兄貴とその周辺

 俺が兄貴に付いて三年が経った。

 兄貴には親友が二人いる。どちらも堅気の素人さんだ。一人は藪圭一やぶ・けいいち。開業医だ。名前は藪医者だが、腕が良くて患者にも親切だと評判だ。本職は内科だが、皮膚科や心療内科もする。この前、兄貴が恋の病に倒れた時も、往診に来て、「この病気に効くのはセロトニンを出す食べ物だ」と言って大量の大福を置いていった。砂糖は多幸感を引き出すらしい。あとで兄貴に聞いたひとくちポイントだ。

 もう一人の親友は風車小次郎ふうしゃ・こじろう。大手企業に勤めるサラリーマンだ。兄貴とは時間の流れが違う生活を送っているので、滅多に会うことはないが、会えば、昔話が尽きずに朝を迎えるという仲だ。俺もご相伴に預かったことがあるが、そんな時の兄貴は子ども時代に戻ったようにはしゃぎ、よくしゃべる。あの狼の牙のような鋭さは、そこにない。兄貴が無邪気になれる親友がこの二人だ。

 季節は春真っ盛り。妙蓮寺の屋敷の敷地には手入れの行き届いてない、野性味を感じるソメイヨシノが(まあそう言ってもソメイヨシノ自体は人間に配合された人工物だけれど)が百本も植えられていて、今の時期、屋敷は薄桜色の入道雲に囲まれたようになる。初めてこの景色を見た俺は、あまりの美しさに天にも昇る気持ちだった。最近は街路樹の桜の木の枝を行政が切ってしまい、丸坊主にしてしまうが、なんてことをするんだと俺は思う。それは当然、様々な理由があるからに決まっているけれど、桜は日本人の心の花だ。それを無下に扱うなんて、この税金泥棒! と大声で叫びたくなる。もっとも俺は税金を払っていないけれど。まあ、それはともかく、この景色は絵にも描けない美しさだ。iPhoneのカメラで撮っても全然、伝わらない。実物をご覧あれ、というところだ。でもここは私有地だから勝手には入らないでね。

 そういう時期に風車小次郎が突然、屋敷を訪ねてきたから、俺はてっきり、花見をしに来たんだと思った。花見酒も乙なもんだ。俺は飲まないけど雰囲気とおつまみを味わうのもいい。『居酒屋 小料理 涼子』から無理言って仕出しを出前するのもいいねえと、よだれを垂らして風車小次郎の様子を見ると、何かがおかしい。まず、だいぶ痩せた。中肉中背だったのに体が完全に細くなっている。着ているスーツは前から着ているものらしく、ぶかぶかだ。そして、目が異常に血走っている。これは完全な寝不足状態だ。その姿から言えることは何かの悩みか問題を抱えているということだ。自分の部屋に迎え入れた兄貴も、すぐに、ことの重大さに気付いたらしい。「タカシ、席を外していろ」と俺に命令した。素直に部屋を出る、俺。しかし、兄貴の部屋に盗聴器を仕掛けるのは忘れなかった。

「小次郎どうしたんだ?」早速、兄貴が聞く。あの冷静な兄貴の口調にかすかな動揺が感じられる。「ああ、俺なあ」風車小次郎が口を開く。「末期の胃がんみたいなんだ」突然、衝撃の告白をする風車。「藪医者のところには行ったのか?」「ああ、行った。レントゲンと胃カメラを撮った。藪はただの胃潰瘍だと言っている。だがその時、レントゲンの写真も胃カメラの写真も見せてくれなかったんだ。普通、こんなことあるか? ないよな」「あまりに症状が軽いから見せる必要がなかったんじゃないのか?」「そんなわけない。この胃の痛み。尋常じゃない。藪は痛み止めをくれたんだが一錠じゃ足りなくて二錠飲んでしのいでいる。なあ、これってモルヒネじゃないのかな?」風車小次郎は薬を兄貴に見せる。「いや、モルヒネじゃない。医療用の鎮痛剤だ。私も使ったことがある」「そうか。でも藪のやつ、なんで写真を隠すんだ。今は、がんだって、初期や中期なら患者にきちんと説明して手術なり、放射線治療なり、抗がん剤の投与をするだろ。それを一切しないで鎮痛剤を出すだけなんて、末期がんとしか思えない。藪のやつ、友達甲斐もない」風車小次郎は少しキレていた。「まあ、落ち着け。私が明日にでも藪のところに行って、写真を見せてもらってくる。個人情報云々言ったら殴りつけてでも見せてもらう。それでいいだろ?」「ああ、すまない。あとな」「なんだ?」「ピストルは手に入らないか?」風車小次郎はとんでも無いことを言った。「バカを言うな。俺はもう堅気なんだ。それにもし、やくざだったとしても素人にピストルを渡したりしない。一体どうしたんだ?」「もし、末期の胃がんと分かったら、殺したいやつが一人いる」「どんなやつだ?」「いや、いい。無理なのは分かったから。じゃあ、写真の件頼んだな」そう言うと風車小次郎は兄貴の部屋を出て、帰って行った。

「タカシ!」兄貴が呼ぶ。俺が行くと、「話は聞いていたな」兄貴が言う。「い、いいえ」俺はとぼけるが、無理だ。盗聴器を仕掛けたことはバレている。「タカシ」冷たい目で俺を睨む兄貴。「も、申し訳ございませんでした。愚かなことをいたしました。もうしません。しませんから命ばかりはお助けください」俺は猛烈に土下座した。「何、言っているんだタカシ、私はお前に頼みごとがあるだけだ」「へっ?」「小次郎の様子が心配なんだ。あとを付けてみてくれ」「はい!」俺は部屋を飛び出した。だから兄貴が「俺の部屋に盗聴器か。タカシも知恵をつけたな」と言って一人笑ったことを俺は知らない。

 風車小次郎が屋敷の門を出るところで俺は風車を見つけた。風車は自宅のある右側の道には行かず、東急東横線、妙蓮寺駅のある左側に進んだ。十中八九電車に乗るのだろう。俺はポケットのSuicaを確認した。やくざがSuicaと思う向きもあるだろう。だけどこれのおかげで、電車での敵の尾行は格段にやりやすくなった。それに真金町に通っていた時代は自宅アパートのあった蒲田から横浜まで京浜東北線で出て、そこから真金町まで京浜急行で通勤定期を使って通っていたのだ。サラリーマンと一緒だ。まあ、早番、遅番があったから販売業と似ているかな。そんなことはどうでもいい。風車の追跡だ。やつは妙蓮寺駅に着くと、横浜行きのホームに向かった。妙蓮寺駅は各駅停車しか止まらないから来た電車に乗ればいい。楽な追跡だ。電車が来た。俺は風車が乗るのを確認してから電車に飛び乗った。ギリギリに飛び乗るのは相手が飛び出たりしないよう、確認するためである。たとえ相手が素人でも、基本動作に怠りは許されない。俺は扉横の手すりにもたれかかって風車の様子をちらりと見た。気付かれた様子はない。電車は白楽に着く。降りる気配はない。俺は、風車は横浜に行くと見当を付けた。あとの駅には言っちゃあ悪いが何にもない。東白楽に着く。やっぱり降りない。あとは反町だけか。思う間もなく反町に着く。当然降りたりしない。「チェックメイト」俺は一人つぶやいた。横浜は乗降客が多い、それに飲み込まれないようにしなければならない。見失ったらたいへんだ。ここが一番の緊張のしどころである。さあ、扉が開いた。が、風車は降りない。そのまま、みなとみらい線に入ってしまった。「もしかして元町中華街まで行って、中華料理でも食べるんじゃないだろうな」と思った途端、風車はみなとみらい駅に降り立った。慌てて俺も降りる。風車は浮かれたように歩き、改札口そばの売店で、崎陽軒のシウマイ弁当と泉平のいなり寿司を買って、ご機嫌に歩いていく。行き先はもう分かった。横浜マリンズの本拠地、ベイサイドスタジアムだ。他にもお客が大勢いる。マリンズってこんなに人気あったっけ? 生粋の東京キングファンの俺にはよく分からない。とりあえず、兄貴に連絡をつける。

「兄貴ですか? 風車のやつ、のん気に野球見物ですぜ」

——ああ、そうか。今日はマリンズの本拠地開幕戦だからね。よく、チケットが手に入ったね。羨ましい。

「そうなんです。満員札止めでチケットを買えないんです。もう尾行はできません」

——じゃあ、ウチに戻ってこい。テレビで野球でも見よう。

「じゃあ、電話切ります」

 俺は正直、ムカついていた。何がテレビで野球でも見ようだ。俺はのん気に野球見物する男を必死になって尾行していたんだ。馬鹿らしい。それに、ガリガリに痩せているのに、崎陽軒のシウマイ弁当と泉平のいなり寿司だと。胃がんのくせによく食べるなあ。何かおかしい。俺の脳みそが訴える。だけど何がおかしいのかまでは分からなかった。

 屋敷に帰ると、宣言通り兄貴はCS放送のプロ野球を見ていた。横浜マリンズ対名古屋カーボーイズ。俺には興味のない対戦だ。東京キング対大阪タワーズが見たい。だけどそんなこと言えるはずもなく、兄貴には、「今日の尾行の報告を『居酒屋 小料理 涼子』でしましょうよ」と言った。すると、「今日はダメなんだ。明日、藪のところに行くついでに、胃カメラを飲むことになった。今夜と明朝は食事抜きなんだ」兄貴は言った。「そうですか」俺が応えると「お前も胃カメラ飲むか?」と聞かれた。「俺はいいです」と断った。実は俺、胃カメラが怖いのだ。

 翌日、兄貴のお供で『藪内科・皮膚科・心療内科』へ行く。予約は九時の一番乗りだ。「おう、久しぶりだな」と藪圭一医師が兄貴に声をかける。兄貴は「まずは最初に、電話でも言った通り、小次郎の胃カメラとレントゲンの写真を見せてくれ」と要求した。「ああいいよ」藪医師は簡単に写真を見せる。「ほらこの通り、何にも異常はないだろ。あまりに綺麗なんで小次郎にはめんどくさいから見せなかった。それが失敗だったな」「そうだ、藪医者」「だがな、お前が何でもないといったところで、小次郎はたぶん、納得しないだろう。精神的治療をしなければ」「どういう風に?」「一種の催眠治療だな。お前も手伝ってくれ。小次郎の胃にある、がんをお前の胃に移植するという催眠を小次郎にするんだ」「そんなんで治るのか?」「九分九厘治る」「じゃあ、協力しよう」「ありがとう。その前にお前の胃カメラだ」「頼む」こうして兄貴の胃カメラが始まったんだけど、俺は見るのも怖くて病室から逃げ出してしまった。藪医師は右目の眉を吊り上げて、「異常はないな」とつぶやいたそうだ。よかったですね、兄貴。病院からの帰り道、兄貴は元気がなかった。「どうしたんですか?」と俺が聞いても「いや、なんでもない」と答えるばかりだった。

 それから一週間のち、風車小次郎の胃から、兄貴の胃へとがんを移植するという、茶番の催眠療法が行われた。「本当に悪いな」としきりに謝る風車に、「俺はお前と違って、養う家族がいないから」と兄貴は言って慰めた。茶番なんだからそんなに真面目に受け答えしなくてもいいのにと俺は思った。藪医師がやってくる。「これより、風車小次郎の胃がん移植手術を始める。麻酔準備」看護婦が麻酔を持ってやってくる。そして風車に麻酔をかけた。麻酔が効き、風車が眠る。「よし、麻酔が切れるまで二時間、自由にしていていいぞ」藪医師が言う。俺は兄貴にお茶を用意した。「ありがとう」お茶を一気に飲む、兄貴。そこに藪医師が来て、「なあ、お前人間ドックってやったことあるか」と兄貴に聞く。

「いや、ないよ」答える兄貴。「じゃあ、一度やってみろ。ここでできるから」

「この前、胃カメラを飲んだばっかりだよ。めんどくさいよ」「お前、どうせヒマだろ。明後日空いているから。今日、たんまり、飯を食って明日の夜から断食してな。チャチャっと終わるから」藪医師が右眉を釣り上げて説明する。「そうか、じゃあやってみるか」兄貴は人間ドックに入ることになった。「さあ、そろそろ麻酔が切れる。ベッドに戻ってくれ」藪医師が兄貴を促す。やがて、目覚めた風車小次郎が大きなあくびをした。「ああ、胃が痛くない。でも手術痕がないな」訝しがる風車。「それは胃カメラと内視鏡でやったからだよ。どうだい、調子いいだろ」右眉をあげて話す、藪医師。「うん」「今日からは、何を食べても何を飲んでもいい」「だけど、すまないことをしたな」風車が兄貴に詫びる。「構わないと言っただろう」兄貴は少し、機嫌が悪い。「ありがとう、ありがとう」風車は兄貴の両手を握った。「それよりも、聞きたいことがある。ピストルで殺したいやつがいると言っていたがどうした?」兄貴が問うた。「ああ、会社の上司だ。殺したいほど憎んでいた。いやみで、揚げ足取りで、無責任で、最低の男だった」「“だった”と過去形で言うということは殺したのか?」「いや、一発殴って、辞表を提出したらそれで気が済んだ。俺はお前の言うところの素人だから、人は殺せなかったよ」「そうか、それは良かった」兄貴は笑った。「それよりも、これからどうするんだ?」藪医師が尋ねると、「木更津で女房の親類が農業をやっている。そこを手伝わせてもらうことになっている。当分、お前たちにも会えなくなる」「千葉か……舞浜ランボーズのファンに鞍替えするなよ」「当たり前だ。俺たちは横浜マリンズ一筋!」三人は共鳴した。あとで聞いたら、三人とも小学校の時から横浜マリンズのファンクラブに入るほどのマリンズ好きだったのだそうだ。東京キングファンの俺には関係のない話である。

 翌々日。兄貴の人間ドックの日だ。藪医師は「詳しいお話もありますので、ご母堂にもおいでいただきたい」といった。「私は病院なんて嫌いだよ」と嫌がるご母堂を俺がなだめすかして病院まで連れてきた。「他に、逢わせときたい人はいるかな?」藪医師が変なことをいう。「それ、どういう意味ですか?」俺が聞くと「他意はない」と藪医師は知らんぷりをした。逢わせときたい人はいる。『居酒屋 小料理 涼子』の女将、宏恵さんだ。でもお店が忙しいから無理だなと俺は諦めた。花札組長はどうだろう? こちらも縄張り争いに忙しいだろうから、たかが人間ドックごときでは呼べない。結局、「他にはいません」という結論に達した。「寂しいのう」と藪医師は言った。兄貴は一匹狼だ。これは仕方がないことだろう。

 兄貴は検査着に包まれてベッドで診察室にやってきた。「さあ、早いところ終わらせてくれ」兄貴が叫ぶ。藪医師が右眉を上げながら言う。「すぐ終わるよ」すると兄貴が何かを思い出したように言った。「お前、この前胃カメラの時も右眉を釣り上げていたよな。なんか引っ掛かったんだよな。今、思い出した。お前、嘘をつくとき、右の眉がつり上がるんだよな!」というと兄貴は逃走を図った。それをどこから出てきたのか、二十人の男性看護師が押さえ込み、「麻酔打ちます」と兄貴の静脈に注射を打ち込んだ。しばらく暴れていた兄貴の腕がしおれるようにベッドの下側にぶら下がった。「よし、では用意しておいた救急車で神奈川県立大学付属病院に運ぶぞ!」「おう!」男性看護師たちが神輿でも担ぐように兄貴を連れていった。「圭一、これはどういうことなんだい」ご母堂が藪医師に詰め寄る。「事情はこれからじっくりと説明いたしますから、ご母堂、ガンをつけるのはやめてください。怖いです」藪医師はかなりビビっている。きっと、子どもの頃きっと良く叱られたんだ。「先生、落ち着いて兄貴のことを話してください。お願いします」俺は藪医師がしゃべりやすいように助け舟を出した。こうした駆け引きも俺はできるようになったんだ。「早く言わないとあんたを病院送りにしちまうよ」ご母堂が、また藪医師をビビらす。それは逆効果ですよとそっとご母堂をなだめる俺。大人だなあ。「では今回の件についてご説明申し上げます。先日の胃カメラの結果、息子さんにはスキルス性の胃がんがあることが分かりました。それも急速に進んだ末期がんです。この場合、通常では放射線治療や抗がん剤を使用しての内科的治療しかもう行われません。転移が広範囲すぎて、がんの切除は生命の危険を伴うからです。もしくはホスピスで終末医療。モルヒネなどを使った痛みの緩和ケアが行われます。何れにしても息子さんの命はもって半年でした」「でした? なぜ過去形なのじゃ」「奇跡が起きました。世界的外科手術の権威、ドクターZがたまたま来日し、たまたま東京にいたのです。私は彼女、ああドクターZは女医なのですが、彼女にコンタクトすることにたまたま成功したのです」「たまたまが多いねえ」「そうです。だから奇跡なのです。私は息子さんの容体をドクターZに伝えました。するとドクターZは大変に興味を持ち、手術することに同意してくれました」「その女医さんは名医なのかい?」「超人的な名医です。彼女でなくては息子さんは救えません」「じゃあ、期待していいんだね?」「祈るばかりです」「そうかい」ご母堂は覚悟を決めたようだ。俺はといえば、(俺がこの世界で生きていられるのも、元はと言えば、兄貴のおかげだなあ)と回想していた。


 俺が『鯨組』に入ったのは中三の春過ぎだった。学校の三者面談ってやつで先公に「今の成績と態度では入る高校はありません」とハッキリ言われたからだった。俺は怒りで先公と母親をぶん殴り、盗んだバイクで走り出した。目的なんてない。ただ燃えたぎる怒りを消すために走った。だが、走るたび、怒りの炎は強さを増し、俺は赤信号も止まらずに、走り続けた。やがて、白バイが俺に気付いた。サイレンを鳴らして俺を追いかける。俺も負けちゃいねえ、心のリミッターを外して全速力で走った。やがて白バイやらパトカーを俺は率いていたぜ。まるで『西部警察』だ。しかし、相手はポリ公だ。スピードもテクニックもこっちの何倍もある。俺は次第に追い詰められ、やっとの思いで港の倉庫街に侵入した。そこはコンテナで迷路状になっていて大量のパトカーは入ってこられない。俺はひと心地ついた。その時だった。一発の銃声が轟き、俺の右頬が割れた。「なんじゃい、われ」おっかない顔のおっさんが俺の眼の前に現れた。出血とおっさんの尋常ならざる目に俺は生まれて初めて恋をした。いや間違えた。恐怖した。「お前がポリ公連れてきたんかい。俺らがこれからせっかくいい仕事しようと思っていたのに、これでパーや。中国人バイヤーは逃げてしもうた。その責任、どう取ってくれるのや?」俺は覚醒剤か何かの売買場所に飛び込んでいたらしい。最悪だ。殺される。恐怖でちびった。本物のやくざっていうのは迫力が違う。テレビドラマのやくざはチンピラだ。あんなのを見て、やくざなんてちっとも怖くないと思っていたけれど、今は違う。命だけ助かればいいと本気で思った。そんな時だった。「大熊! また薬に手を出しやがって」と十人くらいの、これまたやくざが発砲しつつ突っ込んできた。大熊と呼ばれた怖いおっさんは「やべえ、花札だ」といって逃げ出した。俺はビビって直立不動の構えでいた。「なんだお前は?」花札と呼ばれたリーダー格の男が俺に気が付いた。「お、俺、ふ、不良少年です」俺は真面目に答えた。「ふ、不良少年……」ウプププと花札が笑った。「面白いよな」と横の無表情の男に尋ねる。「いいセンスです」無表情の男は言った。「おい、お前不良少年ならウチの組に入れ。見習いにしてやる」俺の就職先が見つかった。「お前、面倒見てやれよ」花札が無表情な男に言った。「はい」男はぼそっと言った。それが兄貴だった。

 あれだけ居た警察がなぜ居なくなったのかがとても不思議だった。俺は兄貴に聞いた。兄貴は答えた。「これから大熊たちを殺るという時に警察がいたら邪魔だ。花札さんは配下の暴走族『ショッカー』を使って首都高速横羽線を暴走させて、交通課の目をそちらに反らしたのさ」「やくざって頭がいいんですね」「馬鹿はやくざでも出世しない。出世したかったらお前も勉強しろ」「はい。でも学校の勉強はさっぱりわかりません」俺は正直に自分は馬鹿だと伝えたかったんだ。そしたら兄貴は「学校の勉強はただの暗記だ。それよりも、今自分が何をすればいいかを考えて答えを出す。それが本当の勉強だ。お前は今、何をするべきか考えてみろ」「ええと、分かりません」「大して考えもせず、諦める。それを馬鹿と言うんだ」兄貴は静かに怒鳴った。猛烈に怖かった。「駄目です。どうしても考えつきません。教えて下さい」俺は土下座して謝った。殺されるかもしれないと思った。兄貴は「そうか、それがお前の答えか。人に教えを乞う。それも一つの答えだな」俺の体から力が抜けた。俺は答えを出せたんだ。「教えてやる。お前は、これから私をお前のご両親に合わせるんだ。私はご両親にお前を預かる了解をもらう。いいな」「はい」俺は素直に従った。三下に運転させた車に乗り、俺と兄貴は横浜市旭区にある団地、つまり俺の自宅に着いた。学校で、母親を叩いたので、俺は気が重かった。三階の部屋にたどり着いた。俺はチャイムを鳴らす。母親が出た。頬は赤くなかった。良かった。俺の顔を見た母親は大きく目を見開いたが、ついで後ろにいる兄貴を見て、これでもかと目を見開いた。たぶん、イケメンだったからであろう。「お母様ですか私はこういうものです」と言って名刺を差し出す。「今日はタカシくんのことでご相談にあがりました。できればお父様共々お話させていただきたいのですが」「は、はい。と、父さん」母親は舞い上がってしまった。イケメンが一流の敬語で話したんだ。びっくりしたのは間違いない。父親は晩酌をしていた。ステテコ一枚で。それを慌てて母親に、スラックスとワイシャツに着替えさせられた。

「で、なんなのでしょう?」小心の父親はビクビクと兄貴に尋ねた。兄貴の圧倒的な存在感と圧力に参っているのだ。「はい。実はタカシくんを我が『鯨興業』に入社させていただきたく、お願いにあがりました。「『鯨興業』? なんの会社ですか?」「芸能イベントの準備、工事作業員の手配など。簡単に言えばイベント運営と人材派遣です」「そうですか。私はてっきり暴力団かと思った。タカシは親の私が言うのもなんだが、ロクでもないガキだ」「正直に申し上げます。当社がやくざの流れを受けていることは事実です。資本提携もあります。ただ『鯨興業』自体はクリーンな会社です。あの有名なSK−Ⅱ48のイベントも手がけています」「要はやくざのフロント企業だな」「そうです。その通りです」「息子を好き好んで、やくざにする親がいると思うか」「いません。ですから、頭を下げてお願いしているのです」兄貴は土下座した。「今は一般企業の方がブラックだな」父親は笑った。「頭をあげてください。不束者ですが、息子をよろしくお願いします」両親が今度は土下座した。不覚にも俺は泣いた。そして叫んだ。「俺、いいやくざになるから!」

 それから色々あった。先輩の三下には鍛えられた。怒鳴られて、蹴られて、叩かれて。でも我慢した。両親の土下座のシーンがまぶたの裏に残る。頑張った。そのうち、先輩も俺を認めるようになった。兄貴にはあんまり怒られなかったけれど、冷たい目で睨まれることは時々あった。本当に、怖かった。死刑台に乗るよりこっちの方が怖いかもしれない。そしてあの鐘派と花札派の戦い。兄貴は鐘猛気を殺して服役した。出所後、組を抜け、俺を子分として悠々自適な暮らしを送っていた。それがこの、がん騒ぎ。末期の胃がんというからには他の部分にも転移しているのだろう。それをドクターZは全部取るという。そんなことできるのだろうか? 「手術には二十時間くらいかかります。ご母堂、ベッドを用意していますから、疲れたら休んでください」藪医師が言う。「息子の命が懸かっている時に休んでられますか!」ご母堂は元気だ。訳の分からないお経を唱えている。俺の方が疲れてきた。そういえば、朝から何も食べていない。俺はこっそりと抜け出して、病院の食堂できつねうどんを食べた。そして、気付いたら寝てしまった。

 起きたら午後三時だった。午前十時に手術が始まったから六時間。まだ半分も行っていない。ご母堂は相変わらず、訳の分からないお経を唱え続けている。本当にタフなばあさんだ。俺はといえば、大事な恩人が手術中だというのに、ヒマを持て余してきた。病院内はスマホ禁止だし、煙草も吸えない。だからと言って所定の喫煙所に行っていたらご母堂に悪い。新聞を買おうかと思ったが、屋敷に帰ればたくさんあるのだ。もったいない。しかし、待てよ。屋敷にない新聞もあるじゃないか、スポーツ放置! 我が東京キング御用達の新聞だ。売店で早速買う。ついでに水も買う。ご母堂の分も買っておこう。「いらぬ」と言われたら自分で飲めばいい。手術室前に戻る。ご母堂に水を渡してみると「気がきくのう。ありがとう」と言われた。ご母堂に褒められたのは初めてだ。さて、自分はスポーツ放置を読む。東京キングは名古屋でカーボーイ戦か。結果は七対一で圧勝。日本橋監督破竹の十連勝。どれどれ横浜マリンズは大阪タワーズに完封負けか。兄貴には見せられないな。あとは面白い記事がない。じゃあ、失礼してエッチな記事をと開いたらテレビ欄だった。さすが、病院その点は抜かりないのね。新聞を読み終わると、ポケットに、兄貴から借りた文庫本が入っていることに気づいた。伊佐坂幸太郎のデビュー作『オーディエンスの祈り』オペラ座で歌う一体のカカシが登場する。ファンタジックなミステリーだそうだ。兄貴は伊佐坂幸太郎が好きで、よく読んでいる。他にも好きな作家がいるみたいだけど、オフィシャルには伊佐坂幸太郎ファンである。でも「読書するのはウンコするのと同じで人に見せるもんじゃない」(ちょっとなんか違うな)と名言を吐いた兄貴だから俺くらいしか知らないだろうな。大体オフィシャルな場ってどこよ。馬鹿なこと考えたもんだ。俺は。

 時刻は午前零時となった。店の終わった宏恵さんが病院にやってくる。「あと六時間だから」俺は宏恵さんに言う。「そんなに掛かるの!」宏恵さんはもう涙声だ。「二十時間かかるんだって。もう折り返し地点は超えたんだよ」俺は慰めた。ここで、俺の妄想がまた始まる。兄貴がこのまま逝ってしまったら、宏恵さんは一人になる。そしたら俺は……わー、駄目だ駄目だ。こんなこと考えたらバチがあたる。

 午前六時、俺は不覚にも十二時過ぎから寝てしまった。ご母堂はと見ると、お祈りした状態で眠っている。その上には毛布がかけられている。たぶん、宏恵さんがかけてあげたのだろう。優しいな。そうだ、手術終了の時間だ。だが手術中のランプは消えない。宏恵さんはもういかなければならない。店の仕込みがある。『居酒屋 小料理 涼子』はランチも始めたのだ。若い板長の発案だ。宏恵のお父さんは名誉板長として、焼き鳥だけ焼いている。焼き鳥の味をまだ後継者に伝えられないんだそうだ。それよりなんで手術中のランプが消えないんだと俺が考えていると、突然ブザーが鳴り響いた。「なんだ?」俺が驚くと、放送が入った。

——さあ、ラジオ体操の時間です! 

 驚かせやがって。俺はそれどころではないと思ったが、ご母堂がガバッと起きてラジオ体操を始めたので、つきあわざるをえなかった。

 午前七時。予定よりも一時間以上遅れている。すると手術室のドアが開いて手術着のナースさんが走ってくる。そして「あなた血液型は?」と唐突に聞いてきた。「O型ですが」というと、すごい力で引っ張られた。「血液が足りないんです。ご協力お願いします」とナースは言う。ということは兄貴の血液がやばいんだ。俺は喜んで協力した。「半分くらい抜いていいですよ」と言ったら限度いっぱい抜かれた。俺は貧血になってぶっ倒れた。輸血はしてくれなかった。

 午前十時。まるまる二十四時経過して、手術はようやく終わった。全身を包帯に包まれ、悲惨な状況で出てくる、兄貴。「今はまだ、麻酔で眠っています。途中で麻酔を足したので、十時間くらいは眠り続けるでしょう」執刀医が入った。ドクターZだ。国籍不明、所在地不明、その他女性であること以外すべてが謎で、世界中を旅して、たまたま出会った難病人を助けるという、ちょっと変わった名医だ。国境なき医師団とは関係がない。

「すべての腫瘍とがんは摘出しました。脳腫瘍から皮膚がんまで、まるでがんのデパートだったわ。なんで生きているのか不思議なくらい」ドクターZは疲れ切っているようだ。壁に手をついて話す。「これで息子はどれくらい生きられるのでしょう」「適切に生きれば平均寿命まで生きられるんじゃないの。不摂生なら知らないけど」「ありがとうございました」「礼はいいわ。手術は私の趣味なの」そう言うとドクターZはどこかへと消えていった。


 兄貴は意識を取り戻すまで一ヶ月ほど掛かった。全身を切り刻まれたのだ。それくらいは仕方あるまい。俺は兄貴の体の中を俺の血液が流れていると思い、嬉しくてしょうがなかった。「兄貴のことを俺の血液が支えている」と独り言を言ったりした。


 兄貴の退院には一年掛かった。季節は春。桜の季節だ。俺はまた妙蓮寺の屋敷のソメイヨシノの雲海が見られるのかとウキウキした。それも兄貴と。

 冬は長くて辛いけれど、桜という贈り物を我々に渡して去っていく。

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