エピローグ
日陰になる北側の校舎、さっきまで居た職員室よりひんやりした空気に懐かしさを感じながら、私は物理実験室の奥に足を進めた。閉まっているドアに、ノックを3回。
「開いてる」
返ってきた先生の返事は、物凄くそっけなかった。やっぱり怒ってるのかな…… 恐る恐るドアを開けると、昔と変わらない定位置で、先生はプリントを針無しのステープラーで綴じていた。
「お邪魔、します」
「お前何してんだよ」
「なにって、圭ちゃんが卒業証明書貰いにくるって言うから、付き添い。美咲が一緒に行くって言うから、断りにくかったんだもん」
怒った? とちらりと上目づかいに先生を見ると、苦笑された。
「別に、怒っては居ないけど、職員室にお前居たらびびるだろ。メールくらいよこせよ」
「ごめんなさい」
事前に教えたら、来るなとか言われそうな気がしたのだ。
先生の勤務先である私の母校は、今日は春休み。美咲と圭ちゃんが二人とも土日出勤の仕事で休みなかなか合わなくて、結局私が有り余っている有休を1日使わせてもらった。
5年ぶりの物理実験準備室は、ずっと使ってなさそうに見えたものが少し減って、ちょびっとだけすっきりした印象だった。
「懐かしい?」
「……うん」
先生の斜め右前にある実験台、そこが私の定位置だった。
「ここでいっぱい、話したね」
「泣いたの間違いだろー?」
返ってきた先生の答えに、思わず頬を膨らます。確かに沢山泣いたけど。初対面から泣いてて、次の日も泣いて、その後も……私は事あるごとにこの部屋に泣きに来た。この部屋と先生は、そんな私をちゃんと受け止めてくれた。
「あれ、どうしたの?」
あれと私が指したのは、二つ並んだ背の高いステンレス製のキャビネット。上の段はガラス張りの引き戸、下の段はステンレスの引き戸。その下段が一箇所、思いっきりへこんでいた。私が来てた頃は……あんなにというか、全くへこんでなかった。
「……蹴った」
「え、誰が?」
「俺。イライラして思いっきり蹴飛ばしたら予想以上にへこみやがった」
……先生が? キョトンとして先生を見上げてしまう。意外だ。先生は怒る時は静かーに怒るタイプで、手は出ないほうだと思っていた。
「なんで?」
「なんでって……」
先生は私から目を逸らす。
「腹立つに決まってんだろ。卒業式にあんな手紙だけ置いて帰られたら。こんなもん置いてくくらいなら待ってろよ馬鹿娘って思うだろ」
「……ごめんなさい」
しゅんとして謝ると「今更だけどな」と先生が苦笑する。
「ねぇ、あの手紙ってどうしたの?」
「どっか行った」
素っ気なく帰ってきた言葉に「嘘つき」と心の中で返す。ちゃんと卒業アルバムに挟んで持っててくれているくせに。素直じゃないんだから、ほんとにもう。とはいえ先生が素直だったら、それはそれで気持ち悪いから、素直じゃなくていいんだけど。
「あ、猫ちゃんまだ居た。元気だった?」
昔と変わらない壁側の実験台の下に鎮座している猫ちゃんの前にしゃがみ込んで、その頭を撫で撫でする。
「壊れたぞ」
「え、壊れ……ちゃったの?」
「だいぶ前に冷えなくなった。もうただの棚」
「捨てちゃう?」
先生は、冷えたら何でもいいっと言って猫ちゃんを連れて来たから、冷えなくなったら要らないとあっさり言うような気がして、恐る恐る先生に尋ねると、先生は首を傾げながらため息をついた。
「そいつさ、ちっさいクセに冷蔵庫だから捨てるの費用かかるんだよ。その辺放り出して野良猫にするわけにもいかないし」
野良猫って、と思わず笑ってしまう。
「捨てちゃうなら……欲しいな」
「そいつ?」
「うん。だってね、猫ちゃんいたから、頑張れた時だってあるんだもん」
猫ちゃんの前にしゃがんでいる私の隣に先生もしゃがんで、目が合った。
「また泣いてる」
「だって」
だってこの部屋には、先生と過ごした幸せな時間と同じくらい、私の涙も詰まってる。
「私、ここに居たでしょ?」
ここ。
猫ちゃんが居る、壁際の実験台の下。
私がこの部屋に初めて逃げ込んだとき、泣いていたのは……今、猫ちゃんが居るこの場所だった。
「先生が居ないときにね。あの日の事思い出して不安になる時があって。そんな時に猫ちゃんがここで笑っててくれると、もう昔の事なんだって……すっごく安心したの」
猫ちゃんが来たとき、本当は凄くほっとしたんだ…… 私が泣いてた、あの空間がなくなることに、凄く凄く安心したんだ。
くしゃくしゃと先生の手が頭を撫でてくれて、先生に抱き寄せられた。
「俺もだよ。夜に1人でここに戻ってくると、今でもたまに思い出す。まぁ、こいつ見ると気が抜けるんだけどさ」
私の頭を抱いたまま、もう一方の手でぽんぽんと猫ちゃんの頭を撫でる。
「おい、マジ泣きするなよ。お前これから遊びに行くんだろ?」
その言葉に、慌てて目元をごしごしと擦る。
「つーか、本気でこいつ欲しいのか?」
「うん」
「……使い道ないだろ、こんなの」
半眼でそういわれて改めてごろんと大きな猫ちゃんを眺めて、ドアを開けてみる。
「うーん…化粧水とかなら入るかな?」
しばらく考えて導き出された私の答えに、先生が声を上げて笑いだす。
「だって野良猫にするのかわいそうじゃん!!」
「いいよ、転勤するときもまだ欲しかったら持って帰ってやるよ」
そう言いながらも先生はまだ笑っている。あまりにも先生が笑うから、そっぽを向くと「翠」と先生が私の名前を呼ぶ。いいもん、もうそっち向かないもん。と無視していると、そんな私をすぐ傍らで先生が笑う。
「お前、まだ拗ねてんの?」
だって、そんなに笑わなくたっていいでしょ? 猫ちゃん、野良猫にするの嫌なだけなのに。
「翠」
先生の手に少し乱暴に引っ張られて先生の腕の中に倒れこんだら、そのまま唇を奪われた。
一度したら、止められなくなった。
なんども角度を変えて唇を重ねて、互いの唇を食むように啄ばんで。私と先生の吐息が混ざる。静かな部屋の中で聞こえるのは、私たちの少し熱っぽい……息遣い。絡め取られた舌先が離されるとき少しだけ濡れた音がして、また先生に唇をふさがれる。
私、この部屋を思い出すとき、もう泣いてた事を思い出さない。
ここは私がたくさん泣いて、たくさん後悔をした場所。でも、先生と出会って、過ごして……恋をした大切な場所だ。
先生もそうであって欲しいと思いながら、何度も唇を重ねる。忘れるのは無理なのはわかってる。だけど、思い出すのは……先生がこの部屋で仕事するときに思い出すのは、笑ってる私であって欲しい。
不意に私のバッグの中でスマホが鳴って、私と先生は現実に引き戻された。
「お呼びだぞ」
「……うん」
こう言って見つめ合った時は、お互いに物足りない顔をしてたと思う。
スマホを見ると美咲から『どこ行ったのー?』とメッセージが入っていた。すぐに職員玄関に行くよと返して、先生が差し出してくれた手を取って立ち上がった。
この場所と先生が名残惜しくて、一度だけ、背伸びして先生と軽くキスをする。
「見送り行ってやるよ」
そう先生が言ってくれたので、先生と一緒に職員玄関に歩き出した。美咲と圭ちゃんはまだ職員玄関には来ていなくて、先生と話しているとすぐに階段から二人の声が響いてきた。
「あ、翠。どこ行ってたの?」
「……あれ?新島先生だ」
不思議そうに先生を見たのは圭ちゃん。先生は、圭ちゃんが誰かわかっていない様子で、顔に思いっきり「誰こいつ」って書いてあって笑ってしまった。
「先生、男子バレー部の顧問してたじゃないですか。私、バレー部だったので、時々見かけてて……」
「あぁ、やってた。試合や遠征のときしか行ってなかったけど」
そういえば、昔バレー部の顧問だと言ってたのを思い出す。大抵放課後は、物理実験準備室にいて部活には行ってなかったけど。
「翠、新島先生と仲良かったの?」
「え、あー……うん、一応」
今お付き合いしている人です、とは言って良いのかわからなくて、とっさに言葉を濁してしまった。
「そうなんだ。意外ー。新島先生って女嫌いなんじゃって話になってたから」
へぇ…? そうなんだ? ちょっとあとで圭ちゃんに詳しく聞いてみよう、と思いながら先生を見上げる。
「なんだよ」
「なんでもないでーす」
先生の少し不機嫌そうな声に、にこーっと笑って応戦した。うふふ、なんだかいつも勝てない先生に勝てた気分。圭ちゃんなんか知ってそうだし、色々聞いて後でからかっちゃおーっと。のんきにそんな事を考えながら靴を履いている私の背中に、先生の声が届いた。
「あぁ、翠。お前、今日も俺んとこに帰ってくるなら門限10時な」
目が点になるって言うのは、こういうことだと思う。
「遅くても9時半までには電話よこせよ。過ぎたら迎えいかねーぞ」
わかったか? と言う様に悠然と微笑む先生に、私はぽかんと口をあけてしまう。頭の中で返す言葉をさがしているのに、なかなか出てこない。
だって、だって、美咲と圭ちゃん居る前でそんな事堂々といわなくたって!
「そ……それ、今言う?! メールとかでいいじゃん?!」
やっと出てきた言葉に、先生はさも面白そうに喉を鳴らして笑う。
「そりゃぁ」
先生は私の後ろに居る美咲と圭ちゃんに視線を投げた後、私を見てにやりと口角を上げた。
「今言うのが一番おもしろそーだからに決まってんだろ? じゃ、いってらっしゃい」
ひらひらと手を振って、階段を登っていく先生を呆然と見送った後。振り返ると、ぽかんとしてる美咲と圭ちゃん。
「翠、今の……なに?」
「門限って、どーゆー関係?」
2人の問いにカァッと頬が熱くなるのがわかった。一瞬でも勝った気分になったのが余計に恥ずかしい。先生に勝てるわけなんて無いのだと思い知る。
「あ、後で話すっ」
恥ずかしくてたまらなくて、美咲と圭ちゃんを置き去りにして職員玄関を駆け出した。校門の近く、つぼみが綻び始めてる大きな桜の木の前で、高校の校舎を振り返る。
「どしたの?翠」
圭ちゃんの声と一緒にほんのり温かい春の風が吹き抜けて、髪を揺らす。
「なんかね、高校の卒業式の時より、色々すっきりしたなーと思って」
いろんなものを不完全燃焼で抱えていた高校の卒業式の日よりも、ずっとずっと清清しい気持ちだった。
「……たとえば新島先生の事とか?」
詳しく聞くからね? と含んだ瞳で圭ちゃん。
「それは、まぁ、ええと、後ほど……」
先生、あんな言い方しなくたって良いのに。あんな言い方されたら、否応なく話さなきゃいけない。そう思って気がついた。
隠さずに付き合ってるって言って良いよって先生は言ってくれたんだ。それをあんな言い方してくるあたりが、いい性格してるというか、性格悪いというか、すごく……先生っぽい。そう思うと笑えてしまう。先生はちょっと意地悪で……やっぱり、ちゃんと優しい。
「よかった」
そう言って相変わらずの綺麗な顔で微笑んだのは美咲。
「翠、卒業式の後泣いてたの、辛そうだったから。大学行ってからなんだか雰囲気変わっちゃって、あんまり会わなくなっちゃったし」
美咲の言葉にちょっと感傷的になっていると、「元気そうでめちゃくちゃ安心したんだからね!」と圭ちゃんにわしゃわしゃわしゃっと髪を撫で回される。
本当に不思議。同じ風景で、同じメンバーなのに、私の目の前に広がる世界は、高校の卒業式の時に見た世界とは違うものになっていた。
大丈夫、先生だけじゃない。美咲と圭ちゃんも、さやか達も、藍も…みんな居てくれる。私の周りにはこんなに大切な人たちが居てくれている。それにちゃんと気づいたから。だから、もう大丈夫。今すぐは無理でも、いつか冷たい雨の降る夜の記憶も、塗り替えられたらいい。
先に歩き出してた美咲と圭ちゃんの間に割り込んで二人の腕を抱きしめた。
「2人とも大好き!」
優しく吹き抜ける春風と一緒に、私も歩き出した。
---fin---
【完結】冷たい雨の降る夜だから みづき あおい @aoi_erythro
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