第10話 ため息とパスタ
──真っ白になった。心が灰になったみたい。
海が春の霞なのか、遠くがぼんやりとしていた。朝日でも見えるかと思ったが、判然としなかった。
失う、という意味をこれまで知らなすぎたと瑞希は思う。
あれから一週間。
記者会見の前の夜になにがあったのか。
瑞希はよくわからなかった。記者発表の晴れ舞台を前に、久しぶりに月島に戻り、そこで眞弓と別れた。実家に帰って寝た。その間に、眞弓は腹いせとして、瑞希についてのすべてを書いた文書を出版社に送ったのだろうか。眞弓はどうして、大輝との関係を知ったのだろう。睦美もその夜に実家に子どもを預けてどこかへ行ったままだという。
スマホに田上からのメッセージが入っていた。
──出社しなくていいから。落ち着くまでしばらくそっちにいてください。
もちろん会社にも取材が行っていることだろう。田上を巻き込んだとしたら、瑞希には不本意な話だった。大事なときなのに。すでに充分にペナルティを受けている田上が、この件でまた過去の傷をほじくり返されるのだとすれば、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
謝罪のメッセージをなんとか機械的に返したものの、田上が社長になっていなければ、きっと会って相談していたことだろう。絶望を潜り抜けてきた彼なら、いまの瑞希に役立つアドバイスがあったかもしれない。彼と話せばなにか具体的で前向きな方向性が見つかるかもしれなかった。
ちっぽけな零細企業にすぎないと、新聞社の部長に言われたが、瑞希の個人的な話がこれほど大きく広がるとは思わなかった。
その間に出た週刊誌の記事は、ほかの報道やネット情報の間違いが訂正されて、事実に近いものになっていた。大輝の失踪に犯罪の要素はない、と警察の見解が書かれていた。その理由も。
──どこかに行って。帰って来ないで。
母に言われ、追い出された。
なにも起きなかったのに、瑞希はすべてを失った。
行く当てはほかにないので月島のマンションに寄ってみたが、メディアの関係者だとかカメラマンなどがいないか、しばらく周辺をうかがった。裏口からとも思ったが、エントランスに向かった。
実家にあったジーンズとジャンパーとキャップ。まったく似合わないが、サングラスをするからには、こういう服装しかないと考えていた。
どうせ、自分は悪い女だから……。クチャクチャとガムでも噛んでやろうか。風船でも膨らませてやろうか。
週刊誌の記事がすべてを語り尽くしていたので、些末なシロウトの不倫話はすぐ飽きられた。会社側の火消しもうまかったのだろうし、やっぱり零細企業だったし。人々は有名でもない、芸能人でもない女の末路などに興味はない。著名人たちの不倫話は延々と続いているので、取材のパワーもそっちに向けられているようだ。
マンションに入ったとたん、管理人と住人たちから睨まれた。エレベーターに乗るまで視線を浴び続けた。ジャンパーのおかげで、少しは跳ね返せたような気がした。
寂しい部屋は、いまは他人の家のように思えた。服を持っていこうと思ったが、いまの自分に似合うものはない。
だから、実家から来たままの姿でここを出て行こうと決めた。キャップは気に入っていた。もともと気に入って買ったものだが、似合わないから一回ぐらいしか被ったことがなかった。いまはちょうどいい。
手入れがいい加減になっている髪を隠せて、まるでやる気のない化粧の適当さもごまかせる。
いま写真を撮れば犯罪者の顔だ。
──その目つき……。
下着。靴下。化粧品。スカスカの旅行カバンを持って、ネットで予約した葛西臨海公園のホテルに移った。三連泊で朝食付きというプランがたまたま取れたのだ。
「おかあさん、近所を歩けなくなったわ。もう引っ越すしかない……」
母の悲痛な声が耳に残る。
ご近所という社会があった。マンションだらけになっている地域ながらも、同じ頃に出産し、子育てし、学校も行かせていた。だから母親同士の自然な親密さはずっと残っていた。
「よしお君のお母さんが……」とか「はるみちゃんのお姉さんがね」とか「肉屋のともこちゃんが」といった話を、たまに実家に帰ると母は溜めこんでいたかのように、いっきに瑞希にぶつけてきたものだった。
今回はさすがにそういう話はまったくしなかった。
とくに仲のよかった深尾家との間に生じた亀裂。もう、昔のような関係に戻ることはないだろう。近隣の母の知り合いたちは、全員、睦美に同情しているに違いないから、瑞希だけではなく母親までも一度に長年の友人を失った。母の職場も近隣の食品問屋だし、その息苦しさは瑞希の比ではないはずだ。
「なんで、睦美ちゃんの旦那さんとなんか……」
報道やネットで書き込まれている瑞希という女は、肉食系で男なしには生きていけないトンデモな性格と断定されていた。
つらいのは学生時代の卒業アルバムから写真がコピーされて、世界中の人たちからアクセス可能な状態になっていることだ。
そこで、細い目隠し線が、しかめ面をしている当時の瑞希を凶悪な印象にしており、まるでこの事件を予見していたかのように、いかにもいじりやすい姿で記録されていた。
