足をすくわれ、足に救われる物語

読んだのはずいぶん前なんですが、アカウント登録したので改めて読み直しました……という書き出しの文章を放置することさらに一年。光陰矢の如し。ゴーイング・マイ・ウェイ。いまさらながらレビューを投稿させていただきます。


【警告】以下、ネタを割りますのであしからず。


さて、再読して驚かされたのが、登場人物の命運を決定づける演出の周到さでした。

まず、主人公・川原鮎が同級生・泉田秀彦がマンションから転落するのを目撃する――というのが本作の冒頭ですが、ここで注目したいのは、この二人の挙動がシンクロしていることです。

詳しく述べましょう。後に判明するように、このときの泉田は犯人によってホイール付きの椅子に座らされ、窓際まで運ばれています。そして、地面に落とされる。

この挙動はそのまま、「自転車」で通学中、事件を目撃したがために、自転車を降りざるを得なくなる鮎の挙動とシンクロしています。つまるところ、このシーンで鮎は泉田とシンクロすることで疑似的な死を経験する――と言ってもいいのではないでしょうか。

また、男のような長身に、平らな胸――パートナー敷島哲に「本当に女か」とまで言われてしまう鮎の造形は、単なるキャラ付けではなく「顔見知り程度でしかなかった同級生」を、鮎にとっての「分身」にまで昇華させるため設定されたものでしょう。癖毛とウェーブヘアという対称性も偶然ではないはずです。

ミステリファンならばお馴染みの通り、素人探偵の動機付けというのはなかなかに厄介な問題です。もちろん本作でもそれらしい動機がキャラクターの口を通して語られはするのですが、それとは別に、こうしたかたちで鮎が事件にかかわる必然性を保証しているように思えます。

尤も、泉田とのシンクロは物語の半ばにおいて解かれることになります。

泉田のマンションでの「現場検証」中、敷島の待ち受け画面(=泉田)を見てしまった鮎は半ば捜査を蹴る格好で、敷島と決別します。このシーンも、単なる「複雑な乙女心」の表出ではなく、先述の動機付けが破綻した……つまり鮎と泉田のシンクロが解かれた結果と解釈することができます。

つまるところ、このシーンにおいて、鮎は、敷島が泉田に寄せる想いに気づいたことで、自分と泉田がまったく別個の人格に他ならないことを痛感させられるのです。そのタイミングがよりにもよって、鮎と泉田をシンクロさせるギミック――椅子による運搬のトリックが明かされた直後であることが皮肉です。

さて、では我らが主人公はいかにして事件とのかかわりを回復したか。結論から言ってしまうと、鼻持ちならない先輩・初芝郁美とのシンクロによって、ということになります。

神社での初芝との遭遇は、直前の、外村との遭遇と連続することもあっていささかご都合主義的な印象を読者に与えます。しかし、このシーンをクライマックス――初芝同様、ジャンピング・ジャックを利用せんとする鮎――の布石と考えるならば、むしろ物語上の必然と言えるのではないでしょうか。つまり、同じ運命を背負った者同士が出会うべくして出会ったのだと。ここで、鮎は泉田に代わって初芝とシンクロ関係を結び直すのです。

余談になりますが、鮎にとって試練の場となる「川」に対して、「山」がある種、安らぎの場となっていることにも注目しておきたいところです。家出先の神社があるのも山なら、情報通の親友――二つの大きな「山」を持った――の名前もまた「山」辺清乃です。他にも、向こう側――マーガレット・ミラー風に言うなら「怪物領域」に「流」されて行ってしまった兄と、「鮎」が川を回遊するようにしてすんでのところで引き返した妹の対比など、ネーミングの意図を掘り下げるのも興味深いところです。

話を戻しましょう。鮎とのシンクロを解かれた泉田ですが、彼もまた宙ぶらりんのままでは終わりません。クライマックスに至って、同じくジャンピング・ジャックの犠牲者である「車椅子の兄」へとシンクロの対象を変えるのです。ホイールチェアのトリックがここでも生きてくるのですね。

