第4話 いま、そこにある地獄

 地獄だ、いま私は地獄を見ているのだ……。

 瑞希は愕然としていた。

 男の子が走りまわっている。お客さんが来てはしゃいでいる。一番下の子。小学三年生だ。そこに彼の兄が帰ってくる。四年生。

 いきなりゲームを巡って取っ組み合いのケンカが始まる。

 さらに六年生が帰ってきて、バーンとカバンを投げ捨てると「おかあさん、あれ、どこ?」と塾の道具らしいものを探し始める。

 睦美はそれに対応しながら、名倉とパソコンに向かうのだ。

 同じ年齢なのに、睦美は母だった。母であり鬼だった。

「うるさい、バカ、そこでしょ、なにやってるの、ゲーム禁止、ぶっ飛ばすよ」

 怒鳴ったあと、ニッコリ笑って瑞希を見る。小じわを隠すような高級化粧品もないので、睦美は年相応に老けて生活感もある。

 それがたくましく見える。

 名倉はパソコンの基本的な使い方を含めて、サービス画面への入り方や、そこでどういう仕事をしているのかを説明している。

「遠隔で英語を教えるシステムなんです。元は韓国の会社が作っていてそれをうちで日本語対応にしています。こちらでは、生徒さんと先生のマッチングをしたり、生徒さんの学習の管理やサポートをしていただいてます」

 本来は先生と生徒をネットでつなぐだけの授業形式のものだったが、いまは学習塾的になっており生徒のレベルに合わせてキメ細かくカリキュラムを組んだり、進捗管理をしなければならない。

 それをネイティブの教師にはやらせられないため、大輝のようなコーディネーターが必要になる。

 もともとは瑞希の会社にオペレーターを置いてやっていたのだが、コストが合わないこともあって外部委託になり、それを一種の事業に仕立てて、大輝のような教育経験のある人のサイドビジネスになるようにしてあった。

 四年かけて大輝と育ててきたビジネスは三つあった。いずれもベンダーとしての会社から支給された仕組みを利用してのもので、アフィリエイトのように薄い利益だけを得るものもあれば、コーディネーターのように会社からの定額のギャラを受け取れるビジネスもある。

 いずれも大輝のビジネスとして多角化され、それぞれをうまく回せば学習塾収入の減少をカバーできるはずだった。

 それをゼロから睦美に教えるとなると、瑞希には難しかった。

 名倉は、とても丁寧に辛抱強く教育をはじめた。彼は少し甲高い声で笑うのだが、睦美とうまく波長が合っているようだ。

「では、このあと九時まで塾なので……」

 学習塾の生徒は四人だという。放り出すわけにはいかず、しばらく睦美が教えるつもりなのだ。瑞希の調べたところ、このあたりの学習塾では、小学生の月謝はせいぜい高くて一万円。今日の四人からは四万円以下の売り上げとなる。ほかにも生徒はいるとして、せめて十人はいなければ成り立たない。睦美たちのような大手の傘下に入っていない学習塾は、月謝を安くして生徒を確保しているかもしれない。ネームバリューのない学習塾が存続できているのは、むしろ奇跡だ。

 名倉が帰ったあと、瑞希は友人として残った。いまの睦美を見るのは辛いことだったが、彼女が塾をやっている間に大輝から連絡があるかもしれない。ふらりと帰ってくるかもしれない。

 塾の間、三人の子どもたちも教室で勉強をさせているので、瑞希はただぼんやりと隣の教室からの睦美の声を聞いている。

 個別指導をうたっているので、四人の生徒にはそれぞれに別の課題を出して、睦美は個々に指導しながら、自分の子にも同じトーンで指導している。

 驚いたことに、先ほどまでの地獄からは想像できないほど子どもたちはちゃんとしていた。

 睦美は教育が上手なのかもしれない。

 だったらビジネスも少しはうまく行く可能性もあるだろうか。そんなことを漠然と瑞希は思いながら、SNSでつながっている会ったこともない人たちの投稿をながめていた。

 そこに名倉からメッセージが来た。

 ──いま、どこですか?

 ──まだ学習塾。

 ──月島に寄ってもいいですか?

 ──すぐには帰れないです。

 ──何時になってもいいです。帰るときに教えてください。

 ため息が出る。

 名倉と眞弓の関係を考えると、以前ほど気軽に付き合うことができなくなっていた。

 離婚調停をちゃんと終わらせてくれればいいのに……。

 しかしこの調停は、妻側が離婚したくないから、こじれているのだ。名倉は気持ちのすれ違いから離婚を決意した。それなのに手の平を返したように、妻の眞美は「離婚しない」といいはじめたのだ。それでいて子作りも諦めていない。

 名倉はそれが嫌なのだった。

「ぼくは、彼女のなんなのかなあ」とぼやいていた。

 夫婦はその数だけ事情がある。だから一般論では語れないと瑞希も頭ではわかっている。

 それでもしがみつく眞美を理解することは難しい。京都の実家に引っ込んで、会いにも来ないのに離婚はしない、いや離婚を前提とした別居であり、調停にも出るが、それでも離婚したくない……。

 たぶん、なにか情報が欠けてるんだ、と思う。決定的なことは名倉も言わないのだろう。

「瑞希、待たせちゃったね」

 顔を赤くして睦美が戻ってきた。塾が終わったのだ。子どもたちは、いい子のまま部屋に勉強道具を置きに行った。

「なにか食べようか」

 子どもたちを連れて近くのもんじゃ焼き屋へ行く。夜は居酒屋になるが、九時を過ぎるとかなりすいている。

 狭いながらも小上がりがあるので、子どもたちがいても苦にならない。

「久しぶりだわ、ここ」

「だよね」

 大輝の学習塾は、睦美や瑞希が育った生活圏に接していて、荒川区のこのあたりは幼い頃からよく出入りしていた店が多い。

 月島での一人暮らしも、親から見れば「お金のムダ」なのだろう。確かに家賃のせいで自由に使えるお金はとても少ない。ただ「社員」になれたことで自分なりに自立してみたかったのだ。

 それでいて、月島とここはよく似ていた。本能的に似た雰囲気の街を選んでいたようだ。

「くどう美容室、やめちゃうんだって。ま、最近は美容室も行けないけどさ」

 睦美のバサバサの髪が、鉄板で焼け焦げていくもんじゃと重なる。

 くどう美容室は二人がはじめて大人びたカットをしてもらった店だ。古い美容室で昭和のはじめから続いていた。瑞希たちが幼い頃はまだ先代が現役で、二代目の若い娘が活躍しはじめた頃だった。

 二人はその「お姉さん」に憧れていた。

「あのお姉さんはどうするの?」

「去年、乳癌が見つかって、それからずっと闘病してて……」

「えっ。ぜんぜん、知らなかった……。大変ね」

 みんなそれぞれ大変なのだ。この睦美も、いま夫がどこへとも知れず姿を消したきり連絡もないのだから。

「考えたってしょうがないよね」

 授業をやり遂げた達成感からだろうか、睦美は饒舌で、瑞希の返事は待たずにつぎつぎと話題を変えていった。

「人生、なにがあるかわからないってホントよね。病気も怖いけど……。予想していないところから、急にグサッてやられちゃうって、まいっちゃうわよね。とにかく、この子たちとここでやっていかないといけないんだし。瑞希、よろしくお願いします」

「なによ、改まって」

 ウーロン杯で乾杯する。

「あいつ、浮気してたんだよ」

「え?」

 もんじゃのへらを舐めながら、睦美は鋭い目で瑞希を見る。

「バレてないって思ってたのかもしれないけど、わかるよね、やっぱり」

「そ」

 そうなんだ、の言葉が出ない。

 またまた脇汗がじんわりと沁み出していく。

「たこ焼き食べたい!」と子どもたちが言い出し、注文し、ウーロン杯のおかわりを頼んだりしている間も、まだ落ち着きを取り戻せない。

「ま、するよね、男ってさ。たぶん、三男の出産の頃からだと思うんだよね」

「え?」

 一番のチビさんは小学三年生だったはず。九歳だろうか。

 瑞希は大輝との不倫は四年ほどだと自覚している。

 その前があったのか。

「かれこれ十年ぐらい、かな。どんな女か一度、見てみたいって思ったこともあるんだけどさ」

「あ」

 またしても言葉は出ない。

「瑞希は独身だからいいよね。これからどんな恋愛でもできる。だけど、不倫だけはやめておいたほうがいいよ。絶対恨まれるし、いいことなんて一つもないと思う。ひとっつもね」

「は」

 自分がなにを言いたいのかもわからなくなる。

「私さ、正直、瑞希たちの会社の仕事をやるのは反対だったの」

「そう、なんだ」

 やっと言葉が出て、ホッとして新しいウーロン杯をゴクリと飲んだ。煎じたクスリのように苦く感じた。

「正直に言うよ。私は場所を変えてでも、学習塾を続けたいと思った。やり方しだいだと思うから。まだそこまでやり切ってないし。駅でチラシ撒いたり、ポスティングとかぜんぜん平気だし。昔はよくやったんだ。チラシも手作りでね」

 たくましい妻。母。睦美のその歴史に瑞希は圧倒される。

「こう言っちゃ悪いけど、瑞希の仕事って、ちょっと胡散臭いでしょ? ごめんね、おかしなことを言って。だけどほら、世の中フランチャイズとか、けっこう騙されて失敗している人も多いでしょ。この学習塾は大輝が作ったし、私も手伝った。どこにもウソはないし、ごまかしもないの。だけど、いまやっているこの仕事は……」

「わかるわ」

 瑞希は思わず賛同していた。

 これまでモヤモヤしていた気持ちが、睦美の言葉ではっきりしたのだ。

 派遣社員としてはじめていまの会社に来てからずっと、瑞希も胡散臭いと感じていた。人に説明するのがとても難しいビジネスで、いったいそれをやって本当に得をするのは誰なのかもよくわからない。それでも忙しい。

 しかし、社員に採用してくれたので、その時点で疑うのをやめてしまった。まして、いまではアシスタントから、ほぼコンサルタント扱いに昇格している。当初は瑞希のような経験のない者はアシスタントだったのだが、そうすると顧客から「コンサルタントがつくはずなのに、アシスタントなのはどうして?」と苦情がくるため、対外的には全員コンサルタントになった。それが、いまでは定着して社内でもそれで通ってしまっている。

 瑞希たちはいろいろな仕事で目も回るほど忙しく、給料も出ているし、ボーナスも出ている。それなのに、自分たちではなにも生み出さず、作ってもいない。販売しているといえばしているのだろうが、小売のようなわかりやすい販売ではない。

 そもそも大輝はなにを瑞希の会社から買っているというのか。

 別の会社が開発して提供するサービスと、ビジネスをやりたい大輝や睦美のような人をつないで、コンサルティング料を両方から受け取る。毎月、営業目標やノルマの話が出て、社内が暗くなる点にかけては確かに販売だ。それを社内では「コンサルティング」と呼んでいるので話がややこしい。

 IT系としての本業をやっている部門はイキイキとしているのに、傍流の瑞希たちのオフィスはときどきドヨンと淀む。

 人が辞める。クレームが来る。サービスが変更になる。そんなことが定期的に発生し、そのたびに通常業務が圧迫される。人手はいつも不足していて、それでいて、誰がなにをやっているのかもよくわからない。

 ミーティングは多いが、そこで話し合われるのは目先の仕事のことばかりで、ビジョンや中期経営計画の本質を理解している者はほとんどいない。

 こんな風に無理解に仕事をしているのは、新卒としての研修期間なしに社員になったからだと瑞希は思っていた。研修をちゃんと受ければ理解できるのではないか、と。

 どうやら、そうでもないらしい。瑞希以外の社員も、大して理解はしていない。その点だけでも、瑞希の会社は十分に胡散臭いのだ。

「なんとなくなんだけど、こういう仕事に頼ってしまったら、いつか失敗するような気がしてね。怖いのよ」

 睦美が言うことももっともだ。

 大輝はこのビジネスをはじめるにあたって、ある程度の資金を投じている。その多くは会社の利益になる。研修などのプログラムも有料だし、こうして瑞希や名倉がサポートに来れば、それも有料なのだ。

 会費として徴収する以外に、売り上げからもフィーを取っている。細かい金額ながらも、それを払っている睦美たちにしてみれば気になる部分だろう。

「詐欺とかじゃないのはわかってるの。これまでちゃんと仕事になってきたし、ありがたいけど」

「でも、いまやめたら……」

「そこなのよ。私はやめたかったの。大輝は続けたかった。だけど、瑞希。このまま続けていって私たち、幸せになれる?」

 瑞希はヘラで鉄板を擦っていた。なにか言葉が出ないかと。だが、鉄板は魔法のランプではなく、擦ったところで焦げが取れるぐらいのものだった。

「ラストオーダーですけど」と疲れた顔の店主が告げに来た。

 見渡せば、客は瑞希たちだけ。子どもたちも眠りはじめていた。

 会計を瑞希が持とうとしたら、睦美に「ダメよ」と言われた。「うちの大事なお得意様なんだから。違うか。お金払っているのは私たちだけど、仕事をくれているから……」

「自分の分だけは出すから」

 瑞希は財布にあった三千円を押しつけた。

「こんなにいらないよ」

「いいのよ。たまにはいいじゃない」

「わかった。今度、月島に行くよ。あっちのもんじゃも食べてみたい。テレビとかでよくやってるよねえ」

 塾を経営していると、夜に遊び歩くことはほとんどないのだろう。

 暗い道で別れた。

 駅に向かいながら、実家がけっこう近いことを思い出す。

 ──帰りたくなっちゃったな。

 名倉のことを思い出す。

 ──しょうがない。自分で撒いた種だ。

 駅で名倉にメッセージを送る。するとすぐに返事が来た。

 ──月島にいます。来て。

 よく知っている店だ。そこだってもうラストオーダーではないか。有名な居酒屋などは十時前に終わってしまう。数は少ないが朝までやっている店も皆無ではない。

 電車に乗って乗り換え案内をネットで見て「こんな時間なんだ」と驚いている。どうりで眠い。居酒屋で食べながら寝てしまう子どもたちを見て、つくづくうらやましいと思った。

 だが、彼らの人生はいま、とんでもない節目を迎えているのだ。父親が失踪。このあとくるのは、塾の破綻。生活保護。母子家庭……。

 無責任な大輝に腹が立ってくる。

 その無責任野郎と不倫をしていた自分にも腹が立ってくる。無責任なやつとつるんでいたのだから、どれだけ無責任女か。

 地下鉄を乗り継いで月島駅に着いたのは夜の十一時だった。その間に名倉から違う店に移ったとメッセージが届いていた。

 あまりマンションからは近くないが、脹ら脛がパンパンになっているものの、瑞希は店へと向かった。

 ──タックル野郎。この、タックル野郎。

 そうつぶやきながら。

 店はビルの二階にあった。カウンターを中心としたバーだった。狭いようでいて奥に広がっていた。

 薄暗い店内を見回すが名倉が見つからない。メッセージを送るか、電話でもしようかと思ったときに、ようやく見慣れた体型の男がカウンターにいるのを発見できた。

 ただし女連れだった。

 見たことのない女だ。髪は明るい栗色で長くて豊か。背中のあいた青いドレスを着ていて、裾は人魚のようだ。しかしそこからは白い足がすっと出ていて、高いヒールが下のバーを踏みつけている。

 その隣りの名倉は当然、足は宙に浮いている。

「あのー」と名倉に声をかけた。

「あ、瑞希。よかった。もう会えないかと思った」

 大げさなヤツだ。事情によってはもう会わないぞ、と瑞希は思う。

「この方は?」

「え? ああ、この人はほら、ここの」と奥に場所を取っているアップライトピアノを指刺す。「さっきまで弾き語りやってたんですよ。すごくよかった。瑞希、惜しかったね」

「それでは」と、赤い唇をつけた口の大きな美女は、するりと席からおりると「マスター」とカウンター内の男に声をかけながら、端の方へ行ってしまった。

「知り合いじゃないの?」

「ええ? 今日はじめてですよ。だって、この店、はじめてだし」

 ウィスキーを飲んでいるようで、名倉はかなり酔っていた。この分では帰る気はないのだ。最初から瑞希の部屋をあてにしている。

「なにか、話でもあるわけ?」

 ちょっと距離を置きたい瑞希だが、隣に座るしかない。歌手のいた席はイヤなので反対側に座る。

 ハイボールを頼む。差し出されたカードのようなメニューを見ても、ほかにピンとくるものがなかった。

「ウィスキーはどれになさいますか?」

 若いバーテンダーは白いシャツに黒のベスト、黒の蝶ネクタイだ。鋭い目つきながらも笑顔はなかなかいい。美男子かもしれない。

「え? どれかな。どれがいいかな」

「スコッチ、バーボン、アイリッシュ、カナディアン……」

「それ、なんの種類?」

「ウィスキー」

 瑞希はサントリーとニッカしか知らない。

 見渡しても、メニューはない。

 名倉がずらりと並ぶ背後の瓶を指さして「あっちがスコッチ、こっちがバーボン、あれがアイリッシュで」と説明するが、瓶を見てわかるぐらいなら苦労はしない。

「オススメでいいです」

 するとバーテンダーはさらにうれしそうに笑い「では、こちらでお作りしましょう」となにかの瓶をさっと取り、手際よく目の前でハイボールを作った。瑞希がこれまで飲んだことのある居酒屋のハイボールとは違う。

 それはコンビニで買ったケーキとフレンチレストランのデザートぐらいの差だろうか。

 美しいグラス。光線の加減か、きらきらと輝いている。炭酸の気泡までも宝石のようだ。そっとすすると、最初はウィスキー独特の香りが鼻にきたものの、口当たりはマイルドで思わずいっきに飲んでしまいそうになった。それが下品な作法だろうと思い、押しとどまる。

「いかがですか?」

「とてもおいしいです」

「響です」とその瓶をカウンターに置く。

「うわ、贅沢やな」と思わず名倉から関西弁が出た。「ぼくなんか安物のスコッチですよ」

 それをロックで飲んでいる。

「で、話は?」

「うーん、あのですね。言いにくいことが二つほどあります」

「はあ。なんでしょう」

 別れ話かもしれない。それはうれしいような、残念なような。

「一つ目。明日、京都へ行きます。しばらく帰れません」

「どれぐらい?」

「三日は最低、かかりそうです」

「そんなに大変なんですか?」

「いえ、事前の話であるとか、向こうの事務所で打ち合わせとか、そういうことも含めてです。できれば直接、話をしたいと思っています。できるかどうか、行ってみないとわかりません」

「そうですね。直接、話をしたほうがよさそうですね」と他人事のように瑞希は言う。他人事であることには変わりないのだが。

「もう一つ。これはもう少し話が複雑です。ぼくは親会社からいまの部署に来ています。籍は向こうにある。で、親会社が来月にもぼくを戻そうとしています」

「はい」

「これは、ぼくにとってはいい話ですが、瑞希さんにとっては悪い話です」

「どうしてですか」

「会社は、この事業を見放すつもりです」

「え?」

 場所が場所だけに誰が聞いているかもわからない。静かにピアノのジャズ音楽が流れる空間だ。客もカップルが二組ほどおり、マスターと呼ばれる年配のバーテンダーを中心に話が盛り上がっている。いかにも常連だ。そこに歌手の彼女も加わっている。

 すぐ近くには若いバーテンダーが、ふらっと来たわけあり風な瑞希たちを見張っている。会話は聞こえるはずだ。

「見捨てるってことですか」

「正確なことはわかりません。ただ、いくつか問題が指摘されていて、ぼくも先日、親会社の役員に報告したんですが……」

 こいつ、スパイだったのか、と瑞希は驚く。もっとも同じ会社の別セクションのようなものだから、スパイもなにもない。ともあれ彼は瑞希たちのやっているビジネスを疑いをもって観察していたのだ。

「コンプライアンスに引っかかる可能性が出てきました」

 またそれか、と瑞希は思う。研修をろくに受けていない瑞希ではあったが、コンプライアンスについてだけは何回も研修があった。

「いえ、不正があるわけじゃないんですよ。ビジネスとしてはぼくは問題ないと思う。だけど経営陣はそう見ていません。リスクが高いと判断しているようです」

「どうなるんですか」

「わかりません。実は親会社も内情はかなり厳しくて、提携や買収の話がしょっちゅう出ていますからね。一つの見方として、親会社だけでも救うために、ちょっとでもリスクのあるところは切り離そうと思っているのかなって思うんです」

 瑞希は酔いも手伝って、頭の中がぐるぐると回っているような気がした。「なんて日だ!」と叫びたくなった。

 睦美がせっかくやる気になったのに、このサービスがもしかしたらなくなるかもしれない。そうすれば、あの一家はどうなるのか。

 いま大輝が無事に戻ってきたとしても、解決はしない。ピンチに直面することになる。

 瑞希は……。

 冷静に落ち着いて考えれば、職を失うこと以外、とりたてて問題はなさそうだ。いや、自分が職を失うことが、大したことではないと思えるほど、なんだか大変なことが起きてしまっていた。


 まだ夜が明ける前に、京都に旅立つ名倉を送り出すと、瑞希はもう一度布団に潜り込んだ。会社に行きたくない。なにもしたくない。なにもかも、自分の上を通り過ぎていけばいい……。

 落ち着け、瑞希。自分に言い聞かせる。まだ何一つ、起きていない。事件はまだ起きていないのだ。状況はよくない。しかし、カーテンは朝日を受けて光っている。

 ほとんど寝ていないのだが、シャワーを浴びてしゃきっとする。胃が痛い。節々も痛い。胃炎とインフルエンザがいっぺんに来たようだ。

「あー」と声を出すと、しゃがれている。喉も痛い。

 食欲もない。

 テレビをつけると、七時になろうとしていた。ニュース番組で段ボール箱を持ったスーツの男たちが映し出されていた。

「不正経理が発覚し東京地検特捜部による捜査が……」

 騒々しいと思ったが、お湯をわかそうとキッチンに立ったとき、アナウンサーの声で聞き慣れた社名が告げられた。

 電気で湧かすポットに水を入れていたが、それを途中でとめてテレビの前に戻る。十九インチの小型液晶テレビにハードディスクをつけて録画できるようにしてあった。

 そこには見慣れたオフィス街が映し出されていた。

「うちだ……」

 親会社の名が連呼されている。この時間、もう出勤してきた人たちにマイクを突きつける。IT企業ながらも早朝出勤する人たちは、ほとんどがビシッとスーツを着ている。彼らは夕方明るいうちに退社していく。瑞希にとっては出会いのタイミングすらない。

 こういうことは、事前にいろいろな話題が出てから起こるのではないか、と瑞希は思う。出ていたのかもしれない。うかつなのは自分だけだろうか。

 昨夜の名倉の話が甦る。親会社はそうとう厳しい状況にあって、瑞希たちの事業を見捨てると言っていた。その裏でなにか不正なことをしていたのだ。見捨てるもなにも、親会社がウソをついていたのだ。

「やってらんねー!」

 瑞希は叫んでいた。

 しわがれ声で。

 少しだけ大黒摩季みたいだと思った。


 瑞希がオフィスへ入るのを妨げる者はいなかった。ビクビクしながらIDカードでゲートを潜りエレベーターでオフィスに入った。

 普段となにも変わりないように見える。いまも、上の親会社のオフィスでは捜査が続いているのだろう。

 建物の表にはたくさんの脚立が放置されて、メディアの人たちがうろついていた。路肩には大型の中継車が何台か横付けされていた。数人の警官が歩道を歩く人たちを誘導していた。

 マスクをしているだけで、瑞希はとても冷静にそんな光景を眺めながら通勤することができた。いろいろな会社の入ったビルなのだから堂々としていいのだと自分に言い聞かせていた。

「知ってるよね」と眞弓がさっそくやってきて、声を潜めることもなく、話しかけてきた。

「うん」

「あいつさ、姉に直接、会うつもりなんだよ」

 そっちか、と思う。

「どうなるかな?」

「わからないわ」

「瑞希としてはどうなの? タックル野郎と付き合うの? 結婚するの?」

「え?」

「迷ってるんだ、正直。私は姉のことをよく知らない。知らないけど姉は姉だし。身内の不幸は哀しい。離婚するなんてぜったい相手が悪い。つまり悪いのは名倉だ。だけど、瑞希はそいつと付き合っている。友達の幸せはうれしい。全力で応援したい……」

 眞弓が、なにかに悩むことなどあるのかと瑞希は驚いた。そしてその悩み方がどうもおかしい。

「なに笑ってるの。瑞希のことなんだよ」

「だって、おかしいわよ。名倉さんと付き合ってまだ何日もたってないし」

「三週間ぐらいなるでしょうが」

「そうかな」

「瑞希はね。あなたがどう思っているのか、周囲にバレバレなのわからないの? みんなあんたがどう思ってどう考えているのか、ぜーんぶ、わかっちゃってるんだよ。それなのに、瑞希は自分で自分のことがわかっていない」

 妙な言いがかりをつけられた気分になった。

「ラブラブなのね」

 眞弓はそう言って深いため息をついた。

「そう見えるんだ……」

 急に、瑞希は恥ずかしくなってきた。

「名倉がこのまま帰ってこなかったらどうする?」

 眞弓はさらに不安な言葉を投げつけてきた。

「え?」

「あんたに、いつ帰ってくるって言った?」

「二、三日かな」

 いつ帰れるかわからない、とも言ったような気がした。

「姉はね、逃げ回る。あいつがいろんな手を使って直接会おうとするから、どんどん逃げる。そうしたら三日どころじゃないわよ。一カ月でも一年でも逃げるわ」

 京都で二人が追いかけっこをしているイメージが浮かぶ。眞美という女性を知らないので、そこは目の前の眞弓で代用しておく。京都ということから、彼女は着物姿で髪は長くなびかせて、小走りに逃げる。それを短パンの名倉が必死で追いかける。すぐ捕まりそうなのに、京都の迷路のような街角で女は猫のように神出鬼没。名倉はしだいに体力を奪われていく……。

「待つの? いつまでも待つの?」

「わからない」

 もう少しで、すでに男が一人、自分の前から姿を消していることを言いそうになってしまう。

 かろうじてそれを押しとどめたのは、そこがオフィスだったからだ。いつもより騒がしいのは電話である。どの電話も鳴りっぱなしになっていた。

「おい! 君らも電話を取れよ!」

 温厚な上司たちが、鬼のような形相だ。

「どうしたの?」と思わず瑞希は口にしていた。

「クレームよ!」と眞弓はすぐ近くの電話を取った。

 そうだった。瑞希は思い出し、自分の席で電話を取った。

「ニュース見たんですけど、お宅、大丈夫なんですか。けっこう投資しているんですけどね。これからもコンサルティング受けられるんですか。どうなんですか」

 別の部署の女性が、コピーをみんなに配っている。そこには「想定問答集」とあって、最初の一行目に「お騒がせして申し訳ありません。当社は別会社です」という一文があった。

 そのまま瑞希は受話器に話しかけた。しわがれ声が哀しい。

 相手がベラベラとしゃべるので、その間に資料に目を通し、「これ以外は言ってはいけない!」と書かれているのを確認し、いくつかの定型文を繰り返した。

 やっぱり、地獄だ、と瑞希は思った。いま、自分は地獄にいるんだ、と。

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