第6話 言葉は虚しい回転木馬のように

「この部分がよくわからなくて」

 睦美は、初対面の眞弓ともうまくやっていけそうだった。

「ああ、そこはですね。ログインしたあとに管理画面に移ったとき、この作業開始ボタンを押していただければ、ここにサブメニューが出ますから……」

 名倉が戻らないので睦美へのコンサルティングを、瑞希と眞弓で担当することになった。

 社内は落ち着きを取り戻し、ニュースは相変わらず頻繁で、親会社がどんなビジネスをしているのかさまざまな角度から取り上げられ、社内では「むしろ宣伝になってるんじゃないか」と真顔で言う者さえいた。

 クレームの嵐のあと、今度は問い合わせが増えた。新規クライアント候補の面談が急増したため、どのコンサルも日程の調整で苦労していた。

 そんな喧噪からいまは遠く離れている。西新井の睦美の塾。例によって三人の子どもたちが帰宅したときの大騒ぎが終われば、あとはひっそりとしてしまう。

 塾がはじまるまでの時間と思っていたが、子どもたちが教室で自習しているだけで、いつまでたっても始まらない。

「ねえ、睦美、塾、どうしたの?」

「当面、閉鎖」

 寂しげに睦美が笑う。瑞希はただ息を飲むしかなかった。

「だってしょうがないでしょ。いま子どもたちは大変なときだから。二月よ、もう二月なの。期末だというだけじゃなくてこれから春休みで、それを過ぎたら学年が上がるでしょ。小学生にとってはこの春は大事な期間。私一人ではとてもムリだから……」

 懇意にしている他の塾へ移ってもらったという。

「それはマズイ」と眞弓がいつもの調子でホンネを言う。

「ええ、すごくマズイ。わかってるわ、わかってるのよ。だけど私一人じゃムリなのもはっきりしている。どうしようもないの」

 彼女の言う「子どもたち」は塾の生徒のことを言っているのだろう。そこに自分たちの子どもは含まれていないのか。あの三人だって同じく大切な時期なのではないか。

 そして収入の問題もある。塾の収入が途絶えれば、いま瑞希たちがサポートしている仕事だけになる。あくまで塾収入の減少を補う意味ではじめたものだけに、三つも同時にやっていながら、どれ一つ、一家を支えるだけの売り上げにはならない。睦美がどれだけ本気を出したとしても、その事実は変わらない。

 ネットでやる仕事で、もっとも儲かる部分は外部には出さない。内部で開発し、内部で営業し、内部で収益をごっそりいただく構造にしなければ、次の開発資金が得られない。

 一方、いまこうして外部の人にやってもらっている仕事は、単純に内部の人件費では割に合わないのだ。

 利益率が低く、期待できる売り上げに限界がある。シンプルに考えればわかる。もしコンビニが儲かるなら店員は全員社員だろう。しかし違う。なぜか。収益と経費の構造が違うから。

 この場合は、瑞希のようなコンサルたちが、まるで鵜飼いのように、複数のクライアントを束ねて細かく収益を積み重ねていきながら、なおかつ経費を最小にすることではじめて成り立つ。

 開発は主に最小経費で最大利益になるようITを駆使することが求められている。その開発も費用削減のために外注している。

 それでも瑞希たちコンサルの人件費の分だけ、クライアントが仕事をはじめた当初は赤字になってしまう。それを防ぐために初期投資をクライアント自身に負担してもらっているのだ。

 こう言っては身も蓋もないが、ビジネスがちゃんと売り上げを立てられるようになるまでの間のコンサルの費用とクライアントに戻す利益は、クライアントの投じた資金から捻出している。

 だから、売り上げが目標通りに確保できない場合、クライアントはいつまでも利益を得られないばかりか初期投資の回収もできない。

 悪くとらえれば、クライアントを食い物にしているとも考えられる仕組みだ。薄利とはいえちゃんと還元できているからこそ、堂々とやれているだけで、内実はけっこう厳しい。

 そういう一面ばかりを指摘するメディアも多いし、中には消費者庁に相談に行ったクライアントもいた。もっともこれは請負業としての契約なので行くなら中小企業庁か公正取引委員会なのだろう。また初期投資には金利も配当も付かず返却も約束していないため、出資法にも抵触しない。

 かつて別の会社が、「二年で三倍になる」とチラシに書いてクライアントを勧誘し摘発されたことがあった。

 コンプライアンスにうるさい会社だけに、法務部門は絶対の自信を持っていて、事実、訴訟件数はごく少なく、これまでのところは目立ったトラブルもない。訴訟があっても和解しているため、敗訴もない。

 ただ親会社がこうなると、これからはもっと厳しくチェックされるだろうし、かつて和解した人も「被害者」として再び登場してくる可能性もゼロではない。

 ネットの掲示板などでは「ここのコンサルになるぐらいなら、時給に直すとコンビニの方がずっといい」などと書かれており、ブラック企業とされてもいた。

 チャイムが鳴った。

 睦美はインターフォンに出る。その画面が瑞希からも見えた。男が二人立っていた。彼らの顔は記憶に新しい。

 彼女は瑞希たちに謝って、家の玄関側へ行きそのまま話し込んでいる。しばらく男の低い声がしていたが、睦美の「お上がりになって……」という声にハキハキとした声で「いえ、こちらで」と答えていた。

 それでもなおも五分ほどやり取りがあってから、ようやく男たちは引き上げていった。

 睦美はすぐには戻って来なかった。

 キッチンで水がシンクを叩く音がした。

 戻ってきた彼女の目が細くなっていた。

「ごめんなさい」

 そう言うだけで再びパソコンの前に座り、眞弓は再開する。

 睦美の横顔を見ていて、なにかがあったことはわかった。しかし立ち入ったことは聞けない。あの男たちの声は、会社に尋ねてきた刑事たちに違いない。だとすれば悪い知らせだったかもしれないのに、睦美は無表情で集中していた。

 古住刑事と場津刑事だったろうか。

 睦美が引き継いだ大輝の仕事は、この短期間に糸の切れた凧状態となり、売り上げは低迷している。睦美はなにもしていない。瑞希と眞弓でフォローしているので、業務そのものはスムーズに移行している。まさか大輝がいなくなったとは誰も思わないだろう。

 それなのに、急速に売り上げはしぼんでいる。親会社に「司直の手」が入ったからだろうか。「司直の手」や「捜査のメス」は、ニュースや記事で何度も聞かされ読まされたので、瑞希はうんざりだったが、もしかしたらクライアントたちもそうなのかもしれない。

 会社への問い合わせが増えたと喜んでいる場合ではなく、水面下ではこれまでの客たちが、沈没船から逃げ出すネズミのように闇雲に走り去ろうとしているのではないか。

 翌日、瑞希たちはオフィスで妙な不安を確かめたくて、それぞれのサービスの最近の売り上げ動向を確認した。グラフにするまでもなく、クライアントが逃げている。

「なにもできないものね」

 眞弓は恨めしそうに壁に貼られたグラフを見る。年度内に達成すべき目標に、もう少しで手が届きそうなコンサルたちが数人いる。その下に瑞希たちのようにコンサルとは言えども名ばかりのアシスタント上がり、つまりトップクラスで争うレベルではない者たちがひしめく。

 眞弓はコンサルではない。教育のサポートやシステムのサポートなどの裏方だ。コンサルのような手当がない分、ボーナスは地味になる。

「瑞希がトップを取ることはなさそうね」

「あるわけないでしょ。最初からそんなの狙ってないし」

「言っておくけどね。ヘッドハンティングとかでライバルから声がかかるのは、あそこの連中だけよ」

 トップを争っているコンサル達は瑞希の倍以上のクライアントを持ち、瑞希のような中途半端な連中をアシスタントとして使っている。瑞希は現在、会社が求める最低限の六人のクライアントを受け持っていたが、そのうち瑞希がメインなのは大輝を含め四人だ。残りの二人はアシスタントとして加わっているだけ。それ以外にも新規が随時入ってくるが、安定して毎月の売り上げにつながるようなクライアントになってもらうまでが大変で、たいがいはその途中で相手が逃げてしまう。

「トップの連中はそのあたりのテクニックがうまいからな」

 眞弓は知ったような口をきく。上質のクライアントをがっちり握り、クライアントの満足度を高め、そこから新規の紹介をもらうので、瑞希たちよりも歩留まりがいい。

 トップクラスの中にはポケットマネーで毎月、クライアントたちを集めたサロンを主宰している者もいた。一流ホテルの部屋を借りて午後のひとときを「勉強会」と称して集まる。ただの飲み会でも、クライアントたちは喜ぶのだ。「おれたちはトップだ」と自覚するらしい。

 つまり、トップ争いをしている人たちはやればやるだけ拡大する。拡大すればするほどボーナスも巨額になる。その資金をクライアントのつなぎ止めに使うこともできる。

 瑞希たちはやってもやっても顧客は増えない。クライアントになにかを提供するなどムリな話だ。その差は拡大する一方となる。

 下位でうろうろしているコンサル達は諦めて辞めていってしまうし、そこに補充されるのは瑞希のような得に才能もない人間たちなので、いつまでたっても上位者を脅かすような存在にはならない。これは、同業他社も同じらしく、ヘッドハンティングでトップのコンサルを引き抜く方が、下位集団を育てるよりも効率がいい。

「あいつら、ヘッドハンティングの連中におごってもらってるんだってさ」

 トップクラスのコンサル達はいつも他社から誘われている。この会社も強力に他社の人材の引き抜きをしている。

 それが親会社の悲報によって、不利に働いている。つまり引き抜かれるだけになろうとしている。

「もし、やつらが消えたらオシマイだわ」

 瑞希はなにかしら反論したかったが、「ちょっと待ってください!」と叫ぶ室山総務部長の声がした。

 なにを待てばいいのか。

 振り返ると、室山は小走りにこちらに向かってくる。その前を瑞希の知らない女性が大股で駆けていた。

「お姉ちゃん!」

 眞弓が叫び、机の下に隠れた。

「え? なに? どうしたの!」

 事態が飲み込めぬままに、駆け寄ってきた女性に瑞希は頬を殴られた。

 バシッと音がして、目が回り、そのままイスが回転すると床にすべり落ちていた。

 机の下にいる眞弓が両手を合わせて「ゴメン」と言っている。

 なんだ、これは……。

 考える間もなく、ロングブーツのつま先が瑞希の足を蹴り上げた。

「痛い! なんなんですか」

 肘を使って、匍匐前進でもするように逃げようとしたが、大柄で足の長いその女は簡単に追いついて膝や腿を蹴る。

「なんなんですか!」と瑞希はもう一度叫ぶが、彼女は無言だ。

「恐れ入ります。やめていただけませんか」と室山部長は丁寧に頭を下げる。男たちも集まってきたが、はだけた毛皮のロングコートから派手なヒョウ柄のふわっとした上着を覗かせて、黒いサングラスをし、真っ赤な口紅をし、エルメスのスカーフを首にかけて、しかも黒いつば広の帽子まで被っている女に、手を出しかねていた。

「あんたやな! 川畑瑞希。そうやな! なんか言うてみ!」

 また蹴ったが、瑞希はギリギリでかわした。

他人ひとの男に手出して、よくまあ、会社にいられるね!」

「誰なんですか!」

「舐めたらあかんよ」とサングラスを外した。

 鋭いながらも目つきは見覚えがあった。

 机の下を見れば、同じ目つきの女がいた。名倉啓也と離婚調停中で、しかも名倉と直接会おうとしない妻、名倉眞美。

「それほどかわいらしくもないやないの。なんか、がっかりやわ」

 そう言いながら、ちょっと隙を見せた瑞希の踵を踏みつけた。

「ぎゃー、なにするのよ」

 と思わず瑞希は反射的にそのブーツを蹴り返した。

 さっと眞美は体をかわし「やる気? うちテコンドーやってたんよ。どっからでもかかってき」と妙な構えをした。

 思わず机の下を見ると、眞弓が手を左右に振っている。口は「ウソ」と言っているように見えた。

「わたし、なんでこんな目に遭わなければならないんですか。身に覚えがないんですけど」と瑞希は眞美をにらみつけた。精一杯すごんだつもりだった。

「黙れ、メス豚!」

 眞美が大きく踏み出してきた。瑞希はただ逃げようと体を反転させた。

 その時、眞美は「うあっ」と叫び、そのまま机に激突した。帽子が飛んだ。

 姉の足に眞弓がしがみついていた。

「なにすんの!」

「やめてよ、違うんだから」

「眞弓。邪魔しんとき」

「違うんだって。お願い、やめて」

 そのときドタドタと靴音を立てて「なにも違わない!」と叫びながら、タックル野郎が瑞希をかばうように覆い被さってきた。

「名倉さん」

「ごめん、瑞希さん」

「うっそ! なにそれ。あんた、なんやの、それ!」

 奇声を発しながら机を拳で叩く眞美。見れば指にはゴツい指輪が何個もついていた。あれで殴られたのだ、と瑞希は気づきゾッとした。頬に手をやると傷はないようだったが、まだジーンと痺れていた。

「な、なんやの、それ」

 それ、と呼ばれた瑞希はようやく名倉の手を借りて立ち上がった。

 眞弓が眞美の下半身にぶらさがるようにして、その動きを制していた。とはいえまだ机の下にいるのだが。

「眞美。別れると言ったのは君の方なんだぞ。ぼくはそのときはイヤだった。だけど離婚調停まですると言い張って、そのくせ別れるのがイヤだと言い出した。ムリだよ、もう。限界をとっくに超えちゃったよ」

 名倉が瑞希の腕を強く掴んでいる。その手が痛い。

「眞美。ぼくは君と別れて瑞希さんと結婚する」

 オフィスがざわついた。

 本来、静まり返るべきだろうが、なにしろ当事者が瑞希と名倉なのだ。どよめき以外に起こりようがない。

 ウソだろ、といった声もあれば、やっぱり、と訳知り顔もいて、みんなが勝手に憶測を話し始めたのだ。それは徐々に大きな声になり、名倉に「やったな」と肩を叩きに来る者もいれば、瑞希に「ステキだわ」とからかいにくる大奥連中もいて、雰囲気がとんでもなく乱れてきた。

 それに逆らうように大声を発した眞美。

「なんでー」と言いながら泣きだした。ボロボロと涙があふれ、化粧が剥げていく。

「ねえちゃん」と眞弓がようやく立ち上がり、力尽くで眞美をオフィスから引きずり出そうとする。室山部長も手を添えて「どうぞ、こちらへ」と廊下へ連れ出す。

「ごめんな」と名倉はようやく瑞希から手を離し、頭を下げた。

「いまの言葉は本気です。だから、待っててください。ごめんなさい」

 名倉はそう言うと眞弓たちの後を追って出て行った。

 修羅場だわ、修羅場よね、という声が聞こえた。

 喜びとからかいに参加していた人々も、音楽が終わってしまったフラッシュモブのように、白々しく解散していく。

 なんなのこれ、と思いながらイスに腰をおろしたところに、長池部長がニコニコしながらやってきた。

「瑞希君。悪いようにはしない。任せてくれ」

 そう言って強引に握手すると、どこかへ消えた。


「不倫はよくない。だめだよ」

 睦美にしみじみと言われると、こたえた。

 東北新幹線はやぶさ。三列席の窓側に睦美は座っていた。窓の外は二月だというのにろくに雪のない東北の景色。

 車両の一番前の一列を眞弓が予約したのだ。

 その眞弓は通路側に座っている。イアホンを耳に入れ、音楽を聴きながら口を開いて眠っていた。

 早朝の列車は東京駅、大宮駅と混む一方だったが、仙台を過ぎていっきにすいてきた。八戸を発車すると寂しいほどになった。

「ちゃんと相手が離婚してから考えたほうがいいと思う」

「うん、わかってる」

「不倫はね、当事者だけがいい思いをしているのかなって思っていたけど、そうじゃないかもしれないよね。誰もいい思いなんてしてないかもしれない」

 女三人の旅。睦美は新婚以来の旅だと言う。しかし、うきうきした気分は最初だけだった。

 最前列には大きなテーブルとコンセントがある。眞弓はそこにスマホやゲーム機を接続して充電していた。

 通路をはさんだ二列席には盛岡までサラリーマンが座っていて、二人ともかなり忙しくパソコンを使っていた。

 そのすぐ横で、大きなテーブルにはしゃぎながら、東京駅で買った二段重ねの駅弁を広げて、ノンアルコールのビールで乾杯していた女たち。その気楽そうな旅の目的を、サラリーマンたちも推測できなかっただろう。

 仙台を過ぎても降りない彼女たちを、ときどき恨めしそうに見ていたのは、もし三列席が空けば、そこに移ろうと思っていたのだろう。

 体格のいい男二人はパソコン、書類、飲み物に弁当と、狭い中で窮屈そうに仕事をしていたのである。

 その彼らも盛岡で降り、いよいよ終着駅に近づいてくると、睦美から笑顔は消えた。

 瑞希も黙った。

 会社を襲撃した眞美は、名倉に連れられて京都に帰った。必ず離婚するから、との言葉を瑞希に残したものの、妙に優しい名倉と精神的にかなり参っている眞美の取り合わせは、瑞希に不安しか残さなかった。またずるずるとあの二人は続くのではないだろうか。

 京都で追いかけっこをする二人が浮かぶ。

 そして、睦美から打ち明けられた話。

「大輝が青森にいるらしい」

 先日やってきた刑事たちは、一枚のコピーを睦美に手渡していた。それはクレジットカードの利用明細だった。

「あいつ、いつの間にかカード会社のログインの暗証番号、変えていたんだよ」

 それがわかれば睦美もカード会社のサイトへ入って利用状況を確認できたはずだった。警察ならわかるだろうと調べてもらい、つい先週に青森で使用されていたことがわかったのだ。

「青森駅できっぷの購入に使っています。その後、弘前の量販店で買い物に使っていて、最後は限度額いっぱいまでキャッシングしています。つまりもうカードを使う気はないのではないかと思います」

 刑事は睦美にそう言ったらしい。

「弘前に心当たりはありませんか?」

 ない、と反射的に答えていたが「落ち着いて調べてみてください」と刑事に言われたとか。

「それで調べたの。ほら、浮気相手の顔を見てやりたいって、前に言ったことあるよね」

「うん」

「探偵に調べさせたの」

「えっ」

 それは瑞希が大輝と関係を持つよりも前の話だった。

「報告書ってやつを貰って、実家に隠してたんだけど」

 睦美は探偵が本当に大輝の浮気を証明し、相手の素姓までレポートしてきたことを恐れた。もししっかり読めば、もっと大変なことになるのではないか。いや、睦美自身がなにかをしでかすのではないかと恐れた。

 だからろくに読みもせず、写真も見ず、封筒に入れたまま片付けてしまったのだ。

 これまで浮気相手の顔を見ていないのである。

「いつでも見ることができる。いつでもこれを証拠として使える、と思っただけでその時はよしとしたの」

 瑞希の背中を冷たい汗が流れていった。

「それを、今度はちゃんと読んでみたわけ」

 当時は頭にきて冷静に報告書を読めなかったらしい。かなり詳細に女のことが調べられていた。水商売。西新井のスナック。池袋。北千住。転々としていたようだ。

「女の出身地が南津軽郡っていうところなの」

「津軽海峡」なら「冬景色」──。それぐらい瑞希でもわかる。紅白歌合戦で何回も聴いている。

 睦美は刑事の忠告を無視した。刑事たちは瑞希にも言った。「失踪した大輝さんについて情報を持っていそうな人がいたら、私たちに教えてください。いきなりご自身でそういう人と無闇に接触しないでください……」

 当の睦美がそれを破るのだ。瑞希から刑事にご注進するわけにはいかない。

 瑞希は「だったら私も行く」と言っていた。

「え? なんで?」

 大輝が心配だからに決まってるでしょ、とは言えない。

 旅に同行する理由は思いつかなかった。

「一緒に行く」ともう一度、言うことしかできなかった。

 すると睦美は泣いた。

 これまで長く一緒に遊んだりケンカしたりしてきたのだが、これほどあられもなく泣く彼女を見た記憶はなかった。

 いつも泣くのは瑞希の役で、生まれて間もなく亡くなったとはいえ弟がいた睦美はその時から「お姉さん」だった。弟の葬式でも彼女は泣いたはずだが、瑞希はなぜかその頃の記憶が曖昧だ。

 ただ、あの頃のお姉さん気取りの睦美にしてもらったように、瑞希は優しく彼女を抱き、手を握ってやった。言葉はいらないのだ。頬を合わせるようにして一緒に泣くだけでいい。

「ありがとう」と睦美に言われて、瑞希は涙があふれた。

「うん、じゃ、私も」

 休暇を取って睦美と旅行すると言っただけなのに、眞弓はすべてを見通したかのように理解し、同行を申し出ただけではなく「得意だから」と列車や宿の手配までしたのだ。

 瑞希はこの列車か旅のどこかで、大輝が青森にいるらしいことを眞弓に話せばいいと思っていた。それを告げるべきは睦美だろうと考えていた。

「彼女、どこまで知ってるの?」と睦美は瑞希に尋ねながら、眞弓がまだ口を開けて寝ていることを確かめた。

「睦美の旦那さんが失踪したこと。ほかは知らない」

「でも、この際、助かるわ。心強いし。私、自分がなにかしでかしそうで怖いし」

 女たちがダメな男を葬り去る話を映画か本で見聞きしたことがあった。メインは死体遺棄だが、協力する女たちはたくましく強くステキだった。彼女たちはそれぞれに問題を抱えていて、そんな日常からどうやれば抜け出せるか、葛藤していたのだ。

 もしかしたら、自分のことは語らない眞弓でも、なにか問題を抱えていてもおかしくはなかった。そうでなくても会社がおかしくなりかかっていて、誰しもが将来のことを考えてしまう。

「おっと」

 オヤジのような声を出して眞弓が目覚めた。

「どこ?」

「八戸過ぎた」

「だから、どこ?」

 三人ともみごとに土地勘がなかった。

「まいったなあ」と眞弓がイアホンを外しながら、髪の毛を大げさに掻きむしった。

 睦美が笑ったので、瑞希も微笑んだ。それを見て眞弓もあどけないまでの笑顔を見せた。

「ま、なんとかなるでしょ」

「男前だわ」と睦美が妙な誉め方をしたら、「えー」と眞弓はまんざらでもなさそうだった。

 眞弓は男前なんだ、と瑞希は納得した。突進してきた眞美にしがみついたときもそうだった。

 そして……。

 瑞希は、睦美に話していないことがあった。それは、大輝とのことだけではなかった。

 名倉の妻が乗り込んで修羅場を演じた夜、もはや会社にはいられない、いたくないと瑞希は考えて辞表を書いた。翌朝、部長に手渡そうとした。後先考えず、とにかくいったんリセットしたかった。

 朝礼が終わった直後に部長席に向かった。

 仲人ができると信じているのか、ニコニコ顔の長池部長の前に、瑞希は直立不動となって「部長、これを」とスーツのポケットから真っ白な封筒を出した。

「うん? なに?」

 その瞬間、封筒が横取りされた。

 眞弓だった。怖い顔をしていた。その目はあのときの眞美に似ていた。

 そして眞弓は黙って封筒を引きちぎり、細切れにしてゴミ箱に捨てた。

「なんで……」

「黙れ、瑞希」

 低い声で眞弓が言う。

「言葉は虚しい回転木馬のように同じところをぐるぐると回っているだけでどこへも行こうとしない」

 わけのわからないことを眞弓が言い出す。

「沈黙はそれ事態がすべてを包み込み、すべてを覆い隠し消してしまう」

「なにそれ」

「黙れって言ったら黙れ、瑞希」

 瑞希は眞弓に見つめられて、どうしていいのかわからなくなった。

「あのう」と部長が立ち上がった。「これから会議なんだけど、君たち話があるの? ないの?」

「ありません」と眞弓が断言し、瑞希の二の腕を両手で掴み引っ張った。

 仕方なく瑞希は部長席から離れて、窓際まで連れていかれた。

「瑞希」

「ち、近い……」

 端正な眞弓の顔が、鼻がつきそうなほどに接近した。

「辞めるな」

 そう言うと眞弓は自分の席に戻っていった。

 あれは、なんだったのだろう。

 瑞希は誰にも言えないことばかりが自分の中に蓄積されていくようで、不安でもあり、怖くもあった。いくら大厄だからといって、具体的に夫が失踪するようなトンデモなことが起きている睦美に比べれば、実際には瑞希にはなにも起きていない。

 名倉にタックルされ、その妻に蹴られたが、その程度のアクシデントは誰にでも起こり得る気がした。それでいて、なにかしら抱えきれないものを負わされているような恐怖に脅えていた。

 ふと気づくと、眞弓が瑞希の手を握っていた。

「ん?」

「ちょっと寒くなってきたよね」

 新青森へ近づくにつれて、気のせいか車内の気温が下がったような気がした。

 相変わらず雪の少ない光景だが、それでも見渡す限り一面が雪だ。真っ白な山、真っ白な丘、真っ白な街。

「早い、まだ十時前だよ」

 ぎゅっと眞弓に手を握られると瑞希はちょっと恥ずかしかった。眞弓の手の感触はイヤではなかった。

 六時台に東京を出ることは睦美の希望だった。子どもたちを実家に預けているので、時間をできるだけ有効に使いたかったのだ。一泊二日をすべて大輝の捜索に使い切るつもりだった。

「あいつね。弘前のスーパーでベビー服を買ってたんだ」

 突然、睦美が言った。

 その言葉の重さに、瑞希も眞弓も押し黙った。

 この旅の目的を眞弓は知った。

 眞弓はあらゆることに察しがよく、余計なことは口にしない。ただ瑞希を握る手に少し力が入っただけだった。

 どうするつもりだろう。大輝に会ったら。そこに女と赤ん坊がいたら。

 睦美はそのことをいままで黙っていたのだ。

 自然に三人の頭が近づいてきて、瑞希に寄りかかるようになった。瑞希の手を睦美も握ってきた。

「私ね、怖い」

 瑞希は思わず「帰ろうか?」と聞いていた。その言葉は虚しく空中を回転していた。

 それきり、誰もなにも言わぬうちに列車は新青森に向かって急激に速度を落としていった。

「うはっ、やっぱ、寒いね!」

 ホームに降りると眞弓が叫んだ。

「来たぞー、東北。冬だものね、暖冬とはいえ」

 息が白くなった。

 雪が少ないと言われていたが、線路脇も十分に深い雪で覆われていた。在来線に乗り換える通路を黙々と歩く。建物であるとかエスカレーターとかは東京近郊の駅とほとんど同じなのに、乗客たちはやはり東北の人たちらしく長靴を履いている者が多く、背の低い年寄りたちは瑞希たちにわからない言葉で盛んに会話をしていた。

「やばっ」と眞弓。「こっちの言葉、ぜんぜん、わからないよ」

 それは瑞希もすぐに感じたことだった。乗客たちの会話がまったく聞き取れない。しかしアナウンスも駅員の言葉も聞き取れる。

 つまり公共性のある場所なら瑞希たちもちゃんとコミュニケーションが取れそうだが、一歩、地元百パーセントのところへ踏み込めば、なにもわからないことになる可能性を感じた。

 自分たちはここでは異質なのだ。

 三人はあらためてマフラーをし、眞弓はデイパック、睦美と瑞希はキャリーバッグを転がして移動する。

「大丈夫。私たち、どこからどう見ても東京から来た旅行者でしょ。だったらもしかすると親切にしてもらえるかもしれない」と瑞希。

「そうね、そこにしかない」と睦美。

「すがる海峡冬景色ってわけね」

 眞弓がオチをつける。

 三人は笑った。口の中で「すがる海峡」と呪文のように唱えた。

 なにかにすがりに来たのだ。

「犯人は東北に逃げるって定説、あれはウソだな」と眞弓。

「なぜ?」

「こんなところによそ者が来たらバレバレだよ」

「確かに」

 あのもっさりとした大輝は、きっと目立ちすぎる存在ではないか。

 在来線に乗り換えると、ベンチシートに座って途中駅に停車しても開かないドアを眺めた。寒いのでボタンを押さないとドアは開かない。雪の積もった街。田畑。遠くの山。

「長靴、必要だったかな」

 三人とも冬用のハーフブーツを履いてはいたが、こちらには通用しそうになかった。

 地元の人たちはみな長靴やしっかりしたブーツを履いていた。冬に対する心構えがまるで違う。

 弘前駅もまた都会的な駅社だった。土産物などの店が並ぶ一角を横目に、タクシー乗り場のある広場へ出た。

 冷たい風が横から吹いてきた。

 もしかすると、この同じ空気を大輝が吸っているかもしれない。ここに大輝がいるかもしれない……。

「で、ここからどうするの?」

「南津軽郡。大鰐ってところへ行くの」

「ワニ? 海峡にワニがいるの?」

「知らないわよ」

 タクシーの運転手に「大鰐へ行きたいんですけど」と眞弓が尋ねた。

「ああ、大鰐なら……」

 あとが聞き取れなかった。

「え?」

「こうなん、てつ、どう」と幼児に言うかのように、音節を区切って言ってくれるのだが、意味がわからない。

「この先に駅があって」

 それはわかった。つまり、別の電車に乗るのだ。

「そこまでお願いします」と眞弓が頼む。

 トランクに荷物を入れて、タクシーは走り出した。

「大鰐も雪がなくて……」

 そのあとが聞き取れなかった。

「これでも少ないんですか」と眞弓は元気がいい。

「んだなあ。地面が見えてるからなあ。こんなことは滅多にないし」

 珍しく聞き取れた。

 地面が見えている。確かに、道路の両側には除雪したらしい雪が壁のように連なっているのだが、アスファルトは見えていた。東京あたりでも降雪になればこれぐらいのシャーベット状の雪は珍しくなかった。

「大鰐ってどんなところですか?」

「スキー場があって、温泉があって。だけんど、今年は雪が少なくって、スキーはなあ……」

 語尾のところでゴニョゴニョと言う部分がまったく聞き取れない。

 大通りから横に逸れたところに、車は入っていった。木造の古ぼけたお店のような建物の前に停まった。

「ここから電車で終点まで行けば……」

 また後ろのほうが聞き取れなかった。

 瑞希が支払ってレシートを受け取り、その間に睦美がさっさと降りてトランクから荷物を引っ張り出している。

 空は青い。が、白い粉雪がちらほらと舞っていた。空気の味も香りもまるで東京とは違う。本当の外にいる、と瑞希は思った。東京は外に出ても室内のような淀んだ空気だった。ここは本物の自然の空気がある。そして東京からは遥かに遠い場所だ。

 ガラガラと木の引き戸をあけると、ガランとした待合所に三人は入った。だるまストーブがあり、きっぷ売り場があり、大きな時刻表があった。時刻表は大きいが、本数はそれほど多くはない。

 弘前駅とこの中央弘前駅はちょっと離れているらしいが、位置関係もよくわからなかった。

「一時間に一本しかないよ」

 十時台から夕方の五時までは一時間に一本なのだ。朝夕の多いときでも一時間に二本しかない。

 四百三十円を払ってきっぷを三枚買う。

「大鰐まで何分ぐらいですか」

 眞弓が尋ねると女性の職員が「三十分ほどですけどね」と答えた。

 思ったより近い。

「津軽って言っても、ぜんぜん海峡と違うよ」

 売店で買ったアンパンとコーヒーを食べながら、電車に揺られる。

「これ、東急だよ、ほら」と眞弓が吊革を指差す。「東急食堂」と赤く文字が入っていた。

「なんだか、かわいいね、これ」

 眞弓は子どものようにつり革を握る。それはリンゴのカタチを模しているのだとあとでネットで調べて知った。赤い輪に緑の葉がちょこんと貼りつけてある。

「ほら、これ」

 眞弓が見つけたのは、ハート型のつり革だった。

 一つだけハート型のつり革がある、というのはいろいろな鉄道でやっていることのようだと瑞希は思う。聞いたことがあるのだ。それがここにもあった。

「もうすぐバレンタインだものなあ」

 眞弓の言葉は、悪気はないのだろう。しかし睦美にも瑞希にもため息しかもたらさない。

 外は寒そうだが、車両はとても暖かい。睦美が緊張しているのが手に取るようにわかる。

 彼女が知っているのは、その女の住所とされるものだ。それだけが頼りなのだ。そこに誰もいなければ、この旅は虚しいまま終わるだろう。

 瑞希はここで大輝と会う自信がなかった。

 睦美と一緒に彼に会うなどということができるだろうか。冷たいようだがその女と赤ん坊は知ったことではない。目的は大輝だけだ。

「着くよ」

 車両をうろうろしていた眞弓が席について落ち着いたと思ったら、いよいよ以前は渋谷を走っていた車両が、雪景色の中を駅へとすべり込んでいく。場違いなのは私たちだけではなかったと瑞希は思う。

「さて」と眞弓が元気よくデイパックを担いだ。

 行くしかないのだ。このために来たのだから。

 瑞希は自然に睦美の手を握って、引っ張るようにホームへ降りた。

「いよいよだね。ワニが出るか蛇が出るか」と眞弓が呟いていた。

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