第7話 追い込まれた瑞希
大鰐駅を降りると、一面雪で弘前駅周辺よりはずっと雪深かった。
そしてそこは、大鰐温泉駅でもあった。
「なんだ、奥羽本線でもよかったんじゃない!」と眞弓。
弘前駅で降りてしまった。しかも地名の「大鰐」に惑わされて「大鰐駅」と思い込んだから、タクシーの運転手は親切にわざわざ弘南鉄道を案内したのだ。あのまま秋田方面の電車に乗っていればよかったのだ。
「てっきり弘前からすぐだと思ってた」と睦美。
「帰りはそれでいけばいいよ」
瑞希も眞弓も、睦美に頼り切ってはいけないと感じた。
問題は最終目的地だった。漠然とした駅前広場には手掛かりはない。ただ一面の雪だ。白くてまぶしくて、なにもかもが面倒くさい対象に見える。バリアのように近づいてはいけないと感じてしまう。
そこにいた地元の人らしい女性に、睦美はメモした住所を見せて、場所を尋ねた。
なにを言っているかはよくわからないが、「向こう」というのはわかり、「あっちですね?」と確認したら、「んだっきゃ」と言われた。
「ね、ワニだよ」
駅前には唐突にワニのオブジェがあった。平屋の屋根ぐらいの高さだ。
「ワニ園とかあるのかな」
ピンク色の肌をしたマンガ風のワニ像を見つめても、それ以上なにも得られるものはなかった。雪を被っているのに、うれしそうなワニの表情が、ムリをしているように見えた。
睦美は教えてもらった方向へ歩きだした。
「大鰐って、本当にワニのことだったんだね」
眞弓の言葉がいちいちおかしくて瑞希はさっきから笑い続けていた。ちょっと気持ちがおかしくなっていた。ここに大輝がいるかもしれないのだ。それを睦美だけが会うならともかく、瑞希がいる。眞弓も一緒なのだ。この事態そのものが場違いなほどツボだった。
大輝はどう思うだろうか。妻と不倫相手が一緒に現れたら。
「なんか、うれしそうだね瑞希」
眞弓に言われて瑞希は驚き、口を閉じ、顎に力を入れた。
「やっと着いたから」
「まあね、けっこう長かった」
「うん、長かった」
電車は飽き飽きしていた。
「んだっきゃ」と眞弓が言う。
「それ、なんかいいよね。んだっきゃっ」
寒いが荷物を持って歩くと心地よかった。ピリッとした空気に頬を冷たくしながら、ザクザクと雪の上を歩いていると楽しくなってきた。
みやげもの屋の看板を掲げたお店の横を、睦美はどんどんと進む。雪は深く、道路の除雪をした雪が壁のように連なっている。そのせいか空は昼間の青さなのに、日陰ばかりを歩いているような気になった。
高い建物はない。銀行でも二階建てだ。
「温泉、どこ?」と眞弓がスマホ画面を見て言う。
「ワニもいるかも!」と瑞希がはしゃいだ声をあげ、自分でも驚いたのか口をぎゅっとつむった。
緑色の鉄のアーチがついた橋に出た。凍ってはいないが冷たそうな川。雪が溶け込んでシャーベット状になっているように見える。そこを渡ってくる風をまともに浴びながら、それを越えてなおも歩くと「ここかな」と睦美が二階建ての住宅の前で立ち止まった。とりたてて特徴のない戸建てに見える。ただ、玄関の外にもう一つ温室のような玄関がある。
表札に「木村」と記されていた。
「どうしよう」
睦美は戸惑っている。
「ここにいるから。行ってきて」と眞弓。瑞希も「そうだよ」と促す。
インターホンは真新しい。住宅そのものがこの十年ほどの間に建てられたように見えた。
「すみません。東京から来た米井と申します」
瑞希が少し離れたところから見ていると、睦美はもう一度「米井と申します」と言った。
「木村道江さんはいらっしゃいますか?」
しばらくして内側の玄関が開き、小柄な女性が顔を出した。子どもかと思った。毒々しいまでのピンクのトレーナー姿で、手足も細い。
「道江ですけど」
サッシを開けた。玄関のドアを開ける前にそこで靴についた雪を落とすらしかった。
「入ってください」と瑞希たちにも声をかけた。「寒いでしょ」
彼女に訛りはなく、期待していた「んだっきゃ」は出てこない。
結局、三人でその家に上がった。つまり、そこに米井大輝はいないことが、誰もなにも言わないうちからわかった。一時的にいないのか、どこにもいないのかを確かめたかった。そして、いまどこにいるのかも。
「その靴じゃ、大変だったでしょ」
靴を脱いでみると、靴下まで濡れていた。
短い廊下の先に、大きな石油ストーブを中心とした居間があり、そこはとても暑かった。外側を網で囲ってあり、三人の靴下を干す。
「脱いでください」と木村道江に言われるよりも早く、三人はダウンジャケットを脱ぎ捨て、マフラーを丸めた。
ストーブは煙突がついており、勢いよく燃焼している。
細くて華奢な彼女のお腹がぷっくりと膨らんでいるのは、明らかだった。大輝がベビー服をカードで買ったというから、相手が妊娠しているとは思ったものの、臨月が間近だとまでは予想していなかった。
「いつですか、予定」と睦美の声は緊張し、やや唐突だった。
「あ、もうすぐです。今月か来月かな」
「そう」
睦美は完全にケンカモードになっていた。顔が怖い。言葉も出ない。
眞弓が気を効かせて、「あのう」とアプローチする。「私たち、米井さんを探してるんですけど。米井大輝さん」
「東京からですか! 遠いところをわざわざありがとうございます。あ、お茶も出していないし」
「大輝はどこですか!」
睦美は大きな声を出した。
全員が緊張し、空気が止まった。
「大輝はどこにいますか?」
睦美は少しトーンを下げて言い直したが、さきほどの声の余韻がまだ部屋にこだましているようで、誰も動きが取れない。
「私の夫はどこにいるのでしょう」
再び睦美の声に抑えきれない感情が交じってきて、思わず眞弓は彼女の腕を掴んだが、簡単に振り払われた。なにか、怖ろしいことが起きてはマズイと瑞希も思うものの、なにもできない。
修羅場になにもできない自分を、瑞希ははじめて恥ずかしいと思った。オフィスでも眞弓がいなければどうなっていたことか。
ここでも眞弓の存在は大きい。
「どこって……。お帰りになったとばかり思っていましたけど」
木村道江は、淡々としていた。「ここには先週、二日ばかりいただけで」
「二日……」
とうとう一緒だったことは認めたな、と瑞希は思った。新たな容疑者の登場。睦美が大輝を殺していないのなら、殺したのはこの北国の女ではないか。松本清張ならおそらく、これさえも睦美が構築した巧妙なトリックなのだ。睦美は、大輝が失踪した時点でまだ殺してはいなかったのだ。東北から帰ってきたところを殺した。警察に届けたときは大輝は生きていて、先週、ここから東京に戻ってから殺され……。
私たちは睦美の計画犯罪を手伝わされているのか……。
バカバカしいと思いつつ、瑞希は一瞬、そんなイメージを浮かべてから打ち消した。
「はい。わざわざここまで送っていただいて、あれこれ買っていただいて……」
「お金も渡したんでしょうか?」
丁寧だがキツイ言い方で睦美は迫る。
「お金はいただいていません。お断りしました。ここはうちの親が建てた家で、子どもを一人産んで育てるぐらいは、なんとかなりますから」
「じゃ、大輝はいまどこに?」
「お帰りになったはずですけど。だって、二日留守にするのだって『いまは忙しい』とおっしゃっていて……」
「電話を持っていましたか?」
「ええ。そういうスマホ、です」
なにもかも投げ出して行方不明になってから三週間。つい先週、二日だけ大輝は「忙しい」と言いながら、目の前の女を大鰐まで送り届けてから東京に戻ったというのか。
彼は失踪時、携帯電話をどこかに捨てている。GPSはついていない。スマホは持たない主義だったはず。その彼が……。
それでいて道江に同行したときにはスマホを手にしていた。
「番号はわかりますか?」
「ここに何度か電話がありましたけど、番号までは……」
プッシュホンのようだが、着信を記録するようなタイプではなかった。警察が捜査すれば通信会社に記録が残っているかもしれないが……。
いま、ここにいる全員が、彼の電話番号を知らない。
衝動的に失踪したのではない……。
瑞希でさえも、そんな話は信じられなかった。大輝はそんな悪巧みをする人間とは思えなかった。自分の失踪を周到に計画するなんて。
「なにか、勘違いされていらっしゃいますね」と道江は、ちょっと明るく言った。わざとらしい明るさだ。
「私、奥寺辰夫さんとお付き合いしていた時期がありまして……」
誰だ。瑞希と眞弓にはわからない。
睦美はしばらく「おくでら」と口で反芻していた。
「大輝さんとは大学時代からご存じで仲よしだったとか……」
そこで瑞希もはじめて「あっ」と思った。いや、声に出てしまったらしく、眞弓が驚いていた。
瑞希は混乱した。この事実は自分が知っていていいものだったのか。それとも知っていても知らないふりをしなければいけないものだったのか、まったくわからなくなったのだ。
大輝のことをすべて知っている睦美。それでも大輝の失踪についてはなにもわかっていない。
一方、都合のいい部分だけ不倫相手として知っていた瑞希。睦美の何十分の一しか大輝については知らない。
睦美には「当たり前」のことでも、瑞希は知らないはずのことがいくつかある。それも仕事の場面で話すような内容ではない。長く一緒にいてはじめて知り得ることだ。
「本当にご迷惑をおかけしてしまって。私は水商売を長くやっていまして、ずっと東京におりました。十八ぐらいからずっと」
人生を語るのか。瑞希は身構えたが、「奥寺さんと知り合って、結婚するつもりだったんですけど、ああいうことになって」とすべてを曖昧にしてしまった。
──ああいうことになって。
極めて便利な言葉だった。瑞希も自分でいつか使うだろうか。「大輝さんとは、ああいうことになって」と。
「それにしても、びっくりだわ」
大きな浴室からは雪をかぶった庭が見えた。湯気で窓は曇っている上に、すでに暗くなっていたので、白く反射する部分だけであとは想像するしかない。
部屋で気分が悪そうにしている睦美から「せっかくだから入ってきて」と言われて、素直に瑞希と眞弓は大鰐温泉につかっていた。
木村道江の母親が長く務めている大鰐温泉の旅館を紹介してもらい、泊まることになったのだ。
「あの人の彼氏も、どこかへいなくなっちゃっていたわけね」
そもそも大輝が西新井に塾を開いたのは、その先輩である奥寺が失踪したからだ。大学時代の先輩であり、予備校で仲を深めた奥寺という男は、几帳面で一本筋の通った人物のようだった。大輝は慕っていた。大学時代にどの程度の交遊があったのかは睦美も知らなかった。
「先輩に誘われた」から、西新井の塾を手伝うことになった。そしてその誘った相手がどこかへいなくなってしまい、仕方がなく自ら引き継いだのだ。
「だけど、妙よね。突然失踪した人が、いくら恩のある先輩の彼女だからって、探し出して面倒見るかしら?」
眞弓は素直な気持ちを言ったのだろう。
「おまけに、その彼女はとっくに別の彼氏を作っていて、何番目かの彼氏に捨てられて、お腹が大きくなって『この子は産もう』と決意して田舎に帰って一人で育てようとしているなんて……」
睦美の気持ちは複雑だろう。十年も前に探偵に調べさせた大輝の浮気相手は、先輩の彼女だった。男女としての関係があったかどうかはわからないが、木村道江はキッパリと否定した。
「私は大輝さんのことを尊敬しています。しっかりしたいい人だと思います。いやらしい関係なんてありません。誤解です。私みたいな者を、奥寺の代わりに、いろいろと心配してくれて……」
「寅さん」のように、腹になにもない「いい人」だというのか。
むしろミステリー的に考えれば、大輝と道江で先輩である奥寺を殺害し、その絆があるから大輝はいまも面倒を見ているのではないか。瑞希はDVで道江に暴力をふるう鬼のような男を想像し、それを止めようとして殺してしまう二時間ドラマなら九時四十分あたりに見られるような光景を思い描いた。
そして、これはけっこう核心なのではないかと勝手に決めつける。これなら大輝は悪人ではないし、道江も被害者だし。会ったこともない奥寺だけが悪人になっているので、ストーリーとしては気分がいい。
「こういうことなのかな。大輝さんはなにかがきっかけで、先輩の彼女が苦境に立たされていることを知り、それを助けるために誰にもなにも告げず、いろいろなことをやったあげくに彼女を見つけ出して故郷に送り届けた、と」
眞弓の解釈は、瑞希からすれば別の意味でドラマチックすぎて、大輝にはふさわしくないように感じた。眞弓の考えなら、ドラマなら二枚目で口数の少ない「不器用な男」が演じるヒーローではないか。
そして敵から彼女を救い出し、無事、故郷に届ける。ジェイソン・ステイサムの役である。でなければ、スティーヴン・セガールだが、大輝はどちらかといえばジャン・レノだろう。
大輝は不器用で、もっとヌーボーとして、とらえどころがなくて曖昧な男だった。
「あ、やばい」
瑞希は湯につかりながら、思わず口走っていた。
「なにが?」
「なんでもない」
いつの間にか、大輝のイメージがさらに曖昧になっていることに気づいたのだ。
いま思いつく男は、小柄なタックル男、名倉だけだ。大輝は、いったいどんな人だったのか。名倉よりずっといい人だったに違いないのだが、具体的にどこがどうなのかは思い出せない。湯気の中にぼんやりと消えそうになっているイメージ。
「で、今ごろ、東京に戻った大輝さんは、失踪した奥さんを血眼になって探しているってわけかしら?」
眞弓の考えはおもしろいが、瑞希はそうは思わなかった。もし大輝が東京に戻っていれば、すでに睦美に連絡がいっていて、大鰐まで来ることもなかっただろう。そもそもスマホを持っているなら、瑞希に連絡してきてもおかしくはないのだ。
大輝は東京には戻っていない。戻る気などないのだ。
または、すでに死んでいる。
悲しいはずなのに、泣く気になれない。想像力が空回りして、瑞希はなにもかも信じられなくなった。もちろん、自分も。
そうだ、と瑞希は気づいたのは、布団に入って電気を消してからだった。
風呂から戻ると、睦美はもう眠っていた。
眞弓も横になるとすぐに軽い寝息を立てはじめた。
障子の向こうにぼんやりと雪明りがあって、ふかふかの布団も、固い枕も、ここは東京から遠い場所だと瑞希に知らせている。
失踪すべきは自分なんだ──。
瑞希はこのときに気づいてしまった。
どうして自分のような女が、のうのうと会社に勤め、名倉のような男から結婚を申し込まれて平気でいられるのか。裏切った親友とヘラヘラしながら旅行ができるのか。
おまけにあれだけ夢中だった不倫相手のことを、昨日の夕飯のように、簡単に忘れ去ることができるのか。
昨日は旅行前で眞弓と会社の近くの店でパスタを食べた。カルボナーラだった。昼も夜も眞弓は続けてパスタを食べ続けることができるらしい。眞弓といると、いつもパスタだ。
ごろりとその眞弓が寝返りをうち、細い手が瑞希の上に落ちた。
瑞希は子どもに対するように、手首を軽く持って布団の中に入れてやった。ふかふかなのだが頼りないほど軽い羽毛布団だ。部屋の中も暖房のおかげで東京より暖かい。
そのとき、眞弓は急に瑞希の手を握り返してきた。
この感触。この違和感。
新幹線の中でもそうだった。
どうしたものかと思っていると、眞弓はすっと瑞希の腕をたぐり寄せるようにして自分から移動し、抱きついてきた。
なにか言いたい。しかし、その口を眞弓の手の平が覆う。
「お願い、少しだけだから」
冷たい指先だった。眞弓のにおいがした。少しだけ幼い、少しだけ悲しいにおいだった。
瑞希の唇を探り当てると、ぐいっと体を伸ばし、覆い被さってきた。
「ま」と瑞希は言った。眞弓の「ま」だ。
突然、枕元のスタンドがついた。
「うるさいわね、あんたたち」と睦美が、普通の声でしゃべった。ずっと起きていたのだ。
「とやかく言う気はないけど、私、大変なんだからね。わかってるよね。わかってて、ついてきてくれたんだよね」
そのとき眞弓は、瑞希からようやく唇を離して「んだっきゃ」と言った。
修学旅行のようだった。
あれから笑い転げた三人は、風呂に入り直した。眞弓はもう隠すことはないと開き直り、平然と裸の瑞希に抱きついた。そして朝までバカな話をしていた。眞弓の女性に対する思いを中心に。
瑞希はただ混乱していた。
──これはいったい、なんなの?
いや、それでもなお瑞希は、なにもしていないのだ。大輝が消え、名倉が現れ、名倉は京都に去り、名倉の妻に襲撃され、名倉の義理の妹である眞弓にキスされた。
自分の周りを勝手に人が行き来している。
あのキスだって、大輝や名倉となにも変わらない。いや、まったく違う。違うはずだ、と頭ではわかっているが、行為そのものは等しい。
瑞希にはわからない「愛」が、そこかしこでイタズラを仕掛けている。わからない瑞希をからかっている。わからないものはわからない。わかったフリをしてもいいが、それでなにかが変わるわけでもない。
「ずっと好きでした」
バカ話は眞弓にとっては愛の告白だった。ずっと三人は笑っていたが、眞弓は真剣に言葉を発していたに違いなかった。
それがわかるだけに、瑞希は胸の奥が締め付けられるような気持ちになっていた。彼女の冷たい指。手から伝わる悲しいにおい。
──ゴメン、眞弓、私はそっちじゃない。
そう言えそうで言えなかった。言えないまま夜が明けて、眠い目をこすって朝食を食べて新幹線に乗った。
大輝も名倉もいない東京へ。
ずっと好きでした──。
そんな言葉を瑞希は誰にも言ったことはなく、言われたのもはじめてだった。
追い込まれた、と感じた。
やっぱり、失踪すべきは自分なのだ。自分が失踪すれば、案外、ほかの連中はみな東京にやってきてこれまで通りに仕事や家庭を続けるのではないか。
子どもを実家に迎えに行く前に、三人で塾と家を確認した。ガランとして、寒々としていた。どこもかしこも弘前や大鰐より寒く感じた。
大輝も、大輝の死体もなかった。
そのまま睦美の実家にも行き、子どもたちが母親を見ると突然ケンカをはじめて、例の大騒ぎを一通りやっている間に、瑞希と眞弓は引き上げた。
「どうして、うちにくるの?」
瑞希は一応、眞弓に尋ねた。
「だって、愛してるから」
眞弓が平然と言い放ち、月島についてきた。
「もんじゃ、食べる?」
「うん」
いったん荷物を部屋に置く。留守電もなければ、誰かが来た痕跡もなく、もちろん死体もない。郵便受けはチラシとフリーペーパーと磁石で張り付く水道工事の電話番号だけだった。
世の中は、人は簡単に失踪するが、事件はなにも起きず解決もしない。誰も責任を取らない。
もんじゃストリートにあるごく普通の店に二人は入った。どれぐらい普通かといえば、隣の店には行列があるのにこちらにはなく、狭いながらもどの席からも天井近くに置かれた液晶テレビを見ることができる。壁にはお品書きの短冊とジャイアンツのカレンダー。そして店の子どもがうろうろしている。
「昼ビール、最高っすね」と眞弓は勝手に瓶ビールを頼み、瑞希にも注ぐ。
男前だな、と瑞希は思う。眞弓が男前に見えたのは、「愛」のせいだったのだと気づく。だからどうだ、と瑞希は思う。それとこれとは関係ないだろう、と言いたくなる。なにが「それ」でなにが「これ」なのか、よくわからないのだ。
テレビでは馬が走っている。何頭もの馬たちが、赤やピンクや緑のヘルメットをした騎手を乗せて走っている。
数少ない客たちは競馬新聞を手にして、タバコをスパスパ吸いながら、ときどきビール瓶を傾ける。
この店は禁煙ではないので、カップル客はあまり来ないのかもしれない。
日曜日の昼間というのに。
「今日は暖かいね。暖冬だね」と眞弓。あっという間に、東京の温い空気に二人は順応していた。
そのニコヤカな笑み。しかし唇はまた瑞希を求めているのではないか。このまま部屋に戻ったら、昨夜の続きをやろうというのではないか。
「だめだー」と瑞希は言い、もんじゃのコテをあえて音を立てて小皿の上に置いた。そして顎をあげた。
「なに、どうした、瑞希」
「なにもかも、だめ。だめ、だめ」と、タバコの煙を口から吹き出すように、言葉を発した。
「考えるな、感じろ、瑞希」
有名なセリフなのだろう。瑞希は興味がない。聞き流す。
「会社、辞めたい」
「辞めさせない」
「どうして」
「私には瑞希が必要だから、さっ」
「どうしちゃったの、眞弓」
「どうもしてないぜ、ぼくは君に夢中だからね」
ちょっとしたカミングアウトがもたらした効果は絶大だった。眞弓はもはやなにも恐れていない。
おやじたちが競馬よりも眞弓を気にしていたとしても、彼女は平気らしかった。「宝塚」とテレビから聞こえてきたが、競馬の話らしい。
「どうして」と思わず瑞希は意味のない問いを発してしまう。
眞弓はヘラヘラしていた。
その眞弓の顔の向こうに、人影があった。二つ。
「どうも」
大きな体で、恐縮するように軽く頭を下げたスーツ姿の男たち。
「なに?」
眞弓が怪しむ。彼女はこの二人が会社に瑞希を訪ねてきたことを知らない。
「部屋で待ってて。話があるみたいだから」
瑞希はキーホルダーを眞弓に渡した。「暗証番号は知ってる?」
眞弓は大きくうなずいた。抜け目がない。さきほど解錠したのを見ていたのだ。
「ね、誰? 大丈夫?」
「大丈夫。例の刑事さん。すぐ戻るから」
二人はもんじゃストリートから少し離れたカフェに瑞希を連れていった。そこは瑞希の住まいにも近く、いずれにせよそこで話を聞くつもりだったようだ。
「よくわかりましたね、あそこにいるの」
「偶然です」
偶然のはずがない、と瑞希は思う。そうだ、部屋は監視されていたのだ。だから戻って荷物を置いてあの店に入るまで、ずっと彼らは尾行していたに違いない。大輝が現れるのではないか。もう一人の女は誰か? 事件でもない失踪者に、刑事たちはしだいに職業的な興味を持ち始めたのではないか。
「刑事の勘としては、あの女はクロだ」と。
店の外で声をかけるタイミングを見計らっていたのだろう。
怪しいぞ、瑞希。失踪した男をクライアントに持ちながら、離婚調停中の男と深い関係にありつつ、その義理の妹にまで手を出して……。悪女だな。そう、稀代の悪女ってやつだ、と瑞希は勝手に想像しながら、自分にはまったくふさわしくない役だと感じていた。
「どちらにいらしてたんですか?」
瑞希はすべてを話した。おそらく裏は取れているだろうし、ここで妙なウソをついても意味がないのだから。
「大輝さんに多額の保険金がかけられていることを、ご存じでしたか?」
刑事がそう言ったと瑞希は思い、「なんですって?」と聞き返していた。
「大輝さんに何度も無言電話がかかっていたことを、ご存じでしたか?」
「知りません」
保険金は瑞希の妄想だった。保険金、失踪、殺人。犯人は受取人で、それは三人の子持ちで、大親友に夫を寝取られていて、先輩の彼女にも夫を寝取られていた不幸で哀れな下町の女なのだ……。
「なにか、脅されているようなことを耳にしていませんでしたか?」
「まったく」
驚くほど大輝からはそのような陰は感じなかった。いつも陽な人だった。
「え? うそ、まさか」
刑事たちの真剣な眼差しは、その無言電話を瑞希がかけていたのではないかと疑っているようだった。
「私、そんなこと、しません」
疑り深い目がこちらをにらんでいた。
刑事たちはとうとう、瑞希が大輝と関係していたことを突き止めたのかもしれない。容疑者は妻だけではない。愛人も疑わしい。おまけにレズだ。
まんまと殺人をやり遂げて大金をつかんだ悪女が、最愛のレズの恋人と、日曜の昼下がりにもんじゃ屋で祝杯をあげていてもおかしくはない。太陽がまぶしいぜっ。
「少なくとも先週、弘前に行ってたんですよ。彼はそっちにいるんじゃないでしょうか」
「ちゃんと手配はしています。防犯カメラの解析もしていますが、事件性がまだ判然としないのでね」
刑事たちは、さも自分たちの扱う事件が大事件になることを望んでいるかのような口ぶりだ。事件の大きさと給料とかボーナスとか昇進がリンクしているのなら、望んでしまうのは当然かもしれない。お金ではないとしても、名誉とかにかかわるのかもしれない。
「世紀の大悪女を挙げてやったんだ」と孫にいいふらすのだろうか。
三人の女の東北珍道中を伝えるだけで四十分かかっていた。刑事たちは立ち上がると「今後、こういうことは……」と注意を与えたあと、レジに向かっていった。奢ってくれるらしい。
マンションに戻ると部屋は施錠されていた。眞弓のやつ、と腹が立ってきた。もしかして、とポストをあけると中にカギがあった。
部屋に戻ると眞弓の姿はなかった。
瑞希はホッとしたが、ちゃぶ台の上のメモを見ると、そうでもないことがわかった。
「合い鍵、作った。サンキュ! 愛してるぜ」
それだけではない。そのメモにはこんなことが書いてあった。
「瑞希と眞弓の約束」とあって、「電話で居留守は使わない、メッセに三十分以内に返事する、携帯忘れた・充電切れたを言い訳にしない、毎日必ずキスをする」と書かれていた。
ふざけるなと、いったんは紙をくしゃくしゃにした瑞希だが、ゴミ箱には捨てられなかった。
眞弓は本気なのだろうか。それとも遊びなのだろうか。それさえもわからない。それにオフィスに乗り込んできたあの姉の血を眞弓も少しは引いているとしたら、なにをしでかすかわからないではないか。
ふとスマホを見ると、すでに眞弓から三つのメッセージがあった。
「見た?」にはじまって「まだ見てない?」となって「見ろよ!」となっていた。
瑞希は「見た」と返事した。するとハートマークが返ってきた。
もしかすると、眞弓は、瑞希がこれまで会った人間の中でもっとも危険な存在かもしれない。
さらにハートマークと金色のなにかふわふわしたものや、色とりどりの風船などが送られてきた。
いよいよヤバイ領域に入ってしまった気がした。
「私さ、あいつのこと、ホント嫌いだったんだ」
眞弓はキスをしたあとに、そう言った。
「だから、あいつが机にぶつかったとき、ホントにうれしかった」
あいつとは、姉の眞美のことだ。
「瑞希をいじめるなんて、とんでもないよね。私の瑞希だもの」
眞弓はすでに服を脱いでいた……。
「うおっ」
叫びながら、瑞希は飛び起きた。
二度寝してしまったらしい。テレビは朝のニュース番組だが、いつもなら着替えている時間だ。
「それでは昨日のスポーツの結果です!」と高らかに宣言している。
スポーツの結果の間に支度して、天気予報の最初のところだけを見て出る。それでギリギリ、会社に遅刻せずに到着するはずだった。
寝ぼけたまま顔を洗い、化粧だけはすませた。部屋に戻ると見慣れた映像がまた流れていた。瑞希たちの会社の玄関部分だ。
「まだ、なにかネタがあるわけ?」と呆れたが、テロップに驚いた。
「米ファンドが電撃買収!」
クラクラした。
「というわけで」と長池部長が神妙な顔をして、経緯を説明している。
フロアの社員全員が集まって親会社からの通達を読み上げる部長の声に耳を傾けている。
「というわけで」は、「ああいうことになって」に次いで、瑞希には便利な言葉だと思った。
つなげれば完璧だ。
「というわけで、私、ああいうことになって」
しかし自分の名が呼ばれたような気がして、瑞希は幻想を振り払う。
「えっ、ええ?」
総務部長の室山が、瑞希に紙を手渡す。見渡すと、数人がそれを受け取っていた。瑞希に室山がニッコリと笑う。
「親会社に転籍してもらうわけだが……」と長池部長の声。
「ちょっ、ちょっ」と思わず言いたくなったが、瑞希は黙っていた。
事情は極めて流動的で刹那的でウソ臭いものだった。
米国の投資ファンドに買収されてしまった親会社は、さっそく部門別に切り売りされることが決まった。ただ、瑞希たちがやっているコンサル事業に興味を持ったらしく、それを親会社のビジネスとして発展させる方針が下されたという。
「ついては、若手のみによるタスクフォースを本社に置き、抜本的な見直しを含めて事業の将来性を検討してもらう」
集められた六人は、三十代の社員だけだった。顔を見合わせて、お互いに低位に沈んでいるコンサルであることを確認する。上位の連中は外された。
「なぜなら」と長池部長は本社会議室で、本社の役員がいる前で、なんだか気取っていた。淡路本部長が苦々しい表情でそれを聞いている。
「いま満足している者には改革はできません。そして彼らをメインに据えたら、彼らが一番やりやすい方法を採用してしまう。それが当社の今後にとってベストの選択であるかどうかはわからない。君たちはくもりのないその目と感性で、どうか、コンサル事業の将来を考えてほしい。このタスクフォースは三週間の期限付きだ。二十一日間、死ぬ気でやってほしい」
握り拳を噛み砕くような妙なガッツポーズを作った長池部長は、外国人役員にニカッと笑ってみせた。
静かだった。誰も拍手はしない。
淡路本部長がゲホゲホと咳込んで立ち上がり「そういうことだ。期限がある。三週間でまとめてほしい。忌憚のない意見が欲しいが実現可能性も重要である。そして実行するときは、君たちも先頭に立つのだ。それを忘れないように」とコメントした。
見慣れない小柄な役員が立ち上がった。アーガイルのカーデガンに蝶ネクタイ。太い縁のメガネ。顔は日本のどこにでもいそうな顔だが、滑らか英語で話し始め、男性の若い通訳が日本語にした。
「ありがとう。時間が重要なことはわかってるね。三週間でできないことは三ヵ月かけてもできない。三週間で見極めて三ヵ月実行する。問題なければ継続するが、我々の目標に到達しないようならそこで見直す。いま活躍しているベテランたちをどう活かすかも考えてほしい。ライバルに奪われることのないよう、しっかり対策を取ってほしい」と最後は長池部長に向かって釘を刺した。
「いいなあ、瑞希、親会社に転籍か……」
眞弓がコンビニで買ってきたらしいナポリタンを食べている。
「ねえ、どうしてここにいるの?」
眞弓は合い鍵を作り月島のマンションに入り浸っている。自分用に布団も持ってきた。
「ごめんね、眞弓。私、タスクフォースで三週間、泊まり込みになるの。会社の近くのホテルにカンヅメにされる」
「大丈夫、ここは私が守る」
「そういう意味じゃなくて……」
「気にしないで」
「気になるわよ」
もし名倉が京都から戻ってきたらどうするのか。それとも大輝がひょっこり現れたら……。
どっちもなさそうな気がした。
「それよりも、イケメンの通訳ってどんな感じ?」
「イケメン? 通訳?」
瑞希は顔も思い出せなかった。サッカーグラウンドで外国人監督の横にいるような男だったような気はするが、顔はどうだったろうか。深みのあるFMのDJのような声だった。
カーデガンを着た投資ファンドから来た男は、若いがファンドのアジア支社長でシンガポールに住んでいる。中国系だった。通訳も純粋な日本人ではなく、名前は思い出せないが外国名がついていたことは確かだ。
「そうよ、話題になってるじゃない? あのチャンさんにいつもはりついていて、BL的妄想が蔓延してるわ」
「今度、よく見ておく」
「瑞希はホントになんだかんだ、うかつなのよね」
唇についた赤いソースをティッシュで拭う眞弓に、瑞希はまたドキドキしてくる。それを見てとったらしく、眞弓はプラスティックのフォークを置いて、瑞希の肩に両手を置いた。そんなに近くにいた気はしないのに、眞弓の動きが素早すぎる。
そのまま、押し倒されるようにして、また眞弓が上になっていた。
「大好き、瑞希」
こんなことが長く続くわけがない。瑞希は大輝も名倉も忘れそうになってしまった。このところ、この唇しか味わっていない。この感触しか記憶にない。過去のものがすべて拭い去られてしまう。それほど眞弓は情熱的で、恐ろしかった。
ホテルにカンヅメになることはむしろ幸いだった。このままでは、瑞希は眞弓に支配されていくことになりそうだった。そこに愛があるとしても、いまの瑞希にはどうにも理解できず、納得できないのだった。
完全に追い込まれて、逃げ道を探すことしか考えられなくなっていた。
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