第5話 好きではあるがトキメキというほどではなく
一月があっという間に過ぎて行く。
オフィスでみんなが芸能人の不倫についてムダ話をしていたのが、遥か昔のようだ。
いまでは、ドヨンと淀んでいるのは瑞希たちのオフィスだけではない。親会社のメンバーたちはあの日から笑いが消えてしまった。いや、表面上はニコヤカにふるまっているが、以前のようなカリフォルニアのIT会社のような明るさはない。
瑞希にはそれが残念だった。
せめてやつらが、お気楽なクマさんのように、時々はカチンとくることもあるとはいえ、ゆったり大らかにそしてハードに仕事をしてくれていると思うとなんとなく安心だったし、こっちも「がんばろう」と思えた。
万が一、いまやっている事業がおかしくなったとしても、そっちがしっかりしていれば、社員なら新たな仕事のチャンスがあるかもしれなかった。
いまは、それさえも極めて怪しくなってきた。お気楽なクマさんは、神経質なキツネさんになっていくようだ。
クマにもキツネにもなんの罪もないけれども。
東京地検が段ボール箱で何十個も資料を持ち出したあと、会長は心臓かなにかが悪いと入院してしまい、社長は辞めるという。
臨時取締役会と臨時株主総会が開かれるらしい。
「内部告発だってさ」
眞弓は、すらっとした足を組んで、ボールペンを噛む。それが似合う。
「誰だろうね」
眞弓がやったとしても不思議ではないが、残念ながら彼女は親会社の内情など知るはずがない。
「都合よく京都に逃げた野郎がいたよね」
ボールペンで歯をコツコツ叩く。眞弓はホワイトニングをしているようだ。歯列矯正もしたかもしれない。
「眞弓、まさか……」
「だって、おかしいよ、絶対。あのタイミングで高飛びするヤツが一番怪しいに決まってる」
二時間サスペンスならそう思わせて真犯人は別にいるだろうが、現実には眞弓のように考えて外れることの方が少ない。
あの名倉が親会社を告発したというのか。だったら、あの日、あんな会話をなぜ瑞希と交わしたのか。彼は親会社に戻されるのだと言っていた。その話を眞弓には言えない。言いたくもない。
もしあれが瑞希を騙すための演技だったら、名倉は瑞希を最初から自分のために利用しようとしていたのかもしれない。そうだとすれば、無性に悔しい。とはいえ、なにに利用したのかもわからない。
「お姉さんに会ってるんじゃないの?」
「姉は逃げ回ってるわ。たぶん、まだ会えていない。もし会ったら、きっと私にも連絡があるから」
「どうして」
「姉妹だから」
そんな理由あるか、と瑞希は疑う。眞弓は鋭いし瑞希の前ではよくしゃべるが、ホンネではないだろう。なにかを隠しているに違いない。
姉妹とか兄弟にちょっと戸惑うのは瑞希が一人っ子だからだ。睦美もそうだ。瑞希は親が四十代になってからようやく生まれた唯一の子。睦美は親は二十代だったらしいが、弟も生まれたものの赤ん坊のときに病気で亡くしている。
「弟ができるんだよ」と自慢げだった睦美。幼稚園か小一の頃だ。
「いいなあ」とそれほどいいとも思ってはいないながらも、瑞希はそう返事していた。「弟ができる」と友達に言える点がうらやましいだけだったのかもしれない。その後も、弟のいる友人と出会ったが、それほどうらやましいとは思わなかった。どちらかといえば、瑞希は姉が欲しかった。姉のいる友人は素直にうらやましかった。眞弓の姉のような人でも、やっぱり眞弓は少しうらやましい。
こうして職場で姉の動向を話せるなんて、うらやましい。
睦美の弟が亡くなったときのことは瑞希はよく覚えていない。睦美は悲しんだに違いないのだが、幼心に人が亡くなることが理解を超えていて、そのあたりの記憶がすっ飛んでいる。睦美とはしばらく合わなかった気がする。
近隣の子たちとその親たちとで葬儀に行った記憶がぼんやりある。みんなが泣いていたので悲しかった。お菓子がいっぱい飾られていた。読経は嫌いだった。殺風景な焼き場のイメージ。そんな印象しかない。
その後、睦美とは近所に住む一人っ子同士として、仲よくしてきた。仲がいいとか悪いとかを意識するより前に、二人でいるときは兄弟姉妹を意識しなくてすむのが楽だった。
