第3話 警察に届けても、不倫がバレるわけではない
「あたしゃ、聞きたくないからね」
眞弓はいきなりボロネーゼをフォークにぐるぐると巻いた。
「ボロボロ落ちるからボロネーゼ、なんちゃって」
眞弓は一人で言って、頬張っている。
「瑞希は男を見る目がない。最初からわかっていたことだし、あたしとしたことが、名倉の名前がなんで出るのかなとピンと来なかったのは不覚であった。あのとき止めていればと二リットルぐらいの涙がちょちょ切れておるよ」と飲み込みながらしゃべる。そのきりっとした唇の端にボロネーゼがついて、それを指先で払い落とす。
「関係はないの、なんにも。ただ飲みに行くだけ」
「みんなそう言うのじゃよ、お嬢ちゃん」
たしかにボロネーゼは、ミートソースの挽肉がパスタに絡みそうで絡まずに、ボロボロ落ちる。ナポリタンにすればよかったと瑞希は思う。
「『あたしぃ、彼とぉ飲んでいるとぉサイコーに楽しいしぃ。それだけなの。なんにもしてないんだよー』とな。誰が『いきなり押し倒されてやられちまったぜぃ』なんて言うかって」
「違うんだから、ホントに」
「あのタックル野郎と付き合って、押し倒されなかったなんて話を信じるやつは世界中のどこを探してもおらぬのじゃ」
「ホントだもの」
「もしそうだとしても、もはや瑞希はやられたと、全員が思ってる。世の中はそういうもの。現実を舐めてはいかんのだ、お嬢ちゃん」
眞弓になにが憑依しているのかは不明だったが、瑞希は困惑しつつも、からかわれていることだけはわかったので、笑って聞いていた。
「瑞希が名倉とか……。ま、お似合いかもね」
眞弓がふと真顔で言う。
「ちょっと、やめてよ。お願いだから」
「うちの部長、ラグビー部だったのよ。さっき、瑞希のこと聞いてきたよ」
「うそっ、眞弓に?」
「正真正銘の独身、嫁入り前、おそらく処女だって言っておいた」
「バカ」
さすがに瑞希もあきれた。
「最後のは冗談。そんなこと言うわけないし、信じる野郎もいない。とにかく瑞希はいい子だって言っておいた」
「やめてよ、お願いだから」
「部長はやる気だと思う。張り切ってたなあ。結婚式には行くよ、全力でね。なにしてほしい? 暴露スピーチ? 歌? あれ歌うわよ、コブクロの……」
「あのね、そういうことはないから」
「なんで? 向こうは離婚するんだから大丈夫だよ。それに名倉はあれでお客さんの評判が異常にいいから出世する。おそらく歴代で一番チビの社長になる」
「社長?」
「ま、ないか。そこまでは行かないとしても、部長は間違いない。だって体丈夫だし。すごいよ、瑞希。あれ、本気でラグビーチームあんたに作らせるよ」
「ラグビーチーム?」
「十五人」
「やめて! 聞きたくない……」
「世界で一番小さなビッグダディーだなあ」
「いい加減にしてよ」
笑いながら食事をする。
「あ、でも七人制ラグビーもあるかも。女子もあるし」
「ムリに決まってるでしょ」
いまから毎年一人産んだとしても七年後には四十代半ば。最初の子が成人するときには五十代後半。そして四回目の厄年が来る頃にはボロボロに……。
それが幸せと思えるかどうか。
男の子を三人産んだ睦美を思い浮かべる。
睦美は命がけで命をこの世に送り出している。最後に見かけたときも、体形は昔には戻っていなかった。長男のときはがんばって戻していたが、あとはムリだった。マタニティの服ほどではないが、緩やかで体形を隠しやすい服ばかり着ている。
大輝との関係をこのまま終わりにしてしまうのがいいのではないか。それは彼や瑞希の問題ではなく、睦美のことを思えば必然のように感じる。
ドラマと違って現実の結末は曖昧で、誰も責任なんて取らない。
だって人生は短くて、とにかく明日も生きてゆきたいから。できれば明日は今日より幸せでありたいし。
瑞希は、昨夜も名倉が泊まっていったことは言わなかった。
居酒屋などには寄らなかった。買い物をして瑞希の部屋で飲んだのだ。友人のようであり恋人同士のようでもあり。不思議な関係だった。名倉はいつまでもタックルしてこなかった。ウワサはウワサに過ぎないのだ。しかし、名倉はまだそれほど酔っていないときに名言した。
「ぼくと付き合ってください」と。
瑞希は「はい」と言っていた。
不倫相手に対する倫理的な後ろめたさはそれほど起きなかった。不倫関係に倫理は通用しないのではないか。重要なのはprogram。現実なのだ。どれほど些末なものであろうとも。
しかし正式には名倉もまだ離婚は成立していないから、こっちだって不倫状態ではある。
二股不倫などという言葉はあっただろうか。
W不倫はよく聞くが、独身女が二股で不倫するというのはどうなのか……。
なんだか精神的に壊れているか、肉体の欲望のままに生きている女のようだ、と瑞希は思う。思うだけで、妙におかしみがあって、笑いたくなる。
二股不倫は流行語にならない。
平凡な大厄の女にすぎない。カッコのつけようもない。伝線したストッキングを何度も履いてしまうような女。洗濯するたびに靴下の片方がなくなり、微妙に色の違う靴下を履いても気にしない。
だらしがない女だと言われるのは、慣れている。母親から小さい頃から指摘されてきた。出したら出しっぱなし。つけたらつけっぱなし。読んだら読みっぱなし。脱いだら脱ぎっぱなし。人並みに後始末ができるようになったのは、三十過ぎてからだ。
もっともそれでも、眞弓のような女から見れば、なにもできないバカ女なのだろう。
「離婚の理由は、子どもができなかったことなんですけど」
名倉はしみじみと語っていた。
「原因はぼくにあるようで治療も少ししたんですが、忙しくて。人工授精をしようかと思ったら、それを彼女はイヤだって言い出して。なんだかすれ違いが多くて、彼女の気持ちがわからなくなってしまって……」
意見をやり取りするというよりも、すぐ口論のようになってしまったのだと彼は言っていた。
瑞希はなんだかうれしくなったのだ。そういう話を男からしてくれたことが。
だから眞弓が子どもの話を持ち出したとき、彼が不妊治療をしていたことをあやうく言いそうになってしまった。
「彼は子どもはできないんだよ」と。「できにくい」のだと。それに瑞希自身、自分の体が万全かどうか自信はなかった。
子どもを最初から期待しない夫婦だっていいじゃないか、と瑞希は思う。そのことを名倉にちゃんと伝えた。「子どもはとくに必要だとは思っていません」と。
そもそも子どもが産みたい女が不倫をするだろうか。
なにかの本で、男はDNAをバラ撒きたいという本能があって、浮気するのが本来の姿だと書いてあった。
三人も子どもを作った大輝は、もしかすると別の卵子でも三人が欲しいのだろうか。この方式なら確かに野球チームでもラグビーチームでも作れそうだ。
なんとなく瑞希は、赤い土が広がる真っ平らな国で藁葺きの小屋に住む一族を思い浮かべた。その
実際には、大輝はクソがつくほどまじめで避妊具を欠かさない。不器用だがそれなしにすることはない。ムードが壊れると思う人もいるようだが、瑞希は気にならなかった。おそらく大輝は妊娠させるのが上手すぎる男なのではないかと思う。
三人産んだところで睦美から「もう子どもはつくらない」と言い出し、それに同意し、セーフセックスを実践するようになってから大輝の中でなにかが変わったのではないか。
または彼の中の本能が、別の卵子を求めてなにかの間違い、手違いで四人目ができる可能性に向かって彼を突き動かしたのか。
それが瑞希との関係につながったのではないか。
もしくは、避妊してセックスするなら誰とやってもいい、といった自分勝手な解釈なのかもしれない。
はっきりと大輝から聞いたわけではないので、推測にすぎないが。
子どもを作りたい、その熱意で睦美と夫婦になり、次々と子作りをしてきた。その行き場を失い、あらためて睦美と交わる理由が見いだせなくなっていたのかもしれない。
大輝の口ぶりからすれば、少なくとも睦美はセックスレスでも平気らしいし、子作りなしのセックスはしなくていいものだと思っているらしかった。
だから、愛なんて信じちゃダメなんだ、と瑞希は自分なりに解釈する。愛があって夫婦になって、愛の結晶をつくるために励んで、愛の結晶はもう作らなくていいとなったら、愛もどこかへ消えてしまうのか。
そもそも、そんなことで消える愛なら、最初からそれほど重要なものではなかったのではないか。
瑞希はそう感じていた。それなら愛を気にしていない自分を正当化できるし。
名倉との関係も、さして愛を感じているわけではない。ただ、わかり合えていけるような気がしていた。名倉は率直に話す。だから瑞希もできる範囲で話す。隠し事はお互いにあるだろう。不妊問題だけが離婚原因ではないはず。それは瑞希にだってわかる。
それにタックル男というウワサが社内に流れているのも、なにかしらの情報があってのことだろう。それが学生時代の蛮行だったとしても、誰しも汚点の一つや二つはあるし、それを聞きたいとも思わない。
このまま、素直に付き合っていけるのなら、名倉と結婚してもいい。社内で結婚した夫婦が、仕事も続けているケースが増えていた。部署は別々になることが多いようだが瑞希は部署に未練はない。
それに名倉はこの会社の先輩たちの例にもあるように転職したり独立する可能性もあった。
東京から離れることもあり得る。単身赴任もあり得る。
それもいいような気がした。名倉となら、遠い町でも暮らせるかもしれない。週に一回とか月に一回でも会えればいいかもしれない。
大輝とはもし結婚できたとしても、そこまでは思えない。それに最初から結婚はあり得ない。それでも長続きしている。会えないときのほうが圧倒的に多いのに。
信じていない「愛」とやらに、さまざまなカタチがあるのだとすれば、大輝との愛と名倉との愛は、まったくカタチが違う。別物なのだ。
名倉を母親に会わせたら、彼女はなんて言うだろう。下町に育った母は口が悪い。なにかとんでもないことを言うだろうか。そうしたら、自分は彼に味方をして母とケンカをしてもいい。
いや、ケンカをしたい。
「もうお母さんには相談しない!」
「おまえなんて娘でもなんでもない。出て行け。勝手にしろ!」
そのまま死に目にも会わずに別々に生きるかもしれない。
悪くない。
瑞希はなんだか自分の生き方をいま選択しつつあるような気がしていた。
大厄なのだから、なにかを決断してはいけないのかもしれない。チャンスのように見えてるものが、すべて破滅への道かもしれない。
だとしても構わなかった。
先日、なにげなくテレビを見ていたら南米の聞いたこともないような田舎の町で一人で住んでいる日本人女性がいて、彼女は夫とそこにやってきたのに、夫と死別してしまい、そのまま日本に帰らずに住み続けたと言っていた。
しかも夫が亡くなったのはいまの瑞希と同じぐらいの年齢のときで、現地で再婚も可能だし、日本に戻っても再婚できただろう。
それなのに彼女はまるでそれが運命でもあるかのように、そこに一人で暮らし続けたのだ。
理由は死別した夫の家族の面倒を見るためだった。両親、兄弟姉妹、その子たち……。
貧しい彼らを見捨てられなかったのだろうか。自分だけ電気もガスも使い放題で温水シャワー付き便座のあるトイレだとか、週末はクアハウスで岩盤浴だとか、エステでオイルマッサージとか、そういう世界に戻るのは卑怯だと思ったのだろうか。
瑞希には理解できない。
しかし彼女は幸せそうだ。
そういう生き方を不幸だと決めつけるのは簡単だ。だけど、その女性は明るくて、たくさんの家族がいて、どのドアも窓も開けっ放しの家で、虫がいっぱい飛んでいる中でも平気でご飯を作っていた。
哀しいことに、それはばら寿司だった。
「帰りたいですか」とレポーターが聞いたら「十年前に一度、帰った」と驚きの言葉。義理の兄弟たちと日本旅行をしていたのだ。
それでも日本にずっといたいとは思わなかったらしい。
瑞希も、もしかしたら誰にも何も言われることのない自分なりの生き方ができるかもしれない。
もっとも、大輝と関係を持ったときもそう思ったのだが……。
「最近、きれいになったね」
珍しくズボンを履く頃になって大輝がそう言った。
「そう? もう年だけど」
「いや、きれいになった。なんだか申し訳ない気がした」
「はあ?」
大輝は服を着ている。痩せた体に妙な脂肪がついて、見慣れない姿になっていた。よく言えば不健康な外国人っぽくもある。腰がかなり高いところについているのだが、その回りに脂肪がついたので、ますます奇妙な体形になっていた。
劇的に痩せると宣伝しているCMでも、いまのところこんな体形は登場していなかった。
睦美はそれを見たくないのかもしれないなあ、と瑞希は思う。
「運動、したら?」
「え?」
「スポーツジムとか……」
「ああ、そういうの? 瑞希はやるの? 一緒にやるなら考えてもいいけど」
仕事と不倫。さらにシェイプアップまで一緒に過ごしたら、これは夫婦以上の濃密な関係になるのではないか。
睦美の旦那を瑞希がカッコよくさせる義理はない。
「最近、うちのカッコよくなってきてね。もしかしたら四人目に挑戦しちゃうかも」
大きな口を開けて笑う睦美が浮かぶ。
ところがその日は、唐突に訪れた。
「その日」とは、瑞希が漠然と「いつか来るかもしれない」と思っていた「その日」のうちの一つだった。
大輝と会う約束は、SNSなしでも簡単に調整できた。ただの不倫ではなく、仕事という共通点があり、クライアントとベンダーの関係があった。瑞希は当然にクライアントと連絡を取ったりミーティングするのである。
そのため、大輝は顧客として瑞希のビジネス上のカレンダーを共有している。そこではチャットもできる。
もちろん社内の権限のある者なら読めてしまうので、余計なことは書けない。定例のミーティングが毎月2回、設定されていたし、それ以外にもお互いに必要であれば随時、ミーティングを設定できる。場所も瑞希の会社の会議室とは限らない。会議室はいつも予約の取り合いであり、大輝の移動時間などの関係から、外に出て打ち合わせをすることもよくあった。
こうして会うことさえできれば、あとでホテルに行くとか食事に行くとかを決めることもできた。同行の上司や別の営業担当などがいる場合でも、四年もたつと目配せ一つで確認できるほどになっていた。
「じゃ」とお互いに別れるときに、指を立てて、何時間後かを示し、いつもの場所で待ち合わせたことも二度や三度ではない。
この日も四時からミーティングが設定されていて、大輝の希望で新宿のホテルのロビーだった。新人として配属されてきた営業の女性2人が同行していた。
そのホテルでは仕事だけしかしない。解散後にいつものカフェで落ち合って、食事したりしてから別のホテルに行くのがパターンだった。大輝の好みは本来はシティホテルなのだが、お互いにそんなにゆっくりしている時間はないこともあって、レジャーホテルもよく利用していた。
瑞希はそのような新人時代はなかったので、新卒で研修を受けて鍛えられてきた彼女たちがまぶしかった。新卒で入社したあと研修を受けながらさまざまな部門を回って、年明けになってようやくここの部署に正式に配属となったのだ。業務が多岐に渡ることもあるが、いかにも丁寧な扱いだった。
「自分はどうせ……」と思ってしまう。
もっとも「どうせ」のあとの「……」はそれほど卑下したものではない。ただストレートなキャリアがない点だけは、なんとなく不利な気がしているのだった。
まるで大学生のような彼女たちを見たら、大輝はどう感じるだろうか。担当が彼女たちになったら、彼女たちと不倫するだろうか。
バカなことを考えるほど、暇だった。それもそのはず、大輝がいつまでたっても現れないのだ。
いつもなら十分前には来ている大輝だ。十五分経っていた。開いているタブレットに、メッセージも来ない。
「おかしいわね。すっぽかされちゃったかしら」
新人たちの手前、瑞希は落ち着いているフリをしたが、三十分経っても現れないのでメッセージを送ってみた。勘違いをしているのかもしれないから。
だが、応答がない。
なにか、あったのだ。
そう思うと、悪い想像しかできないものだ。事故か。急病か。
知らないわけではないので、大輝の会社に電話を入れてもいいのだが、出るのは睦美だ。
深く息を吐いて気持ちを整えてから大輝の会社に電話した。
かなり呼び出してから、やっと睦美が出た。
「すみません」と瑞希は社名と名前を形式的に告げた。
「なんだ、瑞希? どうしたの。うちのやつ、そっちじゃないの?」
「まだいらっしゃらないのです」
「え? 新宿だよね。用事があるって二時頃に出たきりよ。どこ、ほっつき歩いてんだか……。ごめんね、あいつ、最近ボケてるからね」
「え?」
病気を瑞希は連想してしまう。
「ふふふ。そんなんじゃないけど、眠れない日もあるみたいで、ぼんやりして、味噌汁にソースかけたりしてたのよ。バカでしょ」
妻だ。睦美はまぎれもなく妻であり、大輝の子の母だ。それを瑞希は突きつけられて、妙な敗北感を味わう。
新卒女子と正妻に打ちのめされる不倫OL。しかも大厄……。
いったん、社に戻ったが八時を過ぎても大輝からは連絡がなかった。
睦美からもだ。
なぜかラグビー男も不在で、一人でおとなしく月島に帰り、電子レンジで冷凍のピラフを温めていたら、着信音が響いた。
瑞希は勢い込んで耳にあてた。
「瑞希? 私。あいつ、まだ帰ってこないんだけど……」
睦美だった。
さすがに心配になってきたらしい。
九時を回っている。たまに見るドラマがはじまっていた。不倫をテーマにしているが、それほど悲しそうでもないのに、悲しんでいるのがおかしい。そもそもブランドの服を着てスイートルームで不倫かよ、と思う。
「連絡は? メールとか?」
「なんにもないの。よく会う仕事関係の人とかにも連絡してみたんだけど、今日は会ってないって」
嫌な予感しかしない。
警察に連絡しようかな、と睦美が言ったとき思わず「ダメ」と言いそうになった。警察に届けても、不倫がバレるわけではない。
ただ、もし大輝になにかがあったのなら、その原因は瑞希との四年間にあったのではないか。
そんな気がしてならない。
「なにやってるのかしら、あいつ」
睦美がまるで瑞希の思いを読み取ったように、そうつぶやいた。
その時、背後で男の子たちがなにか叫んだ。「うるさい、いま電話してるの」と叱る睦美。
「届けたほうがいいかもしれないわ。なにかに巻き込まれていないとも限らないし」
そう言ってしまってから、その言葉が連絡できないほどの事態と決めつけているようで、「そういう意味じゃなくて」と足したが、もはや二人は同じ思いになっていた。
「うん。電話してみる。ごめんね」
「ぜんぜん、大丈夫よ。とにかくどうなったか教えてね」
「ええ」
しかし、その夜は大輝からも睦美からもなんの連絡もなかった。
大輝はこの世から消えたのだろうか。
もう会えないのだろうか。
別れの言葉もなく?
妻子を放り出して?
瑞希には、どうしようもないことだった。
それからは、もしかすると月島の部屋に戻れば、そこに大輝がいるのではないか。そんな畏れと期待の混じった妄想を帰りの電車で描く日々が続いた。大輝はあの部屋の鍵は持っていない。来たこともない。だが、住所は知っているはずだ。
もし、彼がそこにいたら、瑞希は黙って彼と住むだろうか。
睦美には知らせずに、彼と暮らす日々……。
そんなものはないのだ、とわかっているが、この妄想をさまざまに変化させながら、ありもしない夢のような結末をそこにあてはめては、真っ暗で誰もいない部屋に帰るのだった。
「お客さんが失踪したんだって?」
眞弓の地獄耳を逃れることはできない。
翌週の金曜日の昼。眞弓は瑞希を昼食に誘ったのだ。パスタの店は、似たような女性でいっぱいだった。
大輝が消えてから、十一日目だった。
瑞希はただため息をついただけで、返事をしなかった。
「聞いたわ。名倉と組めって言われたんだって?」
「それもそうなんだけど……」
「奥さんが事業を引き継ぐって本気なの?」
瑞希はうなずいた。なんでこんな面倒なボンゴレを頼んでしまったのだろうと後悔しながら、フォークで貝を皿の脇にどかせる。アサリの身を取る気も起きない。
焼きそばのように口いっぱいに頬張って食べる眞弓がうらやましかった。カルボナーラにすればよかった。瑞希なんて名前で産まれなければよかった。大輝なんかと不倫しなければよかった。睦美と友達にならなければよかった……。
毎日の妄想が瑞希をすっかり極寒の地に追いやっていた。
「つまり会社としては、瑞希が原因でこうなったわけじゃないにせよ、ドシロウトの奥さんを経営者にしてこれまでの事業を引き継ぐってことは、けっこうシンドイ話だってことで、暇な名倉をあてて、いわばタッグチームってことにしたわけね。センスのない抜擢だけど」
「名倉さんが暇かどうかは知らないけど」
「暇に決まってるでしょ。あんな無能なチビ」
チビというほど小さくはない。彼があの部屋にいたとき、その存在感はとても大きく感じた。会社の中や、電車の中での彼とは違っていた。
女子社員の中に名倉より背の高い者は数名いるのは事実だ。ラグビーチームの中ではダントツにチビであるのも事実だ。それでも、個体で見る限りはその胸板の厚さや首や腕の太さなどもあって、瑞希は彼が小さいと感じることはなかった。
いや、付き合うようになってから、瑞希の中では名倉はかなり身長が伸びてきている。
それになんといっても、ヤツは男だ。
「お願いがあるんですけど」と眞弓は口の回りについたソースをナプキンで拭った。
「なによ、改まって」
「改めてお願いです。名倉を見張っておいてください。お願いします」と眞弓はちょこんと頭を下げた。
「見張る?」
「ええ。重要参考人。極悪人。大罪人。チビだけど」
「どうして。まさか、眞弓……」
「ちがう! そうじゃない!」
バンとテーブルを叩いた。食器が不協和音を立てたが、周囲の喧噪に紛れてしまう。
「妙な誤解はしないでね。私はどうでもいいの。お姉ちゃんのためなの」
「お姉……さん?」
「そう。
「えっ」
眞美と眞弓。そんな紛らわしい名前をなぜ姉妹につけたのか。
「いま離婚調停中ですけどね」
さすがの瑞希も、どっと脇汗がしたたるのを感じた。
好きになりかけている名倉。その妻は眞弓の姉なのか。もし名倉と付き合っているとか、二人で居酒屋にいるところを見られたら……。
キレた眞弓はちょっとした殺人鬼に変身しそうだった。
いつもの妄想に、名倉が加わる。真っ暗な部屋に帰ったら、名倉がいて「どうしたの?」と声をかけたら、バッタリと床に倒れ込んで。その背中に包丁が突き立っていて「ケケケッ」とカラスの鳴き声みたいな声で笑いながら血まみれの眞弓が現れて……。
殺されそうになる寸前に大輝が来てくれて……。
いや、そうではない。先日は眞弓がまるで名倉と付き合うことを前提に瑞希を祝福してくれているような態度ではなかったか? 部長が仲人に乗り出しそうだと。その部長に瑞希のことをよく言ってくれたと……。
「瑞希が名倉と付き合ってるのは知ってる。この間は、いいかもって思ったりもした。事実よ。もし名倉がどうしようもない男であることがわかれば、姉も諦めるって思ったの」
瑞希は名倉のダメさ加減を証明するための道具だったのか? 眞弓はいい聞き手だと思っていたし、年下の友達と思っていたし、信頼もしていたのだがいまはちょっとぐらつきかけている。やっぱり眞弓の考えることは、よくわからない。
「でもね。姉はちょっと神経が参ってしまっているのね。だから京都に居座っちゃって。嵐山の方なの。観光地から少し離れていて夜なんてすっごく寂しい場所なのね」
「一人で?」
「父母がいます」
「実家? 眞弓って京都生まれ? ぜんぜん関西風じゃないわね」
「私は高校からこっちだから……。京都にいけばそれなりに戻っちゃうけども」
「お姉さんって、おいくつ?」
自分が大厄だという意識からやたら年齢が気になっている。
「七個上だから九になる」
三十九……。
「離れているのね」
「うん。だから実はあんまり姉のことはよく知らないの。名倉が高校生の頃に知り合っていたらしいけど、姉がヤツの家庭教師をしていたらしい。あんなケモノの家庭教師なんて断ればよかったのにね」
何年前の話だ、と瑞希は思う。
名倉は年上の家庭教師にタックルしたというのか……。
「よくわからないけど、すごくイヤらしい想像しちゃうわよね、自分の姉だけど……」
眞弓は身内にも辛口らしい。
「名倉さんはラグビー漬けだったんでしょう?」
「姉は応援団ね。押しかけ女房みたいな。食事とかそういうことも気を配ってあげたりして。大学時代なんてかなり知られていたみたい。ホント、恥ずかしいけど」
「そんなことないよ。ステキじゃない」
「過去形でね」
二人とも食欲が失せていた。パスタは半分ほど残ったまま放置された。そしてどんどん、乾いていった。
子どもができないのが原因だと名倉は言っていたが、そうすると話は微妙にズレが生じる。それほど長く付き合っていれば、子どもを産むのに苦労することはわかっていたのではないか。
十六歳頃の名倉と二十五歳ぐらいの眞美。年が離れすぎているものの、それから十四年間も付き合ってきたわけで、離婚の原因はもっと複雑なのではないか。
「お子さんは?」ととぼけて瑞希は尋ねる。
「幸いというか、不幸というか、いないの。姉もけっこうサバサバした人なんで、子どもはいなくてもいいんだろうって思ってたけど、三十五ぐらいから急に子どもを欲しくなってきたって言っていたわ。『眞弓ちゃんもいまは子どもなんて想像つかへん思うけど、じきにな、お腹の底から欲しいなあって思うようになるねんで』なんて言うてた」
眞弓の関西弁は不自然だった。東京では本来の言葉は出てこないのだろうか。高校時代に東京に来てから、眞弓はきっと標準語に執着して京都の訛りなどを完全に消し去ってきたに違いない。いまではむしろ標準語というよりは東京弁になりかかっている。
「子どものことで離婚になったわけ?」
「それもあると思う。姉も私に似て、猪突猛進だから」
子作りに目覚めたのはきっと年齢のせいだろうと瑞希は想像した。三十代になったときは「いまが一番いい」と思った瑞希でも、三十六を意識するようになると「あとがない」と妙な焦りを覚える。
それは二十代の頃は感じなかった。あの頃の焦りはいまから思えば子どもじみていた。三十代の焦りは、人生そのものだった。
ふと、大輝はいまどこでなにをしているのか、と瑞希は思う。彼は四十代の終わりに差し掛かっていた。男としても人生そのものに焦りを感じていたはずだし、きっと三十代だったらなんでもなかったことが、四十代では苦になってきて、このまま五十代になったらどうなるかと不安だったのではないか。その奇妙な焦りから、失踪してしまったのだろうか。
幸い、いまのところ警察などから最悪の情報は届いていない。どこかで生きている。それは間違いのないところなのだが……。
「頼んだわよ。名倉って野郎は、姉にとっては最後の砦なの。瑞希と一緒になるならそれはそれで応援はする。推奨はしないけど」
「え? ああ、そうね……」
否定すればいいのか、肯定すればいいのか瑞希にはわからなくなった。
「すぐに離婚しないのは、彼がきっとまた気持ちを変えてくれるって思ってるからなの。かわいそうでしょ、姉」
「ええ、そうね。かわいそうだわ」
「だったら協力してね。頼む」とまた眞弓は頭を下げた。
瑞希は、奇妙な焦りの連鎖が起きているような気がしてならなかった。
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