さらに記者会見でのパープルのパンツスーツ姿の写真も大活躍した。瑞希にピントを合わせていたカメラはほとんどなかったはずだが、端っこに写っている瑞希を引き伸ばして、場所や社名を特定しにくく加工した上で、目のところだけ細い線で隠されていた。輪郭は学生時代と同じだから、そのままいやらしい女に成長したようにしか見えない。あの日にやってもらったヘアメイクも、むしろあざとく見えてしまう。
緊張で引きつった笑顔が、ふてぶてしい悪女そのものだ。目が隠されているせいだろうか。必死にがんばって作った笑顔なのに。
晴れの舞台での瑞希は、いかにも男を食ってしたたかに生きている三十代後半と見える。
ブスで淫乱で泥棒ネコで恥知らずで恩知らずであばずれで枕営業で能なしでセックス中毒で男狂いで病気で、そしてブスで淫乱で泥棒ネコで恥知らずで恩知らずであばずれで枕営業で能なしでセックス中毒で男狂いで病気で、さらにブスで淫乱で泥棒ネコで恥知らずで……。
背後に見える観覧車のように、言葉がぐるぐる回っている。
眞弓が言っていた。記憶は曖昧になっている。
「言葉は、虚しい? 回転木馬……だったっけ。メリーゴーランドだっけ」
同じところをぐるぐる回るだけ。
そういう意味なのかもしれない。
地元や家族や親友や眞弓や、なにもかもが、いまは自分から遠いところにある。その間には水族館のとても分厚い特殊な水槽にも似た壁があるような気がした。見えるし、誇張されるし、歪むけど、触ることも向こう側へ行くこともできない……。
瑞希には、その壁を壊すことはできそうになかった。諦めて遠ざかるしかない。
たくましい体つきの夫婦と幼い三人の子どもたちが、ジャブジャブと海に入っていった。中国語で会話しているようだ。
水をかけあったりして、服を濡らしても平気らしく、はしゃいでいる。父親はiPhoneでその様子を撮影していて、子どもに水をかけられて、笑いながらなにかを怒鳴って、体で海水からiPhoneをかばっている。
見渡しても、この時期に海に入っているのは彼らだけだった。
まだ桜も咲いていない。おまけに東京湾。
波もほとんどなく池のようだが、潮の満ち引きはある。いまは引き潮が進んでいるようだった。
足ぐらい濡れてもいいとジーンズの裾を脹ら脛まで巻き上げて、砂や海藻に絡まれながら、波打ち際をぼんやりと霞む海に向かっていった。
──このまま、死んじゃえばいいかな。
早朝の東京湾で?
──こんなところで死ぬのは嫌だな。
ふふふ、と笑ってみた。
透き通った海水が足を洗った。その引いていく力に、吸い込まれそうになる。かといって、体ごと引きずり込まれるほどは強くはない。
──物足りないな。
「あっ」
一瞬だった。
足首がぐねっと曲がり、そのまま横倒しになった。手をついて、濡れた砂浜に体を完全につけることだけは免れた。と思ったら、じわじわっと返ってきた波で、腰まで濡れてしまった。ジーンズがたっぷり海水を吸った。靴下も。靴も。
──泣きたいよう、もう。
立ち上がると、中国人の子どもたちが瑞希を笑っていた。彼らの親たちも笑っていた。
くったくのない三人の子どもたちは、睦美の子どもたちを連想させた。あの子たちが、こんな風に笑う日はくるのだろうか。
実家に一週間、かくまってもらっていたが、週刊誌が発売されて、そこに大輝から瑞希宛に届いたという手紙の一部まで暴露され、ほぼ事実を明らかにされてしまうと、父母までもが露骨に瑞希を遠ざけようとした。
「行くところ、あるんでしょ?」
母から、暗にほかに男でもいるんじゃないのかと疑われたときは、かなりショックだった。母を恨んだ。父は口もきいてくれず、自分とそっくりな目つきでじろっと睨むだけ。
自分で判断するしかなく、とりあえずこうして逃げてきた。
「社内でも男漁りが露骨でした」と証言する同僚の言葉。誰だろう。お局たちだろうか。「体育会系の男性社員とも付き合っていたようだし」とか「婚約しているはずだ」とか。「その男も離婚調停中」で、瑞希はダブル、トリプルでさまざまな男と付き合い、その家庭や人生を破壊し続けているような書き方になっていた。
おまけにこういうときだけ「美人営業」とか「美人コンサル」と「美人」がつくのだ。瑞希は自慢ではないが、生まれてこの方、親や親戚以外から「美人」と言われたことはなかった。
広報部長の岡田からも手紙が届いた。岡田は実家にいることを知っている数少ない人物だった。
「辞表を出すことをお勧めします」とあった。
ネットに晒されているプライベートの画像や事実誤認への削除依頼の方法も書いてはあったが、社内のマニュアルのコピペらしかった。会社に関係のある記事については、顧問弁護士が対応したという。瑞希個人の部分は自分でやるしかないらしい。
これ以上、なにかが起きたら瑞希は「元社員」となるのだ。
社名は連呼されたものの、炎上商法などと言われるが、新会社にとってはいいことはなにもなかった。瑞希と田上社長の関係がウワサされたことが悪いイメージとして残っている。田上は今回ばかりは会社を守るために大人の対応に終始していた。つまり断固として瑞希を切り捨て、沈黙を貫いた。
