倫々爛々《りんりんらんらん 》 親友の夫と不倫している女に幸せなんて来るはずがない
本間舜久(ほんまシュンジ)
第1話 後頭部を思いきり、ひっぱたきたい
──やっぱりあれはマズイよね。
──そうでもないんじゃないの、だって芸能人だもの。
──だけどひどいよなあ。
正月明けの職場。忙しいのに、気分は少し柔らかい。学生気分。長期の休み明けはお互いに個人に戻って過ごしていたから、いきなり仕事百パーセントになれと言われてもムリだ。
正月早々、世間を賑わす芸能人のスキャンダルなんて、普段の職場なら誰も口にしない。
近所の飲み屋でならたぶん、やっているのかもしれないが、瑞希はそういう場所には行かないので想像するだけだ。
それにしても、彼ら彼女らのスキャンダルについての会話は、なんだかむず痒い。
──あれって不倫でしょ。不倫って最初からわかってたんでしょ。それでも付き合ってたなら自業自得よ。
何億円も稼いでいるミュージシャンとか、不倫なんて、どうってことないわけでさ──。
不倫というものが、そんなに明るく賑やかに語られるものなら、瑞希だってその話に加わって「私の場合はさ……」と語り出してしまってもいいかもしれない。
──そうか瑞希、不倫やってんだ。
じゃ正月は暇だったんじゃない? 相手は家族サービスで忙しかったでしょ──。
自分で自分をイライラさせている。そんなことをしても、なんにもならないのに。
癪に障ったからだけではないが、初日ぐらいはと、仕事を少し残して定時に退社してやった。
川畑瑞希は、女の大厄を迎えた。暇なので何年かぶりに近所の寺へ初詣にへ行くと、巨大な看板に厄年が一覧になっていて、ご丁寧にも大厄は赤い字で書かれていた。
そこに自身の生年が記されていたのだ。昭和の年号、西暦も。だから間違いようがない。年齢は数え年なので「まだそうじゃない」と腹が立ったが。
いつの頃からか、初詣をするにはこんな小さな寺でも、一列に並ぶようになってしまった。最後にここに来た頃は適当にどんどん賽銭を投げて拝んでいたはずなのに、妙な秩序を強要されているようで瑞希は来たことを後悔していた。
ゆっくりとしか進まない列に並ぶとその厄年の看板しか目に入らない。いや、見せつけるように設置されているのだ。
厄年を気にしたことはなかった。一覧表の中に自分の生年を見つけて「ウソ、なんで?」と思った。
よく見れば女性はなんだか不利な設定になっていた。
男の大厄は数え年で二十五歳、四十二歳、六十二歳。三回で終わり。
女は十九歳といきなり早くやってきて、三十三、三十七と立て続けにあり、次は六十一。四回もある。
早く来て早く終わるのだから長生きなのか。それとも男より一回多いのでその間に淘汰されてしまうということなのか……。
瑞希は三十三歳の大厄をまったく意識しないままにやり過ごし、いま、はじめて三十七歳の大厄を意識した。いや、寺の術中にはまって意識させられたのだ。
ということは、三十代になってはじめて初詣に来たのか……。
薬のように苦い思い出がよみがえる。最後の初詣は彼氏とだった。川崎大師。駅近くまで交通規制があって彼にぶらさがるようにして延々と歩かされた。トントンと飴を切る音が響く中、お参りなんてどうでもよく、こうして歩くのが楽しかった。本堂が近づいてくるとうしろからバンバン賽銭を投げる人がいて、頭にも当たったりして、キャーキャーはしゃいだりしたのだが、帰宅してコートを脱いだときフードから百円玉が転がり落ちた。
その百円をなにに使ったかは覚えていない。ホテルで彼と時間を過ごしたのに、そのときは落ちなかった。
あれをネコババしたのがいけなかったのか、彼とは春まで続かなかった。春には婚約するかもしれないと期待していたのに……。
そして三十代になってからあの人に出会った。
厄だったからなのかな──。
ずるずると続く関係がはじまったのは前の大厄の頃だった。
寂しい正月を意識するようになってそれぐらいは経っている。だから初詣もずっと行かなかった。
今年はたまたまその気になった。これもまた厄年のなせる技なのか。
相手が家族と行くであろう地元の寺。大勢の参拝者がいる中で、彼に出会う確率は低い。そもそも元旦に初詣をする人かどうか。
パッと浮かぶのは彼の妻の顔だった。慌てて打ち消す。いまは思い出したくない。