「瑞希さん。ちょっと」
「なんでしょうか」
滅多にここには来ないお局的な秘書がやってきた。瑞希は年齢としては立派なお局領域に入っているのだが、中途入社なこともあって大奥には入れない。彼女たちとの接点すらない。瑞希にとってショックなのは、この秘書は瑞希よりも若いのである。大奥の全メンバーが、瑞希より年下だった。
「お客様です」
「どなたですか?」
お局は返事をせずにニッコリと笑い、「こちらへ」と促した。
大厄、大厄、大厄。三回唱えると夢の国に行けるなんてことはないのか。瑞希は嫌な予感を振り払う方法さえ思いつかぬまま彼女についていき、エレベーターで上に向かった。
最上階の役員室。そんなところに用はない。来客の心当たりもない。
「こちらへ」
一番狭い応接室だ。
「忙しいところごめんね」とキャリア街道を突き進んでいる広報部長の岡田満子。「なんだかビックリよね」とすでに枯れかけている総務部長の室山淳子。どちらもこのまま役員になることを狙っていた。またはより活躍の場が拡がるような転職(ヘッドハンティング)を期待していた。大奥たちとは別次元の領域にいる人たち。
「刑事さんが話を聞きたいと言っているの」
「え?」
「あれよ、あの、消えたクライアントの件。クライアントの担当者に会いたいっていうから……」
「はあ」
膝から崩れそうになる。
大輝のことで、刑事が自分をめざしてここまでやってきた……。
「大丈夫? 声もガラガラ」
「すみません。なんか、いろんなことがあって……」
「そうよね。こっちも大混乱だもの。ともかく、知っていることはなんでも話していいわ。すでにクライアントさんの契約内容や仕事の内容はこっちから説明してあるから」
「わかりました」
「じゃ、終わったら内線で私に連絡してください」と岡田部長が言う。
「わかりました」
おばさまたちがニコっと笑うのは気持ちが悪い。しかもドアの横から動かない。
「じゃ、行きますよ」と岡田部長がドアを開けた。
そのまま倒れ込む、という手もあったな、とあとで瑞希は思い返した。しかし就活の面接のように手足を揃えたまま機械のように歩いて、部長にうながされたソファの側に立った。
相手は二人だった。彼らはもっさりと立ち上がり「お忙しいところ、申し訳ありません」と普通に挨拶をした。
背がひょろりと高いが肩幅があって猫背の年配の刑事。その横は、ガタイのいい若手だ。
「あ、名刺、忘れました……」
瑞希は焦る。
「それはいいです。私は
古住だけが名刺を瑞希に渡した。
「すみません」とつい謝ってしまう。
座っても気もそぞろだ。部長の室山がわざわざお茶を持って入って来る。そしてビシッと上級マナーでお茶を置き、古い茶碗を下げていく。常に微笑みを絶やすことなく。
最初は仕事のことだった。すでに聞いていると言っていた話を、瑞希は繰り返して説明する。それだけで、なんだかんだと三十分ぐらい経っていた。
「私たちはただ不倫していたわけじゃなく、仕事をちゃんとやっていたんだ」と主張したかった。しかもその仕事は半ば成功しかけていたと。
声はさらにしわがれてきて、喉が痛い。お茶は全部、飲んでしまった。
三つ目のサービスについて話をしていたときに、刑事たちは突然、リラックスしたようにソファの背にもたれて、「しかし、大変ですね。シロウトにこんな仕事、やれますかね?」と言い出した。
「え?」
「いえね、私らにはチンプンカンプンなんですよ。先ほども部長さんたちお二人にうかがったんですけどね。ネットやITでやるビジネスっていうんですか? 我々は古いんでしょうなあ」
古住という刑事はさらに猫背になって、顔を突き出す。タバコの香りがする。
「米井さんご夫婦はよくこれを理解されて、仕事されていたんですねえ。私らじゃ、とってもムリです」
そして茶を飲む。完全に冷め切っているはずだ。
主要な話は終わった、ということなのか。瑞希はもう戻れるのではないかと少し肩から力が抜けた。
「刑事さんぐらいの世代の方たちも大勢、このビジネスに取り組んでらっしゃいます」と何人かの不器用で頑固なクライアントたちを思い浮かべる。