不思議と田上の過去はネットで少し囁かれた程度で、ほぼ隠蔽された。当事者が人里離れた山間部でパン屋をやっていることなどは知られていないようで、新たな情報がまったくなかったのは幸いだった。メディアは大手広告代理店への気兼ねもあったのではないか。何年も前の話を蒸し返すなよ、ということだろう。
加えて、おそらく根回しに岡田部長たちが活躍したに違いない。
かろうじて飛び火を免れているのだから、火元が早くどこかへ遠ざかってくれれば、との願いがひしひしと伝わってきた。
田上ぐらいはなにかしら理解を示してくれてもいいはずだと、甘い期待があったことを恥ずかしく思った。
──それどころじゃないものな、会社は。
元々あったうさんくさいビジネス、EBOという手段でのちょっと派手な存続劇、掃き溜めに鶴的な田上新社長への期待。混沌としているところに、広報担当のバカ女の不倫スキャンダル。
枕営業と揶揄されて、社の営業姿勢そのものを無責任に批判するメディアまで現れたのは、新たな船出をしようとする小さな会社にはとんだとばっちりだったろうし、協力を誓ったベテランコンサルたちも怒っているだろう。
──責任は私。ぜんぶ、私。
世の中で、どんな事件も本当の意味で責任なんて取るやつはいない、と眞弓は言っていたが、そんなことはない。瑞希は自分のことは自分で責任を取る気持ちでいた。
不倫の代償はあまりにも大きい。
一緒にやり直そう、山奥でパン屋でもやろう、などと言ってくれる男さえいないのだ。田上からその話を聞いたとき、夫婦でやり直すなんてあり得ない話だし、気持ち悪いと感じたのだが、こうなってみると最高の解決策に思えてくるから不思議だ。
遠くに行きたい……。その気持ちばかりが膨らむ。
少なからぬショックはほかにもあった。
警察が大輝の失踪を事件ではないと判断した根拠が簡潔に描かれていた。記事では名は伏せられているものの、大輝は船橋の実家にいたことが読み取れた。彼は取材には応じておらず、メディアの前には出ていない。完全にカバーされている。守られているのである。
その理由は、彼の家族にあった。
──父は校長を退職して教育委員会のメンバーになりました。その関係で知り合った政治家の秘書に、兄がなっています。そしてぼくにも政治の世界に入ってくれと父から頼まれました。今年は選挙の年で……──
大輝の手紙の一部が、週刊誌に掲載されていた。
人名が仮名になっているだけではなく、地名も伏せられていた。しかし、睦美や瑞希を知っている者、たとえば眞弓などなら、この記事で容易にすべてを理解するだろう。
記事では睦美と大輝の母親との間に長年の確執があったという。
大輝の母親からすれば、睦美のような押しかけ女房との間に子どもまで作ってしまったことが腹立たしかったようだ。
それでも孫が可愛いのか、船橋の実家に戻るように何度も睦美を説得したが、あの学習塾でやっていくのだと、拒否し続けていたという。
──ほとんど潰れている学習塾にどうして執着するのかぼくには理解できなかった。実家に戻らなくてもやっていけるように、新しいビジネスにも取り組んだが、そこに未来が託せるとは思えなかったんだ。君には悪いけどあれは一家五人を支えることのできるようなビジネスではなかった。──
大輝は彼なりに将来を考え実家を選んだのだろう。
こうなってしまうと、睦美がなにをするか怖かった。子ども三人を抱えて、いま彼女も追い詰められているはずだ。
睦美に手紙を渡したのは眞弓だろう。眞弓も読んだのだろうか。あの日、いきなりケンカをしてしまい、そのまま実家へ逃げてしまったのがいけなかったのか。眞弓と仲よくしていたら、瑞希に手紙を返してくれただろうか。
「二人だけの秘密だよ」とでも言って。
あの夜の眞弓はおかしかった。手紙を読んだからかもしれない。眞弓は姉の旦那である名倉との関係は認めたのに、大輝との関係は受け入れられなかったのか。いや、瑞希のことを淫らな女と考え、秘密を共有することで縛り付けることができると期待したのかも知れない。
抱きついてきた眞弓の、甘えた表情を思い出すと、いまでもちょっと悲しく、ちょっと嫌悪を感じてしまう。
記事によると睦美との離婚が成立したら、大輝は政治家の娘婿になる予定となっていた。それは数年以内の政界への道なのである。大輝の母や家族が求めている世界なのだ。
大輝の代理人が睦美と離婚や慰謝料について話し合っていると書かれていた。すべては家族と代理人に任せているらしい。週刊誌の記事からは大輝の家族はカネには困っていないようだ。
──あの野郎。
もはや、霞のように薄ぼんやりとしかイメージできない大輝だったが、憎むべき相手は彼しかいない。眞弓でも睦美でもない。
憎む資格などない、とは思いつつ。
睦美は大輝との離婚話など一切しなかった。記事から推測できるのは、かなり前から夫婦仲は険悪で、塾の経営を含めて危機が連続していたらしい。大輝は親しい知人には「早く離婚したい」と語っていたというのに、三人も子どもを作っている。
