第9話 これはもう犯罪じゃないですか!

「もう三週間だよ! なぜ帰って来ないの! バレンタインも終わっちゃったよ!」

 眞弓のメッセージからはイライラが伝わってくる。

 タスクフォースは解散したのだが、田上と瑞希と釜内だけは記者発表までホテル生活を強いられることになったのだ。あまりにもミーティングを含めてやることが多すぎて帰る暇がなかった。

 バレンタインのことなど、眞弓に指摘されるまで思い出しもしなかった。義理チョコをめぐる例年の騒動がなかったのはよかったのだが、チャンスを一回損したような気分も少しは残った。同時に「いまさら」な感じもあり、いまだにバレンタインを気にしている眞弓に少しイラッとした。

「なんなのよ、そんなもの」と口に出したくなったが、飲み込んだ。

 田上が連れてきた投資ファンド、弁護士、会計士、コンサル……。さまざまな初対面で名前も社名も覚えられない人たちとのミーティングが果てしなく続いた。

 同じビルの上と下。すぐ近くにいるのに、眞弓と会うことはない。

「会って! いますぐ!」

 そのメッセージに瑞希は「いまはムリだから」と、できるだけ丁寧に返信した。いや、返信したつもりだった。「なんなのよ、もう」とつぶやきながら。

 二回ほどエレベーターホールで鉢合わせしたが、眞弓は広報部長の岡田満子を見ると、笑顔も翳り、声さえかけて来なかった。

 多忙すぎたが、表面上はEBOはスムーズに進んだ。

 田上のコネはそれなりに強力で、チャン社長は田上たちの提案を聞いたとたんに「条件は?」と聞いてきた。即断即決。スピード。非情……。

 ブランドンは瑞希たちと縁が切れることを喜んでいるようだった。

「この三週間で、一番いい話を聞きました!」とはしゃいでいた。

 不安ばかりの瑞希たちを、田上はいつも励ましてくれる。

「ぼくたちの力でこの事業をなんとか立ち直らせよう。話題になっている間に軌道に乗せよう」

 田上はどんどん、経営者らしい顔付きになってきている。瑞希に弱みを見せ、合コンに誘った人間には見えない。そもそも、彼は生まれながらの経営者なのだ。人生の最初のつまづきをいま取り戻そうとしているに違いない。

 そしてここでも格の違いを見せつける。そもそも棲む世界が違うようだった。

 瑞希は部長の下で、仕事を学ぶことになった。

「教えている時間はないから、自分で勉強して。あとは実践よ」

 資料を大量に渡されて、記者発表のセッティングを手伝わされていた。

「瑞希、カッコいいね」と眞弓のメッセージ。「イキイキしている」

 それは彼女なりの精一杯の言葉かもしれない。本心は、正反対ではないか。「身の程知らずのことはやめておきな!」と、以前の眞弓ならバシッと言ったかもしれない。

 このEBOによって下の階の人たちの運命は大きく変わる。瑞希もそれは同じだ。たまたまタスクフォースに抜擢され、田上と知り合ったために広報担当となった。血筋でも能力でもない。偶然にも当面の仕事を得たのだ。

 その仕事を進めていけば、眞弓たちを含めて、これまでの人員を減らすことにもつながってしまう。

 眞弓にとっては瑞希との関係だけではなく、いまの仕事を失うかどうかの瀬戸際なのだ。そう思うと、胸が締め付けられる。

「新会社に移行する間に、大多数は辞めてしまうと思う」と田上は事前に言っていた。「だって、オフィスも汚くて狭いところに引っ越すことになるし、当面はこれまでの年収の七割になっちゃうからね」

 どうしても引き留めておきたいトップコンサルたちは、減俸後も、海外旅行やゴルフや接待パーティーを減らせば生活までは脅かされない。

 だが、ほかの人たちは違う。そもそも年俸が違う上に、住宅ローンなど個人の状況も違う。トップコンサルたちの多くは子育てもほぼ終わっているし、これまでタップリと稼げたから住宅ローンなどもなく、むしろ不動産投資をしている者さえいるのだ。

「ピケティに言われなくても貧富の差はでかい。でかすぎる」と瑞希は思っていた。

 身軽で賢明な眞弓ならもっといい給料の仕事に転職できるだろう。新会社に残る意味はない。

 職場が変われば気分も変わる。瑞希と眞弓の関係も変わるのではないか。

「私を遠ざけてるんじゃないよね?」

 そんなメッセージに、眞弓の焦りが伝わってくる。弱気になっていく眞弓が、瑞希には悲しかった。その原因が自分との関係にあるのだから。

 大輝が恋しかった。こんなときに会うことができれば、瑞希はもっと自信が持てただろう。大輝は長年、子どもたちに自信を持たせる仕事に就いてきて、その能力はなかなかのものだった。

 愛してはいけない人と、特別な関係になったとき、大輝はこう言った。

「君を傷つけるようなことだけはしたくないんだ」

 それは妻の睦美に対しても同じなのではないか。不倫をしておきながら、妻も愛人も傷つけない終わり方などない。

 だから消えたのだろうか。消えてしまうことで、世の中に残るのは妻や子どもたちとの関係性だけで、瑞希との関係は消滅すると思ったのだろうか。

 どこに消えたかもわからない、この世にいるかどうかも確証が持てない相手と不倫関係は続けられるのだろうか。

 くたくたになりながら、瑞希は漠然とした思いに毎晩、うなされていた。


 記者発表が明日に迫った午後。

「ホテル暮らしは終わりよ」

 岡田部長に言われた。

 今夜は、月島に帰ることができる。

 これまで、何度か着替えや郵便物を取りに戻っていたものの、眞弓のいない時間帯を見計らっていた。そんな瑞希の仕打ちに、眞弓は勝手に郵便を受け取って瑞希の机の上にきれいに並べるようになった。それが、瑞希にはなんだか怖ろしく思えた。

 会わなくなると、会うのが余計に怖くなる。

 早めに帰宅できた。まだ空は群青色で、月にうっすらと雲がかかっている。その雲の端は一瞬、オレンジ色だったが、すぐに灰色になっていった。

 それはちょうど、会社を自分たちで引き受けることを象徴しているようだ。田上は人間としては太陽だが、傾きかけた事業はどちらかといえば、夜を照らす月だ。ファンドの資金や優秀なコンサルたちや、睦美のようなクライアントがいてはじめて輝くことができる。

 太陽のように自ら光ることはできない。

 それでも、瑞希には誇らしい仕事をしていると思えた。漫然と生きていた自分の人生が、大きく変わろうとしている。そう実感できた。

 月島で一人暮らしをしたとき。就職を諦めて派遣社員となったとき。派遣社員からいまの会社に正社員採用されたとき。アシスタントからなし崩しにコンサルタントになったとき。そしてタスクフォースに抜擢されてEBOを実現するメンバーになれたとき……。

 大輝も名倉も、いまのところ瑞希の人生を大きく変えるファクターにはなっていないような気がして、瑞希はちょっと不思議に思えた。

 会社のことを除けば、人間として生物としての生き方としては、不倫の記録しかない。もし今後、一生恋愛相手に出会わなければ、あの二人との思い出だけで、瑞希の私生活を語るしかない。

 いや、三人だ。眞弓がいる。

 事実上の恋人……。半同棲生活……。

 遠回りする気はなかったが、心の定まらないままに、ゆっくりとマンションの前までやってきた。

 眞弓がいることは郵便受けを確認してわかった。空っぽだ。

 彼女を避けるようにしてここへ戻る瑞希への意地悪だ。

 はっきりさせなければならない。

 覚悟をきめて自分の部屋に入る。センサーでつくはずの明かりがつかない。仕方がなく、そのまま靴を脱いで薄暗い廊下を進む。廊下には足元に小さな常夜灯がついている。

 リビングの電灯をつけようとしたとき、パッと先に明かりがついた。

「お帰り! EBO、おめでとう! 広報担当、おめでとう!」

 テーブルにはチキンやお酒が並ぶ。

 眞弓はクリスマスパーティーでもしているかのように、派手な三角帽子をかぶり、小さなクラッカーを鳴らした。紙はあまり飛ばないタイプだ。

「最高だね! よかったね!」

 明日、記者発表があることはすでに報道されている。岡田部長たちは記者クラブでレクチャーを済ませていた。夕刊の最終版に間に合う時間を見計らってのことだ。いまや新聞よりも早くネットが、そしてテレビが報じる。このレクチャーは上場企業である親会社の発表だ。

 同席した瑞希には、怒鳴るように質問する記者たちが怖かった。岡田部長は、日本側の役員二人を連れていった。チャン社長は記者クラブは好きではないから来ない。記者会見は大好きなので、明日は参加する。

 役員たちが言葉に詰まると岡田部長が優しく「その点は明日、質問していただければと思います」と繰り返す。そのうち記者たちは怒り出すのかと思ったが、ある程度のディテールを聞くと、さっさと自分の机に向かってキーボードを叩きはじめる。もう記事を書いているのだ。

 終わりを宣言するまでもなく、あっという間に記者たちはいなくなり、遅れてきた者に資料と明日の件を伝えたあとは、余った資料をいくつかそこに残して引き上げた。

 手応えなど感じることもなく、ただ怖くて忙しいだけ。

 そして、その内容はすでに眞弓にも伝わっていたのだ。

「ネットで見たよ!」

 小型のカメラで動画配信をしている通信社もあった。

「瑞希、かっこよかったなあ」

 なにも言えず、体も動かない瑞希の両腕を、瑞希ははさむように掴んだ。そして、そのまま体を密着させて息を感じるほど顔を寄せてきた。

「ね、エッチしようよ!」

 眞弓はキスをしてきた。

「あ、だめ」

 思わず振り払い、後ずさった。

 瑞希は仕事の緊張もあり、明日のこともあり、静かに過ごしたかった。酒はもちろん、肉体的な喜びなどもってのほかだ。

「明日、本番なのよ!」

 それは新会社の最初の仕事でもある。まだ準備室に過ぎないが、第一歩である。

「ええ? 瑞希らしくない」

 甘えた声を出す眞弓に、瑞希はこの三週間に溜まりに溜まったストレスが、怒りとなって腹の底からこみあげてくるのを感じた。

「私はそっちじゃないの! 何度言ったらわかるの!」

 岡田部長に指導されて、マイクの前で冷静に声を出す練習をしたというのに、そんなことさえ思い出せないほど、瑞希は疲れていた。

「眞弓とは一緒になれないんだってば! わかってよ、お願いだから」

 もう少し酷い言葉が出そうになったが、それはさすがに自ら却下した。

 ──眞弓と違って、そんな汚らしいことはできない。

 瑞希の頭の中ではそう言いそうになっていたのだ。

 もちろん、同性愛を否定したりするつもりはないし、そもそも不倫をしていた女として、眞弓の純粋な気持ちを「汚らしい」などと貶める資格などあるはずもない。

 それでも、いまの瑞希にはそれが自分にとっては、望んでいないことであり、泥沼に入るような気分なのだとわかってほしかった。

「どういうこと?」

 眞弓は蒼白になっていた。

「あの田上となにかあったの? 玉の輿?」

「違う。彼とはまったく関係ないわ」

「ふーん、仕事が女を変えたとでも?」

「なによ、それ」

「瑞希の中に、野心が芽生えたんじゃないの? そのとき、私みたいな女との関係はマズイって思ったんじゃない?」

「そういうことじゃないわ!」

「じゃ、どういうことなのよ! 私なんてどうでもいいと思ってるんでしょ。消えてなくなればいいと思ってるんでしょ。死んじゃえって思ってるんでしょ」

 眞弓は泣き崩れた。

「好きで好きで、しょうがないんだよ!」と叫ぶ。

 その声を聞かないようにしたかったが、脳内にしっかり届いていた。

「わかってくれていると思った……」

 眞弓の頭から帽子がずれて、背中にぶら下がっていた。彼女がへたり込んだところには、クラッカーから飛び出した色とりどりのテープがあった。

「だめ。ムリだから。お願い。友達でいて」

「もう、そんな段階じゃない。ずっと月島で待っていたのに。私は泣かないの。泣くキャラじゃないの。だから姉にいじめられ続けて、だから家出して。だから別々に育って……」

 眞弓は泣いているのに、泣かないと言っている。すべてを吐き出そうとしている。それを受け止める度量がいまの瑞希にはない。

「ごめんね、眞弓」

 あれだけ強く、冷静で、先見性のある眞弓だったのに。変わったのは眞弓ではないか、ズルイ、と瑞希は思った。賢くてズルイのだ、と。

「実家に泊まることにする。眞弓はここにいてもいいけど、私の気持ちは変わらないから。これからも、眞弓とは仲よしでいたい。それは本当よ」

 ようやく思い出した広報らしい冷静な口調になった瑞希だったが、自分でもまるで説得力は感じられなかった。とくに最後の付け足し。

 ──眞弓とは仲よしでいたい。それは本当よ。

 ウソ。本心ではない。本当ではない。

「じゃ、ごめんね」

 瑞希が出て行くのを眞弓は止めなかった。泣きじゃくり、机を拳で叩いた。なにか飛んでくるかと思ったが、あっさり外に出てドアを閉めることができた。

 やや温い風が顔を撫でていき、悪いことをしたと後悔した。きっと今夜でなければ、もっと上手に対応できたはずだ。

 見上げると月は雲に隠れてどこにあるかわからなかった。涙が目尻から耳のほうへ流れていくのを感じた。

 これで終わりだ。眞弓は二度と口も聞かないだろう。そして強い女に戻るだろう。なにかをしでかすだろうか。彼女の姉のように。


 記者発表の時間が刻々と近づいてくる。会場で準備をしていた瑞希をブランドンと田上が呼び止める。

「これまでいいニュースがなかったんだから、ここらで派手にやりたいわけだよ」とブランドンは解説する。「彼女、地味すぎるよね。もうちょっと見栄えよくした方がよくない?」

「手配済み」と田上。

 ヨットで合コンするような男は、ブランドンのような男と共通の言語を持っているらしい。いつの間にか友達になっている。いや、自慢のヨットで合コンぐらいやっているのかもしれない。ほのかにブランドンの肌が赤く日焼けしているようにも見えた。

「ここに行って来て。行けばわかるから」と田上がプリントアウトした地図を寄こした。高輪の美容室だ。

「いまからですか?」

「時間がない。タクシーで!」

 さっぱりわからない間にタクシーでそこに行き、待ち構えていた中年のスタイリストが用意した服に着替えて髪をセットして、メイクまでされた。

 鏡の中の瑞希は、しっとりとしたベテラン女子アナのようになっていた。年相応であることを改めて認識させられた。娘というよりも夫人である。

 自分では絶対に選ばないであろうパープルのパンツスーツだった。サイズが大きいのを安全ピンなどで臨時に補正している。

「大丈夫、二時間ぐらいならもつから」

 記者発表の会場は高輪から近いホテルの宴会場だった。結婚式でもないのに、金屏風の前に立つとは……。

 イスが五十ほど並び、一眼レフカメラやテレビカメラが数台入っていた。完全なプロ仕様。瑞希はビビる。

 ──レンズがでかい……。

「広報担当、よろしくね」と、つい先ほど田上から新しい名刺を渡されたばかりだ。

 新会社だが社名は変わらない。住所も同じ。肩書きが変わるだけ。

「やったことないのに……」と腰が引けた。

「瑞希さんならできますよ」と田上は言い捨てて、ほかの者に連れられて別のところへ消えてしまった。無責任な責任者。

 刻々と開始時間が迫る。

 名刺と今日のレジュメが手元に残った。ザッと見たが、式次第はシンプルだった。チャン社長がメインで話し、田上とベテランコンサルたちが登壇して質問に答える。

 問題は、瑞希が司会をしなければならないことだけだ。

「瑞希さん」と背後から声をかけられ、振り返ると岡田部長だった。

「別会社になっても、教えてあげるから、安心して。本当ならうちから何人か出したいところだけど、そもそもこっちも二人しかいないし……」

 親会社の広報も縮小している。

「お互い、がんばろうね」と握手を求められた。これで正式に岡田部長は親会社の業務だけに専念し、新会社の広報は瑞希がやらなければならなくなった。

 その最初の仕事が、これからはじまる。


 眞弓は出社しなかった。辛い祭りの後始末をし、二度とここには来ないと決めた。書き置きをしようとして、やめた。言葉が思いつかないから。

 一晩中、泣いて考えたが、瑞希になにかを残していく気力もなかった。

 朝になって机の上の郵便物が気になった。瑞希に渡しそびれた。彼女当てのDAIKIからの手紙なのだから、相談なしに開封することはできない。しかし、なぜ仕事関係の瑞希に、失踪中のクライアントがわざわざ手紙を寄こしたのか。仕事の件だからか。だったら自宅には送付しないだろう。瑞希が睦美の友達だからではないか。妻である睦美には直接言いにくいので、瑞希を介して修復しようとしているのではないだろうか……。

 だったら……。

「これ、なんですけど」

 学習塾は、前に訪れたときよりも、さらに寂れているように見えた。気のせいだとしても、睦美の生活はじわじわとすさんできている。生徒たちがいた教室は机もイスも片隅に片付けられて、スペースに家財道具が並べられていた。

「引っ越すことにしたんです。すぐそこですけど。実家に」

 とうとう塾を諦めたのだ。いや、これまでの生活を諦めたのだ。

 眞弓はショックだった。

「パートで仕事をすることにしました」

 片付けられた教室で、生徒用のイスに腰掛けて、お互いにため息をついた。

「ごめんなさい。契約があるからいきなりは、やめられないわよね?」

 クライアントを失うことでため息をついたと眞弓は思われたと感じ「そのことは心配しないでください」と励ます。

「こんなときに、なんなんですが、これが……」

 白い封筒を彼女に渡した。

「なぜか瑞希宛に来ていたんです。間違いかもしれませんが、気になるので持ってきました。瑞希はいま忙しくて来れないので……」

「大輝……」

 その取りようによってはふざけた署名に、睦美は明らかに震えた。

 渡してしまってから、眞弓は後悔していたが、どうとでもなれ、という気もあった。中身はもし大輝からのものだとしても仕事のことしかないだろうし、誰かのイタズラか、まったく無関係だったらそれまでのことだ。

「そんな書き方ですから、ぜんぜん、関係ないかもしれませんが……」

「ええ、そうね。開けてもいい?」

 眞弓がうなずくより早く、睦美は封を不器用に破いた。中には便箋が二枚、入っていた。チラシでも、A四の用紙でもないことに、眞弓はドキッとした。これは、もしかするとマズイ手紙かもしれないとそのときようやく、持ち前の勘が戻ってきた。しかし、読み始めた睦美から取り戻すことはできなかった。


 瑞希は記者発表の間中、雲の上を歩いているような気分だった。自分の声がマイクを通して会場に響く。聞いたことのない声だ。はじまる前は眞弓が来たらどうしよう、大輝が来たら、名倉が来たら……と思ったが、はじまってみると誰かが覗きに来たとしても、まったく気づかなかっただろう。

 終わったとき、チャン社長に握手された。

「ガンバッテ!」と日本語だった。

 ブランドンにはハグされた。背後の安全ピンに触れてびっくりした顔をしていた。

 見渡したが眞弓はいない。田町のオフィスにいるのだろうか。いまなら、謝ることができそうだった。心も体も軽くなっていた。頭がクリアになって、いつもの自分が戻ってきたような気がした。

 できれば、友人として眞弓といまを一緒に喜びたかった。

 見渡しても、一緒に喜んでくれる人はいなかった。田上は記者たちに囲まれていたし、その横には役員と、記者と仲のよい岡田部長がいた。

 チャンとブランドンはさっさと消えてしまっている。彼らにしてみればまだ一部門の処理が終わっただけのことで、仕事は山のようにあるのだ。

 そのとき、岡田部長が呼んでいることに気づいた。

「だめじゃないの。せっかくみなさんに顔を覚えていただくチャンスなのに。こちら、記者クラブのいま幹事会社の新聞社の部長さんよ」

「あ、はじめまして」

 瑞希は緊張しながら、新しい名刺を渡した。

「なかなか、すばらしい司会でしたよ」

 腹の出た小柄な中年の、眼鏡の向こうの目はまったく笑っていないが、瑞希は精一杯の笑顔をつくった。

「ありがとうございます! これからもよろしくお願いいたします」

「いや、お宅たちはただの零細企業になっちゃうでしょ? 私たちはもう追うことはないけどね。ぜひ、親会社をしのぐような会社になってくださいよ」

「ありがとうございます!」

 励まされているのか、バカにされているのかわからなかったが、これが現実なのだと瑞希は気づいた。

 親会社と切り離されたら、それはただの零細企業にすぎない。お祝いはこれが最初で最後かもしれない……。そうしないためには、しっかりやるしかない。できる限りのことを……。


 ──拝啓 瑞希様。お元気に活躍されていることと拝察申し上げます。突然に連絡もなく消えてしまったことを、本当に申し訳なく思っています。──

 眞弓は睦美から渡された便箋を見て、イスからころげ落ちた。眞弓が幼い頃からさんざん見てきた関西のお笑いの定番である「コケる」場面とまったく同じなのに、笑いはなかった。

 コンクリートの床に膝を打っていたが、その痛み以上に心が捻れて悲鳴を上げていた。

 ──もしかすると、瑞希さんはぼくにとって本当にはじめて恋した女性なのかもしれません。──

 うそだ、うそだ、うそだ、と眞弓の心は叫んだ。

 ──あなたのことを忘れるために、すべてを投げ捨ててしまった。本当に後悔しています。妻も子も大事です。大切です。でも、これからはぼくは、生き方そのものを変えてしまうつもりです。──

 瑞希は大輝に愛されていたのか。そんなバカな。眞弓は絶叫し続けたくなった。怖ろしい顔をした睦美がそこにいなければ、そうしただろう。

「ウソだ」と睦美がつぶやく。「信じられない」と。

「どうやら、大輝さんは船橋のご実家にいらっしゃる……」

「あいつら……」

 睦美の怖ろしい顔は、子どもたちを叱るときの比ではなかった。どこに彼女の顔面の筋肉をそのように歪める神経があるのだろうか。眞弓は無表情に暴走する姉の眞美以上に、表情を変えた睦美が怖かった。

 彼女の口にした「あいつら」とは、大輝をかくまっている親兄弟ということだろうか。

「人をバカにしやがって」

 眞弓は自分の悲しみと怒りさえも把握すらできない状態だったが、目の前の睦美の姿に、動くこともできずにいた。いま動けば、「あいつら」の代わりにぶっ飛ばされそうだった。

「警察にもウソをついたんだ……」

 細かいことはわからないが、夫が失踪したら、真っ先に実家に連絡して確かめるだろう。警察も、青森の旅から帰ったばかりの瑞希を月島で待ち伏せしていたぐらいだから、実家にも足を運んでいて当然だろう。そこに大輝がいるなら、警察から睦美に知らせていてもおかしくはなかった。だが、警察が知らせてきたのは、青森で彼がクレジットカードを使った件だけだった。

 そういえば、あの刑事たち。あれから、姿を見せない。

 もしかして、すでに大輝の所在を知って、手を引いていたのではないだろうか。

 睦美の「あいつら」には刑事たちも含まれているのかもしれない。

「いまから行く」

 夜の十時になろうとしていた。

「えっ、いまからですか」

「あ、ありがとうございました。今夜のところはここでお引き取りください。お願いします」

 他人行儀に睦美に頭を下げられると、眞弓もこれ以上は立ち入れなかった。

 眞弓はこれから長い夜を、ゆっくりと一人で瑞希と大輝のことについて考えるしかなかった。


 瑞希はまだ寝ていたかった。この三週間の疲れがドッと出たようだ。

 西新井の実家は、想像していたよりも数百倍も居心地がよかった。あれだけ疎ましかったかつての自分の部屋で、布団を敷いて寝るだけなのに、ふわふわと生きてきた自分をつなぎ止めることができたような実感があった。もしかすると厄年も三十六歳も不倫も知らない瑞希を、ここに置いたままにして、幽体離脱していただけなのかもしれないとさえ思う。

 だから月島には戻らず、実家で二日目を迎えた。

 薄明るい夜明けを障子の向こうに感じて、そういえばここにいた頃は遮光カーテンをつけていたのだと思い出す。いまは母親が趣味の七宝焼き用の小さな電気釜が置いていた。ここで寝かせてくれと頼んだら、娘の帰宅に喜びながらも一瞬、面倒くさそうな表情も見せた。

「人が来てるのよ。出てよ」

 その母が枕元に立っている。

「なに? だれ?」

「聞いたことのある出版社だったわよ。お話を聞きたいんだって」

「何時?」

「七時」

「いくらなんでも、早すぎる……」

「でも、来てるんだもの。伝えたからね。おかあさん、わからないから。自分でやってよ」

 広報担当というのは、「夜討ち朝駆け」の対象だったのか、と覚えたての言葉を思い出しながら、とりあえず着替える。といっても、一昨日、月島から実家に直行したので、派遣社員でいくつか会社を経験しながら就職活動をしていた頃の服しかない。

 髪を整え、化粧をしていたらあっという間に十五分ほど経っていた。下着はちょっと窮屈だったがまだ着替えられただけマシだった。スーツは窮屈なだけではなく、あの頃の憂鬱が染み込んでいるようで、ため息しか出ない。

「おはようございます」

 名刺入れを手にして玄関に向かった。

 瑞希の実家はガレージのついた二階建てで、昭和の雰囲気が色濃い。瑞希が生まれた二年後に経ったので築三十四年。環状七号線からも、西新井駅からも、西新井大師駅からも同じぐらい離れたところで、周囲には学校などもあって普段は静かだ。早朝ならなおさらだった。この朝の雰囲気は月島もよく似ていた。

 広い玄関が自慢で、かつては柴犬がいたこともある。中学生の頃に亡くなった。以来、余計に広く感じる。

「おはようございます。朝からすみません」

 二人の男が上がり框に座って待っていた。

「ご苦労様です」と瑞希は頭を下げた。

「なにか緊急のことでしょうか?」

「はい。これ、ご存じですか?」

 ネクタイを締めた若い男は汗臭く、一眼レフを構えたジーンズのカメラマンは酒臭かった。

 手渡されたのはメールのコピーだった。

「新会社の美人広報は、不倫していた! 相手は無二の親友の夫である。その関係は十年以上にわたっていた。倫理観欠如。倫欠女である」

 メールには瑞希のプロフィールが詳細に書かれ、米井睦美と米井大輝のことも名前を入れて、すべてあからさまに書いてあった。ウソも多かったが、本当のこともあった。

「この件について、うかがいたかったんですけど……」

 瑞希は真っ青になり、頭がボーッとなって、立っていることもできなくなった。しかし、なんとか踏ん張っていた。ここで倒れるわけにはいかない、という気持ちだけで。

「この大輝さんて方、行方不明になっているって言うじゃないですか。瑞希さんも何度も警察に取り調べを受けたそうですね」

「わ、わかりません」

 答えが出なかった。広報として、危機管理として、この数日に教えられたというか押しつけられたマニュアルや教本は、すべて吹っ飛んでいた。ここが実家だったことも災いした。いつもの仕事モードにいつまでたっても切り替わらないのだ。

「写真、いいですか?」

「えっ」

 返事する間もなく、強烈なストロボが襲った。

 能面のような表情で、ダッチワイフのように口を開いた瑞希の写真は、このあとしばらくネットなどで拡散していくことになる。

「社長の田上さんとも恋人同士だと、そのメールにありますよね。あと、名倉さんて元ラグビー選手ですか? これぜんぶ、ホントなんですか?」

 振り返ると、そこにはエプロンをした母がいた。

 化粧もせず、髪もボサボサで、歯は黄ばんでいる上に前歯が入れ歯なので、なんだか人工的だ。その母が、瑞希と目が合うと、奥に逃げてしまった。

「不倫していた米井さんの奥さんは、旧姓が深尾さん。このご近所で、小さい頃から友達だったってホントですか? これからそちらにもうかがうんですけど」

「やめてください。それだけは」

「やめてくださいって……。人が一人、行方不明になっているんですよ。警察はあなたがこの大輝さんって人と肉体関係にあったことを知っていたんですか?」

 答えられなかった。

「酷い話ですよね。親友の彼氏を取り合うなんてのは、学生時代に独身の間ならまだしも。社会人になってからだとしたら、倫欠女どころか、これはもう犯罪じゃないですか!」

 寝ぼけた汗臭い男にいきなり怒鳴られて、瑞希はひるんだ。いつもの瑞希の半分ぐらいしかパワーがない上に、追い打ちをかけられてダウン寸前だった。

「あなたの親友だった深尾睦美さんは、一昨日の夜、ご実家にお子さんを預けてどこかに行ったきりになっているんですけどね。なにかご存じないですか?」

「わかりません。なんの話でしょうか」

「われわれは、この告発メールに、かなりの真実が含まれていると判断しています。EBOでしたっけ。華々しい成功の陰で、こんなことが行われていたなんて、驚きですからね」

「待ってください。事実をよく調べてからにしてください」

 ようやく言葉が出たが、あまり有効ではないようだった。

「ええ。言われなくても調べますよ。それがわれわれマスコミの仕事ですから。また、お会いしましょう」

 二人はさっさと出ていってしまった。

 会社にも迷惑がかかる……。瑞希は絶望的な気持ちになって、その場にへたり込んだ。

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