「教えるのも大変でしょう。コンサルティングでしたっけ? これは優秀な人じゃないと務まりませんね。瑞希さんは優秀な方なんですね、お若いのに」
「いえ、そんな」
「旦那さんもあなたのようなきれいで聡明な奥さんをもらって、きっと喜んでいるに違いないですねえ」
ハラスメント的な会話になりつつある。コンプライアンスのセミナーではハラスメントの話もタップリ聞かされた。しかし、相手は会社の人間ではなく刑事だ。
「私ですか? 私は
「ええっ! そりゃ、あなた。もったいないですね」
笑顔は見せない。しかし隣の場津がニコヤカにしている。誰かに似ていると思ったら、名倉だ。体型といい笑顔といい、名倉を二回りほど膨らませたように見える。
「君も彼女のような嫁さんを貰えばよかったのに」と古住。「こいつ、新婚ほやほやなんですよ。剣道日本一の女剣士と結婚しましてね。完全に尻に敷かれてるんです。ハハハ」
とってつけたような笑い。なにが言いたいのか、と瑞希はとまどいながらも、できるだけ笑顔を保つようにする。
「しかし、夫婦ってのはおもしろいものですよ。他人からはうかがい知れない関係ってものがあります。あなたはまだ独身だけど、そうだ、ご両親はご健在ですか?」
ぐいぐいと立ち入ったことを聞いてくる。
「はい。おかげさまで」
「どうです、そういうご夫婦をご覧になって。不思議ですよね。夫婦の絆ってのは」
もう空になっているはずの茶碗を持って飲むふりをしながら、細い目で瑞希を射貫く。
「ずばりうかがいます。米井夫妻は、どのような様子に見えましたか? 近頃、変化などは感じませんでしたか?」
「え?」
大輝と睦美を「米井夫妻」としてとらえたことがなかったので瑞希はかなり慌てた。それが刑事に妙な行動としてチェックされたのではないかと、さらに焦る。
刑事たちは睦美が瑞希とは幼い頃からの親友だと知っているのだろうか。ここに来る前に睦美から話を聞いていたとすれば、知っているはずだ。なのに彼らはとぼけているのか。
「いや、一般的なことです。これが事件なのか、それとも家庭内で起きたちょっとしたいざこざなのか。われわれは、事件性があるか確認しておきたいわけです。いまだに音信不通なのは確かにおかしいですしね。あなたからご覧になって、行方がわからなくなっている米井大輝さんは、どんな様子でしたか。最後にいつ頃、会われたのです?」
正月が終わり、次の週に定例の会議があった。そのあと二人でホテルに行った。次のミーティングを設定したのに、そこには現れなかった。
「定例の会議が最後です」
「はい。それはうかがいました。その時、どんな様子でしたか」
「とくに変わったところは……」
「聞けば、事業は順調だった。塾も経営されていた。塾は厳しい経営状態らしいですが生徒さんはいるし、そこそこの収入になっていた。お子さんも三人。大きな借金もない。ま、こちらに出資しているそうですが、家のローンに比べれば大きいとは言えませんよね。お金に関しては、いますぐどうこうということはなかった。むしろ、瑞希さんの話を聞いていると、これからもっとよくなるところですよね」
「はい」
対外的に話すときは、どうしてもそうなってしまう。「必ず儲かります」と保証できるわけではない。だが、ならないとも言えない。事業なのでどうしても振れ幅は大きくなる。しかも三つ同時にやっていたから、すべてがダメになる確率は低くいと信じていた。
もっとも親会社の経営がおかしくなれば、いっぺんにすべてが吹っ飛ぶ可能性もありそうだったが。
「わからんのですよ。交遊関係も調べているのですが、あまり広くはないようです。夫婦仲が悪いという話もいまのところは……」
お手上げだと言う。
だが、瑞希になにかを言わせたいのだ。夫婦仲が悪いのではないか。大輝は不倫していたのではないか。妻の友人と関係を持っていたのではないか。その友人はビジネスのパートナーでもあったのではないか。その友人とのビジネスが儲かりはじめ将来性も高いのに、妻はこれまでの塾経営にこだわっていたのではないか。
「最後に、これだけは聞いておかなければ」と古住が身を乗り出した。
「奥さんの睦美さんとあなたは友人だとお聞きしました」