睦美の女の勘は正しかったのではないか。十年前からの浮気は本当にあったのではないか。あの青森の女も当然……。そして瑞希も。ほかにもそれこそセフレがいたかもしれない。
そのとき、瑞希の心の中でもしかして大輝からすれば、自分が一番軽い存在だったのではないかという思いが浮かんできた。青森の女には別れの挨拶をしているではないか。今後の後腐れがないように。子どもの父親が自分ではないこともはっきりさせて。
しかし瑞希には一言もなかった。なにか言えば面倒になるだけと思ったのだろうか。
カーッと頭に血が上っていくのを感じて、腹立たしさは倍増した。
優柔不断なだけではなく、だらしなくて、いい加減な男だったのだ、大輝は。
「濡れちゃったね」
風にちぎれて声ははっきりとは届かなかった。気づけば、濡れた服を着たままぼんやりしていた瑞希のすぐ横に、真っ黒に日焼けした小柄な男が立っていた。顔には深い皺が刻み込まれている。
体に合っていない大きめのジーンズ。小さめのトレーナー。ジーンズがずり落ちないようにヒモのようなものを腰に巻いている。サンダル姿が似合う。
髪は短く刈り込まれ、真っ白だった。日焼けした地肌に白く光る髪は、カリブ海を連想させた。
「まだ水、冷たいだろう」
男は瑞希のキャップを手にしていた。こんがり焼けた備長炭のような腕。慣れないキャップが倒れたときに飛んでいたことにさえ気づかなかった。
「すみません」と謝っておく。
ヤバイ人かもしれない。ジジイなのか。瑞希の父親ぐらいの年齢なのか、判然としない。声はしっかり出ているようだが、風がうるさい。
キャップを受け取った。
「魚、食べる?」
意味がわからなかった。
「おれ、このあたりで漁師してたんだよ、あんたぐらいの頃」
瑞希は何歳に見えているのだろう。
「駅の向こうで店やってる。うまい魚、あるんだよ。おれが市場で仕入れているから絶対、間違いないよ」
そう言ってオヤジは笑った。
まだ開店前の小さな居酒屋だった。かなり茫漠とした道を歩かされたが、ずっと二人は無言だった。なぜこいつの後をついて行ってるんだろうと思いつつ、ほかに行くところもない。
低層のアパートや駐車場などの点在する中で、それほど新しくはないマンションの一階にその店はあった。隣は中華屋で、その隣はクリーニング店だった。中華屋は営業しているのかどうかよくわからない。
居酒屋は、開けっ放しの入り口が狭く、ビールや焼酎の空き瓶が外に出ており雑然としてはいた。やる気だけは感じられた。
入り口からの自然光が、店内に背の小さな小太りの女性を浮かび上がらせていた。白いシャツの肩が大きく盛り上がっている。
「××、なにやってるんだよ。さっさとしてよ」
オヤジは怒られた。女性が彼をなんと呼んだのか聞き取れなかった。あんた、おとうさん、おやじ、じじい?
「キムちゃん、これ、さばいておいてよ。フライにするから」
今度は聞こえた。男は「キムちゃん」と呼ばれていた。
「あいよ」と答えて、手を洗い、清潔なタオルを頭に巻いた。
「そこに座ってて。いま、食わしてやっから」
しばらくキムちゃんは魚をつぎつぎと、さばいているようだった。音もほとんどせず、上体のリズミカルな動きしか見えない。
瑞希は仕入れた材料や発泡容器などが乱雑に積まれたカウンターに座っていた。八人ほど座れるカウンターと背後に四人掛けのテーブルが二つ。それもかなりギチギチの狭い店だった。
キムちゃんが仕事に夢中になると、明かりのついていない店内は暗いままで、居心地は悪かった。
忘れられたのかな、もう出ようかな、と思ったときにキムちゃんがやってきて、瑞希の前に刺身の皿と醤油皿を並べた。
この間、キムちゃんは女性とたいして会話もしていない。いや、「ほらよ」とか「わかってるよ」ぐらいの声は聞こえたが、瑞希のこともほかのなにかのことも口にしていない。テレビもラジオもつけていない。
「これは平目。こっちは細魚(さより)。食べてみて」
声が若々しい。
「細い魚って書いて細魚。当て字だけどね。海の上のほうを泳いでるんだよね。だから『さあ、お寄り、さあ、お寄り』って手招きしたら来たらしいんだよね。で、さより」
「うそつきだよ、この人! また、いい加減なことを言って」と女性の声が店内に響く。
「ハハハハ。いいじゃない。おもしろいでしょ」
「魚に耳があればね!」
「あるよ、魚にも耳はあるんだ」
「へえ、だったら海に漬かってたら中耳炎になっちゃうよ!」
「ならねえよ」
「どこに耳があんだよ」
「頭ん中にあんだよ。内耳ってな」
「やっぱり、『ない』んじゃないかよ」
「そっちの『ない』じゃねえよ」
女性の方がどちらかといえば口が悪く、瑞希は笑いながら聞いていた。
「食ってみてよ。うまいよ」
すると女性も出てきた。手にはお茶碗がある。
「竹の子ご飯、食べてみる? 昨日の残りだけど」
「ありがとうございます」
捨てネコにエサでもやるように、二人から貰ったものを食べてみた。
「おいしい」
それは魚を口に入れた瞬間に感じたことだった。醤油は少ししかつけていない。柔らかいが弾力のある身が口の中で一瞬踊り、じんわりと甘みを発散しながら溶けていく。噛み砕かれていく身が愛おしい。せっかく「さ、お寄り」と呼ばれて行ったのに、食べられてしまうのか。
「もっと食え」
「はい」
あっという間に平目も細魚も竹の子ご飯もなくなった。
温いほうじ茶を出してくれて、口の中はさっぱりした。
「あんたさ、キムちゃんになんて言われたの」と女が言う。キムちゃんは、用事を足しに外に出てしまっている。
「なにも……。付いて来いって」
「ふーん。年に何回か、あるんだ。キムちゃんが人を連れてくること」
「そうなんですか」
「キムちゃんはね、昔は漁師やってたけど、ずっと家族もいなくてね」
「はあ」
「戦争や病気で、四十年ぐらい前には家族や親戚がみんないなくなって、キムちゃんだけになっちゃった」
その女性が店のオーナーだとはじめて知った。キムちゃんは雇われているのだ。
「一番、かわいがっていたのが妹さんだったらしくてね。あんたぐらいの頃に病気で死んでしまったんだって。だから、よーく、あんたみたいな子を店に連れて来ちゃ、なにか食べさせる。もう慣れちゃったけど最初はびっくりしたよ」
二月の、まだ春が来ない頃に亡くなったらしく、この時期はたまに、キムちゃんはおかしくなるのだそうだ。
「来てくれて、ありがとうね。ああいう人だから、仕込みも途中で放り出してどこかへ行っちゃうと、夕方まで戻って来ない。そろそろランチの準備をしないといけないの。悪いね」
「いえ、こちらこそ、ご馳走になってしまって。おいくらですか?」
彼女はただ首を横に振ってカウンターの上を片付けはじめた。
「お皿、洗いますから」
「いいのよ、そんなこと」
「いえ」と瑞希は、彼女の目を見て告げた。「やらせてください」
たわしとスポンジで自分の使った器を洗った。
「これでいいでしょうか」
「悪かったね、かえって」
「いえ。ありがとうございます。ごちそうさまでした」
「ありがとね」
瑞希は外に出た。
知らない街だった。来るときはキムちゃんについてきたからいいようなものの、帰り道がわからず、しばらく途方に暮れた。見慣れた建物が一つもなく、知っている地名もない。地図もない。
瑞希はスマホを出して、少し怯えながら地図アプリを表示した。
このまま自分はこの世から消えていくのかもしれない……。
たくさんの通知が画面の上を流れていく。一般的なニュースもあれば、会社の情報もあり、そして自分あてのメッセージもあった。
──カギを預かってます。
名倉からのメッセージが何度も入っていた。
メッセージを開く気になれず、通知される中途半端な言葉だけを流して見ていた。
──カギってなんだろう……。
駅の方向がわかり、そちらに向かっていった。昼間の鈍い日差しに、キャップを少し深く被りなおした。
着信履歴を見ると、名倉以上に非通知が何十件も入っていた。知らない番号が表示される電話もあった。どれもこれも、ボイスメッセージも残されていない。いくつか記録されていたが、電話を切る音しか入っていなかった。「居留守かよ」という声が入っているのもあった。その口調に記者クラブの喧噪を連想した。
スマホを操作して耳にあてて、歩道を歩いて、地図で現在位置を確認して。
キムちゃんのあとを付いていく方が、同じ距離を歩くにもずっと楽だった。不安だったが楽だった。
誰かのあとを付いていくことなど、これまで考えたこともなかった。
自分の道は自分で切り開く。大げさな覚悟ではないとしても、あくせくと自分なりの、よかれと思った道を選んで生きてきたつもりだった。
その結果がこれだ。
駅前に出てホッとしたが、それが心の余裕を生んだのか、名倉に電話を掛けてみた。
「おおっ、瑞希!」
彼の声は弾んでいた。
最後に会ったのはいつだったか。会社に眞美が乗り込んできて、プロポーズされたときか。
何年も前のことのように思える。
同時に彼の力強い声に記憶が反応して、三週間前に戻ったような錯覚もあった。甘い味が甦ってくる。あのパンパンに膨らんだボールのような体が懐かしい。
ふと、目を遠くにやる。見慣れない駅前の光景に気づく。
甘さが苦みに変わった。唇を一瞬、噛みしめた。半分、この世から消えている自分……。
「いま、どこ?」
「隠れている」
「月島じゃないの?」
「あそこには、いられない」
一夜を過ごす気分になれない。それに、よからぬ者が訪ねてくる可能性もあった。
「会いたいんだけど」
「カギってなに?」
「ああ。そのこともあるし。とにかく会いたいんだ」
返事がうまく出てこなくて、しばらく沈黙した。駅のアナウンスが響いている。冷静な声で駅名を告げたり、間もなくやってくる電車の案内をしている。黄色い線の内側に下がって……。
そういえば、あの日、名倉に出会ったとき、彼は駅のホームで瑞希の袖をぎゅっと掴んだのだった。
「ごめん、あとでかけ直す」
自分がまったく人として機能していないことに気づき、瑞希は恥ずかしくなって駅構内をうろうろした。
目的なく歩くことは、キムちゃんのあとをついていくことよりも苦しく、つらかった。それでも立ち止まるのはもっと怖かった。
なんにもない自分に向き合うのが怖かった。消えてしまう自分を確認するのが怖かった。
大輝を悪者にしようとしたのに、それもいまではどうでもよくなっている。必要なところだけ記事にされていた例の手紙に、本当はなにが書かれていたのか、興味も失せていた。
あの手紙にどれほど美しい言葉が詰め込まれていたとしても、いまの瑞希にはなんの役にも立たない。
まして、それを持っているのは睦美なのだ。
手紙の原本を読むためには、睦美と会うしかない。
その勇気はなかった。
誰と会う勇気もなかった。
そもそも瑞希には、そういうタイプの勇気はなかった。だから大輝とお手軽な不倫をしてしまったのではないか……。大輝の優柔不断さは、そのまま自分の優柔不断さだ。
いや、少なくとも愛情はあった。あったはずだ。いまは思い出せないが。
ホテルに戻り、ベッドメイクされたばかりの羽毛布団に、大の字に倒れてみた。部屋に海水のにおいが広がっていく。ジーンズや靴下は生乾きだ。気持ち悪いが、そのままにしておいた。冷たくなっている足先は、雪に見舞われた田町を大輝とさまよって、ビルとビルにはさまれたホテルに気づいたあの日を思い出す。
ホテルを見つけたところまではよく覚えているのに、そこに一緒に入ったあたりが曖昧な記憶になっていた。たぶん、盛り上がってしまったのだ。お互いに……。
もっと話をしたかった。大輝は黙って瑞希の言葉をすべて聞いてくれた。ときどきは言葉を返すが、それもすべて美しい卓球のラリーのように、心地良いリズムを崩すことはなかった。いつまでも終わらないでほしかった。
とくに雪の降った夜は……。
だから部屋に入ってしばらく二人は話をした。
──ぼくに興味、ありますか?
──もちろん。
──実は、ぼくも瑞希さんに興味があるんです。
そんな会話を大輝としたような気もする。あとで捏造した妄想かもしれない。
──瑞希さんの体は、本当に美しい。
大輝は褒めた。大輝は瑞希のあらゆるところを褒めた。瑞希が自分ではきらいな部分も褒めた。
──目つきが、父親に似ていて……。
──そうなの? ステキだと思うけどな。
──メガネをかけるとそっくりになるから、コンタクトにしているんだけど……。
──メガネも似合うよ、絶対に。今度、選んであげるよ。
やたらに自信を持たせるのが上手だった。それもある意味の快楽だった。
大輝と月に一回か二回、肌を合わせる行為によって、瑞希はしっかり仕事を自分のものにして、月島で一人で暮らすことができ、少ない給料でも借金することなく、一時しのぎの遊興に散財するようなこともなく、三十代二度目の大厄の年を迎えられたのだ。
悪いのは大輝だ。それはもう瑞希の中では決定的にそうなっている。いや、彼女自身が一番悪いとわかっているからこそ、外側にもっと強力な悪の象徴が必要だった。だからといって、彼になにかをぶつけたい気分でもない。
自分は睦美とは違う。大輝と結婚したわけではなく、大輝の子を産んで育てているわけでもない。
天井を見ていてもなにも解決しない。
名倉はすぐに出た。
「ここに来てくれる?」
自分ではそのつもりはなかったのに、妙に甘えているような口調になってしまい、腹立たしかった。
名倉は文句も言わず了承した。月島では会いたくない。ほかのどの場所でも、会いたくない。ここは、広い公園があり、水族館があって、そして海に向かって開けている。
一瞬、キムちゃんの店に行くことを考えたが、あそこは瑞希にとっての魔法の場所だった。名倉を連れて行くと、あの幻想的な思い出までもが崩壊しそうな気がした。それにキムちゃんに悪い。彼の幻想まで壊す権利は瑞希にはなかった。
午後の水族館は、平日ではあったが、それなりに人も多かった。
「高校生のデートみたいだね」
久しぶりに会った名倉は、どこか少し変わっていた。田上が社長になったときのように、なにかしらいいことがあったように見えた。幻や妄想ではなく、そこにしっかりと立っている名倉に、飛び込んでしまいたい衝動を瑞希は抑えた。
──もう、そういうのは、しない。
相手が変わったなら自分も変わる。瑞希は意識するというよりも、ただ受け入れた。彼は変わったのだ。名倉は以前の彼ではない。
薄暗い回遊式の大きな水槽から、いくつかの展示を経て一階にあるレストランへ行く。
さして腹がすいているわけではなかった。キムちゃんのところでご飯を一膳、食べていた。しかし和風のパスタを頼んだ。トレイをレールの上をすべらせていく。レストランというよりはカフェテリアだった。
名倉はコーヒーだけだった。瑞希はカフェオレを追加した。名倉はそこに彩られた少しばかりお子様向けのスイーツをチラッと見たが、追加しなかった。
ガラス張りの店内は、子どもたちの声が耳に刺さるようで、それなら潮風のほうがマシだった。
外はこの季節にしては暑かった。西に少し傾いた太陽が強烈だ。
テラスは白い帆のような屋根がいくつかあり、その下で食事ができる。軽いイスに腰掛けて、前の客がこぼしていったらしいお菓子の粉をティッシュで拭き取った。
「瑞希さん、ちょっと雰囲気、変わりましたね」と名倉が言った。
「えっ、私が? 名倉さんこそ……」
「えっ、ぼくがですか?」と関西のイントネーションで答える。それも懐かしい。
「あ、笑った。よかった、笑った」と名倉も微笑んだ。
「心持ち、痩せましたよね?」
パンパンの顔ではない。
「そうですか? うれしいなあ。そう言ってくれるの、瑞希さんだけですよ」
会話のリズムは相変わらずだ。聞き役といっても大輝と名倉ではかなり違う。名倉は話を運ぶ技術があった。それはおしゃべりを大事にする地域で育ったからなのか。彼の天性なのかはわからない。
「いろいろ大変ですね。大丈夫ですか」
辛口の司会者のように、ズバリと核心に触れてくるのだが、彼の表情から伝わってくる穏やかさに、つい心が揺れてしまう。
「大変でした。ホントに。いまも、ですけど……」
「うん」
彼はそこでは間を取って、コーヒーにミルクを入れた。今日は砂糖を使わないようだ。ダイエットか。そういえばスイーツも頼まなかった。
「ぼく、正式に離婚しました」
「あっ」
おめでとう、と言いそうになった。
「やっと、眞美さんも納得してくれました。このまま夫婦に戻っても続かないことをわかってくれたんです」
「いろいろ、あったんですね」
「まあ……」
それを言いに来たのだろうか。
「そうだ、カギ」と彼はポケットから白い封筒を取り出した。
瑞希は大輝からの手紙かと一瞬錯覚し、ドキッとした。
「眞弓さんから預かってきました」
なぜかパスタを選んでいた。眞弓もこの店に来たら、これを頼むだろう。そして二人で顔を見合わせながら、目で笑いながら、食べただろう。
「あなたの部屋の合い鍵を勝手に作るなんて、ストーカーですよね。あの姉妹、ホント、すごいっていうか、なんていうか……」
「眞弓の悪口は言わないで」
思わず、そう言っていた。
「あ、はあ」
名倉はびっくりしている。
「その中に、眞弓さんからの手紙が入っていますよ」
それで厳重に封がしてあるのか、と瑞希は得心した。
「あとで読みます」
「そうしてください。なにがあったのか知りませんが、眞弓さんは京都に戻って、いま眞美さんと一緒に暮らしています」
「そうだったんですか……」
仲の悪い姉妹。それでも姉妹。しまいには姉妹。そんなダジャレが浮かんでくる。名倉から発散されるなにかの影響を受けているのだろう。
傷ついた姉妹は、その後、京都でひっそり暮らしましたとさ──。
そんなわけないな、と瑞希は思う。新たな作戦を練っているのだろう。別の獲物を求めて。
そうであって欲しかった。
暗くなるのは自分一人で充分だと瑞希は思っていた。いや、すでに母や家族全員をどん底に突き落とし、大親友の睦美をとんでもなく深い谷底に突き落としているけども。
ほかに突き落とす相手は……。
「いま、こんなことを言ってもダメかなって思いますけど、前に言ったことは本気です」と名倉がしゃべっていた。
よどみなく、何度も聞いたことのある懐かしい歌のように、彼はいろいろなことをしゃべっている。
瑞希はパスタを口にして、味はわからなくなっていたが飲み込んで、ムリに微笑み、遠くの空を見た。その下は海のはずで、もしかしたら自分が見ているのは海なのかもしれなかった。
判然としないのは、いくら目を向けても滲んでしまって、光が乱反射しているからだった。
おかしいな、どうしたのかな──。
微笑みながら泣いていた。
「必ず、瑞希さんを幸せにすると約束します」と、ついに名倉が言ったとき、瑞希は立ち上がり、イスがコンクリートの床に擦れて派手な金属音を発した。
「私は……」
「待って。待ってください。いま返事しないで! いまは返事、しちゃダメです。その時じゃない。わかっています。ぼくだってそれぐらいはわかる。だから一方的にぼくの気持ちだけ言ってごめんなさい。だけど、いまの瑞希さんにこそ、選択肢が必要です。いまは決めないで。返事しないで。ぼくは聞きませんから」
名倉の顔はやや青ざめていた。
瑞希は深々と彼に頭を下げた。広報部長から仕込まれたお辞儀だ。お腹を引っ込ませて、腰から九十度に折る。頭を下げるんじゃない。頭は上体と一直線。頭を下げると背が丸まって体が充分に倒れない……。
「今日は来ていただいてありがとうございます。今度はちゃんと私からうかがいます。それでもいいでしょうか?」
「もちろんです」
瑞希はもう泣いてはいなかった。
名倉に対しては、ちゃんとしなければならない。それに眞弓の、まだ読んではいないものの、手紙を受け取っただけで少しエネルギーが得られたような気がした。
「一つだけ、教えていただければと思うんですけど」
「なんです?」
とっさになると、また関西風になる。
「月島で夜遅くに飲みましたよね。バーのようなところで」
「あっ、はい。まあ、そうですね」
「あのとき、親会社が私たち、あ、もう私は関係ないですが、あの会社を見放すって話をしていたの、覚えてますか?」
「ええ、まあ、そうだったかな。そうかもしれない」
「名倉さん、ずっと京都にいたわけではないんですよね」
「え? まあ、そうですね。いろいろと」
「眞美さんが会社に怒鳴り込んできたとき、名倉さんも東京にいたんですよね?」
「ああ、まあ、そうですね。よく覚えてないですけど。あっちこっち、飛び回っていましたから……」
「もしかして、東京地検の件だとか、チャン社長の買収とか、すべてご存じだったのかなって思ったので……」
「まさか、ぼくなんて、そんな重要なこと……」
「私なんかがあのタスクフォースのメンバーになったのも不思議だし……」
「ぼく、なんにも関わってないですよ。あれは、ほら、長池部長が推奨したんですよ、確か」
長池部長は名倉とラグビーつながりで、瑞希と名倉が結婚するなら仲人がしたいと張り切っていた。こうなってみるとあの部長はなにを画策していたのだろう……。
「ぼくだってびっくりしたし、瑞希さんすごいなって思っただけで……」
名倉の困った表情は戸惑いなのか、それとも……。
「私、隠し事、苦手だなって、わかったんです」
瑞希はそう言って笑顔をつくった。
「もう、苦手なことには手を出さないって決めました」
「はあ」
本当に困った、という表情を名倉が見せた。
「もし、今後、誰かと一緒に生きて行くとしたら、隠し事をしないようにしたいし、もし絶対に相手に知られたくないのなら、死ぬまで知られないようにして欲しいと思います。私もそうします」
「なるほど」
名倉の目が安物のテディーベアを連想させた。
「いまは、普通の気持ちじゃないので、判断力もありません。だから、いずれ名倉さんのところへうかがうときには、そんなことも含めてお話をできたらいいなと思います」
「そうですね。はあ、そうですね。まったくですね。ぼくも正直に生きていくのがステキだなって思うし……」
「今日は、本当にありがとうございました」
もう一度、きちんとしたお辞儀をした。
「ええ、まあ」
名倉も立ち上がって恐縮している。
「申し訳ないですが、ここでお別れしてもいいでしょうか。私はもう少しここにいたいので。なにもすることがありませんし」
名倉はまだなにか言いたそうだったが、諦めて、数回うなずいた。
彼の想像していた展開とはまるで違ったらしい。その戸惑いと落胆が伝わってきたが、瑞希は強い潮風にそれを吹き飛ばしてもらった。むしろ爽快だった。
彼は自分のカップだけを持って店内に戻って行った。ガラス越しに、彼が幼い子を連れた母親に混じって返却場所にカップを置いているのが見えた。
ちょっとこっちを振り返ったような気がしたが、光の反射でよく見えなかった。挨拶したのだろうか。ニコッとしたのだろうか。それとも仏頂面だったのか。わからない。
ただ、瑞希は本当に名倉に会えてよかったと思って、微笑んだまま再び座った。
「はー」
ため息をついてから、しばらく座っていた。思った以上にパスタが残っていた。食欲は戻らない。
名倉は本当に帰ったようだ。
封筒を指で破った。
中から眞弓が急いで作らせた合い鍵が出てきた。
合い鍵は本物よりあたらしくきれいだが、どことなく雑だった。これを作るとき、彼女はきっと楽しかったのだろう。その楽しさはあの彼女なりの手作りパーティーの日まで続いたのだろう。
二つ折りの紙が入っていた。中学生がバレンタインデーにでも使いそうな、模様の入った小さな紙だった。花びらが舞い、音符のように風が流れ、帽子をかぶった緑の妖精が横笛を吹いていた。
手書き。言葉は少なかった。
瑞希。ごめんなさい。知らなかった。悪いのは私です。
名倉を信用してはダメ。またダマされるよ。タックル野郎のタックルって、釣り道具って意味もあるんだから。釣られるなよ。
京都はいいよ。姉さえいなければ。ありがとう。
たったのそれだけ。
しかし、瑞希は「ふふふ」と自分が声を出していることに気づいた。
「ハハハハ」
その発作を止めることができない。開き直って大きな声で笑うしかない。そうしなければ死んでしまう……。
声はしだいに大きくなった。
恥ずかしくて、急いで席を離れ、海の見えるところまで行った。強い風に子どもたちも体を持っていかれそうになって、悲鳴を上げていた。
子どもに負けないぐらいの大きな声で笑った。お腹が痛くて吐きそうなほど。
眞弓らしいな、と思う。
「釣られないぞー」と海に向かって叫んでみた。「釣られるもんか!」
急速に太陽が西に傾いていき、あたりはオレンジ色に染まっていった。急に風は穏やかになり、暖かく瑞希の体を包んだ。
なに一つ解決していない。瑞希にはわからないこともたくさんある。だけど、それを知って、すべてを解決するのは自分の役目ではない気がした。
それよりも、会わなければならない人がいる。どうしたって、そこから逃げるわけにはいかない。このままダメになっていくのも、ちょっとだけあがいてみるのも、大した違いはない。なら、あがいてみよう。みっともなくて、恥ずかしく、あがいて生きてみよう。
まだ夜には早い。調べると西新井まで一時間ほどで行けそうだった。
<了>
倫々爛々《りんりんらんらん 》 親友の夫と不倫している女に幸せなんて来るはずがない 本間舜久(ほんまシュンジ) @honmashunji
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