兄貴の恋
今日の朝食から突如、メニューが変わった。ボロネーゼとコーンポタージュとサラダだ。イタリア人だったらなんともないメニューだろうけど、純粋な日本人である俺にとっては今日の夕食あたりからたぶん苦痛になるだろう。兄貴のこの超偏った食事方法はどこから生まれたのだろう。不思議だ。実際、兄貴の言動を見ていると、時々見せる、冷たい野獣のような目つきを除けば、極めて常識的である。ご母堂だって、しっかりと兄貴を教育されているように見受ける。なんたって、兄貴は大学を出ているんだ。学歴で人を判断してはいけないと思うけど、ある程度の尺度にはなる。どう考えても良識的な人だ、兄貴は。それが食事のことになると、おかしくなる。同じメニューを、俺の最高記録では五週間も朝昼晩と食べている。兄貴には飽きるという言葉はないのか? いや、あるにはある。突然、メニューが変わるからである。それも劇的に変わる。毎日、ステーキを食べていたと思った矢先、朝食から納豆ご飯に変わる。なんの前触れもなくである。俺は兄貴がご母堂に「母さん、明日から○○が食べたいよ」などと言っている姿を見たことがない。いや、この親子の会話すらほとんど見たことがない。ご母堂は家事を片付けると、お茶やらお花やら、パッチワークやら趣味に大忙しである。七十だというのに、そのエネルギッシュさにほとほと感心してしまう。一方、兄貴といえば、早朝のジョギングと木刀振りは別として、あとは新聞熟読、読書、それくらいしかしない。あとは横になって寝ている。かつてハマを叫喚させた狼の牙は抜かれたようである。それにちょくちょく『居酒屋 小料理 涼子』に行って、焼き鳥をこれでもかと頬張る。俺は焼き鳥を二十本も三十本も食べる人間を初めて見た。相撲取りやプロレスラーじゃない。一応、一般人である。それとホルモンに異常に執着する。酢モツを肴にビールを飲み、ホルモン焼きを食べながらホッピーの黒を飲む。ホッピーの中身の焼酎を三回お代わりする。最後にもつ煮込みをつまみながら日本酒を飲む。その上しっかりと焼きおにぎりを三個食べて締める。時には、つけそば(大盛り)の日もあれば親子丼、カツ丼の時もある。これはすべて『居酒屋 小料理 涼子』のメニューにある品だ。この店もどうかしている。いつも閑古鳥が泣いているのに、メニューが豊富で、どれも美味い。女将はすこぶるつきの美人だ。なのに客がいることは滅多にない。よく潰れないものだ。不思議でならない。でも、もっと不思議なのは兄貴がここに来るのは、夕食を食べたあとだということだ。一体兄貴はどんな胃袋を持っているのだろう。だがそれはそれでいい。今、現実的な問題なのは、兄貴の恋愛問題である。兄貴は人を愛せない心の悩みを持っている。俺の事情聴取によると、いぬやらねこには可愛らしさを感じるらしい。自然の美しさにも感動するらしい。喜び、怒り、悲しみ、楽しみも持っている。ただ、女性を愛するという気持ちがわからないらしい。ホモ? と思う人もいるかもしれないがそれはないそうだ。幼児愛って俺が聞いたら、例の冷たい目つきをされた。とても恐ろしい。それはさておき「なんでそうなんでしょうね?」と俺が尋ねると、兄貴はしばらく考えこみ、もしかすると、と口を開いた。「義理の父の連れ子に俺と六歳離れた義理の姉がいた。美しい人だった。私にとても優しく接してくれた」「そうなんですか。今、お姉さまは何処に」「天国だ。姉は十八の時、白血病で亡くなった。私は悲しかった。私は一晩中泣いた。高熱が出て、葬儀に参列することができなかった。それがとても心残りだ。今も姉さんの夢をよくみる」簡単に理由が分かった。兄貴はシスターコンプレックスなのだ。もともと美しかったであろう、お姉さんを死によって失うことで神格化し、女神の状況にまで昇華させてしまったのだ。だから他の女性に興味が持てない。愛することができないのだ。「ところで居酒屋 涼子の女将についてはどう思っているのですか?」俺は聞いた。「彼女は……姉に似ているところがある」兄貴はぽつりと言った。「じゃあ、思い切って告白しましょう。最初はお友達でいいと言ってね」「だが……俺は人殺しだ」「織田信長だって、豊臣秀吉だって、徳川家康だって、人を殺しても結婚していますよ。まあ、家康は女房も殺していますけど」と俺は学のあるところを見せた。兄貴の貸してくれる本のおかげだけれどね。「そのことは言った方がいいだろうか?」「別に言わなくて、いいんじゃないですか? 刑期も、もう直ぐ終わりですし」「だが、怖がられないだろうか?」「何言っているんですか。兄貴が女将のピンチを助けたから、今があるんじゃないですか」「まあ、そうだな」「じゃあ、こういう作戦はどうですか? 一ヶ月くらいあの店に行くのやめてみるんです。そしたら女将、気をもみますぜ。あの人、どうしちゃったのかしら。病気かしら。それとも私が嫌いになって……とね」「それでどうなるんだ?」「女将の心の中で兄貴の存在が大きくなるわけです。そして一ヶ月後に兄貴が言ってごらんなさい。女将は縋り付かんばかりに兄貴に寄ってきますよ」「そうかな?」「そうです。そうに決まっています。恋愛のことに関して言えば、俺の方が兄貴より上をいっていますからね」「それはそうだ」話は決まった。兄貴と俺は『居酒屋 小料理 涼子』に一ヶ月間行かなかった。というよりその近辺に近寄りもしなかった。それだけ綿密に行動したのだ。俺は愛の軍師を気取り「直江兼続だあ」と兄貴の本を受け売りして叫んだ。
一月経った。相変わらず食事はボロネーゼその他である。でも俺はそんなこと気にもしていなかった。そろそろ作戦第二章の結構である。「兄貴、今夜あたり、『居酒屋 小料理 涼子』へ行きましょう」「そうか」「今日が決めどきですよ」ウシシシと俺はいやらしい笑い方をした。鏡をもし見たら、相当の悪人顔だっただろう。「女将は私を覚えていてくれるだろうか?」「覚えているに決まっているでしょう。さあ、行きましょう!」俺は兄貴の腕をとって『居酒屋 小料理 涼子』へ向かった。
この先のことを話すのは辛い。俺と兄貴が『居酒屋 小料理 涼子』の前に行ったら、店にはシャッターが閉められており、「都合により、閉店いたします 亭主」と張り紙が出されていた。俺は兄貴の体が小刻みに震えているのを感じた。これは謝ったほうがいいかな。うん、謝ったほうがいい。俺は土下座した。「兄貴、俺が浅はかでした。申し訳ございません」すると兄貴は「お前が、ここを潰したわけじゃないだろう。なぜ謝る?」と冷たい声で言った。俺は殺されると思った。だが殺されなかった。兄貴が気絶してしまったからだ。兄貴は菊名記念病院に入院した。医者の見立てでは、「体にどこも異常はありません。血液検査、レントゲン、CTスキャン。全部やりましたが、どこも悪くありません。あとは精神科に行ってもらうしかありません。ウチには精神科はありませんから転院していただきます」ということだった。兄貴は精神科への入院を拒み、自宅治療を望んだ。俺はその方がいいと思った。所詮は恋の病である。下手に抗鬱剤なんか投与されたら、兄貴の持つ、狼の牙がまた光を放ちかねない。要は女将を探せばいいのである。それがダメなら、女将に似た女性を探せばいいのである。すべては俺の責任だ。俺の手でなんとかしてやる。俺の手で兄貴を元どおりにしてやる。俺はご母堂に断って、屋敷を飛び出した。
やることと言ったら不動産屋に行って、新しい住所を聞き出すくらいだ。俺はまず、元『居酒屋 小料理 涼子』の前に行って管理している、不動産屋の看板を探した。でも、何にもない。おかしいな、空き物件はすぐに貸し出したいだろうに、のん気な不動産屋だ。これはきっと駅前の『えびす不動産』だなと当たりをつける。「ちわ」「いらっしゃいませ。アパートですか? 店舗ですか?」「店舗なんだけどよ。『居酒屋 小料理 涼子』のあった場所、いくらだ?」「あそこは駄目です。賃借人がまだ住んでいますから」「えっ? 涼子の女将が」「そうですよ。料理を作っていた親父さんが、病気で倒れられて閉店したんですけど。案外、軽かったみたいで、じきにまた開店するんじゃないですか」ここの亭主は本当にのん気だ。個人情報、バンバン教えてくれる。「あそこが駄目ならいいんだ、じゃあな」と言って、俺は『えびす不動産』を飛び出し、元『居酒屋 小料理 涼子』前まで走った。裏口を探す。あった。チャイムを鳴らす。が、応答はない。病院にでも言っているのか? 俺は少し、考えた。このことをすぐ、兄貴に伝えるべきか。確実なことが分かってから知らせるべきか。よし、ここはじっくり取り掛かろう。万が一、えびす不動産の言っていたことがデタラメで、親父さんが亡くなったりしたら、女将はどっかに行ってしまう。俺がそれを抑えられればいいが、見逃してしまう恐れだってある。そしたら全国を駆け回って女将を探さねばならなくなる。時間が掛かる。ここは兄貴にぬか喜びさせるわけにはいかない。今度はショックで再起不能になる危険性だってある。とりあえず、俺は『居酒屋 小料理 涼子』の前で待つことにした。どこかから帰ってくるかもしれない。しかし、その日は夜遅くになっても女将は帰ってこなかった。雨が降ってくる。これが無情の雨って言うんだな。傘もなく俺は立ちすくんだ。雨はどんどん強くなる。なんだか寒気がする。熱っぽいなあ、と感じたのが最後だった。俺も兄貴と同じように気絶した。
誰かが救急車を呼んでくれたらしい。気がつくと菊名記念病院に入院していた。毎度、お世話になります。医師が「あんた、肺炎を起こしていたよ。一週間入院ね」そりゃあ、困る。調査が遅れるし、金だってない。「お金は妙蓮寺のご母堂が支払ってくれたから大丈夫。それに、調査もじきに上手く行くよ」と医師はのん気に言い放った。それにしてもご母堂、どうやって俺の入院を知ったのだろう? そう悩んでいると。「気がつかれました?」と女性の声。起き上がってみてみると、『居酒屋 小料理 涼子』の女将だった。俺は驚いて、熱が上がったらしく、また気絶した。
要するに、こういうことらしい。『居酒屋 小料理 涼子』の女将は最初から兄貴のことを妙蓮寺のご母堂の息子だと知っていたのだ。兄貴って割と有名人なんだな。だから、俺のことも兄貴の子分だって分かっていた。それが雨の中、自分の家の前で倒れている。慌てて救急車を呼ぶと同時に、妙蓮寺のご母堂へつなぎをつけた。商店街の連中なら誰だって妙蓮寺のご母堂の電話番号くらい知っている。お得意様だからだ。こうして連絡はスムーズにつき、俺は安心して入院していられるのだ。あの医師の言ったことは間違っていなかった。女将の父親はもう元気らしい。ただ歳が歳なので店を再開するかはまだ決まっていないという。そして俺は衝撃的なことを知ってしまう。女将の名前は涼子ではないのだそうだ。涼子というのは亡くなった女将の母、つまり、ご亭主の奥さんの名前だそうで、女将は宏恵という名前であった。これは、兄貴の知らないビッグ情報だ。
兄貴が精神的病で寝ている間に、俺と宏恵さんは急速に仲が良くなった。本当はこんなことじゃいけないんだが、俺も男だ。女性に親切にされて嬉しくないわけがない。ここはひとつ、禁断の愛に懸けてみようかと思った。病院の売店で、便箋とペンと封筒を買ってきて、恋文ってやつを書いてみる。俺は学生時代、当然ワルだったから不良娘とハレンチなことはいっぱいやってきた。しかし、真面目に恋をして恋文、いやラブレターなんて書くのは初めてだ。だいたい最後に字を書いたのはいつだ? なんか、緊張して手が震える。汚い字だ。便箋を丸めて捨てる。また書く。今度は漢字が分からない。ひらがなで書いてみる。かっこ悪い。便箋を丸めて捨てる。そんなことしていたら便箋がなくなってしまった。俺はまた病院の売店で便箋を買う。もう、お得意様だぜ。そうやって、便箋を三回買いに走って、ようやく、ラブレターが完成した。よくやった俺。あとは宏恵さんが来るのを待つだけである。来るかな来るかな。残念、今日は来ませんでした。俺は真夜中、ラブレターを読み返した。推敲ってやつである。何度も何度も読み返しているうちに朝になってしまった。今日は来るかな、宏恵さん。面会時間は一時からである。一時になると同時に、宏恵さんが来た。このチャンス、逃すな、ラブレターを渡せと思ったときに、花束を持った、兄貴が冷たい目で俺の上気した顔を見ていた。俺は背中でラブレターを破った。
俺は退院したが、兄貴のことが怖くて、なかなか妙蓮寺の屋敷に帰れなかった。兄貴はたぶん、気付いただろう。宏恵さんに対する俺の甘い恋心を。そして、怒っているに違いない。俺の小さくて大きい裏切りを。そんなこと考えてぼーっと歩いていたら、後ろから声をかけられた。「タカシ、いつウチに戻ってくるんだ?」俺の背中に滝のような汗が流れた。兄貴だ。「あ、お久しぶりですぅ」としらばっくれる俺、額からも汗の雨が降る。「だから、いつ帰ってくるんだ?」兄貴はしつこく言う。帰ったところを半殺しにするつもりだろう。俺は黙っていた。すると「飯は食べているのか?」優しい声で聞く兄貴。騙されちゃあいけない。そうしたら「もしかしてお前、私が怒っているとでも思っているのか?」と兄貴が聞いてくる。「はい、思っています」「はあ? 私がなぜ怒らなくてはならない」「だってえ」その先は死んでも言えない。「私は感謝しているんだ。宏恵さんを探し出してくれて」えっ? そういうことになっているんだ。兄貴の頭の中では。そうならば、強気に出られる。だって俺は恩人なんだからな。「今からお屋敷に戻ろうと思っていました。久しぶりの食事、楽しみだな」「そうか、今日は納豆ご飯だ」なんだよ、変わってないのかよ。「とにかく、帰ろう」兄貴が促した。俺は十日ぶりに屋敷に帰った。
夕食後。兄貴が俺の部屋に来た。「タカシ出掛けるぞ」「はい」俺の胸に恐怖が走った。暗がりで殺られる? そうではなかった。着いた場所は再開した『居酒屋 小料理 涼子』で会った。「いらっしゃいませ。あらタカシさん元気になった?」宏恵が聞く。「ああ、おかげさまで」俺は照れくさくなった。だってこの前、ラブレターを出そうとした相手だもの。「今日も焼き鳥、いつもの頼みます」兄貴は静かに言った。「はい、お待ちを」宏恵が快活に答える。あれ、この感じじゃあ、二人の仲は進展してないな。兄貴、一人では、何にもできないんだから。やっぱり俺がいなきゃだめなんだな。俺は仕掛けをした。「宏恵さん」「なあに?」「宏恵さんって、兄貴の亡くなったお姉さんに瓜二つなんだってさ」
「へえ、そうなんだ。でも坊ちゃんより、あたしの方が年下だよね」宏恵さんに“坊ちゃん”と呼ばれた兄貴の顔が白くなる。この人照れると顔が白くなるんだ。「坊ちゃん、どの辺が似ているんですか?」宏恵さんが質問する「全体的な雰囲気」やっとの思いで兄貴が答える。「じゃあ、あたしのこと“お姉ちゃん”と呼んでもいいですよ」とふざけて言う宏恵。それに対して兄貴は「お姉ちゃんは一人で充分だから」と言って酢モツをつついた。空気が一気に悪くなる。俺は起死回生の一発で「じゃあ、俺のお姉ちゃんになって」軽口を言ったが、宏恵さんは知らん顔して調理場に行ってしまった。焼き鳥が出てくる。兄貴は黙ってそれを齧る。俺は禁酒令が出ているのでウーロン茶を飲みながらお新香をつまんでいた。すると兄貴が突然「誤解しないでくださいね」と宏恵さんの顔を見て言った。「あなたをお姉ちゃんと呼びたくないのは、あなたにお姉ちゃんではない、別の特別な存在になってもらいたいからです」「どんな存在?」「いつも、いつも寄り添ってくれる存在」兄貴! なんてすごいこと言いだしたんだ。俺は感動した。成長したな、兄貴。宏恵さんは「突然のことで戸惑っちゃうな。でもあたしも寄り添える人が欲しい」これは承諾のサインではないか?「まあ、ゆっくり考えてください。私の過去はご存知でしょう。過去は消せないから」静かに語る兄貴。ここはもっと情熱的に行けばいいのに。「過去は消せるわ。忘れればいいんだから。前を見て歩きましょう」宏恵さんは明るく喋った。こう見えて兄貴は興奮していたらしい。焼き鳥を四十本食べ、ビール十本、ホッピーの中身三回。日本酒を五合飲んだ。最後には焼きおにぎり五個とつけそばの大盛りを食べてやっと席を立った。それでも表面上はどこにも変化がないのが兄貴らしい。「こんなに、飲み食いしていただけて、それだけでも頼もしいわ」宏恵さんは本音を漏らした。「そういう関係でもいいです」と兄貴は答えた。
帰り道の途中、俺は兄貴に「すごいことやりましたね。びっくりしましたよ」と言って背中を叩いた。「うん、勢いで言ってしまったが、姉に似ているというだけで、特に好きでもない人にあんなこと言ってしまってよかったのかと自問自答している」兄貴は真剣に悩んでいた。「でも、亡くなったお姉様に似ていて気になると言ったのは兄貴ですよ」俺はちょっと怒った。本当は俺が奪いたいくらいなのに。「でも、彼女は姉ではない」兄貴がポツリと言った。ああ、この人は亡くなったお姉様以外愛せないんだなと悲しい気持ちになった。「じゃあ兄貴、宏恵さんは俺が貰いますよ。俺は彼女を愛しています」俺はやけになってそう言ってしまった。兄貴は驚いたように「そうなのか」と呆然としていた。やがて、「ダメだ、宏恵さんは渡さない」と怒り出した。「そんな、勝手な!」俺が抗議すると「お前のものになると思ったら急に恋しくなった。人を思うというのはこういうものか。この感情をはじめて知った」なんだ、ジェラシーではじめて恋に芽生えるとは。まあ、それでもいい、兄貴に人を愛する感情が芽生えたのなら。
それから兄貴は『居酒屋 小料理 涼子』に日参した。毎日焼き鳥二十本、酢モツ、ホルモン焼き、モツ煮、焼きおにぎりにつけそばを食べ、ビール五本、ホッピー、日本酒を飲んだ。相変わらず、客はいない。俺は宏恵さんに、なんで客がこないのか聞いてしまった。「それがわからないの。値段もリーズナブルだし、味も悪いとは思わないのだけど」宏恵さんも困った顔をした。
「お客がこない。それならそれで構わないじゃないか」と兄貴は暴論を吐いた。「下手に客がいるより、私たちだけなら宏恵さんも私に構ってくれる。客が多かったら、それもままならない」確かにそうだが、なんとも自分本位だ。「お客が来なかったら宏恵さん親子が生活できないじゃありませんか」「その分、私たちが食べて、飲みさえすればいい。お前、アルコール禁止令なんか解いて、酒を飲め。酒は利益率が高い」「二人でいくら飲み食いしてもせいぜい三万くらいですよ。あの店の規模なら二十万は稼がなきゃ」「ならば、私があの店を買い取る。私があの店の経営権を握る」「兄貴に居酒屋経営なんて無理ですよ」「いや、やってみなければ分からない」兄貴は目を輝かさせて言った。
翌日、兄貴は『居酒屋 小料理 涼子』のご主人、つまり宏恵さんのお父さんに「私はここの酒と肴が大好きです。だから投資をしたい。投資をする以上は少し、経営に口を出させて欲しい」と談判した。お父さんは妙蓮寺の古くからの住人だから、兄貴の素性をよく知っている。怒らせたら何をされるか分からない。だから「穏便に願います」といって曖昧な返事をした。それを応だと受け取った兄貴は『えびす不動産』に行って「今の賃料と同じ価格で、商店街に店を貸してくれ」と冷たい目で交渉した。恐怖におののいた『えびす不動産』の社長は駅前の一等地にあった元ナクドナルド跡地を格安の賃料で貸してくれた。次は内装である。これも商店街にある『妙蓮寺リホーム』に冷たい目で相談して、料理人であるお父さんと、ホールを担当する、宏恵さんの意見を参考にして、純和風の素敵な店を作ってしまった。期間わずか一ヶ月である。皆がどれだけ、本気を出した時の兄貴に恐怖を感じたかがわかる。看板は有名な書家、
こうして、新たに『居酒屋 小料理 涼子』が妙蓮寺駅前にオープンした。すると大盛況。連日満員が続き、人手が足りなくなり、俺は『鯨組』の三下で、顔がまともなもの(鬼みたいな顔や、刀傷、刺青が入っていなくてスキンヘッドじゃない、柔和な顔のやつ)を選んで、そいつらと店の手伝いをすることになった。兄貴とはいえば、自分専用の個室をいつの間にか作っており、そこで、毎日飲み食いしていた。しかも、いつの間にかオーナーになっており、ただで飲み食いしていた。店は平日も土日も混み合って、予約を取らなければ入れないようになってしまった。こうなると、病み上がりで高齢の宏恵のお父さんがパンク寸前になる。「よし、代わりの料理人をすぐに見つけるとして、つなぎで私が料理を作ろう」と突然、兄貴が立ち上がった。「調理師免許がないと料理は作れないのよ」と宏恵が叫ぶと「心配ご無用」とばかりに手帳を開いた。そこには五十もの資格の名前が列挙されており、「学生時代に取った資格の一覧です。タカシ、ウチに行って調理師免状持ってきてくれ」と俺に命令する。「はい」俺は屋敷に走った。「今日からは今までやっていなかった刺身も出せるよ。魚屋のトシさんに市場で活きのいいやつ探してもらっているから」兄貴は自信満々に話した。
その日の夜。なぜか客足がぱったりと途絶えた。「どうしたんだ。昨日まで、あんなに混んでいたのに」と兄貴は首を傾げた。理由はすぐに分かった。魚屋のトシさんが「今日からしばらく『居酒屋 小料理 涼子』の料理は妙蓮寺の坊ちゃんが作るんだとさ」と面白おかしく吹聴して回ったからだった。「トシ、あれほど俺が作るとは言うなと念を押しといたのに」兄貴の顔色が青白くなり、目つきは冷たくなっていた。「『鯨組』の若い衆、私に続け!」兄貴は叫ぶとトシさんの店、『魚年』に乱入した。「トシ、お前のおかげで、私は男を下げた。見ていろよ」そう言うと、兄貴は『魚年』にあった魚を全部見事な刺身にしてしまった。「奥さん、今日は煮魚、焼き魚はできないよ。私がみんな刺身にしてやった。本当はトシの野郎も刺身にしたいところだが仮出所の身なんで我慢しておく」兄貴はそう言うと、店に帰ってきた。三下はただの脅し役だったようだ。それから、数分もしないうちに、客足が伸びてきた。皆、刺身の盛り合わせを頼む。『魚年』で兄貴が見せた包丁さばきの見事さは筆舌に尽くしがたいほどだったという。
程なくして、兄貴は『居酒屋 小料理 涼子』のオーナーをやめた。理由は「店が軌道に乗ってきた。新しい板前も来たし、バイトも揃った。私がいる必要ないだろう」というものだった。
「料理上手のあなたに見せるの恥ずかしいけれど、お弁当作ってきたの。よかったら食べてみて」宏恵が恥ずかしそうに言う。「いただくよ」兄貴が手を出す。お弁当はおにぎりだった。ここは岸根公園。二人の初めてのデートだった。「素朴で美味しいよ」兄貴は二つ目に手を出す。「君も食べないと、私が全部食べてしまいますよ」兄貴がからかうと「大丈夫。大食らいのあなたに合わせて、百個作ってきたから」と宏恵は真剣な表情でリュックサックをテーブルに持ち上げた。「よいしょ」ドスンと音がする。おにぎり一個百グラムとして百個で約十キロか。「これは食べ応えがありますね」兄貴は大喜びだ。「ところでウチのオーナーをやめて今は何をしているの?」宏恵が聞く。「読書です。今は『大菩薩峠』の慢心和尚が出てくるところを読んでいます」「慢心和尚?」「そうです」「あとは何をしているの?」「朝のジョギングと木刀振り。新聞のスクラップと読書。そんな感じです」「それだけ?」「そう。私が本気を出しちゃうと周りに迷惑が掛かるようなので、なるべく静かに生きています。刑期終了まで、あとわずかですしね」「あなたって不思議な人ね。スケールは大きいのに、やることは豆粒みたい」「ハハハ、褒め言葉と捉えましょう」「ところで、これからどこ行く?」
「さあ、考えもしませんでした。岸根公園が最終地点だと思いましたから」「そう」「ええ、でもとりあえずあと三十七個残ったおにぎりを食べてしまわないといけません。おにぎりは、足が早いから」そう言いながら兄貴はおにぎりをぱくついた。
その話をあとで聞いた俺は、珍しく兄貴に怒ったね。岸根公園からどこに行く? て聞かれたら新横浜のホテル街に決まっているじゃないか。兄貴は宏恵さんに恥をかかせたんだ。そのことを指摘すると、「ああ、そういう意味だったのか。もったいないことをした」とのん気な声を出す。ああ、やっぱり、殺されても宏恵さんを略奪するのだったと、俺は思った。
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