やっぱり知っていたのだ。
「はい。子どものときからです。結婚式にも行きました」
「睦実さんて、どういう人ですか。性格とか」
「はあ?」
「男の子を三人、育てておられて、なかなかしっかりされているようにお見受けしたのですが」
「もちろんです。睦美はしっかり者です」
「正義感の強い女性ですよね」
「ええ。常識的な人ですし、白黒ハッキリさせないと気が済まないと思います」
褒めたつもりだった。
「ですが、このあなたと旦那さんが組んでやっている仕事には、反対していたそうじゃないですか」
瑞希は詰まった。刑事はなにを疑っているのか。「あなたと旦那さん」という言い方が妙に引っかかる。なにかを知っているのかもしれない……。
大輝がもし事件に巻き込まれたとしたら、瑞希や睦美がその事件を起こしているとでも言うつもりだろうか。つまり刑事たちにとっての容疑者は瑞希と睦美なのか。
あの睦美が……。
すっと気が遠くなっていく。
そこにノック。「はい」と古住が返事すると、室山部長が新しい茶を持って入ってきて、からくり人形のように儀式的にお茶を取り換える。時計を見ればすでに一時間経っていた。
クレーム対応に追われているオフィスはどうなっているのだろうか。眞弓はどうしているだろうか。
「お願いがあるのですが」と突然、これまで黙っていた場津が声を発した。大きな声で明るい。
「通常、失踪された人の捜索では必ずお願いしていることがあります」とハキハキと言う。
「なんでもいいんです。些細なことでもいいですから、思い出したら教えてください。失踪した大輝さんについて情報を持っていそうな人がいたら、私たちに教えてください。いきなりご自身でそういう人と無闇に接触しないでください……」
一般的な注意事項だった。
追い詰められたと思った瑞希だが、唐突に話は終わったのだった。
大混乱しているオフィスに戻りながら、瑞希は睦美が大輝を殺した可能性を考えていた。
もんじゃ焼きを食べていたときの会話を思い出してみるが、それらしいところはない。ただ、彼女は大輝が十年前から浮気をしていることだけは確信していた。その女を見たいと思ったこともあったという。
もしかして、突き止めて、見ていたかもしれない。
あの睦美が、大輝の浮気相手が親友だと知ったとき、どう思っただろう。
ミーティングと称して夫が瑞希に会いに行くのを、どう感じただろう。
とうとうたまりかねて、口論となって、思わずカッとなった睦美が大輝をなにかしらの方法で殺して、あの家のどこかに隠しているとしたら……。
狭いながらも教室まであるのだ。どこかに遺体を隠す場所ぐらいあるかもしれない。
だったら、睦美はなんで事業を引き継ぐと言ったのか。瑞希と仕事をすると言ったのか。
ゾッとした。その寒気は本物だった。
「瑞希、帰りな!」
眞弓がいた。彼女の声も枯れていた。
その手が瑞希の額に押し当てられた。
「熱がある。風邪ひいたでしょ」
昨日、疲れていたのに海からの風に当たりながらバーまで歩き、そこで酒を飲んで、さらに家まで帰り、名倉と……。
「いま、ここは大変なの。戦場なの。あんたに風邪をうつされたら困るの。さっさと帰って寝ろ!」
眞弓が宣言すると、コンサルタント部の長池部長が小走りにやってきた。名倉との間を取り持ちたいと言っていたラグビーつながりの、大きな体の男だった。スポーツマンとは思えないほど腹が出ている。ラグビーボールを三つか四つ、飲み込んだのではないか。
「そうだよ、今日はいいから、帰って休んで。ね、ね」
二人に机まで連れていかれ、帰り支度をさせられ、部署から追い出された。
──些細なことでもいいですから、思い出したら教えてください。いきなりご自身でそういう人と無闇に接触しないでください──。
ハキハキとした刑事の声が甦る。
睦美に会って確かめるなんて、ムリ。瑞希はそう結論を出して、おとなしく月島に帰った。平日の昼間の月島を歩くのは久しぶりだった。会社をサボっているような気分がする。
不思議とここの空気を吸っていると、気分はよくなっていた。
これでマンションに帰ったら、大輝がいたりして……。
