後日談:令夫人は燕尾服がお好き
※本編のおまけ後日談になります。ネタバレになりますので、未読の方はご注意ください。コメディ。
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ロンドン一の繁華街である、ピカデリーサーカス界隈。さわやかな夏の今宵、ある邸宅で文芸サロンが催されていた。
――人気作家ジェラード・エグルストンの新作を出版する権利が欲しい!
広間には出版社の社長夫妻を始め、劇場興行主、大衆紙の記者、エグルストン氏のファンである貴族たちが集っていた。さながら、王に臣下が集まるごとくの光景である。
広間の壁際のソファには、ひとりの紳士が座っており、愛想笑いを浮かべた紳士と淑女がこれでもか、とおべっかを披露する。
「ぜひ、わが社に出版の権利を。一年間、遊び暮らせるだけの原稿料をお出ししますから」
「いえいえ、わが社は豪華客船の世界旅行をご用意いたします。ぜひ、ご検討を」
「すでに新作をお書きになられた、とおききしました。銀行の貸金庫にお預けだとか」
「エグルストン先生の小説は、もちろん劇場化の予定です。お好きな俳優をご指名ください。予算に糸目をつけず最高の舞台をご用意いたします」
眼鏡をかけたエグルストン氏は頬杖をついたまま、目を閉じている。うなずくだけで何も答えない。退屈そうにあくびをし、しまいにはうたた寝を始めてしまった。
交渉をしていた社長たちは焦る。さらに原稿料を上げると言って、興味をひこうとする。やはりエグルストン氏は答えない。
周囲がやきもきしながら、一時間がすぎたころ。
「さあ、みなさま。今夜はここでお開きにいたします」
燕尾服姿の若い紳士が手を叩き、交渉の終わりを告げた。
「次回のサロンまでごきげんよう」
痺れを切らした、ひとりの社長が反発する。
「おい、きみ。それが招待するがわの接客態度か? 私はな、はるばるニューヨークから外洋を越えてやってきたんだ。なのにたった一時間。しかも先生はひと言もしゃべらず、やっていられん。売れているからといい気になるな!」
燕尾服の彼は平然と、怒りで顔を紅潮させた社長に言った。
「かしこまりました。では、このお話はなかったことにいたします。お達者で」
「二度と来るか!」
しかし事情を知っているほかの客は、ニューヨークの客に賛同しない。彼はエグルストン氏の交渉に負けてしまったのだ。
反応のない作家先生に客たちはやきもきするのだが、いつものことだった。そうやってじらし続け、最後まで粘った一、二社と交渉をする。それがエグルストン氏のやり方だ。
そしてそんな作家先生を補佐している秘書――燕尾服姿の人物に、親しく声をかける貴婦人がいた。
「あら、エグルストン夫人。お仕事ごくろうさま」
「ごきげんよう、ジェファーソン男爵夫人。今夜もおきれいですね」
「うふふ。あなたにお見せしたくて新調したドレスですのよ。どうかしら」
と、うら若い男爵夫人は、薄紅色の裾を広げた。ふわり、とふくらんだスカートが愛らしい。
「とてもお似合いです」
「ま、うれしい!」
エグルストン夫人は男爵夫人に腕を取られ、なかば強引に広間を出される。連れて行かれた先は、女性客だけのお茶会だった。サロンが終わると客間に集い、女同士で感想を言い合うのが習わしだ。
黄色い声があがる。エグルストン夫人は令夫人たち憧れの存在だった。争うように、着飾った淑女たちが群がる。紅茶のカップを持たせ、焼き菓子をすすめ、断ろうとする燕尾服姿の夫人に向かって、令夫人たちは親しく話しかけた。
「ドレスはおきらい?」
「いえ……そういうわけでは」
「どうして殿がたの格好をなさってるのかしら」
「秘書として交渉をするためですよ。ほら、世の中、相手がご婦人というだけで、交渉を拒む社長もいますしね」
「まあ、そんないじわるなこと、わたしの夫はなさらないわ。だから契約は、ぜひわがジョーダン出版社になさらない?」
「いいえ、ジョーダンさんのところはおよしになったほうがいいですわ。だって、挿絵が人気ないですもの」
「なんですって? 挿絵より内容で勝負をしているんですのよ。一流のイラストレーターに頼むと、本がとってもお高くなってしまうんですもの。これも商売よ、商売」
「それをエグルストン夫人の前でおっしゃるつもり? まあ、お下品ね」
「お仕事の話はなし、というお約束を忘れたのかしら。そちらのほうがお下品だわ」
社長夫人同士のいさかいを、ジェファーソン男爵夫人が呆れた口調で止める。
「……まあ、まあ。エグルストン先生は気まぐれだから。それより、わたし、もっとエグルストン夫人のことを知りたいの。初めてお見かけしたときから、ときめきが止まらなくて。みなさんはどうかしら?」
妖艶なまなざしを含ませながら、男爵夫人は扇子を広げ、そっと口元にあてる。
「まあ、わたしもよ。奇遇ね」
「そうなの? わたしも先生のサロンがとても楽しみなの。だって夫人が素敵だから」
「じゃあわたしたち、同じ志を持ってらしたのね。うふふ……」
エグルストン夫人こと、サンドラは嫌な予感がして、すぐさま女たちの集いから逃れようとする。カップをテーブルに置き、立ち上がった。
「私はまだ打ち合わせがあるから。ごきげんよう、レディたち」
「仲良くしましょうよ。わたしたち、お友だちでなくて?」
ジェファーソン男爵夫人の言葉を合図に、令夫人たちがどっとサンドラを捕まえる。そしてソファに押しもどすと、ぺたぺたと顔に触れる。
「ちょ、ちょっと! 何をするんですかっ!」
「いいじゃない。女同士ですもの。遠慮はいりませんわ」
「そういう問題じゃ……」
「うふふ。わたしね、好きな御仁と結婚してみたかったのよ。二回り年上の夫もいいけど、あなたのような謎めいた紳士が素敵……」
男爵夫人はうっとりした表情で、サンドラの髪の毛に触れる。そして頬へ、唇――。
「その前に女同士じゃないですか。そういうのはありえません」
「女同士だからいいのよ。浮気にならないんですもの」
「ええーっ! そういう展開ってあり?」
社長夫人たちが「抜けがけはいけませんわ」と、なぜか男爵夫人をたしなめる。それはどういう意味なのか、考えただけでサンドラは目眩を覚えた。
「ねえ、エグルストン先生といるときはどんな格好をなさってるの?」
ジョーダン夫人が興味津々にそう言った。
「ふつうですよ、ふつう……」
「夜はネグリジェですの?」
「ええ、まあ、はい……」
面倒なので適当に返事をしたら、女たちの瞳が輝く。
「見てみたいわ、あなたのネグリジェ姿! ああ、だってわたし、燕尾服の夫人しか知らないんですもの」
「そうね、ジョーダン夫人。今度、デパートに買いに行きましょうよ。エグルストン夫人に似合うかわいいのをプレゼントするの」
「わたしも仲間に入れてくださらない」
「もちろんよ。あ、サイズを測らないといけませんわね」
「今、ここで脱いでもらいましょうよ。女同士だから問題ないわ」
令夫人たちの目は本気だ。男装夫人の裸を見たくてたまらないらしい。
――怖すぎる!
「や、やめてください。ネグリジェは間に合ってますからっ!」
女たちの結束は固く、連携は見事だった。支線を交わしただけで役割分担を決め、サンドラを捕まえる者と、燕尾服を脱がす者に分かれる。多勢に無勢。しかも相手がご婦人だから手荒な反抗はできない。
困ったサンドラは、大声で居間にいる夫へ助けを求める。
「アレックス! ねえ、アレックス! ぼけっとしてないで、仲介しろよっ!」
数日後。女性誌の社交記事は、エグルストン夫妻の話題でもちきりだった。夫に抱きかかえられた、燕尾服姿の男装夫人。そしてその場で愛を誓う口づけ。新作を売り出すため奔走する妻に、夫がいたく感激した、というストーリーだ。
そのようすが詳細に書かれ、誇張され、イラストが描かれ、背景は大輪の薔薇が咲き乱れていた。まるでロマンス小説のような夫妻の姿に、女性読者たちは嘆息をもらす。
その記事を読んだサンドラは、激しく後悔した。
「……これじゃまるで、おバカ夫婦ぶりを披露しただけじゃないか」
大衆紙はあることないことを書いては、売るのが定番である。恥ずかしさよりおかしさが勝ったのだろう。アレックスはしてやられたと、感心する。
「きみを抱きかかえて、お茶会を出ただけなのになあ。記者連中の妄想にはまいるよ」
