兄貴。
よろしくま・ぺこり
兄貴とタカシ
兄貴が元やくざで、傷害致死傷の実刑を食らっていることくらい近所のみなさんはみんな知っている。けれど、この町の人は優しい。それを分かってて、受け入れてくれる。兄貴も町の安全のために働く。たぶん兄貴の人柄が町に溶け込めているのがその理由だと言えるだろう。
横浜、真金町のやくざ、『鯨組』の組長、碇谷長一がくも膜下出血で急死したのは三年前の二月だった。昔ながらの「弱きを助け、強きをくじく」いい組長だった。兄貴は可愛がられ、その薫陶を受けた。だから次の組長に兄貴を推す声もあった。だけど兄貴は自ら遠慮して、身を引いた。兄貴の上には兄貴が尊敬する若頭、花札満がいたからだ。当然、誰もが花札が次期組長になると思っていた。しかし蓋を開けると、組で唯一の経済やくざ、
兄貴は長年住んだ真金町を離れて、ご母堂の住む、東急東横線の妙蓮寺に引っ越すことになった。この二年間、主なき部屋は、『鯨組』の三下が掃除したり、空気の入れ替えをしたりしていたんだ。家賃は花札組長が出していた。もちろん俺も一緒に引越しである。俺は物を持つのが嫌いで、荷物が少なかったので、リュックと大きめのボストンバックでことは足りた。でも俺は兄貴の引っ越しはたいへんだった。兄貴はこう見えて、大学出のインテリやくざだった。どうして、組に入ったかというと、大学の文学部にいた兄貴が卒論に『文学とやくざ』という、とんでもないタイトルを考えつき、フィールドワークで『鯨組』に来たことが発端である。亡くなった、碇谷組長は、まずやくざにフィールドワークで来る兄貴の度胸に惚れた。次に兄貴が碇谷前組長に「噂で聞いたのですが、こちらの組は暴力団とは違う、義理と人情を重んじる、任侠という言葉を聞いて感動し、こちらにお世話になることに決めました」と語ったことが碇谷の胸にドキュンと突き刺さった。「学生さんよ。お前さん卒業後はどうなさるおつもりで?」碇谷が聞く。「卒論の題からしてわかるように、私はアウトローです。まともな就職は出来ません。教職の免許を取って、中学か高校の国語の教師になろうかと思っていますが、地縁、血縁のない私にはそれも難しい。結局はフリーのライターになるしか道はないでしょう」兄貴は答えたという。「もしも、もしもの話だよ。わしの所に来て、一緒に任侠の道を進むっていうのはどうだい? あんたは学生さんにしておくにはもったいない、度量を持っている。クスリや暴力に頼らず、地元の皆様に愛される博徒になれる」これにはさすがの兄貴も驚いて、「ありがたいお言葉ですが、こればっかりは一人では決められません。友人、知人に、それから母に相談してみませんと」と言葉を濁した。「そうかい、うん、そうだな。ゆっくり決めてくれ。ただ、わしは学生さんに惚れちまってよ」「ありがとうございます」その場はそれで終わったらしい。碇谷前組長も「前途ある学生さんをやくざの道に誘うなんてバカなことをした」と反省していたらしい。けれど三日後、兄貴は碇谷前組長に「よろしくお世話になりたいと思います」と盃を交わしてしまった。たぶん、大学で何かがあったのだとみんなに言われていることである。しかし、兄貴はそのことを誰にも言わなかった。碇谷前組長にもである。黙って盃を交わし、『鯨組』の子分になった。子分と言っても俺みたいな三下から代貸までやくざには厳しい上下関係がある。碇谷前組長は兄貴を若頭補佐に抜擢をした。そして、同じインテリやくざの鐘猛気ではなく、度胸一番の花札満の下に付けた。花札は最初、兄貴を異分子として嫌っていたらしい。全くもって無視することにした。同じ席に座っていながら、全く喋らないのは苦しい。花札は他の子分衆とは会話をするから問題はないけれど、兄貴は孤独だ。ところが、兄貴は孤独に強い性格らしく、それこそ仏像のアルカイックスマイルを浮かべて一日中席に座っていたという。