すべてが笑い話になればいい。二週間もどこ行ってたのよ、となじりたい。彼を叩いてやりたい。そして不倫を終わりにするのだ。優柔不断な大輝に決められないなら、こっちで決めるしかない。
「名倉も帰って来なくてよし! 京都で一度、死んでくればいい」
うっすらとソースの香りの混じった潮風に、そんな声を投げかけて部屋に戻った。相変わらず誰もいない。誰かが来た形跡もない。郵便受けはチラシばかりだ。
テレビを少し大きめの音にして風呂に湯を張った。
「半身浴、してやる」
昼間のテレビは性に合わないので瑞希はオフにし、スマホを充電しながら音楽をかけた。
湯気が喉に心地良い。
極楽、極楽──。そんな言葉がふと浮かぶ。自分らしくないチョイス。これも大厄のなせる技か。
目をつぶり、湯に身を任せていると、体の芯から温かくなってきた。頭の中まで湯気が浸透していくような気がしてくる。
大輝。どこにいるのだろう。
とても残念なことに、大輝との思い出は仕事がらみか、あとはホテルやベッドや風呂ばかりだ。大輝は大柄だからかホテルに大きな浴槽があるととても喜び、一緒に入った。
彼は大きくて優しい。
「ふやけちゃうな」と笑うぐらい、一緒に長時間、入っていたこともあった。いろいろなことを風呂の中でした。
「睦美とは入らないの?」と聞いてみたかったが、一度も親友の名を口にしたことはなかった。きっと睦美は一緒には入らないだろう。なにしろ子どもが三人もいるのだ。それに彼女の家の風呂はそれほど大きくはない。
細々としたストレスが大輝を蝕み、浮気に走らせたのだろうか。
優柔不断な彼と最初に関係を持ったのは、おそらく四年前の年末だった。とても寒く、雪が降って、交通が乱れていた。大輝は当時、まだ事業をはじめたばかりでビジネスそのものだけではなく、ITについての知識や技術も学ぶ必要があり、数人のコンサルが彼をトレーニングしていた。
瑞希はその日の最後のセッションを担当し、ビジネスの話を一時間ほどした。それはいつしか、世間話になった。なにを話したのだろうか。睦美と育った西新井界隈の話でもしたのではないか。そうだ、大輝の話をしたのだ。なぜ彼は、西新井に塾をつくったのか。
「最初は高校の教員になったんだけど、なんか目的っていうか。そういうのが見つけられなくて。人間関係にも悩んでやめてしまったんだ。大学の先輩に誘われて予備校の講師をはじめて、そこで目標みたいなものが見えてきた気がしてさ」
そんな話をしていたのではなかったか。
「船橋で生まれて、いまも実家はあって兄貴たちがそのあたりにいるけど、西新井はその先輩が独立して塾をはじめた場所なんだ」
「じゃ、なにも知らないで?」
「うん。土地勘もなにもなかった。先輩の塾はいまのぼくたちの場所とはちょっと違うところにあったけど、手伝っているうちに街にも馴染んだし、結局そこを譲り受けたんだ。そしていまの場所に移った。ラッキーだったよ」
いい場所にいいタイミングで塾をつくったから、睦美と出会ったわけね、と瑞希は思った。
「飲みませんか?」
いつもなら断るところだが、たしかあの日は残業してはいけない日。励行デーだった。次々と帰る社員。そして消えるオフィスの明かり。瑞希たちも外に出たが、雪がひどい。
居酒屋に行こうと数軒、様子を見るものの「話をする雰囲気じゃないね」とお互いに店をパスしながら歩いているうちに、ホテルまでたどり着いていた。会社とは駅をはさんで反対側で、東京湾側だった。
「誘ってもいいですか。こういう場所、嫌いですか?」
なにか、そんなようなことを言った気がした。その意味を正確には把握していなかったが、瑞希は「寒いから」とか言って一緒に入ったのだ。
ビルとビルがひしめく運河沿いにひっそりと建つ、簡素なホテルだった。のちに大輝と利用するようになる派手なタイプのホテルだったら、行かなかっただろう。
狭い部屋だった。ベッドしかないような。だが、思ったよりも清潔で暖かかった。
あの日、瑞希はこういうことができる女だと見られたらいいのか、そうではないと見られたらいいのかわからなくなっていた。だから普段以上に子どもっぽくはしゃいだような気がする。
それは不倫をはじめる儀式だった。
実はそれほど満足のいくようなことではなく、お互いにぎこちなく、すぐに後悔が頭をよぎってしまい、こんなことをしていてはダメだとはっきり自覚した。
それは道徳的な意味でアウトというよりも、交際としてアウトな感じがあった。
大輝とはそれほど相性はよくないのではないか。それが最初の実感だった。
ところが、仕事で会うことは決まっていて、お互いに大人としてホテルに行くことが可能だと了解しあってしまったので、二回目は驚くほどスムーズだった。あれはわざわざ池袋あたりまで行ったはずだ。うしろめたくて、普段は行かない場所を求めたようだ。
それがよかったのか、瑞希は大輝のことを好きになっていた。
これまでに付き合った男たちの中では一番、好きだった。
ただ、瑞希の中では二十代の頃のようなトキメキから恋愛へと進む素直な道筋が失われていて、好きではあるがトキメキというほどではなく、まして恋愛とは呼びにくいものだった。なんと呼べばいいのかと問われれば、それは「不倫」としか呼べないものだった。
不倫は恋愛とは違うのかもしれない、とそのあとで思うようになった。少なくとも彼女の中では、いつまでたっても恋愛っぽさが膨らまなかった。大輝の子どもが欲しいと思ったことはないし、睦美と別れて欲しいと思ったこともなかった。
回を重ねるにつれて、瑞希にとっては日常をイキイキとさせる重要なプログラムになっていった。どんなことがあっても、その関係は現実だったし、充実していたし、お互いになにかを発散させることができた。
それが失われることなど、想像もできなかった。
不倫なのだから、いつかは終わる。それはわかっていたが、このように終わるとは……。
ボロッとなにかが体から剥がれ落ちた。
「あっ」
浴槽の湯を飲んで、目が覚めた。
半身浴のまま寝てしまっていたのだ。
だるい体を引きずるように浴槽から出る。床がびしゃびしゃになってもいいからと、バスタオルでしっかり拭く気力もなくエアコンの温度を上げる。
カーテンを閉めるとき、外がすっかり暗くなっていて、お腹をすかせていることに気づいた。
風邪の症状は消えていた。
「なにか食べよう」と声に出してみた。
冷蔵庫には調味料しかなく、棚にはカップ麺が三つ、ツナ缶が一つあるだけだった。
京都に行った名倉とすべて食べてしまったのだ。
「あいつ」
せっかく気分がよくなってきたとはいえ、寒いので外に出る気もせず、お湯を沸かしてカップ麺とツナ缶を食べた。ツナ缶にはマヨネーズを足した。最初は悪い取り合わせではないと思ったのだが、食べ進むうちに悲しくなってきた。
どうしていま、大輝も名倉もいないのか。
自分から剥がれ落ちたものは、なんだったのか。
泣きたいのに泣けない。
名倉にメッセージを送りつけてやろうとスマホを見たら、そこには名倉からのメッセージがたっぷり入っていた。名倉は朝から一時間起きにメッセージを送っていたのだ。
「なにやってんの、バーカ」と呟いてみた。
バカが欲しかった。
京都に行こうかと思い路線検索してみた。所要時間二時間三十一分。一万三千三百円で行けてしまう。
「いまからそっちに行こうか」とメッセージしてみたが、さすがにすぐに返信はなかった。
九時の都営大江戸線で大門へ出て、歩いて浜松町へ行き、そこから京浜東北で品川。品川から新幹線。
「バカバカしい。そんなルートで行くやついるの?」
最短なのかもしれないが、大門から浜松町まで歩くという行程に、男を求めて京都へ行く女のパッションがまるで感じられない。
やっぱりいつものように有楽町に出て、そこから東京駅に戻って新幹線に乗るのが正解ではないか?
酒も飲んでいないのに、湯あたりなのか、頭がボーッとしてヘラヘラしてきた。瑞希は布団に潜り込んで返事を待った。
「来い」と言われたら行くつもりだった。
「来いと言ってよ。それが恋」
あ、そうなのかなと思ったりしているうちに眠ってしまった。
そもそもメッセージにずっと気づかなかったのはサイレントモードにしたままだったのだが、瑞希はそれを翌朝まで気づかずにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます