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「ブラッドシティ」の秘密 その2 かしこそう~おかしいわ

・かしこそう

 映画
 当時の娯楽のメインだった映画。映画館の入り口にはチケット売り場があって、人がいて、そこで「大人1枚、子ども1枚」などといって購入する仕組みでした。
 映画館内での飲食は飲み物(コーラ、ジュース)のほか、袋菓子、そしてモナカアイスなど。映画と映画の間で明るくなる時間に、席まで売りに来ることもありました。
 上映方法は、1作品だけのロードショーもあれば、2作品の併映もありました。邦画は2作品併映が多かったはずです。また映画の冒頭にはニュース映画や予告編が10分以上も流れることがありました。
 入場は随時なので、映画を途中から見て、途中で帰る、といったこともできましたし、1日中、同じ映画を繰り返し見る、ということもできました。

 スパゲティーミートボール
 ディズニー映画『わんわん物語』(Lady and the Tramp、日本公開は1956年)の中で、ミートボール(肉団子)のスパゲティーを食べるシーンもあり、当時のレストランではよくメニューにあったのです。また、当時は「パスタ」と呼ぶ人はほとんどいませんでした。いまで言う「ボロネーゼ」にミートボールが入っているようなイメージです。

 タバコ
 この時代に、禁煙運動はほどんとなく、世の中のあらゆる場所で喫煙が可能でしたし、飲食店には灰皿がありました。また飲食店でタバコを購入することもできました。そのときには、店独自のマッチをくれることも多く、このマッチをコレクションしている人も大勢いました。

 割烹着姿
 料理をしたり、ほかの家の手伝いをするとき、とくに水周りの仕事をするときに、エプロンより割烹着が多かった時代がありました。和装ですから洋装には合わないようでも、当時はあまり気にしていなかったのではないでしょうか。

 炭鉱
 北海道、九州を中心に多くの炭鉱があった日本ですが、1960年代には石油へのエネルギー転換が進み、徐々に炭鉱は閉鎖へ向かいます。そのとき、多くの炭鉱労働者を放り出すわけにはいかないので、「炭鉱離職者 臨時措置法」(昭和34年、1959年)などによって、移転、職業訓練などによる再就職を斡旋していきました。
 このため首都圏周辺には、事業団による団地なども設営され、さまざまな仕事への転職が進められたのです。

・こわいこと

 冬眠ごっこ
「○○ごっこ」と称した子どもの遊びが生まれては消えていった時代です。鬼ごっこがはじまりでしょうか。スーパーマンごっこ、コンバットごっこ、忍者部隊月光ごっこなどなど。

 ヒロポン
 第二次大戦の前から市販されていた向精神薬。濫用されていました。文学者や芸術家で常用していた人たちも多かったことで知られています。戦後1951年(昭和26年)覚醒剤取締法が公布されてから取り締まりの対象となっていました。

 アドバルーン
 百貨店などの屋上から売り出しなどを知らせる広告幕を吊した気球式の広告。高いビルが増えたことなどから昭和40年代後半から減っていき、現在は建物の上から建物に沿って下げる懸垂幕に、その名残があります。

 グレ太、ガル坊
 架空の芸名。ハリウッド女優グレタ・ガルボ。1941年に35歳で引退。戦前から知られていた女優です。なお、芸人などが、海外の俳優やコメディアンの名をもじって自分の芸名にすることもあった。たとえば益田喜頓(バスター・キートン)。

 顎の横にホクロ
 双子の歌手ザ・ピーナッツの見分けのつけ方として、ホクロのある方、ない方、というのがあった。

 オレンジジュース
 当時、オレンジ風味のジュースは瓶入り、粉末など一般的だった。果汁のないフレーバーのみのものも多く、粉末ジュースは一般的で、水代わりに手軽に飲んでいた。

 プディング
 プリンアラモードは、横浜のホテルニューグランドが発祥とされる。プディングは玉子と牛乳をつかったイギリス伝統の料理の総称で、甘いものから食事までバリエーションが多く、その中の甘いものをプリンと呼ぶ。ちなみに、グリコのプッチンプリンが発売されたのは1972年(昭和47年)のこと。物語の昭和30年代にはプリンはレストランなどで食べる高級なデザートだった。
 おそらくグレ太たちは、ホテルか山手の西洋菓子の店で小さな瓶に入ったプディングを入手したのではないだろうか。

 ドイツ料理
 港町の中でもY市の港は海外の船が多く、世界各国の船員や乗客が来る。とくに明治時代から外国人居留地があったこともあって、ドイツ、オランダ、イギリスなどの定住者たちが、店を開いたり、日本人に自国の料理を教えることもあった。

 ハーフェンハウス
 Hafenhaus。ドイツ語で「港の家」。レストランやホテルの名としてドイツにはいくつか名称として使われている。

 電話帳
 当時は電話帳は毎年新しく発行され、各戸で持っていました。電話の登録者の名前、住所、電話番号が地域ごとに一覧になっていました。
 戦後、1952年(昭和27年)に電電公社(日本電信電話公社)が誕生し、1985年(昭和60年)に民営化されるまで政府の外郭団体として電話や通信を一手に管轄していました(現在のNTT)。
 なお、昭和26年(1951年)には職業別も発行されるようになり、人名別電話番号簿(のち昭和34年からは「50音別電話番号簿」)が作られていました。
 正式に電話帳と呼ばれるようになるのは1971年からですが、多くの人はその前から「電話帳」と呼んでいたようですので、本作では電話帳としています。

・おかしいわ

 黒い電話機
 4号自動式卓上電話機、通称「黒電話」のこと。カラー化されるのは1971年(昭和46年)から。
 いわゆる「回転ダイヤル式」で、丸いダイヤルを右下まで回す。それが戻るときに発生するパルスを送信して電話番号を自動電話交換機が認識し、相手につなぐ。アナログの電話機。
 プッシュホンが登場するのは1969年(昭和44年)だが根強い人気から黒電話の製造が中止されたのは2002年のことでした。

 共同電話
 電話の人気に電話交換機などが追いつかず、単独の電話よりも、共同電話の方が早く取り付けられる時期がありました。電話を使うタイミングは同時であることは少ないだろうということで、隣家などと同じ回線で使い分ける方式。隣家が使っていると、こちらは使えません。なお、守秘性が保てるタイプ(隣家の通話は聞えない)ものもあれば、自宅に2台つけるような、他の電話機の音が聞えるタイプもありました。

 軍隊仕様のブーツ
 質のいい服や靴は米軍関係から放出されたもの、という意識の強かった時代です。米国軍人は日本を去るときに自分の支給品を業者に売り払い、それを扱う店がいくつかありました。とくに、軍隊のマニアというわけではなく、丈夫で使える服や靴を求めてこうした中古品を使う人も多くいました。
 現在も東京・御徒町のアメ横にある「中田商店」はその雰囲気がいまも少し残っている店です。

 焼酎
 この時代のお酒は、ビール大瓶115円、日本酒一升瓶508円、焼酎一升瓶345円。
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 1959年(昭和34年)には、はじめてビールの消費量が清酒を上回り、野球のビールかけも始まりました。冷蔵庫の普及によってビールを家庭で冷やすようになっていくのも消費増につながっていきます。
 1962年(昭和37年)には、全酒類の消費量の50%以上をビールが占めるまでになり、自販機も登場。
 一方、焼酎は戦後、軍事用アルコール工場から甲類焼酎製造へ転じて、生産量が増大。昭和31年には全酒類消費量の16%を占めていましたが、昭和40年代にはウィスキーの増大によって需要が減っていきます。1987年(昭和57年)以降にやってくるブームまで静かにファンによって支えられ、あるいは梅酒などのホワイトリカーとして親しまれていたのです。
 この物語の当時は、日本酒、ビールが中心で、焼酎は安いお酒、早く酔えるがおいしくないと蔑まれていました。一方、舶来(輸入)のウィスキー、ブランデー、ワインは超高級のイメージでした。
 すでにカクテルのブームがやってきて、バーテンダーは水商売のスター的職業となっていた時代でした。ホームバーを趣味で作ろうという人が現われるのもこの頃からでしょう。そこには国産ウィスキー(トリス、ニッカ)の人気上昇で「お酒の飲み方」について人々が考えたり楽しむようになってくる世相が関係しているのです。

 バイク
 自動車への憧れより早く、戦後はバイクのブームがあり、自動車レース同様にバイクのレースも人気でした。カワサキに吸収されたメグロはトライアンスの部品を作っていたメーカーですし、ホンダもみなさんご存じの通りです。CB450など人気も高く、ナナハン(750cc)が登場するのは1969年でした。
 キックスタートのバイクが物語の時代には当たり前でした。

 4CV
 日野ルノー。日野自動車がルノーの部品を輸入してノックダウン方式で国内で製造販売していた自動車です。

 F11
 グラマンのジェット戦闘機。海軍の艦上戦闘機。1956年から1961年まで実践配備され、ブルーエンジェルスは1969年まで使用していました。

 原潜
 原子力潜水艦。当時、日本の港に原潜を入港させることについて反対運動が起きていました。被爆国でもある日本国内では、原子力に対するさまざまな反応がありました。核兵器、原潜、原子力空母といったものに対する反対運動が盛んでした。

 サンパルソンとグンサブンゲソン
 朝鮮戦争の休戦ラインと38度線(第二次大戦後に米ソで決めた分割ライン)は厳密には違う、という意味でしょう。サンパルソンは38度線。グンサブンゲソンは軍事分界線。

 シベリア
 第二次大戦の終戦時、中国などに展開していた旧日本軍の捕虜たちがシベリアで強制労働をさせられたことを指しています。過酷な環境、重労働で亡くなった人たちも多くいました。

 箱根
 戦後、米軍関係者のリゾート地としても知られていました。

 つづく
 

 


 


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