「笑いごとじゃない。変な目立ちかたをしたら、エグルストンの新作に影響するじゃないか。今回は醜聞にならずにすんだから、ほっとしたけどさ」
「いいじゃないか。ほら、ロマンを売るのが僕の仕事だし。読者に夢を与えられてよかったよ」
「まったくもう。ひとがいいんだから、アレックスは……」
サンドラは不愉快だったのだが、夫が怒ってないから水に流すことにした。その代わり、次回のサロンは令夫人らしく、イヴニングドレスを着ると決める。
その夜も、ピカデリーサーカス界隈でサロンを開催した。令夫人たちはドレス姿のサンドラを見て幻滅する。あくまでも男装のサンドラを求めていたらしい。ただの夫人では交流する楽しさがない。今夜はおとなしくあいさつだけで終わった。
いっぽう、ジェラード・エグルストン氏と交渉をする客のなかに新顔がいた。社長連中のなかでもっとも背が高く、体型ががっしりしている。顔は若そうだが頭髪が上半分ないため、すでに中年なのだろう。
ソファに座ったまま、興味なさげに紳士たちの話を聞くアレックス。その新顔紳士は唐突に――しかし遠慮なく言った。
「驚いたな。やはりきみか。ずいぶんと出世したもんだ。従者をしていたときは、ただの平凡な男と思っていたが……」
うたた寝をしていたアレックスの目が、ぱちりと開く。そしてまじまじと相手を見つめた。
「お知り合いのようですが。はて、どなたでしたかな?」
「かつてのライバルだ。ほら、あなたの妻を奪い合った」
「へ?」
その光景を見ていたサンドラは、はっとした。
髪の毛を失い、太ってしまったが、その口調と声。琥珀色の瞳に整った目鼻立ちは……。
「ブランドン・リスター?」
紳士はサンドラを見るなり、破顔する。
「何年ぶりかな、サンドラ嬢――いや、エグルストン夫人。名前を変えていたから、今朝までわからなかったよ。妻が読んでいた女性誌に、男装令夫人の記事あってね。まさか、と思ってお会いしてみたら」
「そ、そうだったのか……。エグルストンはペンネームで。それにしても、きみ、すっかり」
――別人のように老けたな。
と、サンドラは言いかけた。美男子で知られていたリスターだったが、彼は歳を取るのがとても速かったらしい。
アレックスが肩を小刻みに揺らす。こらえきれないように、腹を抱えて爆笑した。
「く、苦しい……。僕の記憶のなかの、ライバルが……。一気に喜劇に変わった……。あははっ!」
いつも無愛想だった作家先生。笑い転げるのを見た社長と令夫人たちは、唖然とする。
リスターは明らかにむっとした顔を返した。
「仕方がないだろう。髪の毛は祖父の遺伝だからともかく、父が病気をしてしまってな。僕が会長代理として連日、夜会と商談づけでこのありさまだ。今夜のサロンだって、買収した出版社を立て直すための交渉だ。会長代理、直々だぞ」
「つまり仕事の憂さを飲み食いで晴らした、というわけか。ストイックだったきみらしくないな」
「ああ、サンドラ嬢まで、そう言う……」
がっくり肩を落とすかつての美青年に、アレックスが慰めるように言った。
「でも、これで親しみが持てるからいいじゃないか。ハンサムだったころのきみは、鼻についていたから、正直、好きになれなかったよ」
「親しみか……。要するにただのオヤジさ……」
「僕を楽しませてくれたんだ。さっそく交渉をしようじゃないか。新作はきみのところの出版社――ええと。そうだ、まだ名刺をいただいていない」
「ええ、ほんとですかっ!」
商売人になったリスターは、一気に明るい表情に変わる。すばやく名刺を懐から取り出し、アレックスへ手渡した。
サロンがどよめく。
――ああ、新顔に権利を買われた!
社長と令夫人たちが落胆する顔を見送りながら、サンドラはその夜のサロンを閉会した。
その後、大作家エグルストン氏は、若ハゲの紳士が好みだという奇妙な噂が流れる。サロンに出席した社長たちは、だれもが頭髪の薄い秘書の青年を連れて来た。
その光景はアレックスが言うように、まさしく喜劇そのものだった。
おわり
旦那さまはお嬢さま 早瀬千夏 @rose
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