第221話 永遠の日々に

 その日の正午過ぎ――

 礼次郎は一人で本主殿の縁側に座っていた。

 今日は天気が良く、秋の爽やかな陽光が池の水面に落ちてきらきらと砕けている中、時折魚が跳ねていた。その光景を、礼次郎はぼんやりと眺めていた。


 だが、やがて礼次郎は、傍らに置いていた天哮丸を持って庭に下り立った。

 天哮丸は、本来は城戸家のしきたりに従って、龍牙湖の祭壇に祀っておかねばならない。だが、天哮丸を取り戻して以後、礼次郎は手元に置いたままにしておき、肌身離さず持っているようにしていた。幸い、武想郷で初めて天哮丸を握った時のような、やたらと人を斬りたくなるような狂おしい感覚は、まだ一度もやって来ていない。


 礼次郎は庭の中ほどまで進むと、おもむろに天哮丸を鞘から抜き放った。

 この世の物とも思えぬ凄美な白銀の刀身が煌いた。

 礼次郎はその刃をしばし見つめた後、正眼に構えた。

 そして、気合いと共に上段から振り下ろした。

 次に、八相に構えて袈裟に走らせ、振り切る前に手首を返して斬り上げた。


 不意に、後ろで拍手が鳴った。


「お見事でございます」


 その声に、礼次郎は手を止めて、振り返った。

 縁側に、ゆりが正座していた。


「ですが、少し太刀筋が鈍りましたかな?」


 ゆりは、冗談めかして笑いながら言った。


「わかるか」


 礼次郎は天哮丸を下ろして苦笑した。


「いえいえ、冗談でございます。相変わらず見事な腕前」


 ゆりはふふふっと笑った。


「いや、当たっている。腕は落ちた。それは自分がよくわかっているよ」


 と、礼次郎は笑いながら納刀すると、縁側に戻った。


「そう? とてもそうは見えませんけど」

「お師匠様がいつも言っていた通り、俺は本来、体格も並ならば、剣の才も並なんだ。それが近頃真剣の斬り合いもしていなければ稽古もあまりしていないとなれば、腕が落ちるのは当然のことだ。真円流も使っていないしな」


 礼次郎は、縁側に腰を下ろし、天哮丸を簀子の上に置いた。


「喉が渇いたでしょう。お茶と餅をお持ちしたのです」


 ゆりの傍らに、茶碗と焼き餅を載せた盆が置かれていた。焼き餅には味噌だれがかかっている。

 礼次郎は、ゆりが差し出した茶碗を受け取ってごくごくと飲むと、餅を齧った。

 ゆりが、先ほどの話を続けた。


「でも、それは平和だってことではありませんか? いいことですよ」

「まあ、そうだな。戦乱の世はまだ終わってはいないが……とりあえず、剣を使わなくていいってのは、やっぱり幸せなことだよな」


 礼次郎は微笑し、餅を置いてまた茶を一口すすると、再び庭に降りて池の前まで歩いた。

 その横顔をじっと見つめて、ゆりは言った。


「でも、本当は退屈なんでしょう?」

「え?」


 礼次郎は振り返った。


「顔に出てるよ。毎日つまんないなあ、って」


 ゆりは、以前のような少女の口調に戻って言った。


「何言ってるんだ、そんなことないぞ」


 礼次郎は否定したが、顔には動揺が現れている。


「嘘。礼次のことならわかるんだから。この前までは抱えきれないほどの問題を抱えていて、その為に走り回っていたけど、それが全部一気に解決してしまったから、今度は逆に毎日が物足りなくてつまらないんでしょう? 特に礼次は関東一のせっかち者だし」

「そんなこと……」


 と、礼次郎は言ったが、否定しきれなかった。

 ゆりの言ったことはほぼ当たっていた。

 礼次郎は近頃、領国経営の面白さを感じ始めており、城戸家の当主としてより良い政をして行かなければと言う意識が芽生えている。

 だがその一方で、どことなく物足りなさも感じていた。ついこの前までは、慌ただしすぎる日々に嫌になることもあったが、それが急に全て終わってしまい、何だか寂しいような、目標を失ってしまったような、不思議な空虚さを感じていたのである。

 礼次郎は、そのことは誰にも言っていない。だが、一番近くにいるゆりは見透かしていた。


「もう以前とは違うんだから。大名となった城戸家の当主だよ。落ち着いて」

「わかってるよ」

「祝言のこともあるんだから……」


 ゆりが、頬を赤く染めた。

 ちょうど現在、城戸家では、礼次郎とゆり、二人の祝言の話が進んでいた。


「それに……」


 ゆりは、言いかけておいて、口ごもった。


「うん? 何だ?」


 礼次郎が訊くと、ゆりは顔を真っ赤にしながら腹を触った。

 礼次郎は、即座にそれが何を意味するのか理解し、驚いて「ええっ?」と声を上げた。


「おい、まさか……」


 礼次郎は大股に歩いて行ってゆりの前にしゃがんだ。

 腰帯のあたりをじっと見る。

 ゆりは恥ずかしがって、


「いやだ、あまり見ないで。気が早いよ。まだ、はっきりとわかったわけじゃないよ。何となく、もしかしたらそうかも、って……」

「そ、そうか。そうだよな……」


 礼次郎は気を直して笑った。だが、彼の性分のことである。気分はどことなく落ち着かず、そわそわしていた。

 そんな時、龍之丞が慌ただしく駆けつけて来た。

 龍之丞は元々、礼次郎が宿願を果たした後は越後に帰る予定であった。しかし、その後も帰ることなく、ずっと城戸家に留まっていた。それは千蔵も同じであった。千蔵もまだ城戸家にいて忍び組の頭領として働いている。


「殿、ここでしたか」


 龍之丞は、息を切らしていた。


「どうした」

「一大事です。これを」


 龍之丞は言って、一枚の書状を礼次郎に差し出した。

 その書状は、大坂の真田信繁からのものであった。

 礼次郎は、その中身を見て顔色を変えた。


「これは……本当か?」

「ええ。関白殿下より殿へ内密の話だとか。内容は……」

「安芸灘の海賊どもに不穏な動きあり、その中心にいる男は仁井田統十郎……」


 礼次郎は、中の一文を読み上げて、顔に驚愕の色を浮かべた。信じられない気持ちであった。


「仁井田統十郎……一体何があった。あの男、何をしている?」


 礼次郎は呆然とした。側で聞いていたゆりも、驚きのあまり言葉が出ない。

 龍之丞が続けて言った。


「これは、真田どのが道中、我らに先に知らせるべく文をしたためて届けてきたものです」

「うん? と言うことは……」

「ええ。真田どのが直接詳しく話す為、使者としてこちらに向かっているそうです。すでに国境の辺りにまで来ているとか」

「そうか、わかった」


 礼次郎は短く頷くと、書状を丸めて立ち上がった。


「龍之丞、伴をしろ。源次郎様を迎えに行くぞ」

「ええっ? わざわざ?」


 ゆりは驚いて礼次郎を見上げた。


「ゆり、今夜は源次郎様をもてなす宴だ。用意をしておいてくれ」


 礼次郎は言うや、縁側から廊下を走って行った。


「殿、何も走らなくても」


 その後を、龍之丞が慌てて追いかける。

 その背を呆れながら見送った後、ゆりは苦笑しながら呟いた。


「まあ、城戸礼次郎はああでなくちゃね」



 礼次郎は馬に乗り、城戸の町の外に飛び出した。

 途中、順五郎と、所用があって館に来ていた咲に出くわし、事情を説明すると、二人もついて来た。


 主従四人は、近道を行くべく、城戸の町の裏の山へと上った。

 その山道の途中、開けた台地があり、眼下に城戸の町が一望できる。約一年前、信州上田へ使いに行く途中の礼次郎が、徳川軍による城戸総攻撃に気付いた場所である。

 そこに出ると、礼次郎は馬を止め、眼下に広がる城戸の町を見下ろした。


 その顔は、一年前に比べると変わっていた。

 一年前、まだ残っていた少年の面差しは消え、今や逞しい一人の剣士、一人の武将、一人の大名としての顔になっている。

 その顔で、礼次郎は秋の陽光の中に輝く城戸の町をいつまでも眺めていた。


 腰には、天哮丸がある。

 その黄金の鞘が、金色の光を煌かせていた。

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天哮丸戦記 五月雨輝 @teru817

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