第8話 人は歴史の前には無力である
──なにもかも、だめ。だめ、だめ。
眞弓に言いたいことがあった。あの日、月島のもんじゃ屋で。
刑事たちに邪魔をされて言えぬまま、眞弓は勝手に瑞希は了承したと思い込んでどんどん先に進めている。
スマホに入る眞弓からのメッセージ。
「早く、三週間、終わればいいのにね」
そしてハートマークなどいろいろな装飾。
眞弓が残したメモには、「メッセに三十分以内に返事する」という項目があり、瑞希は気にして守っていた。「毎日必ずキスをする」がなくなったのはよかったが、会社にいる時間はとても怖かった。
物陰から眞弓が飛び出してきて……。などといった妙な気配を感じてすくむこともあった。
タスクフォースは親会社の中枢部にある会議室を占拠していて、電話一本であらゆる部署の人を呼びつけることができた。ピザも頼める。もっとも、そういうものを頼むと、室山部長がからくり人形のように現れるので、しだいに頼む回数は減っていった。
室山部長はまるで受験勉強中のわが子に夜食を持って来る母親のような感じで、ピザだとか弁当などを業者の人と一緒になって届けてくれるのだ。明らかに様子を見たい、参加したいという姿勢なので、そのたびにメンバーたちはどう接していいのかわからなくなる。もし母親なら「うるせー、勝手に入ってくるんじゃねーよ、消えろ!」などと暴言を吐いたのではないか。
チャン社長は、ほぼずっとこの部屋にいる。そのため彼の甲高い英語がイマイチなラッパーの曲のように、ずっと響き続けている。彼はメールに返事を書きながら、別の人と電話もでき、その間、秘書を待たせて書類を確認してサインしたりもする。
その通訳兼秘書が、ブランドンという長身でいかにも出来るビジネスマン風の姿のいい男だった。香港で生まれ育った見かけは白人に見える中国人である。日本の大学を出ている。
この二人はめちゃくちゃハードに働く。
瑞希たちはその働きぶりに触発されるどころか、半日で戦意を喪失した。
「買収されちゃうの、わかるよな」
リーダー格の田上がつぶやく。メンバーの中では最年長で学歴も一流であるだけではなく、父親は経産省官僚、母親は女子大の大学院教授だ。そもそもいまの会社にいるような器ではないのだが、大学を卒業して最初に入った広告代理店でなにかをやらかして、ここにいる。
「田上さんならやれますよ。英語もベラベラだから」とほかのメンバーが言うものの、「ムリだよ、あいつがなに言ってるのかサッパリ聞き取れないもん」と寂しげに笑う。
仕事は時間に追われ続けた。
「行動の前に仮説を立てろ!」とチャンはリズミカルに叫ぶ。
そのため資料を読み込んで仮説を立てる作業に没入していた。
「最初の十日間は仮説づくりだ」
チャン社長が宣言し、仮説が出来るまでは指一本、動かさないと言わんばかりだった。
雰囲気としては会社というよりも、大学のゼミのようで、それでいて自分たちの将来がかかっており失敗は許されない。
その間にニュースが伝わってくる。元経営陣たちは起訴されるらしく、上場廃止も決まった。東京地検、証券取引委員会による起訴だけではなく、株主代表訴訟もあるらしい。旧来からの親会社の管理部門は、そちらの対応だけで手一杯だ。
仕事を少しでも円滑にするために、チャン社長たちは現場からどんどん人を引き抜いて、関連会社からは主な人材がいなくなっていると眞弓がメッセージを送ってきた。
「コンサル部門も長池部長とトップコンサルたちしか残ってないよ。すごく空気、悪い」
そんなメッセージにもハートマークがついている。
つまり同じビルの中で、上は大騒ぎ、下は人が減ってのんびり。そんな状況になっているのではないかと瑞希は想像していた。下の階、いつものオフィスに行きたい。しかしそこには眞弓がいる……。
室山総務部長も広報の岡田部長も本社の役員に抜擢されている。室山は親会社の執行役員でタスクフォースを含めた新規プロジェクトの運営を任され、瑞希たちがいた会社の総務部長も兼務している。
それなのに、ピザをうれしそうに運んでくる。
深夜までかかることも珍しくない。というのもチャン社長が帰らないからだ。都内の最高級ホテルに住んでいて、接待で抜けたあと、また戻ってくるのである。朝食もランチもディナーも夜食も、一流の店で誰かとのミーティングでこなしているらしい。
チビでタフ。名倉を思い浮かべてしまう。三日で帰ると言っておきながらいまだに戻って来ていない。
名倉はどこに消えたのか。大輝はなにをしているのか。名倉と大輝は会ったことはほとんどないはずだが、チャンとブランドンのコンビに重なって見えてしまう。
大輝または名倉またはその両方が戻ってきたところで、もはや瑞希は彼らと以前のような関係になることは考えられない。
大鰐温泉の湯気の中に大輝のイメージは消えていった。いま、名倉のイメージもピリピリとしたこの会議室の空気の中に消えつつあった。
瑞希にとって、唇や指先に残る感触は、眞弓だけである。
心の中では、それを拒絶している自分もいた。自分はそっちじゃない、と叫んでいる。
いくら流されやすい人間とはいえ、求められるがままに、これまで一度として考えもしなかったような世界に踏み出せるものだろうか。
瑞希には考えられない。たとえ相手が眞弓でも。
ただ、一人、ホテルの固いベッドに横になっていると、そこに居てほしいのは正直、眞弓だった。彼女と話をすればなんでも解決できそうだった。男前の眞弓なら、正しい判断を下してくれそうだった。部長の目の前で辞表を破り捨てたように。突然襲ってきた眞美にタックルしたように。
腕をたぐり寄せて、布団に入ってきたように……。
「写真を送って」と眞弓にせがまれて、朝、寝起きのすっぴんを送信した。嫌いになってくれるかもしれない……。すると眞弓はほぼ裸の写真を送ってきた。見慣れた瑞希の部屋で、姿見に映している。
「キャハ、瑞希、かわいい!」
その真剣な目つき。少し開いた唇。
なに考えてるんだ、眞弓は──。
相変わらず、彼女のことは何一つ、わからない。
この三週間が終わったら、しっかりと話し合う必要があった。そこではお互いに、包み隠さずに話すのだ。いや、大輝との不倫は除いて。
危ない、危ない──。
もし眞弓が大輝のことまで相談にのってくれるような存在だったら、どれだけ気が楽だったか。
いや、本来その役目は大親友の睦美に求めるべきかもしれない。裏切っている友のことを思うと、貧血で倒れそうになる。
各自の仮説が発表された。
「この三つの仮説に絞り込むことにするぞ。これからは仮説を具体的に検証してもらう。チームに分かれて肉付けし、実現可能性をしっかり見極めてほしい!」
チャンが高音で宣言し、ハンサムなブランドンがそれを日本語にし、タスクフォースは三つの班にわかれて作業するようになった。
瑞希は、田上の班になった。瑞希がまとめていた仮説の一部が、田上のまとめていた仮説にうまく重なったので統合されたのだ。
しかしこの班のリーダーは二十九歳で小太りの釜内孝夫だった。こんな人がいたのか、と瑞希も驚くほど、彼は秀才だった。そして辛辣だった。
「田上さん。統計上の計算をしっかりやっていただかないと、意味がなくなっちゃいますよ」とか「瑞希さん、エクセルの関数ぐらいはネットで調べてきちんと対応してくださいよ」とか。
精度についてとても厳しいのである。そして「精度を高めるためにはプロセスです」と言い、思いつきのようなプロセスを嫌う。
彼にかかると、誰をも満足させる合理的なピザの注文の方法が実際にあるのではないかと思えてしまうほどだ。
「そんなのありません。ぼくはピザは嫌いだから」
彼はスナックとチョコレートが好きなのだ。
「そんな決定の仕方でいいんですか」と必ず言う。
反論すると木っ端微塵に粉砕されるので、ある時期から誰も彼には反論しなくなった。つまりタスクフォースの厄介者である。それが瑞希たちの班に押しつけられた。彼の仮説はすばらしいが、実現性不可能とチャン社長に判断されたのだった。
「実現できますよ、いまより優秀な人材を登用すれば」と彼は言うが、そのためにはJAXA(宇宙航空研究開発機構)のメンバーを引き抜くぐらいのレベルが必要らしい。
「ビジネスとしては割りがあいません」とチャン社長。「ノーベル賞の候補にはなるかもね」とブランドンが笑って付け加える。
以後、釜内はあらゆるものを呪っているかのような目で見て、あらゆるものをぶった切るような言葉を発するようになった。
「結局は、ぼくの頭脳が頼りなんでしょ」的なことを平気で言う人と、瑞希は仕事をしたことはなかったので、自然に田上と会話をする機会が増えた。
すると、あれだけ王子様のように別格扱いだった田上に、瑞希自身と似たニオイを見出せ、正直、楽な相手だと気づいた。
実証段階に入ると、パソコンの前にいることは減り、会議室の外に出ることが増えた。瑞希にはそれがありがたかった。
文句と呪いばかりの釜内にデータや分析は任せ、田上と瑞希はフィールドワークに出た。それは仮説に適したビジネスモデルを探して取材し、実地にデータを取ることだった。
いろいろな意味で有名になってしまった社名のために、正面から取材を申し込んでも断られてしまうので、関係者に近い人を探し、その人を頼りに公式、非公式に取材することになる。
それでも相手は警戒するので、三つの班はいずれも苦戦していた。その中では、田上のコネの強さからか取材そのものは順調だった。
「だめだな、これは」と田上が数件のフィールドワークをこなしたあとに、瑞希に言った。
「儲かりそうもない」
仮説では短期間に一桁多い売り上げに到達できると考えていた。つまり現状の十倍から二十倍の売り上げを見込んでいた。が、参考になるビジネスを探っていくと、どこも固有の事情があった。
「ダメだ、真似をしても売り上げは伸びないし、収益性は地に落ちてしまうよ!」と釜内が騒ぐ。
「別の要素が絶対にあるはずだ」と釜内に言われ続けているのだが、それが掴めない。
「コンサルは結局は、看板か人か仕組みに頼るわけよね」
「看板がよければ、売り上げは伸びる。だけど必ずしも利益は伸びない」
「人がよければ、売り上げも利益も伸びるけど、人の頭数が上限になるし、引き抜かれたら終わり」
「仕組みに頼ってやっているのが現状で、これでは高コスト体質は改善されず売り上げも利益も伸びない」
堂々巡りである。
正面から取材できなかったおかげで、裏話、つまりオフレコの話を聞くことができたのはよかったが、それはマイナスの話ばかりで、表向きは儲かっているようでも台所事情はそれほど変わらないことがわかってきた。隣の芝生は青いのだ。
「これじゃ、チャンに怒られるな」
「彼は怒らないと思う。見捨てるだけよ」
このタスクフォースは、コンサル事業の将来を見出すはずだったのに、コンサル事業の将来性のなさを証明することになりそうだった。
「チャンさんはどっちでもいいんだ。よければ投資する。ダメなら叩き売る」
「誰か、買ってくれるかしら」
「買うなら、ライバルだと思う。つまり、最悪の吸収合併になるな」
それは、中身だけ吸い取られて、あとは捨てられるということ。
「逆の立場としてもそうよね、人はいらない」
「まいったなあ。せっかく拾ってくれたのにな」
外に出るようになって、帰社前に夕食を一緒に食べるようになった。瑞希は田上に気を許してはいないが、男と二人で食事をすることは、素直にうれしかった。なにもかも忘れることができた。
田上も緊張が解けるらしく、ときどきプライベートな話題を自分から口にするようになっていた。社内では、彼がなにかをやらかして、一流の広告代理店をクビになったことだけは伝わっている。彼がそのことに触れさせないような雰囲気を発しているので、これまで誰もきちんと聞いたことはなかった。
瑞希は「ここがダメでも、次のあてがありそうですね、田上さんは」とふってみた。網の上にある海老フライを取り上げてタルタルにつけた。「すごく顔が広いから……」
「タルタルか。おれはソース派だな。あてなんて、あるわけないだろ。女がらみでクビになった男なんだぜ」
「じゃ、アジフライはソースですか、醤油ですか? ええっ! なにやらかしたんですか、まさか……」
「不倫だよ、不倫。アジフライはソースに決まってるだろ」
「醤油ですよ。魚だもの。不倫か……」
「魚だってフライになれば洋食だ。塩コショウされているよね? ならソースが常識ってものです。まあ、不倫は非常識だけど」
「でも独身だったわけですよね?」
「婚約していました。フライに醤油をつけるやつの気が知れないです」
「婚約かあ。さぞいいところのお嬢様だったんでしょうね」
瑞希は口の中に入れたタルタルたっぷりの海老フライを、サクッと噛んだ。
「そこの役員の娘」
「あっ」
タルタルが唇の外にはみ出た。
「結婚と就職が絡まっていたんで、ややこしんですよ。それでいてぼくは、そこの別の役員の奥さんと……」
うそっ、と言いたいが口の中がいっぱいで声にならない。
「だって、その奥さんは大学の先輩で、学生時代からの知り合いだったんですよ」
そんなことが、不倫の理由になるわけがない。
同じ会社の役員。その娘。別の役員の妻。二連覇、とは言わないか、と瑞希は思う。
「常識では考えられないわ、そんなの」とようやく飲み込んで言った。言ったとたん頬が熱くなった。きっと赤くなっているだろう。よく言えたものだ、と自分でも思う。「常識」などと。
「古い映画でね、ダスティン・ホフマンの『卒業』って映画、知っていますか?」
瑞希は知らなかった。
「ダスティン・ホフマンは役者さんの名前。監督はマイク・ニコルズ。この人、すごい映画を撮っていてオヤジのライブラリーにほぼ全作、揃っていたんで中学の頃に全部観たんだけど……」
役者や監督の名前もよく知らない。
「それはともかく、ぼくのはじめての女性は、その会社の役員の奥さんになったわけです」
不倫関係になる前から関係があった、つまり夫のほうが後だと。だから正当化できるというわけでもないだろうに。
「彼女は夫の浮気に悩んでいました。なんていうのかな。ロリコン? 若い子じゃないとダメって感じらしくて」
だから年の離れた彼女と結婚したが、その彼女も年相応になっていく。
「彼女、すごく落ち込んでいて」
いまでも田上はその女性に未練がありそうだ。
ふと、学生時代に知り合った眞美と名倉のことを思い出した。あの二人の関係も長い。その歴史は、突然割り込んできた瑞希に覆すことのできるようなものではないかもしれない。
「人は歴史の前には無力である」と瑞希はつぶやいた。
「え? 自然の前には無力、じゃないの?」
「そうだっけ」
「なに、唐突に」
「その人の歴史に途中で割り込むって、難しいのかなって思って」
「ふーん。なんだろう、その意見。瑞希さんでも、悩みがあるんですか?」
「でも?」
「だって、瑞希さんっておもしろい人じゃないですか。聞いてますよ。名倉さんの奥さんが会社に怒鳴り込んできたんでしょ? すごいなあ。見たかったですよ」
田上はあそこにいなかったのだ。それが瑞希にはわずかに救いだった。
「不倫みたいなものですよね。名倉さんは別居中だけどちゃんと離婚していないし。やっぱり人のものは盗んではダメです」
田上にマジメに言われると、心が痛む。
「不倫ってやつは、誰もかばってくれません。彼女には気の毒なことをしました」
「どうされたんですか。やっぱり離婚?」
「もっと酷いです。終身刑ですよ」
「どういうこと?」
「旦那が会社を辞めてしまい、いま二人で会津の山奥で古民家カフェをやっています」
「はあ」
よかったじゃないか、と瑞希は思う。
「この間、テレビでやっていました。びっくりしましたよ、彼女、老けちゃって」
「でも、幸せなんですよね?」
「それを幸せと呼ぶ人もいます。彼女も納得しているんでしょうけどね。まさかあのロリコンの旦那が『おれが悪かった』と謝るなんてね。『生活も人生も変える。おまえも変われ。いまならやり直せる』と言い出したらしいです。そこはテレビではもちろん、一切触れてないけど。人から聞いた話です」
浮気をされた夫。自分がいけなかった、誘惑を断ち切ろう、仕事をやめて誘惑のないところで暮らそう……。
なんだか身勝手な話。しかし、それはお互い様かもしれない。
「修道院に入ったような感じ、ですか?」と瑞希。
「いいですね。その表現。美しいです。ぼくもそう思うことにします」
田上は食べ終わって、箸を少しだけ乱暴に皿の上に置き、ため息をついた。その表情には、もしかしたら自分なら彼女をもっと幸せにすることができたのではないか、という少年のような思いが滲んでいた。瑞希は田上にはじめて好感を持った。
男は愛する女を幸せにしたいと思う。女はその気持ちに応える。それが愛だとしたら、彼女は夫の愛を選んだ。田上の愛ではなく。
これだから愛なんて──。
「どうなんでしょうね。瑞希さんはどう思います? 彼女、それでよかったんですか?」
「わからない。自分はそんな立場になったことないし……」
「瑞希さんは、お見合いで結婚するって感じに見えるなあ。堅実そうだから。あんな名倉さんみたいなオッサンはやめて、合コンしませんか?」
その同じ少年のような表情のまま、まるで逆方向に走るのを見て、瑞希は困ったヤツだと思った。年上の女性に対する愛を語っておきながら、合コンに誘うのか、男は。
男ってやつは──。
それとこれとは違うのか。愛と恋は違うのか。結婚とセックスは違うのか。
大輝は睦美と瑞希をどう分けて考えていたのだろう。それとも一緒に考えていたのだろうか。どちらを幸せにしたいと思っていたのだろうか。
その選択をしたくなくて、失踪したのかもしれない。
名倉は眞美を幸せにしたいと思っていたのだろうか、または瑞希を? 本気で?
自分はセカンドチョイスなんだ、と瑞希は気づく。行くつもりもないのに受験する学校のような……。
「おれも、あそこ受けたけどね」と数年後に語るような。「受かったけど、行かなかったよ。あそこでもよかったかなあって思うこともあるけど」
眞弓は瑞希を幸せにしたいと思っているのだろうか? ただの快楽の小道具なのか?
思わず、ため息が出る。
やめようよ、この話……と言いたくなる。
「合コン、行こうよ。ね。ヨット仲間もみんな独身だし。ヨット出して島とか行くんです。これからの季節はいいんだなあ」
ヨットで合コン……。
瑞希がこれまで出会った人からは聞いたことのないフレーズだった。
一瞬、瑞希はヨットの上で田上や日焼けして筋肉質で歯が真っ白な青年たちや、ブランドンやチャンたちと、水着でゴロゴロしているイメージを浮かべた。
マグロに食われろ、と思った。
「ヨットといっても、もちろんエンジンがついていますからね。普通に船ですよ。それほど揺れないし。風がよければエンジンを切ります。いいですよー、最高です。風と波の音だけですからね。海の上って静かなんですよ。凪のときなんて、もうびっくりするぐらい静か。地球を実感するんですよねえ」
目が遠くに行ってしまっている。
「ぼくたちは江ノ島に置いてるんですけど。十人は乗れます。気持ちいいですよ海は。なにもかも忘れることができます。そうだ、イルカの大群、見たことありますか?」
その後も田上はしばらくヨットの話をしていた。合コンの話ではない。
瑞希はまったく気持ちが動かなかった。いまはなにをするにも踏み出せない。高いビルの屋上の端っこに立っているような恐ろしさに捕らわれていた。
瑞希の背中を押せるのは眞弓だけだ。彼女にメッセージを送ってみようか。「田上とヨットで合コンやる」と。
できない。そんなメッセージは送れない。
眞弓が「行ってきな」と言うわけがない。あの目、あの唇……。
眞弓にとって瑞希は愛の対象だとしても、瑞希はまだそこまで気持ちがはっきりしていない。だとするとただの快楽の相手になってしまう。
深い関係……。
眞弓と瑞希の間で、自分たちだけの歴史を作ることはできるのだろうか。
大輝と関係したとき、これほど考えたりしなかった。
眞弓との関係は考えてしまう。本能的に「深い関係になってはいけない」と耳をつんざくようなアラートが鳴り響いている。それに、怖い。屋上から落ちてしまう。
「一緒に跳ぼうよ」と眞弓に言われたら、跳ぶだろうか。着地点も見えず、着地できる保証もなく。
うまく跳べるわけがない──。
落ちたら終わり──。
三週目となり、タスクフォースの疲労もMAXになっている。毎日同じ顔を見て、うまくいかない検証の連続で、なにをやってもこの事業の成功確率はピクリとも上昇しない。
「おまえら、なにか見逃しているんだろ」と釜内は不機嫌。コンビニで仕入れたハッピーターンにマヨネーズをたっぷりつけて食べている。マヨネーズがこぼれて指につき、その指を舐めてうっとりしている。彼の指はいま、魔法の粉とマヨネーズでおいしいのかもしれないが、瑞希は気持ちが悪くて仕方がない。
「もう時間がないよ。終わっちゃうよ。なんとかしようよ」とブランドンは声をかけてくる。
チャン社長は自分のことで忙しいので、ときどき死んだ魚のような目で瑞希たちを眺めるだけだ。
その代わりアシスタント・コーチのように、ブランドンが瑞希たちを励ます。具体的なことはなに一つ言わないのだが、チャンの横にいるからか、優れた経営者のような言動をする。
「チャンスはあるよ、まだあるよ! 諦めたらダメだよ!」
しかし、仮説は検証段階でつぎつぎとボロが出てしまう。大学生なら失敗も含めて卒論の題材になることだろう。瑞希たちは、この仕事を卒業することになりそうだ。
「なんとかならないかな」と瑞希はエクセルのグラフをいじってみる。どこかのパラメーターを動かせば、いい結果が得られるかもしれない。
「ほらね」と瑞希はそれを田上に見せた。
「へえ。どうやったの?」
「時間軸をずらしたの。チャン社長のいう期限を全部三倍に伸ばしたの」
「そりゃ、ズルイよ。期限内にやるから……」と言いかけて田上は言葉を飲み込んだ。
「そうだよな。そうだよ。そもそもこの期限は、チャン社長が設定している。つまりファンドの都合だものな」
「ですよね」
「ぼくらが調査した会社はみんな、もっと長いスパンで考えていた」
「そりゃ、オーナー会社が多いからさ」と、釜内が指をしゃぶりながら割り込んできた。「ファンドは結果を四半期ごとに出して、この事業の価値が高まってきたところで売り抜けたいんだ」
瑞希はたまらずティッシュの箱を釜内の席へ置いてやる。
「オーナー会社はそこまで急がないわよね」
「売る気なんて最初からないからね。会社の価値が高まることは、自分たちの財産が大きくなるってことだから。時間をかけても許される」
「だったら、オーナー会社にすればいいんじゃない?」
瑞希の言葉に田上も釜内も呆れる。
「瑞希さん。前提を変えたらルール違反ですよ」と釜内。「そんなトリックなら、ぼくなんか初日に見抜いてましたよ」としぶしぶおいしい指をティッシュで拭き取る。
釜内の自慢には田上は無反応だ。腕組をして考えている。その後も釜内は冴えた頭脳で瑞希をからかい続けている。「前提を変えるってことは、サッカーだって手を使えばもっと点が入るかもしれない。だからラグビーになってアメフットになったけど、それほど点数は入らない。だからラグビーはゴールすれば五点。アメフットは六点も貰えるようにしたんだ。手を使う前提を変えるよりも、点数を変えたほうがいいと考えることもでき、これをサッカーに応用すると……」
どうでもいいことを呟いている。
田上はスマホを取り出した。
「すみません、お忙しいところ」
数件の電話をつぎつぎとこなす。三十分後、とうとう田上は電話を終えて立ち上がった。
「これから外に出ましょう」
「は?」
夜の十時を過ぎていた。チャン社長はなにかのパーティーからまだ戻っていない。通訳のブランドンも同行している。タスクフォースはちょっとした真空状態になっていた。
「ここから先は極秘です。ここだけの話です」
釜内は不満そうだが、黙ってついてきた。
新橋へ移動した。上機嫌の人たちが大勢帰宅を急ぐ。逆らうように田上はガード沿いに古めかしさの残る地域を歩き、黄色い看板の居酒屋へ。すでに暖簾は仕舞われている。ラストオーダーの時間なのか。
「なんだか、懐かしい」
瑞希はこうした店で久しく飲んでいなかった。大輝との待ち合わせで使っていた池袋や渋谷の居酒屋を思い出す。
店は混雑していた。男たちばかり。その声がうるさい。それに輪をかけて「お会計!」と怒鳴るおかみさんの声。
入り口に近い席に、見慣れた五人の男たちがいた。ベテランのトップコンサルたち。
「すみません、遅くなって」
田上が腰低く接近すると、彼らはうれしそうに笑った。
「どうなってるんだ、向こうは」
しばらく田上はチャン社長が考えていることを、かなり簡略化して説明した。その間にハイボールやホッピーが運ばれ、イカの丸焼き、薩摩揚げ、ポテトサラダがやってきた。そのポテトサラダにイカのためのマヨネーズをさらに盛って釜内が口に運んでいる。
「というわけで、長池部長にちょっと打診したんですが、ダメでした。彼はあと数年は会社にいたいらしくて。すでに親会社から役員ポストを打診されているので、いまさら冒険はできないみたいですね」
「だろうね」とコンサルたちがうなずく。「あいつの金玉は小さい」
そこは「肝っ玉」だろうと瑞希は思う。
「で、みなさんのような優れたコンサルタントならよくおわかりだと思いますが、この事業はある程度の時間が必要です。つまりファンドが考えるような短期間に大きな利益を生むビジネスではありません。だったら、これから私たちで、そのことをファンドに示しますので、自分たちで事業を買いませんか?」
「げっ、EBOかよ!」と釜内が叫ぶ。
「なんですか、それ」
「EBO。エンプロイー・バイアウト。従業員が自分たちの会社を買うことだよ。経営権を取得できれば仕事を継続できる」と釜内が瑞希に説明した。「でも、資金はどうするんだよ」
田上は慌てない。
「ちょっとコネがあって、日本のある投資ファンドに知り合いがいるんです。そこはハゲタカじゃないので安心してください。名を出せばみなさんもご存じですよ。そこがお金を出すと言っています」
そんなことをあの短時間の電話で決めたのか、と瑞希は愕然とする。自分が動かしたグラフの時間軸からはじまって、わずか一時間ほどの話だ。
「率直にお願いします。みなさんはこちらに来てほしいのです。この計画ではみなさんの協力が不可欠です」
「おれたちはいくら出せばいいんだ?」
さして酔っていないはずのコンサル達はなぜかニコニコしっぱなしだ。
「出資は形式的ですが、それほど大きなものは不要です。それよりも、これまで通りの仕事を進めていただきたいのです。ただし、年俸はこれまでの七割になります」
「田上、おまえ、社長になるの?」とコンサルたちは平然としている。
「ええ。まあ。ファンド側がそれを条件にしています」
田上家の保証、ということか。田上社長? 瑞希はクラクラしてきた。
「問題ない」とコンサルたちは断言した。「ざまあみろ、金玉野郎」
おかしい。仲が悪くて足を引っ張り合っていたはずなのに。年俸が三割も減るというのに。会社への忠誠心もそれほどない、と瑞希は感じていたのだが。
どうやら長池部長のことがよっぽど嫌いだったらしい……。男たちの嫉妬はよくわからないところで爆発するという。
「瑞希ちゃん、久しぶり。かんぱーい!」
おかしい。こいつら、人間が変わったよう。
「なに驚いてんだよ」
彼らはヘラヘラしている。これほど和やかな彼らは見たことがなかった。お酒が入っているとはいえ。いや、ほとんど飲んでいないのに。
「田上と結婚するのか?」
口の減らない連中であることには変わりがなかった。
「違いますよ」
「だよな。名倉と出来てるんだものな。嫁さんをぶっ飛ばしたんだものな。名倉、どうした?」
「出来てませんし、ぶっ飛ばしてませんし。なにもありません。どこにいるかも知りません」
ぜんぜん、関係のないことではないか。瑞希はイライラしてきた。
「瑞希ちゃん、あんた、有名になっちゃうよ」
コンサル達のからかいの言葉は数日で現実になった。
寂しい──。
眞弓は一人、瑞希のマンションに帰る。ポストをチェックする。DMやチラシばかりだが、珍しく封筒がいくつか入っていた。
瑞希のいない瑞希の部屋。
「あーあ」とわざと声を出し、すべての灯りをつける。テレビをつける。風呂を入れる。瑞希がいるかのようにふるまう。
「今日も、疲れたね」
着替えて風呂に入って、コンビニの弁当を温める。その間に湧いた湯でお茶を入れる。
「鶏の唐揚げが入ってるよ、好きだよね」
瑞希も一人のときは、きっとそうしていたんだ、と思えば少しは心が落ち着く。
リモコンでチャンネルを変えていくがどうでもよくなる。
「もっとくだらないドラマとかバラエティとかないの? 頭の悪そうな人が考えた頭の悪そうな人たちが出てくる、くっだらない番組とかないの? みんな東大出かよ!」
封筒をチェックする。DMは破り捨て、そうでないものはちゃんときれいに机に並べる。そうすると、眞弓のいない時間帯に着替えなどを取りに来ているらしい瑞希がピックアップしていく。自然とそんな約束事ができていた。
「避けられてるのかな、わたし」
白い封筒の一通が異質で、思わず差出人を確認した。
「DAIKI」とあった。
「メンタリストかよ!」
机に並べた。
食事をすませて、溜まったゴミを集める。ここに住むようになって、近所の人からゴミ出しのやり方を厳しく教えられていた。明日の朝、出さなければならない。決まりなのだ。マンションにはゴミを集めるスペースがあるのに、日を指定されるのは理不尽だと思ったが、スペースが狭いためのルールらしかった。
「DAIKI? だいき?」
眞弓はそのときにはじめて封筒の差出人に気づいた。
「大輝!」
眞弓はどうしたものか、とその封筒を眺めた。千葉の消印が読み取れた。
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