それが一ヶ月続いた。先に参ってしまったのはなんと花札の方だった。「おい、飯でも食いに行こう」と兄貴を誘うと「はい」と言って兄貴はにっこり笑ったそうだ。食事の席で花札は「お前、精神的にタフだな」というと、兄貴は「私は少し、鈍い人間のようです」と答えた。それから話しているうち、兄貴が空手と、キックボクシングをやっていること。ご母堂の亡くなった旦那さんも東京でやくざをやっていたことがわかった。「そうか、お前にはやくざの血が流れていたのか」花札が感慨深そうに言うと、兄貴は「いえ、私は母の連れ子で、実の父は警察官だったそうです」と答え、花札は汁物を吹き出しそうになったらしい。以後、花札は兄貴を優秀な部下として扱うようになり、それは歳の離れた友情に近いものにまで昇華した。
話がかなりそれた。兄貴の引っ越しである。基本的に兄貴の部屋の荷物は少ない。兄貴は物欲が少ないようである。あるものを除いては。それは本と雑誌である。部屋の半分を占めている。「兄貴、これ全部持っていくんですか?」と俺が聞くと「当たり前だ」と返事があった。「大事に扱うんだぞ」と俺と、手伝いに来た三下に言う。俺たち三下は相談した。「大事に扱うったって、古本に古雑誌だろ。すぐ破けちゃうよ」三下の国母がぼやいた。「何かに包めばいいんじゃないか?」同じく三下の高梨が提案する。「それじゃあ、時間がいくらあっても足りない。大事に扱う“気持ち”を持っていればいいんじゃないか」と俺は思ったことを言った。「そうだな」みんな賛同した。だから俺たちは“大事に扱う気持ち”を持って、普通にトラックに本屋や雑誌を運んだ。兄貴はそれを見ていたが、何も言わなかった。たぶん、思いが通じたのだろう。本と雑誌を運び終えれば、あとはちゃぶ台となぜか鏡台が一台あった。後の細々としたものは段ボールに詰め込んで運んだ。
妙蓮寺のご母堂の家は立派なお屋敷だった。亡くなったご母堂のご主人は、東京のやくざ、『大門組』の代貸をしていたらしい。その上、相場師も兼任して、株で一財産作り上げた人らしい。前にも話したが、兄貴とそのお方には血縁関係はない。義理の父親だ。ご母堂は今年七十を迎えられるそうだが、かくしゃくとしていて、俺たちの引越しの荷物を屋敷に入れる作業の手際が悪いと「これ、もたもたするな」と箒で尻を叩いてくる。もちろん高齢だし、本気を出して叩いてはいないので、別に痛くはないんだけど、大の大人が、ばあさんにケツを叩かれるのは恥ずかしい。ことに俺は恥ずかしい。だから俺たち三下は必死の思いで兄貴の荷物を部屋にぶち込んだんだ。「おお、ご苦労さん。あとは俺がやるから」兄貴が俺たちをねぎらった。優しい面立ちだった。やくざ時代はやっぱり怖い印象が強かったが、こうしてみると、いい顔だし、スタイルもいい。それでいてどしっとした安定感を感じるのは、万事に落ち着いているからだろう。
「さあ、疲れただろう。食事を摂りなさい」とばあさん、いや失礼、ご母堂が手料理を三下の俺たちに振舞ってくれる。年寄りの料理だから口に合うかな? と思ったが、心配ご無用。大盛りのペペロンチーノにマルゲリータピザ、サラダはシーザーサラダだ。この年で、こんな料理を作れるなんて、たいしたご母堂だ。俺は感心したよ。
食事が済むと国母と高梨はトラックで帰って行った。すると兄貴が「タカシ、風呂でも入れや。背中くらい流してやる」と言ってきた。「滅相も無い。一番風呂は兄貴がどうぞ」と俺は返した。「そうか」それだけ言うと兄貴は風呂に入った。俺は「ご母堂、俺は汚れてきたないから、兄貴の次に、風呂に入ってください。俺が最後に入って、ついでに風呂掃除しときます」とご母堂に伝えた。すると「いけません。あなたは、息子のいわば書生さんです。ウチのお手伝いじゃありません。風呂掃除は女の仕事です。あなたが二番目に入りなさい」とピシャリと言われてしまった。「書生さんって古い言葉ですよね」と思わず俺が漏らしてしまうと、「だって、他にいい言葉が見つからなかったのだもん」とご母堂、急に甘えた声を出した。そう言われてみると、俺は一体なんなんだ? 悩んでいると、風呂から出てきた兄貴が「付け人、これじゃ相撲だな。マネージャー、私は芸能人じゃない。いい言葉がないな。タカシはタカシでいいんじゃないか? 仕事名、タカシ」ハハハと笑うと兄貴は冷蔵庫から牛乳を出して飲んだ。パックのままである。「こら、はしたない真似をして」とご母堂が起こる。「だって、ちょうど飲みきれる量だったんだ。グラスがもったいない」兄貴は小さくなってご母堂に言い訳した。その弱弱しい姿を、『鯨組』のもんが見たらどう思うだろう。それを考えると、俺は笑いが止まらなかった。すると兄貴が「タカシ」と冷たい声で呼んだ。俺は震えがきた。怒った時の兄貴の声だ。「兄貴、勘弁してください」と叫んで俺は自分の部屋に逃げ込んだ。兄貴は特に追いかけてはこなかった。良かったあ。
夕食は質素だった。白米に、ネギと油揚げの味噌汁。鯵の開きの干物。香の物。こういうのを一汁一菜というのだろうか。「飯と味噌汁はたんとある。遠慮しなさんな」とご母堂が言う。どこの方言だろう? 俺はご母堂に「出身はどこですか?」と尋ねた。するとご母堂は「生まれも育ちも横浜よ。チャキチャキのハマっ子よ」と啖呵を切られてしまった。その間兄貴は黙々と食事をしていた。
その日はいろいろと疲れてしまって十時には眠くなってしまった。「兄貴、すみません。もう寝ていいですか?」と俺が聞くと「ああ」と短い返事。それでもOKは頂いたんだ、自分の部屋に戻ってとっとと寝た。後で考えれば寝ておいて良かった。
兄貴の家の朝は異常に早かった。朝の五時に「トントントントン」と包丁でネギを切る音が響き渡る。こんなに広い屋敷なのに、なんで響き渡る? そう考えていると、扉がノックもなしに開いて、兄貴が「ジョギングに行くけど付いてくるか?」と聞く。こりゃあ、きっと命令だ、と思った俺はジャージをボストンバッグから取り出し「お伴します」と寝ぼけ眼で兄貴についていく。兄貴は快速だ。ご町内をスイスイ走っていく。だが、俺だって“ネズミ”のタカシと異名を持つ男だ。平気の平左でついていく。そしたら兄貴、朝だっていうのに二十キロも走りやがった……いや失礼、お走りになられた。これはもはやジョギングではない。ハーフマラソンである。屋敷に帰り着くと、兄貴は庭の井戸の水をすくい、頭からかぶった。火照った体に気持ち良さそうである。俺も早速やってみる。ああ、生き返る。
そのあと兄貴は木刀を千回、素振りした。俺も真似してやってみたが三百回くらいから腕の感覚が麻痺してきた。「タカシ、無理するな。素人は五百回でやめとけ」と兄貴が忠告してくる。えっ? あと二百回もやるの。気が遠くなる俺だった。
木刀振りが終わると朝食だ。俺は食卓にデジャ・ヴーを見た。白米に、ネギと油揚げの味噌汁。鯵の開きの干物に香の物。昨日の夕飯と同じものだった。兄貴はそれを黙々と食べる。俺は申し訳ないことに箸が止まってしまった。「どうしたかの? お食べ」とご母堂に言われて箸を進める。食事中に喋るのは失礼だが、俺はご母堂に尋ねた。「食事は三度ともこのメニューですか?」するとご母堂は「そうじゃ。息子が好きなものでな」と答えた。犯人は兄貴だったのだ。自分の好きな物を毎日食べる。子供だ! 全く。俺は呆れてしまった。俺は兄貴といる限り、白米とネギと油揚げの味噌汁に鯵の開きの干物に香の物仕しか食べられないのか! と軽く悲嘆にくれた。その時ご母堂は「安心をし。息子は或る日突然、好みが変わるから。だいたい三週間も同じ食事が続くと飽きて、違う料理を所望するからの」と笑って言った。そうなんだ! 三週間我慢すれば違う食事にありつけるんだ。俺は意味もなく感動した。本当に、意味もない!
朝食が終わると、兄貴は新聞を読む。一紙ではなく、たくさん読む。その内訳は夕日新聞、闇雲新聞、毎毎新聞、算計新聞に、地元の横浜新聞、スポーツ新聞のスポーツジャパンである。五大紙のうち、東京経済新聞は読まない。スポーツ紙は一紙のみである。俺は兄貴に「なんで、そんなに新聞を読むんですか? 書いてあることは一緒ですよね」と聞いた。すると「タカシ、新聞は発行元によって、論調、もっと言えば主義主張が違う。どれが正しいかを見るには全部読むしかないんだ」と兄貴は答えた。「じゃあなんでスポーツ紙は一紙だけなんですか?」の問いには「スポーツジャパンが一番、横浜マリンズの情報が載っている」と答えた。スポーツ紙は偏っていてもいいんだ。「東京経済新聞を読まない理由はなんですか?」「ああ、私は株とか投資には興味がないんだ。それに勤め人じゃないから最新の経済情報も入らないな」義理の父は投資で成功したというのに。やはり、血が違うと興味も別のところに行くのだろうか。それともたまたまなのだろうか? 人の人生、全てたまたまのような気がしてならなかった。
新聞を六紙も読むとなると時間を費やす。途中、朝ドラやワイドショーを片目で見ながら、真剣に新聞を読む。俺は兄貴の読んだ新聞をパラパラっとめくりながら時を過ごす。兄貴は重要だと思った記事はコピーして(この家にはコピー機があるのだ!)スクラップブックに丁寧に貼る。その内容は一定しておらず、兄貴が何を基準にスクラップしているのか、俺には分からない。兄貴が新聞を読み終わる頃にはもう、昼ご飯の時間だ。そう、白米にネギと油揚げの味噌汁に、鯵の開きの干物に香の物である。飽きる。正直飽きる。でも贅沢を言わなければ、味は美味い。美味いは美味いんだけど、やっぱり飽きる。ご母堂には引越しの日のようなイタリアンを作って欲しいが、それを言うことは不可能だ。兄貴を怒らしたらいけない。この世の地獄が待っている。大の男一人を素手で殺した男だ。俺なんて秒殺であの世に行くだろう。ああ、あの世にネギと油揚げの味噌汁に鯵の開きの干物に香の物がないことを祈る。俺が熱心にお祈りしていると、兄貴が「散歩に行く」と言ってきた。当然、おともする。兄貴が散歩するのは、まず、本屋を覗くためだ。最近は町の商店街から本屋さんがどんどん消えているそうだが、妙蓮寺には奇跡的に本屋が残っている。頑張ってほしい。兄貴はそこに入って何冊かの文庫本を買った。タイトルは俺に見せてくれない。「見せてくださいよ」と言うと「タカシ、読書ってのはな、食事したり、トイレ入ったりセックスしているということと同じ、人間の欲だ。はしたないものなんだ。おいそれと人に見せるもんじゃない」ご高説ごもっとも。でも俺がヒマしていると「これでも読んでみな」ってミステリー小説を手渡してくれるのはなんなんだ。おいそれと見せていいのか? と俺は思う。でも俺は読書なんて嫌いだけど、兄貴の貸してくれる本は面白い。『葉桜の季節に君を想うということ』なんて、たまげてページを戻したし、『イニシエーションラブ』なんて、最初、オチがわからなくて、兄貴に聞いて、説明を受けているうちに鳥肌が立った。えっ? 読みたいから作者を教えろって? 馬鹿言っちゃいけねえ、俺が作者を覚えているわけないじゃん。
本屋を出ると、兄貴は激安スーパーに行く。おさんどんの食材は、ご母堂が選りに選った、特級品をお取り寄せしているのだが、兄貴には不満がある。ご母堂の食材には「甘味」が少ないのである。それを自分で補充するのである。「タカシ、カートとカゴ二つ持ってきてくれ」兄貴が俺に頼む。「はい」俺は素早くそれらを準備する。カゴが来るやいなや、兄貴はミニチョコレートデニッシュとミニカスタードクリームデニッシュを店にあるだけ買い占める。「よし、次だ」兄貴は製菓コーナーに行き、ブルボンのルマンドファミリーパックを十個、アルフォートFSを十個カゴに入れた。今日はブルボンの製品が重なってしまったが、これは兄貴の今のお気に入りなのだから他社さんは辛抱してください。兄貴はいつ、嗜好が変わるか分からないので、メーカーさんも努力して、兄貴を唸らす、新製品を出してください。俺からのお願いです。
「どうでもいいですけど兄貴こんなに甘い物食べて太らないんですか?」「馬鹿、そのために朝、走ったり、木刀を振ったりしているんじゃないか」「ああ、愚問でした」そうか、兄貴は甘いものが食べたい。そのためだけに、過酷なトレーニングをしているのか。トレーニングに付き合うのがちょっとバカバカしくなった。
夕食のメニューが変わった。三週間経ったのだ。チャーハンに豚骨ラーメン。杏仁豆腐のデザートが付いていた。やったー、美味しそう。チャーハンを口に入れて考えた。このメニューがこれから三週間、朝、昼、晩と続くのだ。早めに胃薬の用意をしたほうが良いだろう。胃薬は消化を助けるほうがいい。太田胃散Aがいいだろうか? 大正漢方胃腸薬がいいだろうか? 思案のしどころだ。ええいっ、両方買ってしまえ。これだったら前の食事のほうが健康的で良かったな。チャーハンを食べながら俺は思った。
兄貴といえば、食事が済むと、部屋で読書をするのが定番なんだが、今日は違った。「タカシ、ちょっと出る」無愛想に俺の部屋を覗くとそう言って、俺の返事も待たずに、外に出て行ってしまう。俺は慌てて追いついた。兄貴になんかあったら、指詰めものだ。しばらく歩くと、商店街から少し外れたところに、ポツンと赤提灯が灯っていた。『居酒屋 小料理 涼子』と書いてある。古臭い感じの店だ。俺一人では絶対入らない。だけど、兄貴は平然と暖簾をくぐる。「いらっしゃいませ……あなたは!」「あの時の誘いに乗ってきてしまいました」「嬉しいわ。あの時はありがとうございました。古い店ですが、掃除はきちんとしています。どうぞカウンター席に」俺にはあの時、あの時で何のことかさっぱり分からない。だが、これだけは言える。女将は若くて美人だ。すこぶるつきのってやつだ。「あの時は、まともにお礼も出来ず申し訳ございませんでした」「いや、たまたま通りかかっただけのこと。そして私が空手をちょっとかじっていただけのこと」俺は我慢ならなくなって聞いた。「いったいいつ、どこで、何があったんですか?」
「ああ、あれは二十日前だったかな。お前が、腐ったネギに当たって、寝込んだ日があったろう?」「はい、ひどい目に遭いました。兄貴とご母堂が平然としているのが恨めしかったです」「それはさて置き、私はお前がいないので、一人、夜の散歩とかこつけた。そして、菊名池公園を歩いていたところで、女性の悲鳴を聞いた。場所は近くだ。私は走った」「その悲鳴はあたしです。料金を支払わずに店を出た、酔客を追っかけていたら。突然、反撃を受け、犯されそうになりました」「そこに現れたのが私というわけだ。古いメロドラマにあるような展開だな。俺は酔客を軽くぶん殴り、お会計をさせた」「あたしは動揺しちゃって、あなたに店のマッチを渡して、落ち着いたら寄ってくださいと言った」「だから今日、来たのですよ。あなたもだいぶ落ち着いただろう」「ええ、伊達に女将はやっていません」「これは頼もしい」兄貴は笑った。俺にもようやく得心がいった。要するに兄貴が女将のピンチを助けたということだな。「どうぞ、今日は奢りますから、好きなものを」「奢られるいわれはありません。ただ自分が好きなものをいただきます。うん、焼き鳥が充実していますね。まずはビール二つ、タカシビールでいいな」「はい」「それから、焼き鳥をタレで、モモ、ネギマ、ハツ、カワ、ぼんじり、せせり、ハラミ、食道、砂肝、つくね。つくねにはなんこつは入っていなすか?」「いいえ」「それは素晴らしい。私の好みだ。タカシ、君も頼みなさい」「兄貴、チャーハンにとんこつラーメンを食べてお腹いっぱいですよ」「若いのに情けない。じゃあ、ビールでも飲んでなさい」「俺、アルコール弱いんですよ」「じゃあ、次はウーロン茶だな」
客が他に一人もいないので、焼き鳥はすぐ来た。十本も食べるとは、兄貴の胃袋はおかしいんじゃないかと思った。しかし、串一本を一息に食べてしまう光景を見て、この人は大食らいなんだ。とやっと気がついた。「この焼き鳥は美味い。どなたが焼いているのですか?」「父です」「おかわりしていいですか?」
「はい」「カワ、ぼんじり、せせり、食道二本。全部タレで」俺は焼き鳥は塩派だ。だからタレで食べる兄貴をお子ちゃまだと思った。すると、それを素早く察した兄貴は「焼き鳥をタレで食べる、私を子供あつかいの目で見たね?」「い、いいえ。とんでも無い」「近頃の日本人は通ぶって、すぐ焼き鳥を塩で食べようとするが、それは間違いだ。焼き鳥のタレには店の汗と涙と努力が詰まっている。だから私は誰がなんと言おうとタレで食べる」こんな饒舌な兄貴は初めてだった。もしかして食に対する執着心は恐ろしいものを持っているかもしれない。じゃあ、ウチでは何で同じものしか食べないのだろう。
「ああ、お腹いっぱいになりました。御勘定を」兄貴が言うと、「今日は結構ですよ」と女将が言う。「いや、そうすると、次に来にくくなります。どうか払わせてください」「ではお言葉に甘えて、一万円です」「えっ?」「だって、お連れ様、ビール十二杯飲まれたんですよ」「タカシ、お前、アルコールに弱いんじゃなかったのか?」「今夜、アルコールに目覚めたみたいです」兄貴はずっこけた。
その帰り道、「兄貴、女将に惚れましたね?」俺が言うと。「残念だったな。俺はホモだ。お前のことが好きだ」といって追いかけてくる。恐怖だ。逃げまくるも俊足の兄貴に捕まる。「お、俺はノーマルです。勘弁してください!」泣いて助けを求める俺。「ハハハハ、冗談に決まっているだろ。だがな、タカシ」
「実を言うと、俺には恋愛感情ってやつがないんだ。生まれてこのかた女性を、もちろん男性も好きになったことがない」「ええっ?」「病院にも行ったことがある。そうしたら、先生は『とりあえず誰かを好きになってみなさい。仮面でもいい。やがてそこから人を愛する感情が生まれてくるかもしれない』って言った。私は、それは無責任だと思った。相手の方に。だから、今まで、人と付き合うのを避けてきた。だが、あの女将、出会いから運命を感じる。お付き合いを申し込もうか、今とても悩んでいる」「はい、どうぞ。と勧めたいところですが、ご病気のことを聞くと、慎重にならざるをえませんね」「そうなんだよ」「とりあえず、あの店の常連になって、お友達になるっていうのはどうですか」「良い案だ。でも毎回、御勘定が一万円では……」「もう、そんなに飲みませんから」「本当だな」兄貴は急に冷たい目をしていった。俺は調子に乗っていた。この人の恐ろしさを忘れていた。「まあとにかく、あの店の常連になろう。失敗しても良いや。あそこの焼き鳥は美味い」「良い店が見つかってよかったですね」「そうだな」
千鳥足で歩く、俺と兄貴。だらだらと家路に着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます