第2話 倫理で生きてるわけじゃない

 米井睦美よねいむつみ は、旧姓が深尾ふかお だった。瑞希は、深尾睦美としてなら大親友としての彼女を思い出せる。

 結婚式に呼ばれて、友人たちとPerfumeの『ポリリズム』を踊りながら歌った。歌は適当だったが、踊りには自信があった。ろくに見ている者はいなかったが。

 二次会では睦美も一緒に踊った。彼女は完璧だった。

 そのとき、はじめて米井大輝よねいだいき と会った。十二歳も年上の男は、「オヤジ」と言ってしまうとかわいそうだったが、老けて見える若者ではなく、ちゃんと年相応に老けているのだった。

 背が高い。足がとても長く不安定に思えるほどだ。それでいてスポーツマンではない。色が白く、ヒゲが濃い。二次会のときには青々としていた。それがなんだかイヤラシイ。

 笑うといかにも先生らしい柔和さがあふれていた。

 彼は塾を経営しており、睦美はそこで働いていたのだ。教員になるのが夢だったのだが、希望したようには採用されなかった。母親のツテで実家から近いその塾で講師兼事務員として働きはじめた。バイト感覚、腰掛け程度のつもりだったのに、よく言えば米井大輝の人柄を気にいってしまい、悪く言えば安直に「永久就職できるかも」的に大輝にアプローチして結婚。

 働くようになってから二年ほどでゴールインした。瑞希たち友人に言わせれば「戦略的押しかけ女房」である。

 あの頃の米井大輝の年齢と、いまの瑞希はほぼ同じだ。

 夫婦で塾を運営し、睦美はいまでは小六を筆頭に三人の男児の母でもある。

「結局ね、仕事より子作り子育て中心」と友人たちと会うとケラケラ笑う。皺が増えて、肌もくすんでいる。友人たちの中では一番早く老けているように見えるのだが、幸せそうだった。勝ち抜けていると睦美は思っているに違いなかった。

 瑞希は、その大輝と不倫をしている。

 ため息ばかり出そうな状況なのに、瑞希はそれをネガティブに考えたことはなかった。彼とのデートは楽しかったから。

 米井大輝は塾経営だけでは満足しない男だった。

「これからは少子化だから、塾だけではダメになる」

 彼は教育をキーとした人材派遣や外国からの観光客を狙ったサービス産業を目論んでいた。

 瑞希の会社のクライアントになった。ITのパワーを借りて、必要な人材を集めたり、管理したり、集客する仕組みを作っていた。

「睦美のお友だちがいるなら、心強いよ!」

 いまでは四十を過ぎた本物のオヤジとなった彼だったが、相変わらずひげそり跡は青く、柔和な笑顔だ。違いは額の広さだろう。そこばかりは平均よりスピーディーにはげ上がっている。

 そもそも瑞希の基準で、大輝は男としては対象外だった。親友が愛した男なのだからいい人だろうとは思っても、男性とは思えなかった。

 友人の夫。三児の父。クライアント。どれをとっても対象外であるべきだった。

 なぜ関係を持ってしまったのだろう。

「どれぐらいになるかな」

 隣で横になっている大輝が呟く。期間について話すことは、終わりを巡るつまらない話になりそうで「そんなのどうでもいい」と瑞希は答えた。

「瑞希の会社と契約したときあたりだから、四年ってことかな」

 低学年だった長男は来年中学だ。大輝の体格と睦美の運動神経を受け継ぎ、バスケットをやりたがっている。いまは少年野球で三番を打ちながらバッティングピッチャーもできる。肩が強い。それは、「野球よりも大きなボールを扱うため」と長男はバスケ選手を意識してトレーニングしているからだ……などといったことを、瑞希まで知ってしまっている。

 たまに睦美に会うとき、同じ話を別角度から聞かされる。つまり瑞希は米井家について、睦美よりも大輝よりも深く広く知っている。いまではコンサルティングの対象として、経営状況についても深く知ってしまった。契約で守秘義務を負っているものの。

 それで気づいたのだが、睦美は経営実態を知らない。いや、数字をすべて知っているはずなのに理解できていない。

「このまま塾の経営でいけると思うんだけど。そりゃ、大して稼げないけど。小さい子たちに勉強を教えてあげて、人数は少しでもいいので長くやり続けていければいいと思うの」

 しかし社内のコンサルタントの意見を待つまでもなく、瑞希でさえもこの状況はいつ破綻してもおかしくないとわかる。睦美の知らないこと(または直視しないこと)が少なくとも三つあった。

 一つは学区。少子化で地域の学校の統廃合が進み、五年以内に隣の街へ小学校は移る。この地域は高齢化が進み、子どもは激減している。塾を続けたいなら移転しなければならない。その費用はどうするか。

 そして二つ目。ところが、すでに移転したい場所には、大手の学習塾がひしめきあっている。新しい土地では知名度もなく、さして特徴のない大輝の塾では勝ち目はない。

 睦美はとても楽観的で「値下げとかすればいい」と言うが、生徒が減り、しかも値下げすれば月々の経営そのものが立ちゆかなくなる。

 なんとかなる、と明るい睦美に、友人としては「そうだね」と瑞希もつい賛同するわけだが、三つ目についてはさらにシビアだ。

 塾の存続はこれからの五年間の経営しだいで破綻か存続かに別れる。その間に三人の子どもたちは高校受験や大学受験の世代になっていく。教育費は跳ね上がり、生活費を圧迫する。

 つまり入るものが減り、出るものが増えていく。これはサラリーマンでも同じ。苦しい時期があるのは誰しもそれなりにある。問題は大輝の場合、「最悪、破綻」があり得ることだった。

 なぜ破綻するのか。コンサルタントは軽く言い放つ。

「収益が見込めない事業へ融資する者はいない。いたとすれば高金利の悪徳金融だけだ」

 そこから借りたらおしましだ。そこまでいかなくても、クレジットカードで借りはじめたら……。

 融資を得られなければ新規事業どころではない。

「できるうちにやらないと、やりたくてもできなくなる」

 そのカウントダウンはもう始まっていたのだ。

 端的に言えば、塾から離れて新規事業からの収益がいま以上にならなければ、アウトなのだ。そのことを睦美は軽く見ている。

 瑞希が心配することではない。不倫相手の家庭が破綻すれば不倫愛にとっては「成功」になるのか。

 自己破産し一家離散し、母子家庭になった睦美を見たくない。

 その横で大輝と結婚して新しいビジネスをはじめることなど考えられなかった。

 かといって、瑞希たちの応援が功を奏して大輝の新ビジネスが順調に成長した場合、瑞希はどこかで彼との関係を諦めて終わらせることになるだろう。

 自分の命をかけて、愛してはならない相手の家族を救い、一人いずこへともなく去って行く……。なんだか、カッコいい。カッコいいだけで、なんの意味もない。

 バカみたいな人生。

 カッコよく生きたいと瑞希は思ったことは一度としてなかった。もっと実りのある充実した人生が欲しい。

 そのあげくが、三十過ぎて大厄の不倫だとしても。

 私のことは嫌いになっても私の会社のサービスは嫌いにならないでください……。そう言って別れて、職場からも去っていく……。

 一番いいことではないかと思いつつ、最悪にしか思えない。

 すでに最悪の行為をしている。

 ──妻子ある男性と。

 ──セックス。

 ──親友の旦那を寝取った泥棒猫。

 ──体を提供して自社サービスを売る、枕営業。

 だから、これ以上悪くなりようがないと思いつつも、いまのところ自分はまだ傷ついていない。誰も傷ついていない。表面上だけかもしれないが。

「愛のないセックス」と他人から見れば思われるとしても、大輝に会うこと、大輝と触れあうことに意味を見いだしている以上、そこに愛はある、はず。

 この愛の責任は取れないし、大人の行動でもない。理屈としても間違っている。この行動を愛のせいにするのは簡単だけど、こんなものは愛でもなんでもないと言われたらそうかもしれない。いや、これは愛ではないと思ったほうが少し楽かもしれない。

 この上、ベタベタとした愛まで背負ったら、それこそ不幸だ。

 会社のサービスと契約しているように、瑞希は大輝と契約して自動更新しているだけだと思いたい。

 単なる自動更新を愛と呼べるだろうか。

 どちらかが解消を言い出せばそこで終わるのに、ただ言い出さないだけ。それを愛と呼べるだろうか。

 瑞希は、愛は信じていない。合コンをしても恋愛をしても彼氏ができて付き合っていてもなお、それが愛だとは信じられない。「恋愛」は、「お正月」とか「バレンタインデー」とか「毎月二十九日は肉の日」などと同じように、「そう呼ばれているのです」で済む話に思えてならない。

「恋愛している状態」は、好きな人と一緒にいてラブラブだから、それが愛と呼べるのかもしれないけど、愛がなくても好きな人と一緒にいてラブラブできる以上、愛のあるなしは関係ない気がしている。

 占いで「恋愛」とか「ラブ」とかの項目はほとんど見ない。そこになにが書かれていても、実感ができないのだからしょうがない。

 これまで、大輝に「愛してる」と言ったことはないし、彼からも言われたことはないし、「私のこと愛してるの?」なんて聞いたこともないし、その答えも知りたくない。

 ドラマで「愛してるよ」「私もよ」みたいな会話があると、「カレーができたわよ」「食べるよ」と言っているのと大差ないように感じてしまう。

 大きな違いは、カレーが食べたくなければ「いまはいい」と言えるけど、「愛してるよ」で「いまはいい」はない点だけだ。

 いまはいい、愛はいらない。そう答えたとたんに愛はなくなるのだろうか?

「今期限りで更新はしません」と言えば、そこで契約は終わり満了となり無関係になる。

 そんな風に愛にも終わりがくるとするなら、最初から「愛」はなくてもいい。

 しかし瑞希は何通りか、答えは考えていた。日によって変わるのだが、もし彼から「愛してるよ」と言われたらどう答えるか。または「ぼくのことどう思うの?」と聞かれたらどう答えるのか。

 幾通りもある答えのどれを自分が選択するかは、その時にならなければわからないし、いまのところ、彼はそこに踏み込むつもりはなさそうだった。

 これはつまり、週刊誌的には「割り切った関係」であり、ネット的には「セフレ」にすぎないのではないか。

 どう見えようと関係ない。内縁の妻なんて呼ばれるよりはセフレのほうが勝っているとさえ思う。はっきりした目的意識があって、そのためにお互いの生活をほとんど犠牲にせず、心も痛まないから。

 愛が世の中に本当にあるなら、かなり心が痛みそうだ。

 瑞希はそれが怖かった。

 更新しないとなったとき、契約が終わったその先が「無」になっていく怖さ。瑞希自身、無になっていく恐怖。無として生きる恐怖。

 それは計り知れないし、わからないので、手に入るありったけの幸せに浸っているだけである。大厄の女にしては、これ以上は望むべくもない。

 愛とか幸せは、あやふやすぎるのに、あまりにも安易に決めつけやすく信じやすい。

 愛よりは幸せを信じていたほうがいい。愛がなくなれば無だ。幸せがなくなれば不幸が得られる。不幸の中で生きることは、無の中で生きるよりはマシではないか。

 毎日仕事をして給料を貰い、化粧品を買い、それだけの生活を「幸せ」と思う人もいれば「不幸」と思う人もいる。瑞希は大輝と不倫するまでは不幸だった。だからいまは幸せだ。それでいいではないか。

 契約が更新されなければ、不幸になるだけのこと。不幸は以前の状態に近いから、それほど怖くはない。

 だからといって自分から進んでそうなりたいとは思わない。

「でね、ずっと大輝さんとエッチしたりしてたんだよ、この四年ぐらい」

「ふーん、そうなんだ。どうして?」

「どうしてって。お互いにそれがいいと思ったから」

「なぜそう思うの?」

「なんか、ふと寂しいときに思い出せることをしておきたいじゃない。人間って案外、そういうの大切だし」

「わかるわ。そうよねー」

 そんな会話を睦美と交わすことは不可能だ。

 彼女は気が狂う。そして瑞希を殺そうとするだろう。ただ殺すのではない。きっとトマトを湯むきするみたいに、皮を剥がしていくだろう。それから肉を柔らかくするみたいに、スジを切っていくだろう。骨から肉を剥がし、骨を砕き、バラバラにして捨てるだろう。ラーメン屋から出る出汁ガラのように。

 そうなれば、確かに不幸はやってくる。同時に無にもなる。なにもかも抽出されたあとに残るものはない。

 その前に、どこか遠くに逃げてしまおう。仕事も投げ捨てて。少しでもエキスが残っているうちに。

 大輝はそのような「不幸」があっても生きるだろう。自己破産と家庭崩壊を一度にこなして、地味に再起を目指すだろう。彼は見た目と違い、かなりマジメにコツコツやる人間だから。

 睦美はそんな彼に養育費を催促しながら生活保護を受けて暮らすのだろうか。働くのだろうか。子どもたちは進学を断念して働くのだろうか。学費を借りて進学して、社会人になってから長くそのローンに苦しめられるのだろうか。そのせいで結婚できず、家庭が持てず……。

 それを人は不幸と呼ぶだろう。瑞希が撒き散らした不幸の種によって、みんなの幸せが枯れ果てて、二度と芽吹くことはなくなる。汚染されてしまうのだ。

 だけど放射能の半減期が気の遠くなる年数なのに対して、不幸の半減期はもっと早いのではないか。少なくとも人の一生よりは短いのではないか。そうであって欲しい。

 不幸だった瑞希は不倫して幸せになった。少なくとも「以前は不幸だった」と思えるところに来た。あっという間のことだった。不幸から幸せになるのは簡単なことに思えた。

 自分にとって価値があるのだから、この不倫、やれるだけやってみてもいいんじゃないか。自分から降りるなんて考えられない……。

「それ、なんてドラマ?」

 藤沢眞弓ふじさわまゆみ はあまり興味なさそうにコーヒーに砂糖を入れてかき回している。

「あんた、それ、キャラメル入れてたよ」

「うん。ハチミツも入れたけど、もうちょっと甘くしたくて。で、なんてドラマなの。誰がやってるの、その女の役」

「忘れちゃった。ずっと昔に、再放送かなにかでチラッと見たんだけど」

 瑞希は自分の置かれている状態を、ドラマの話にすり替えて、職場で唯一よく話をする藤沢眞弓にしてみた。

「だけど、結末、見てないからどうなったかわからないのよね」

「ああ、でも、不倫でしょ。死ぬのよ、最後」

 眞弓は四つ下なので、彼女も大厄のはずだ。厄年女二人組か、と瑞希は少し笑顔になる。

「死ぬだけなの? 誰が死ぬの?」

「その不倫してる女と、不倫してる男。決まってるでしょ。悪いことをしたやつは死ぬ。因果ほうおう」

「因果応報ね」

「ほうほう(そうそう)」

 甘いコーヒーを大事そうに飲む。

「死ぬだけ? それで終わり?」

「たぶん、そんなんじゃないかな。ミステリーなら最初のところよね。女の死体が海岸かどこかに打ち上がって、犯人は誰だってなって。実は不倫していたってなって。相手の男は行方不明で……。奥さんが犯人」

「じゃ、全滅じゃないの」

「だいたい、そうじゃないの? ドラマってさ、終わらないといけないし。見てる側は『やっぱりな』という終わりじゃないとヤバイでしょ。もしそれでさ、夫が離婚成立して、不倫相手と再婚なんてする終わり方なら、放送局の電話、パンクしてBPOものだよ」

「BPO?」

「えーと、放送倫理なんたら機構。OはOrganizationでしょ。BはBroadcasting。Pってなんだろうな。Pって倫理なのかな」

「倫理はethicでしょ」

「BEOじゃないんだよ、BPOだよ。Pってなんだろう……」

「そんなのどうでもいいけど、じゃ、テレビドラマって倫理的に正しくないとダメなわけ?」

「そりゃそうなんじゃない? 犯人は逮捕される。犯罪者は処罰される。または酷い目に遭う。やったことの責任は取る……。要するに現実とはまったく関係ないわけ。実際にあった事件なんて、ドラマにできないわ。処罰されずに逃げまくる犯人。責任を取らない人たち。処罰する側もお役所仕事。適当にごまかして生きていく。それが現実でしょ?」

「なんか、深いわ、眞弓」

 この子、すごい闇を抱えているのか、と瑞希は思ってしまう。

「ドラマって最終回、つまらないから見なくていいのよ。私、見ないもの。視聴率がどれだけすごくても、見ないほうがぜんぜんマシだもん」

「あんた、すごいね」

「すごくない。瑞希だってきっと、そうだよ」

「え? なにが?」

「仕事でなにかマズイことがあって、責任取れと言われたらどうする?」

「取るわよ」

「ウソ。部長か課長に取ってもらうでしょ? だって私たちの取れる責任なんて大したことないし、被害者は満足しないと思う。OLをクビにして喜ぶ被害者なんていないもん。あ、でもそういう趣味のヤツがいるかもね。世の中は意地悪なヤツいるから」

 眞弓の闇は相当なものだと思う。

「課長が左遷されて部長が頭さげてボーナスが飛んで終わりじゃない?」

「そうか……。謝るぐらいはするんじゃない?」

「あー、なんか土下座させたところを動画で撮って晒すみたいな? 私平気だよ、土下座なんて。こんな頭ならいくらでも下げまっせ」と妙な関西弁を使ってポンポンと後頭部を叩いた。

 あ、と瑞希は思う。関西弁の男の後頭部を張り倒したい。

「ね、名倉って知ってる?」

「うううう、あの名倉?」

「ラグビーのポスターの」

「最悪だよ、あいつ。離婚調停してるんだよあれ」

「へえ。どうしたの? ドラマみたいな不倫とか?」

「ぜんぜん。ああいうやつはね、ベタベタしすぎなのよ、きっと。甘えてきてさ。毎晩、タックルにくるよ、タックルに。ベッドでトライ! なんてさ。そういうやつ」

「ああ、そうか……」

「好きで結婚したって何年かすれば、距離って適度に置くじゃない。手をつないで歩くぐらいはいいけど、毎晩、トライかよ。ガキじゃないんだからって思わない?」

「愛してくれているのに、離婚?」

「そんなのね、愛じゃないんだよ、瑞希」

 先輩後輩関係なく、眞弓はどうも人生経験が瑞希より豊富なようだった。実際、かわいくてモテモテな感じもある。モテる女は自然に経験が増え、不幸の本質にも熟知し、どこに落とし穴があるかわかるようになるのではないか。

 平凡な瑞希には、想像するだけの世界だったが。

「やりたいだけって、愛じゃないでしょ? 相手の体を思いやって、一緒に気持ちを高めていって、それでやれればやる。やれなければやらない。それが愛じゃん?」

「そうか……。それもドラマになりそうにないね」

「ははは。なるかもね。やる日とやらない日だけのドラマね。今日はうまく行った、次回はどうかな、みたいな? バカみたい」

 わずかな休憩タイムはそれで終わった。

 彼女はなんだかうれしそうに甘いコーヒーを飲み干して、だらしがない袖口を握りしめるように席に戻っていく。

 眞弓はあれで幸せなのかもしれない。少なくとも瑞希よりは人生を楽しめるタイプだろう。

 名倉と一緒に一夜を過ごしたというのに、なにもなかった。

 なんだか悔しい気もする。瑞希はタックルする対象になっていないのか。相談はしたいというのに。

 瑞希は思いきって名倉にメッセージを送った。

 あの日、飲み屋でお互いのアドレスを交換していて、いつでもメッセージはやり取りできる状態になっていた。しかし名倉からはなにも来ないのだ。

「今晩、また飲みませんか?」

 返事はすぐにはなかった。忙しいのだろう。

 残業をしてはいけない日だった。してはいけない日の残業は最長1時間となっていた。矛盾しているが、眞弓が言うとおり「現実はそんなもの」なのかもしれない。ノー残業デーとは呼んでいない。定時退社励行日である。「励行」はするが「厳守」ではない。

 コンサルタントの多くは出社時間も退社時間も決まっていないし、それを支援する瑞希のような社員も、それに合わせて仕事をすることが多いため不規則になりがちだった。

 突然、バタバタと足音がして、肩幅の大きな小柄な男が、ゴムボールのように机の間を縫ってやってきた。

「ごめん! 返事できなくて。よければ今日、どう?」

 瑞希は顔が真っ赤になっていた。

 まさか、職場の席で直接、誘われるとは思わなかったのだ。なんのためのメッセージ機能のなのか。なんのためのアドレス交換なのか。

「い、いいですけど。あと十分ください」

「うん。下で待ってまーす」

 明るく大声で叫び、やつはゴムボールのように弾んで去っていった。

 周囲にはまだ大勢人がいて、みんながこちらを見て笑う。

 眞弓がすっ飛んできた。

「なにやってるの!」

 お前は母親か、と思う。

「びっくりしたー」

「知ってるの、名倉」

「この間、はじめてしゃべって」

「あいつはやめておきな。一応、忠告したからね」

 眞弓はそう言うとさっさと帰っていった。

 ほかの人たちは苦笑しているだけだった。

 名倉と付き合ったら、社内で有名になってしまう。自動的にそうなるらしかった。離婚調停中のタックル野郎。

 耳まで赤くなっている。しかもなかなか落ち着くことができない。それは彼を自分の部屋に上げ、一晩泊めた後ろめたさがあったからだろうか。

 不倫しながら離婚調停中の男と付き合うのは、いったいどんなBPOに抵触する行為だろう……。

 そうだ、Pは「プログラム」つまり「番組」という意味だったと眞弓に伝えるのを忘れていた。ネットで調べたら、Broadcasting Ethics & Program Improvement Organizationの略で、肝心の倫理(Ethics)は略称では無視されていることを知り、「やっぱり現実ってそんなもの」と思ったのだ。現実は倫理より番組が大事。

 もっとも瑞希の行動をテレビで生中継すれば、今ごろ、局の電話が苦情で鳴りっぱなしだろう……。

 名倉とは付き合っていないし、これからも付き合うことはないだろう。ただ、彼の話をちゃんと聞けば、なにかヒントが得られるのではないかと直感で思っただけなのだ。

 そもそも先日は酔っ払ってほとんど話を覚えていない。それも悔しかった。

 現実と向き合って毎日生きている私のなにが悪いんだ──。瑞希はそう怒鳴っている自分を想像し、「ありえない」と打ち消した。私は眞弓ではない。それはちょっといまだけ残念な気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る