厳密に前の本厄の年にこうなったのか、検証する気にはなれない。感覚的にそう思い、そうだと決めつけた。そうに決まっている。
瑞希は日記を書かない。ただ手帳は好きなので社会人になってから毎年、購入して使っている。たいがい欧米のもので見た目の美しさで買う。それだけに捨てられず、納戸に入れてある。ディズニーランドのクッキー缶だ。幼い頃から使っていて、中身は変化している。手帳入れに落ち着いて三箱になった。
約束した時間や場所は手帳に書いてあるから、それを見れば思い出せそうだが、いまはしたくない。いつかするだろうか。
最後の大厄が終わった頃にでも、手帳を全部、振り返り、実らなかった恋の行方を妄想しながら過ごす日々が来るのか。
そのとき自分は一人なのか。
ゾクッとするので、それ以上は想像しない。
三十になってしまってから新しい恋はなく、出会いもなかった。だから不倫をしてもいいというわけではないとはいえ、あのとき、彼を招き入れたときに熱くなっていた自分は間違いなく二十代のときにはいなかった自分だ。
四年にもなるのか……。
いつ終わってもおかしくないのに。
これほど続いているのは、彼に家庭があるからかもしれない。ゴールのない付き合いだからこそ、続いているのだ。
「瑞希はそれでもいいの?」
彼はそう言うが、じゃあ「結婚して」とは言えない。
優しくて優柔不断な彼。なんの希望もないとわかっていても、自分から終わりにしたいとは思わない。彼も優柔不断だから終わらせられない。
不倫の行きつく先は、バレて修羅場となることじゃないかと想像できるものの、それが自分たちの身に起こるとは思えない。思えないから終わらない。
これってなんだろうな、とつい考えてしまう退屈な毎日。映画を見に行ったのだが、それもよくなかった。子ども連れを嫌って大人向けのちょっと面倒くさそうな映画に行ったら、そこに出てくる男女の行動のいちいちに「自分なら」とか「彼なら」と妄想が入り込んでまったく集中できず楽しめなかった。
場内が明るくなると、若いカップルばっかりだと気づいて、お一人様は自分だけかとショックを受けてしまったのもよくなかった。いや、ほかにも一人で映画を見に来ている女性はいたのだが、たまたま自分よりずっと年配で、ファッションのセンスといい、その修行僧のようなたたずまいといい、どう見ても女の大厄をすべて終えて達観した女性に見えた。
私もああなるのか……。
それはちっともうれしくも楽しくもない空想なので、すぐやめにする。
苦しく退屈で弱気な休みが明けて職場に出れば、気の抜けた雰囲気と芸能人の不倫話。
早く退社したからといって行くあてもない。いつもの電車に乗るだけだ。
「やってらんねえな」
そう呟いたら、急に背後に風圧を感じて瑞希は戦慄した。
「危ない!」
コートの肘のところを掴まれて引っ張られ、体は反射的に逆方向に体重をかけた。
そのすぐ横を青い電車が高速で通過していった。
強烈な風と、遅れて発せられた警笛に咎められたような気がして、身がすくんだ。
じわっと怖さが全身に浸透した。
「大変危険ですから、白線の内側にお下がりください!」
いつものセリフではあるが、駅員は珍しく声を荒げていた。
いつの間にか、かなり線路側を歩いていたらしい。
「危ないですよ」
肘を握り締めている男は小柄な男だった。同世代か。
正月にしょうがなく見ていたお笑い番組で、背の高い方からパンパン、後頭部を突っ込まれていた芸人に似ていた。
「川畑さん、ぼんやりしすぎですよ」
男は瑞希を知っていた。
そういえば……。
職場にいる男だ。まったく目立たない男で、ときどき見かける。部署は違うので名前も知らない。二つか三つ、年下だろう。
見通しのよい広いフロアにいくつもの部署が詰め込まれていた。人の流動性の高い職場でもあり、直接関係のない人まで名前を覚えている暇がない。
ゆるキャラの着ぐるみの中にはこういう人が入っているのではないか、と思うような男だった。具体的にその理由を挙げることはできないが。
「すみません。うっかりして」
とっさにそれしか言葉が出なかった。
「急いでいるんですか? 方向、同じですよね」
知らない男なのに、相手は自分のことをよく知っている。それは不気味だった。
こいつ、なに? ストーカー?
だが、命の恩人とも言えた。いや、あのまま引っ張られなくても、たぶんすぐ近くを電車がすり抜けていっただけで無事だったはずだ、と瑞希は思いたかった。助けられたなんて、大げさだ。
むしろ彼の行為は危険だったのではないか。いきなり肘のあたりを引っ張られたので、反射的に逃げようとして線路側に体重をかけてしまった。耳のすぐ横を電車が通過したような気がした。
髪の毛が風圧で巻き上がってボサボサになった。
思い返してもゾッとする。
自分をはね飛ばしそうになった電車は、きっちりと停車位置を守ってドアを開けていた。せわしげな乗降客たちに脇へ押しやられた。
この駅に止まる電車なのに、あんなにスピードを出しているのか。そういえば、頭を吹っ飛ばされて亡くなった人がいたと聞いたことがある。その体は何メートルも飛び、ホームいた別の人にぶつかってその人も大ケガをしたと聞いた。
乗り込む気になれないうちに、ドアが閉まり発車していった。
ホームに取り残された。
あの男も、なぜか一緒に取り残されていた。
反対側のホームにやってきた緑の電車があり、二人でそちらに乗った。比較的すいていた。山手線と京浜東北線が併走している駅だった。
「おかしいですよね、各駅停車のこっちはホームドアがあって、昼間は快速も通過するあっち側にはまだないんですよ。優先順位がメチャクチャ」
「そうでしょうか。きっとそれには理由があるんじゃないでしょうか」と瑞希は自然に言い返していた。男が引っ張るから、そっちじゃない方へ行きたい。
「もちろん、そういうこともあるでしょう。予算とかなにか。だけどいまみたいに怖い目に遭う人は多いんじゃないかなって思うんですよ。この時間帯はとくにね」
「時間帯?」
「ええ。午後四時から六時の間は危険な時間帯ですよ。クルマ、運転します?」
「いえ」
「ヘッドライトをつけるかつけないか、迷うぐらいの時間帯は事故が多いんです」
そんな時間帯に電車に乗ることは滅多になかった。今日は定時に退社したからだ。
「注意力が低下するんじゃないかと思うんですけどね、夕方は」
もう一度「そうでしょうか?」と言いたくなったが、瑞希はその言葉を飲み込んだ。
瑞希は通常なら夕方の五時から七時ぐらいがもっとも仕事に集中できる。それまでの時間帯に苦労してやっても進まなかった仕事が、その二時間でどんどん捗るのだ。注意力は低下しない。午後イチの会議の方が、よっぽど注意力は散漫だった。
夕方に事故が多いのは、単純に日が沈みコントラストが変化するからではないか。それにクルマの話と鉄道の事故とは関係ないのではないか。
男の名前を思い出せない苛立ちもあって、瑞希は寡黙になった。
「あ、ごめんなさい。一方的に責めたみたいになっちゃいました。いけませんね、おれ」
その笑顔は、やはりお笑い芸人のようで、瑞希は釣られてつい笑顔になっていた。できれば彼の後頭部を平手でピシャリとやりたかった。
「よかった、笑ってくれて」
自分が好きな人はそうは言わない。むしろ「なにがおかしいの?」と聞いてくる。
今年、四十八になるはず。厄年の表で自分のことより相手のことを先に心配していた。彼はもう厄ではなかった。
それなのに、自分は厄なのだ。
疫病神……。
いや、自分だけではない。彼の妻も本厄のはずだ。生年は同じで妻は七月生まれ。瑞希は五月生まれだった。
「川畑さんは何駅ですか?」
いま自分がどこにいるのか一瞬わからなくなり、車内の液晶画面を見上げた。路線図。次の次、有楽町で乗り換えだ。
「そうなんだ、おれ、東京駅で乗り換え」
瑞希は有楽町から地下鉄でマンションに帰る。
「よかったら、夕食とか、いかがですか?」
「え?」
名前がどうしても思い出せないので断ろう。瑞希はその断り文句を口にしようとしたとき。
電車の速度が急激に落ちた。ガクンと揺れて、吊革につかまっている彼の横にぶつかる。
「すみません」
「いえ」
そこにかぶさるように「ただいま新橋駅で緊急停止ボタンが押されましたため、一時、運転を見合わせております。お急ぎのところまことに申し訳ありません。安全が確認されしだい、運転を再開いたします……」
彼は素早くスマホをチェックしている。
「ヤバッ! 人身事故だって」
次駅で電車を待っていた人が、さっそくSNSに書き込んだようだ。
そういえば芸能人の不倫もSNSで知ったし、その芸能人も証拠となるような発言をSNSに残していた。
瑞希はいまの仕事をはじめてから個人でのSNSをフェイスブックだけにして、それも友人限定にしていた。
サービス部門は、なにが起こるかわからない。他社でちょっとした発言をSNSに書いたばかりに、その人の個人情報が根掘り葉掘り拡散され、さらに会社に対する悪口も蔓延して大騒ぎになったことがあった。
その恐ろしさに、すぐにアカウントを削除していたのだ。不倫をしている後ろめたさでSNSをやめたとは思っていない。あくまで仕事の都合上なのだ。
出会った人から残念がられることはあっても、日常生活には支障がないし、自分の大事な人もSNSに興味を持っていないどころか、ガラケーの愛用者だった。
どうせ会える日は限定されているので、寂しい夜にはせめてSNSでつながりたいと思うこともあった。
でもそのためには、彼にスマホを持たせ、SNSアカウントを作らせなければならない。
当然それは彼の妻にも知られ、やがてSNSで瑞希の存在まで辿られてしまうかもしれない……。
ネットに瑞希のことが晒し者にされて会社名や部署も明かされ「不倫OLかよ」と罵倒され、写真が流出し「よくこの顔で」とバカにされ、「死ね」と断罪されるだろう。
不倫を直接の原因とはしないだろうが、会社を辞めることになって、いまの部屋にもいられなくなる。
彼の妻が泣きわめき、そして私を恨むだろう。
「まさか瑞希がそんな人だとは思わなかったわ」
いや、そんなまともなセリフを彼女が言うとは思えない。
「瑞希、このクソ豚女! 電車に跳ねられて死ねばよかったのに!」
人身事故はもしかしたら、自分だったかもしれないとそのときようやく気づき、またしても背筋が冷たくなる。
「ちょっと、相談に乗ってほしいことがあるんですよ。いいですか?」
停車している電車の中では、会話ははずまない。シーンとしている。みな、固唾を飲んで電車がいつ動き出すのか待っている。
のんびりした男の口調はこの空気には似合わなかった。
そもそも、彼はこの車内の緊張をなんとも思っていないのだ。
「やっぱ、女性の意見を聞きたいんですよ」
話を盛り上げたくないので、瑞希は返事をしない。
「実はぼく、ちょっといろいろありましてね。恥ずかしい話なんですが」
再び後頭部をひっぱたきたい衝動にかられ、その原因が彼のイントネーションにあることに気づいた。関西の訛りがある。
思わず瑞希は笑う。
「あれ、なんかおもしろいこと言いましたか、ぼく」
「ごめんなさい」
笑いのツボにはまり、止まらなくなった。ぼく、だって。さっきは「おれ」だったような気がしたけど、「ぼく」は笑えた。
人身事故で緊急停車している車両の中で、関西弁らしきイントネーションでしゃべる小柄な「ぼく」と、意味もわからず笑う女。その状況にまたおかしさが加わってしまった。
ガクンと突然電車が動きだし、その間にアナウンスのあったことにも気づかないほど、瑞希は笑い、それが派手な笑いにならないように抑えるのに必死だった。
「ひどいなあ」
有楽町で降りると、彼はぼやいた。
「ごめんなさい。なんだか急におかしくなって……。で、すみません。お名前なんでしたっけ?」
この雰囲気なら言い出せると、思い切って尋ねた。
「ひどいなあ、ホントに。ぼくの名前も知らん人とずっとしゃべってたんですか。名倉です。
「あっ」
瑞希はその写真をいつも見ていたことを思いだした。そうなのだ。会社のポスターになっていた。リクルート用のポスター、パンフ、専用サイトなどでラグビー部は活躍していた。ずらっと並ぶ巨漢の中で、ひときわ小さく見えたのが「ぼく」なのだ。
いままで、なぜそのポスターの人物と職場でうろうろしている彼とを一致させることがなかったのか、いまになってみれば不思議だった。
要するに興味がなかったのである。
社会人ラグビーはかつてほど会社のサポートを得られなくなっていたが、新参のIT系企業としてあえてラグビーに力を入れていた時期があった。大手電機メーカーなどに対抗したいと思ったのだろうか。
「焼き鳥、食べますか?」
「はい」
「きれいな店、知ってるんで」
有楽町、日比谷、銀座──。この界隈でなら古今東西、あらゆるタイプの食べ物屋がありそうだ。
男は銀座一丁目方面へ歩き、瑞希を路地に連れてゆくとビルの二階の店を示す。エレベーターもありそうなのに、薄暗い階段を上がっていく小柄な名倉。仕方なく、あとを追う。
想像していた焼き鳥屋とは趣が違う。白木の引き戸、白い小ぶりの暖簾。割烹のようだ。地鶏の看板も飾られている。
「こんばんは」
ガラガラと開けて入って行く名倉は、こういうことに照れることもなく、「二人なんですけど、奥いいですか?」と聞いている。
カウンターにはすでに五人ほど客が並び、アキは少ない。奥にテーブル席が二つあり、その一つに通された。鍋用のコンロも置いてある。カウンターやテーブルはよく磨かれた木目の美しい白木造りで、照明も明るい。禁煙の店だった。
「コースで」と彼は注文し、「いいですよね、鶏わさとか大丈夫ですか?」と聞いてくる。
そのスムーズすぎる展開の鮮やかさが、いちいち瑞希には「久しぶり」と思わせる。こんな風にデートというか、女性をもてなす男と飲むのは三十代になってからは皆無だった。
二十代後半は奇跡的なモテ期だったのだが、その頃はそう思わなかった。
惜しい話がいっぱいあったような気もする。
彼は瓶ビールを頼み、小さなコップにお酌した。
「じゃ、お互い、名前もわかったということで、改めてはじめまして」
「すみません」
「かんぱーい」
ぎこちないスタートだったが、鶏皮の付き出しのおいしさに驚いた瞬間から瑞希はリラックスしていた。ポン酢の味わいがまるで違うのだ。
たまにはなんの関係もない人とこうして酒を飲み、おいしいものを食べるのもいいものだ、などと思いはじめた。
焼き鳥五種類の盛り合わせが出た頃になって、名倉は日本酒に切り替えた。ぬる燗の徳利。お猪口で飲む。瑞希も悪いと思ったのか、名倉の杯に注ぐ。
二十代のとき、好きでもない男にお酌などできるか、と社内の飲み会でも滅多にそういうサービスはしなかったが、いまは自然にできてしまう。
「実はぼく、離婚調停中なんです」
さらりと名倉が言ったので、瑞希は「ふーん」と気の抜けた返事をしてしまった。
「大学時代に知り合ってそのまま結婚したんですけど、離婚したいと言うんで……」
「大変ですね」
なにを言えばいいのかわからず、適当に返事をする。口の中でレバーがとろけていくので、その感想を言いたいぐらいだったが、そういう状況ではなさそうだ。
「彼女、京都の子なんです」
二人して関西なのかと瑞希は思う。東京の足立区に生まれて育った瑞希には関西は遠い世界だ。大阪と京都の違いなどまったく知らない。同じ関西だろうと漠然と思っている。京都、大阪、兵庫、奈良はそれぞれに独特の「関西」なのだが、それを意識しているのはその地域の人たちだけである。
「大学で知り合って。一個下で。すごくかわいくて。猛烈にアタックして。就職してすぐ結婚しました。ただ、彼女の家族は大反対でした」
それが離婚の原因なのか、と瑞希は不思議に思う。
「いま思えば、ムリしたのかなとも思うんですけど。ただ、彼女はついて来てくれると言ってくれたので、それを信じたんです。東京に来て、新居は浦安。駅は新浦安なんですけどね」
「ああ、ディズニーランドの」
「越してきたときは花火、見えたんですけど、いまは別のマンションが建ってしまって見えません」
それは離婚とは直接、関係なさそうだと瑞希は判断した。
「どうして、別れるんですか? 大恋愛したのに?」
「まあ、ぼくは大騒ぎしたんで。そういう気持ちだったんですけど。彼女はそうでもなかったのかなあ」
「そうでもない人と結婚しませんよ、絶対に」
「ですよね」
あっという間にお銚子が空き、二本目。
「離婚したいって、その意味がわからない」
彼はぐいっと飲み干して言うのだ。「わからない」と何度も。
まずいところに来てしまったと、ようやく瑞希は気づいたが遅かった。その後も延々と相談というよりも「わからない」話が繰り返された。
しつこいから嫌われたのではないかと瑞希は思ったが、さすがにそれを口にするほどは酔ってはいなかった。
「私には、ちょっとわからないです。すみません」
「ここはぜひ、女性の意見をうかがえればと思ったんですけど……」
東京風の言い回しの中に、イントネーションが違うから、瑞希はちょっと微笑む。ヤンチャな子どもが甘えているようにも聞こえる。
「メチャクチャですよ。突然、離婚したいって、なんですか? なんなんですか?」
酔いの早い男だった。
「いつ、そうなったんですか?」
「え? 調停ですか。離婚ですか。離婚の話は去年の夏頃です。調停はいまはじまるところ」
半年粘った末に、煮え切らない彼に腹を立てて調停に突き進んでいったのだろうか。
「いま、奥さんとは?」
「出ていきました。実家にいるようです。お互いに弁護士を立ててしまったので、直接の会話もないです」
「調停も京都、ですか?」
「そうなんですよ。行くだけでも大変なところで裁判やれば、こっちも諦めると思ったのか、どうなのか……」
彼は困っているようだった。それでも瑞希は思う。原因の一端は彼にもある。自覚していないだけだ。その自覚のなさや、しつこさや、のらりくらり加減が合わさって妻は家を出たのではないか。
「ああ、どうしてなんだろう。なにがいけないんだろう。なんにも思い当たらないし。楽しくやっていると思ったのに」
三本目のお銚子。彼は手酌で飲み始める。
瑞希がはっきり覚えているのはここまでだった。
ドンと瑞希は白木のテーブルを拳で叩いた。
「名倉さん。おかしいですよ、それ。なにをぐだぐだ言ってるんですか。調停してどうしようって言うんですか。もう戻らないところまで行ってるんですから、さっさと離婚しちゃえばいい」
瑞希はそのようなことを、店内に響く声で言い放った……ような気がしてならない。
記憶は急激に曖昧になる。時間の経過もおかしい。定時で退社したので店には六時頃に入ったはずだが、気づけば十一時。
泥酔した彼を放り出すこともできず、タクシーに乗せたような記憶もある。どういうわけか、気がついたら瑞希の部屋で彼は寝ている。その経過は思い出せない。
カーテンも閉じず、ベランダに干した下着も、風呂場に干した下着も畳んでいない。
服を着たまま、夜が明けたのだ。
丸いちゃぶ台に缶ビールが六本。柿の種とポテトチップスの袋。中身はどちらもほとんどない。半分、囓られたスティックチーズ。。
タクシーで瑞希の部屋に来て、上がり込み、酒を飲んだと思われる。
頭が痛い。
学生時代にやらかした二日酔い。二度と味わいたくないと慎重に生きてきたのに、またやってしまった。厄がじわじわ効いている。
「起きてください」
カーペットで寝ている男の名をまた忘れてしまい、触るのもなんだから、耳元で声をかけた。
「起きてください。もう朝です」
火曜日の朝。午前六時。これから日の出だ。
「おっと」
突然、男は起き上がる。上着を玄関に放り出し、ワイシャツ姿の彼は、たくましい肩、腕、胸板をしていた。
ラグビー選手。名倉、と思い出す。
その鍛えられた腕で瑞希に抱きついてきた。
「あっ、ちょっと」
すごい力なので、息もできない。
「やめて。苦しい」
名倉は瑞希の顔も見ずに腕をほどくと、立ち上がった。
「すみません。ごめんなさい」と頭を下げる。
「大丈夫、ですか?」
文句を言うべきところなのに、瑞希はついそんなことを言ってしまう。これも大厄のせいだ。
「すみません。ごめんなさい」と謝りながら、玄関に向かう。
「名倉さん。大丈夫?」
「すみません。ごめんなさい」
それだけしか言わず、上着を取り、靴を履き、出て行った。
閉じたドアを見て、「なんなのよ!」と文句を言ってみる。
なんなのよ! まったく。なんなのよ。
繰り返しながら、ゴミを片付け、下着類を取り込み、服を脱いでシャワーを浴びた。
なんなのよ。
やっぱり後頭部を思いきりひっぱたいてやるべきだったと、それが悔やまれた。
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