どういう時代錯誤ですか? 平安時代じゃないんだから。今は地味に結婚するのがトレンディなんです。大きな披露宴なんか、人前で恥を晒すものです」「じゃ、あたしが恥さらしっていうのですか!」「だから、時代が違うって言っているんです。分からないかなあ?」「分かりません!」「まあ、分からなくても二人で決めたことですから、母さんが口出しすることではありませんよ」そう言うと兄貴は部屋に帰って行った。
「兄貴、なんで結婚式も披露宴もやらないんですか?」俺は聞いた。「当たり前だろ、面倒くさいからだよ」兄貴らしい言葉だった。「宏恵さんはそれでいいんですか?」「いいと言っている。彼女が結婚式をやりたいというなら、考えなくもなかったけれど、やらなくていいというからにはやる必要はない」「兄貴に遠慮しているんじゃないですか? やりたくないではなく、やらなくていいと言っているんでしょ」「そうか、私に遠慮しているのか」「きっとそうですよ」「それは気がつかなかった。私にしては不覚であった。明日にでも聞いてみよう」兄貴はメモ帳に何か書き付けた。このところ、兄貴はメモ帳を携帯している。「大事なことを最近よく忘れる。だからメモ帳を買った。まさかボケてきたのじゃあ、あるまいな」と兄貴は笑った。
翌日、兄貴は屋敷に花嫁修業にきている、宏恵さんに、ことの次第を述べた。宏恵さんは「あたしがやりたくないって言ったのは本当。うちは親戚もいなくて、招待客も少ない。あなたの家と差が出るのが嫌なの。でも花嫁衣装は着たいかなって気がする」と言った。「じゃあ、花嫁衣装を買って写真を撮ろう」「買うことはないわよ。レンタルで充分」「いや、それでは私の気がすまない。買おう」兄貴は張り切って、「ハーベスト妙蓮寺」の着物屋に、花嫁衣装を買いに言った。もちろん、宏恵さんと俺も一緒である。「花嫁衣装! そちらはレンタルが中心で当店ではお取り扱いがございませんが」着物屋の店員は言った。「オーダーすれば作ってくれるのですか?」「はい、それは可能ですが、お高くつきます」「金に糸目はつけない。桜の季節に結婚したいから、それに合わせた模様にしてください」「かしこまりました。では採寸を」宏恵さんは店員さんに連れて行かれた。「桜の季節に結婚するんですか。いいですね。お屋敷の桜吹雪の下でお披露目するなんて粋ですね」「だから、披露はしないの。母と、大将と、優秀とお前ぐらいだな」「もったいないな。美しいだろうに」「それは私の一人占め」兄貴は笑った。
花嫁衣装を準備すると、ちょうど催事場でウェディングフェアをやっているというので行ってみる。シルバーをターゲットにした『ハーベスト妙蓮寺』だが、世代を超えた催しをやっているようだ。「頑張っているな、山田館長」と兄貴は呟いた。催事場は女性客でいっぱいだった。「和装は私の好みで決めてしまった。洋装は宏恵さんが決めなさい」兄貴が宏恵さんに促した。「ええ」宏恵さんはあーでもない、こーでもないと二時間あまり決めるのに手間取り、せっかちな兄貴は宏恵さんと俺を置いて、煙草を吸いに行ってしまった。きっとそのあと、喫茶店でコーヒーでも飲んでいたのだろう。帰ってきたのは宏恵さんがドレスを選び終わってからだった。「あなたにも見てもらいたかったのに」宏恵さんが文句を言うと、「楽しみは本番に取っておくものだ」と意にも返さなかった。時間が空いた。「たまには『居酒屋 小料理 涼子』でランチを食べてみよう」と兄貴が言い出し、そういうことに決まった。「いらっしゃい。おお、昼間にいらっしゃるとは珍しい」板長がおどける。「昼間は儲かっているかい?」「ウチは単価が高いから行列ができるほどじゃないですね」「そうか。単価を下げたらどうだい?」「そうすると味が落ちます。店の評判が下がります」「そういうものか」「へい」俺たちは例の個室に入った。「私は焼き鳥ランチ」「あたしは海鮮ランチ」「俺も海鮮ランチで」兄貴はこの店の焼き鳥が好きである。いっぺんに百本食べたことがある。ちなみに兄貴専属の運転手、山崎さんは、うな重の特上を食べた。遠慮を知らない人である。
夕食の支度をする宏恵さんを車で返して、俺と兄貴は妙蓮寺界隈を散歩したんだ。この辺も兄貴の再開発計画で随分、景色が変わった。俺たちはブラブラと辺りを歩いた。「タカシ、後ろは振り返るなよ」兄貴が突然つぶやいた。俺は人生のことを言っているのかと思ったが違った。兄貴は凄い勢いで走り出した。俺もついていく。そして急に立ち止まると胸から万年筆を出して後方に投げた。強烈な破裂音がして、辺りに男が五人倒れている。「逃げるぞ」兄貴はまた走り出した。
その日の夕刊によると、篠原東三丁目で、大きな爆発音があり、警察が出動したところ、中国系の男性とみられる人物が五人、心肺停止の状態で発見された。救急車で病院に搬送されたが、五人とも死亡が確認されたとのことである。「兄貴、物騒なものを持っていますね」俺はちょっと、震えて聞いた。「ああ、イギリスの友人からもらったんだ。まさか使う日が来るとは思わなかった。あと九本あるからお前に一本あげよう」と机から取り出す。「いいえ、遠慮しときます」「そういうな。お前が拉致とかされると俺が困る」と言って、兄貴は強引に俺に、ペン型爆弾を渡した。「青いボタンを押して、十秒後に爆発する」兄貴は嬉しそうに説明した。「それより、兄貴、中国系のマフィアが俺たちを狙っているってことは、朝鮮系やロシア系も狙いを定めているってことですよね」「そうだ。これはちょっと危険だ。全部殲滅したつもりだったのに、撃ち漏らしがあったらしい。本国からも応援が来ているだろう。岩櫃に言って、武器と兵隊を借りよう」なんだかたいへんなことになってきた。翌日、ご母堂、大将、宏恵さんは千葉県千倉の別荘へ避難することになった。運転手の山崎さんは居残りを志願した。兄貴が強く諭したが考えは変わらなくて、残留ということになった。『鯨組』からは岩櫃若頭を隊長に精鋭二十人が警護のためにやってきた。「岩櫃、お前が自ら来ては組が危ないだろう」「いえ、花札組長がどうしてもこちらに行けとご命じになられました」「花札組長……」「それより護衛の作戦です。この屋敷は窓が多く、破られやすい状態にあります。今から、我々が鉄板で、それを塞ぎます」「それでは外の様子が見えない」「簡易の防犯カメラを百個用意しました。これで、家の外は完璧に抑えられます」「敵は何人かな?」「中国系はこのあいだの一件で全滅したと考えられます。あとは朝鮮系十人、ロシア系二十人との情報が入ってきています」「共同戦線を張る可能性はないかな?」「大いにあります。武器の売買などで協力をしています」「そうすると人数で劣るな」「こちらの武器はアメリカの最新式です。向こうは旧ソ連の武器を未だに使っているという話も聞きます」「まあ、最後の決め手は男の根性だな」「はい。そう思います」「おいタカシ、そんなところに突っ立ってないで、防御の鉄板張りを手伝ってきな」兄貴は急に気づいたように俺に言った。「はい。すみません」俺は外に走って行った。
外には相撲がいた。「久しぶり」「タカシさん、具合大丈夫ですか?」「ここにきてからは調子いいんだ」「良かったです」「それより、また戦いに駆り出されてたいへんだね」「これが仕事ですから」と言った、相撲の右肩が鮮血に染まった。「敵襲だ」「重盛を救出して収容」「敵影確認、十名。国籍不明」「反撃をせよ」
俺は相撲を背負って屋敷に入った。兄貴がやってくる。「急所は外れている。治療してやれ」「俺も攻撃します」「馬鹿。トラウマがまた出てくるぞ。お前は救護員だ」兄貴は真顔で言った。岩櫃若頭がやってくる。「屋敷の要塞化は完成しませんでした。裏庭の二階が雨戸だけの状態です。敵は朝鮮系、単独で来たと思われます。現在敵に負傷者なし。こちらは重盛一名がやられました」相撲って、重盛って苗字なんだ。初めて知った。「敵は少人数だ、ゲリラ的な攻撃をしてくるだろう。裏庭側の窓と三階の守りを厚くしろ」兄貴は命令した。岩櫃が通信機で味方に連絡する。兄貴は優秀さんと山崎さんを呼び、「これで、敵が来たら撃て」とピストルを渡した。オートマチックの最新鋭だ。自分はボウガンを手にしている。兄貴らしい。男のダンディズムなのかな。
敵はやはり、裏庭側の窓に狙いをつけた。迫撃砲で雨戸を破壊する。味方は慌てて逃げた。とてつもない破壊音がする。これはご近所さんが警察に電話するな。味方は侵入してきた五人の朝鮮人をマシンガンでメッタ撃ちにする。あと五人はどうした? なんの音もしない。撤退したようだ。「あとの五人はどこへ行ったのやら」兄貴がつぶやく。「ロシア人とくっついたのでは?」岩櫃若頭が言う。「それでも人数は足らない」「まさか、新たな敵が?」「そうだな」「中国系マフィアですか」「だろうな」岩櫃はたじろいだ。これでは倒しても倒しても新たな敵が出てくる。「今すぐ、組に連絡して新手を呼びます」「やめとけ、無駄無駄」「しかし、どうするのですか?」「敵が張り付いたところで、この家を爆破させる」「いいんですか、お屋敷を」「命には代えがたい。奴らのねらいは、私と岩櫃だろう。さっきの朝鮮人の遺体に、我々の服を着せよう。うまく引っかかってくれればいいが」「逃げ道は?」「この屋敷の地下には妙蓮寺につながる地下道がある。そこをたどっていけばいい」「はい」岩櫃若頭は答えた。
兄貴は、敵が全員、屋敷に張り付くまでは、死なない程度に戦え、一人になるな。集団で戦えと皆に命じた。防犯カメラを見ると、朝鮮系五人にロシア系二十人。そして新たに中国系三十人のマフィアがこの屋敷を囲んでいる。俺たちは鉄板にマシンガン用の穴を開けた。穴から一斉に射撃すると、その倍のマシンガンが撃ち込まれてくる。そして、迫撃砲の登場だ。これ一発で鉄板は破れる。近くにいたものは傷を負った。「皆、地下室に急行!」兄貴が命令を下した。「これから逃走に入る。皆、懐中電灯を持つように」兄貴は言った後、「この古金庫を開ける。番号は……優秀、いくつだったっけ?」兄貴のボケの症状がまた出た。「兄さん右に8を四回。左に3を三回、右に5を二回、最後に0を一回です」「おう、開いた。優秀、さすが賢いな。よし、順番に逃げろ。まずは手傷を負ったものだ」ここで運転手の山崎さんが手を挙げた。「邸内で反撃がないとわかりましたら、敵に逃走がバレます。不肖、山崎めが、その役、承ります」「山崎さん、元革マル派の血が騒ぎましたね。では私と一緒にあらん限りの弾を撃ち尽くしましょう」兄貴が乗った。「俺も行きます」って言ったら「鬱病人は早く逃げろ」と叱られてしまった。「私は残ります」岩櫃が言う。「おお、頼もしい。ところで屋敷中にペン型爆弾とプラスチック爆弾仕込めたか?」「はい。これがスイッチです」「うん、それは預かろう」兄貴はスイッチを受け取った。
俺たちはとっとと逃げ出してしまったから、知らなかったんだけど、運転手の山崎さんは射撃の名手として知られた人だったらしい。バンバン、敵を撃ち殺したそうだ。兄貴、岩櫃若頭も奮闘して、もしかして三人で勝っちゃう? というとこまで行ったらしい。しかし、そこは多勢に無勢。敵が全員、屋敷に入ったところで、兄貴たちは地下室に逃げ、爆弾のスイッチを押したそうだ。すごい轟音だった。ご近所さんは屋敷で花火大会が行われたのだと思ったそうだ。これで、敵は全滅。ハマの平和はとりあえず、守られたわけだ。警察は死体の実況見分を行った。バラバラになった死体が多い中、この屋敷の長男、つまり兄貴と、『鯨組』の若頭、岩櫃好一の遺体らしきものが発見されたという。仲間を多数失った、朝鮮・中国・ロシアのマフィア幹部はその報を受けて溜飲を下げたと言われている。この二人に、合わせて二百人近くの仲間が殺されたからである。
「岩櫃」兄貴は若頭に話しかけた。「たまにはゆっくり釣りなんかするのもいいだろう?」「はい。でもなんだかサボっているみたいで、こそばゆいです」ここは千葉県千倉の海上。俺たちは三人で海釣りと洒落込んでいるのだ。「私たちはサボってばかりだからな、タカシ」「はい。特に兄貴は」「まあ、私と岩櫃は死んだことになっているからいくらでもサボっていいんだ。岩櫃、親兄弟はいるのか?」「いえ、親は早くに亡くしました。兄弟はいません」「なら良かった。悲しませる人がいないで」「はい」「念のため聞くが恋人とかいないよな」そう聞かれた岩櫃若頭は顔を真っ赤にさせた。えっ? まさか! 「おりません」岩櫃若頭は言った。そうだよな、びっくりした。「さて、今日の夕食分の魚は釣ったから帰ろうか。船長、よろしく」「はい」船長と言ったって運転手の山崎さんだ。山崎さんは船舶の免許も持っているんだ。
大将は魚をさばけないから、ここは久しぶりにご母堂の出番である。自前の刺し身包丁を振り回して、兄貴たちの釣った魚を料理した。食卓には贅沢な魚料理の数々と大将の焼き鳥、そして、野菜もたくさん取らないとと、宏恵さんが作ったサラダが置かれている。これを、兄貴、ご母堂、大将、優秀さん、岩櫃若頭、宏恵さん、山崎運転手、俺の八人で食すわけである。ねこのチビも刺身を狙っている。これが楽しい。兄貴や優秀さんの子供の時の話や、岩櫃若頭のいじめっ子への復讐、宏恵さんの昔の恋愛話を大将が暴露しちゃったり、革命戦士だった山崎運転手が武勇伝を語ったりするなど話は尽きない。俺? 俺は、いつも兄貴とのことばっかり話すから、みんなに敬遠されたよ。でも岩櫃若頭にも惚れたけど、兄貴にも惚れているのは確かな話だ。兄貴の本気を出した時のパワーの驚異さは他の人には感じられない。ついていくには少々骨の折れる人だけれど、その分面白い。
「ところで、私たちの家はいつごろできるのかい?」ご母堂が兄貴に聞いた。「今回の事件で、俺も家を守ることの大切さを感じました。だから完璧な防御ができる家を岩櫃と設計中です。ですから後一年くらいはかかるかもしれません。もちろん業者にはハッパかけますが」「一年か、一年は遊んで暮らそうかな?」それを聞いた、優秀さんがつぶやくと、ご母堂が「うちの息子たちは揃ってだらしがない。優秀、あんたは大学があるのだから、東京に帰りなさい」と叱り、そして兄貴に向かっては「あんたはご近所にご迷惑をかけたのだから、横浜に帰って、ボランティアでもやりなさい」とこれまた叱咤した。「でも、私は、公には死んでいることになっているのですが」兄貴が反論すると「いくらでも偽名を使えば、いいでしょ」と怒鳴られてしまった。そんなわけで千倉の生活は、ご母堂、大将、宏恵さんとチビの三人プラス一匹だけに戻り、優秀さんは東京生物大学に再出勤し、兄貴、岩櫃若頭、俺は妙蓮寺に戻ってボランティア活動に、いそししむことになった。こう言う損得抜きの仕事もたまにはいいね。などと、話していたら、また、きな臭い話が出てきた。出処は、『鯨組』の花札組長である。
「どうも、関西のやつらが、ハマを狙っているらしい」「山内組ですか?」「いや、山内組はお家騒動で、二つに分裂していて他人のシマに口出しする余裕はない」「ではどこが?」「関西連合っていう、若いやつらがのしてきているらしい。コカイン、ヘロイン、脱法ドラックなんかを平気で取り扱い、山内組にもちょっかい出しているらしい。それがハマの暴走族、『横浜エンペラー』と組んで、何かやらかそうとしているという」「でも、マフィアと違って迫撃砲なんかは使ってこないでしょうね」「まあな、でも拳銃は持っているというぜ。それに、一人の人間を寄ってたかってリンチをして死に至らしめることもあるらしい。一人歩きは危険だぞ」「なら危険なのは組長だけだ。私や岩櫃は死んだことになっていますから」「甘いぞ。世間ではお前が生きている説が流れている。この前も、鶴見川ゴミ拾いでお前を見たってやつがいたぞ」「てへっ。確かに参加しましたよ。岩櫃と、タカシと三人で。ちゃんと偽名を使いましたけど」「馬鹿だな。おとなしく、千倉の海で魚釣りでもしていればよかったのに」「私だってそうしたかったですよ。でも母が」「ご母堂がどうした?」「若い者は働けって、なあ、タカシ」「はい、その通りです」「ご母堂には誰も逆らえないな。だが気をつけろ。お前の名前は結構知れ渡っている。『横浜エンペラー』なんて要注意だ」「はい、気をつけます」
兄貴、岩櫃若頭、俺は口直しに、『居酒屋 小料理 涼子』に行った。「いらっしゃい。お久しぶりって、死んだんじゃなかったんですか? 板長がひっくり返りそうになる。「死んだんだけどさ、閻魔様とあっち向いてホイやって勝っちまって逆戻りさ」「本当は六文銭ケチったんでしょう」「それに違いない。万札しか持ってなかったんだ。小鬼のやつ、釣りがないっていうから蹴飛ばして帰ってきた」「ハハハ、冗談はこれくらいで、いつもの席、空いています」「すまないなあ」兄貴は言った。料理はいつもの刺身の盛り合わせと、焼き鳥だ。吉田二郎くんの焼き鳥テクニックは大評判になり、テレビでも紹介された。本人は照れ屋で無口だから、話好きの板長があることないこと喋ったらしい。
「しかし、岩櫃よ、一難去ってまた一難だな」「はい」「俺は思うに、また狙われるのは花札組長だな」「何故ですか?」「あの人は、目立ちすぎる。ウチは暴力団じゃない、やくざだと。他との差別化を強調しすぎている。他団体からすれば、腹が立つんじゃないかな」「では、組長の警護をもっと大々的にしなくてはなりませんね」「そうだね」「あとはどこを警護すればよろしいですか?」「そうだねえ。『横浜エンペラー』が動くということはお前たちの配下の暴走族『ショッカー』も気をつけたほうがいい」「けれど、やつらは警護しにくいですね」「そこはうまくやってくれよ。さあ、焼き鳥を食べよう。吉田くん進化しているなあ」兄貴がのん気に焼き鳥を頬張っている時、事態はもう、動き出していたんだ。
横浜には『横浜エンペラー』と『ショッカー』の二つの暴走族がある。規模で、言うとエンペラーのほうがショッカーの三倍だ。お互い敵対していたけれど、ショッカーが『鯨組』の傘下に入ったため、ある種の均衡が生まれ、お互いぶつかり合わないように、警戒していた。ところが今夜、新山下埠頭で集会をしていたショッカーにエンペラーが襲いかかった。規模は三倍である、スペクターの優位に対決は進み、最後にはショッカー総長、少年Aくんが拉致され、翌日、帷子川で水死しているのを早朝散歩していたおじいちゃんが見つけた。直ちに警察に届けられ、司法解剖の結果リンチで動けなくした後、川に投げ込み水死させた集団殺人と分かった。警察はまず、ショッカー内部での暴力ではないかと見て、捜査したが、肝心のショッカー構成員が見つからない。なぜなら『鯨組』が構成員全員をかくまったからである。これ以上、味方の犠牲を増やしたくない。一方、エンペラーに対しては怒りの炎が上がり、岩櫃若頭が率いる、特殊部隊が、夜の高速道路をめぐって、エンペラーを探す。そして、第三京浜でエンペラーを見つけた。「よし、打て!」迫撃砲が放たれ、爆発、エンペラーの構成員六十人のうち十五人が死亡。四十人が重軽傷。無傷は五人だけだった。これでエンペラーは壊滅状態である。警察は迫撃砲を使った手口から、以前、本牧、石川町、日の出町で起きた爆弾テロを思い起こしたが、どこからも、犯行声明はなく、事件は暗礁に織り上げた。
「岩櫃、やったな。あとは『関西連合』の登場を待つばかりだ」兄貴は岩櫃若頭をねぎらった。『居酒屋 小料理 涼子』の個室である。「やつら、どうやって、ハマに現れますかねえ?」「あいつらはバイク乗るの?」「いや、集団で乗り回したりはしないようです」「じゃあ、新幹線でくるんじゃない? ところでやつらの顔写真とかないの?」「今、関西で兄弟関係を結んでいる、『和泉組』から取り寄せしています」「どういう連中がいるの?」「いわゆる、半グレという、暴走族以上、暴力団以下というのがメインです。構成員の数がとんでも無く多くて、まともにやったら勝ち目ないかもしれません」「何人くらい?」「二千人」「多いな。組は何人だっけ」「タカシを入れて四十一人です」「五十倍か」「はい」「でもさ、中心人物を倒せば、雑魚どもは蹴散らせるんじゃないか?」「その中心人物がまだ分かりません」「それがわからなきゃはなしにならない。岩櫃、飲もう」その日、兄貴はぐでんぐでんに酔っ払って、賃貸マンションに帰った。兄貴と岩櫃若頭は『えびす不動産』に格安で、高級賃貸マンションをそれぞれ借りていた。もちろん俺は兄貴と同部屋である。兄貴はねこのチビを千倉に置いてきたので、寂しそうである。すると玄関のチャイムがなった。俺が出ると、「今度、隣の部屋に越してきました、石田と言います。これ、つまらないもんですが、神戸の明石焼きって言います。お口に合いましたら幸いです」丁寧な人だ。俺は「ありがとうございます。なんかあったらなんでも聞いてください」と言ってやった。
兄貴にそのことを言うと怒られた。「明石焼きだと、開けたらボンだ。公園に行って開けてこい!」兄貴の剣幕に押されて公園まで走って、砂場に投げてみた。見事に、何にも起こらなかった。続いて、覚悟を決めて、開封する。俺は生きている。何もない。俺はふてくされて、明石焼きを全部食べた。毒が入っているなら入っていればいいさという気持ちだった。何ともなかった。部屋に、帰って、そのことをちょっとムッとして知らせると、「そうか。俺の考えすぎか」と兄貴は頭を抱えた。そのあと、岩櫃若頭に電話をして、隣に、関西系の入居者はいなかったか? と聞くと、今日引っ越してきた。コテコテの大阪人男性がたこ焼きを持ってやってきたとのこと。「そのタコ焼きはどうした?」と兄貴が聞くと、岩櫃若頭はレンジであっためて食べたという。この偶然はなんだろう。もしそいつらが『関西連合』なら、明石焼きやたこ焼きに爆弾を仕掛けてこちらを威嚇、または殺傷するだろう。でもそれをしなかった。のん気すぎる。さすがの兄貴も考え込んでしまった。
翌日、電子メールで『関西連合』の主力、二十人の顔写真が『和泉組』から送られてきた。岩櫃若頭からそれを受け取った兄貴は「悪そうなガキどもだね。念のため聞くけど、昨日の隣人、この中にいるかい」兄貴は俺に聞いた。じっくり見る。いない。「いません」「そうか、たまたまだったのか?」兄貴は釈然としない顔をした。そのあと岩櫃若頭からも、昨日の人物はいないと連絡があった。兄貴は午前中、ずっと考え事をしていたが、突然、「あっそうか!」と何かに気がつき、「タカシ、私はこの件から手を引く。岩櫃にもそう伝えろ」と言って、どこかに外出してしまった。慌てて追いかける俺。
兄貴が訪れたのは花札満組長のところだった。兄貴は開口一番「『関西連合』恐るるに足らずですよ。やつらの動きは兵庫県警、大阪府警の監視下の元に置かれています」「なんで分かるんだ?」「明石焼きとタコ焼きですよ」「明石焼きとタコ焼きが警察となんの関係あるんだ?」「私と、岩櫃のマンションの隣に引っ越してきたのは、それぞれ、兵庫県警と大阪府警の刑事なんですよ。二人は我々を監視することで、『関西連合』の所在を確かめようとしているんです」「なんだって」「両刑事とも、『関西連合』の所在をつかんでいないようです」「役に立たん刑事だな」「いや、甘く見てはいけません。両警察とも送り込んできた刑事は十人では効かないでしょう。必ず、やつらを見つけます。だから私たちはこの件から手を引いたほうが良いのです。私と岩櫃は今日マンションを引き払います。そして、この一件のかたがつくまで千葉の千倉に引きこもります」「俺はどうしたらいい?」「どんと構えて、横浜マリンズの試合でも見に行ったらどうですか?」「負け試合を見てもなあ」「偶然、勝つかもしれませんよ」「じゃあ、チケットを取るか」「念のため、警護はつけてくださいよ。私の勘は百パーセントではありませんから」「おう」その声を聞いて、兄貴と俺は組を出た。
事件は横浜山下公園で、起きた。ゴムボートが三艘、岸辺に浮いている。色は黒くて、ぱっと見には分からない。そこに、黒い大きなバッグを持った青年が二十人現れる。ガラは悪い。夜のデートのメッカだというのに誰も近寄ろうとしない。怖いからだ。やがて、ゴムボートから十人の人間が出てきた。見た目は朝鮮人っぽい。手に何か持っている。ガラの悪いにいちゃんの代表が朝鮮人の代表と握手している。お互いの持ち物を確かめ合う。その瞬間、「おとなしくしなさい」という、音声とともに、サーチライトが光った。「こちらは神奈川県警、大阪府警、兵庫県警合同捜査本部だ。お前たちの覚せい剤密輸はすでにこちらの把握するところである。おとなしくしろ!」
その声をスタートにして、神奈川県警、大阪府警、兵庫県警の刑事、警察官二百人が一斉に現れ、悪党どもを逮捕する。『関西連合』は外国系マフィアの勢力が衰えたハマの街で、覚せい剤の売買を行おうとしていたのだ。朝鮮人はマフィアに属さないやつらで、質の悪い合成覚醒剤を高く売りつけようとしていた。
「よし、あとは関西に帰って、『関西連合』を根こそぎぶっつぶすぞ」大阪府警の警視が一人、はしゃいでいた。
千倉の海で、兄貴、岩櫃若頭、俺の三人は海釣りと洒落込んでいた。することがないというより、犬も歩けば棒に当たる。兄貴があるけば、事件に当たるのに嫌気がさしたからである。
「岩櫃」「なんでしょう?」「外国にでも行くか?」「急にどうしました。僕は千倉で充分です」「そうか、ならいいや」「兄貴一人で行かれたらどうですか?」「岩櫃、私はなあ」「はい」「パスポートを持っていない」船がガクンと揺れた。「タカシ」「はい」「お前はどこに行きたい」「俺は真夏の北海道ですね。涼しいって聞きますし」「北海道かあ」「ええ」「自分で稼げるようになったら行け」「ちぇっ」「反抗するのか?」「いいえ、とんでも無い」「お前、鬱病治ったんじゃ無いか。組に帰るか?」「兄貴、それは言わない約束でしょ」「そうだったっけ?」「そうですよ。ねえ、若頭?」「僕は知らん」「なんで、大人って嘘つきなんだ」俺は叫んだ。夕日が背中を押してくる。さあ帰港の時間だ。山崎さんがエンジンをかける。港では、腹を空かせたチビとのらねこ仲間が待っている。雑魚を食わしてやれば幸せなんだ。羨ましい。でもないか。うまい飯を食えば人間だって幸せだ。ただし、人間には金がかかるというだけ。千倉での生活は、俺にとっても、兄貴にも、そして岩櫃若頭にとって、最も楽しい時間だったと思う。今となっては、強く思う。
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