尤も、ここにはさらにもう一回、鮮やかな転換があることを見逃すわけにはいきません。それは流によって告発される「健康な足を持つ者の傲慢」とでも言うべき視点によって、鮎と泉田がふたたびシンクロするというものなのですが、詳しくは後に述べます。

さあ、鮎=初芝に対して、流=泉田という構図が整いました。加害者と被害者の構図が繰り返される――一見、悲劇を約束されたように見えるこの状況に救いをもたらすのが敷島哲という存在なのですが、彼もまた唐突に彼個人としてポンと構図に登場するわけではありません。そこにもやはり周到な準備があります。

まずは流との対応関係です。事故によってサッカーを諦めざるを得なかった、という点で共通する二人ですが、まるで対照的です。足の自由を失い「医師の見立ては間違っていた。元に戻らないほど変形してしまったのは足だけではなかったのだ」と評されるほど心に変調をきたした流に対して、敷島は心臓を患いながらも腐らず、マネージャーとして部に貢献する男です。ここに二人の元サッカー少年に対比の関係が成り立ちます。

尤も、対比というだけでは十分ではありません。二人がただ対となるだけならば、加害者と被害者、復讐者とその仇として滅ぼし合う可能性も否めなかったはずです。エピローグで敷島自身が述懐するように「一人では殺人犯だった」かもしれないのです。

ならば、最終的に救済をもたらしたものは何か。敷島を復讐者ではなくヒーローたらしめたものは何か。それが、事故に遭う前の流であり、シャーロック・ホームズです。

七夕の短冊に「ホームズのお嫁さんになる」と書いた鮎が、その名探偵と重ねていた兄。それに対して、敷島は「サッカーが得意なチビ」が主人公のアニメをたまに見る程度。しかし、その国民的サッカー小僧の名前は何だったでしょうか。そして、彼が一番に尊敬する探偵は? 

いささか迂遠ではありますが、ここに、敷島=サッカー小僧=ホームズ(=流)という等号が成り立ちます。クライマックス、敷島はそれこそどこぞのサッカー小僧(以下、等号が続く)よろしくサッカーボールによっていままさになされようとしていた犯行を食い止めることになります。兄の事故によって失われたはずのヒーロー、憧れの名探偵が、鮎を救うのです。

また、その救いが他ならぬ「足」によってなされるところも注目に値すると思います。

というのも、本作における足は各人のパーソナリティーを象徴する部位として機能しているんですね。先述した敷島と流の対比にしても、足がキーになっています。足の自由を失った流が心を腐らせる一方、足が健在の敷島はたとえ心臓を患っても腐らない。

鮎と泉田も見ていきましょう。まず泉田ですが、彼は、サッカーの名門校への進学、レギュラーの座、居住するマンション、そして「使い捨てカイロ」と、足ですべてを手に入れた男です(ここで男性器が第三の足に喩えられることを思い出してもいいでしょう)。一方の鮎もまた、その健脚ぶりを見せつけるようにしてクロスバイクを乗り回す姿で登場します。

そんな両者がご自慢の足を「すくわれる」のが本作の物語です。泉田は文字通り足をすくわれ命を落とし、鮎もやはり足に障害を持つ兄を侮ったがために最後(こちらは単に慣用句的な意味で)足をすくわれます。両者ともクライマックスで流が告発する「健康な足を持つ者の傲慢」の愚の報いを受けるのです。

足は人間の本質ではなく「武器の一つ」にすぎない。それが流の言わんとするところです。クライマックスに至って、本作が前提としてきた足の特権性を否定しているんですね。足を患った兄を憐れみ、まっこうから接してこなかったことが悲劇の一因として示唆されることで、鮎もようやくそのことに気づきます。

ただ、これは言い換えるなら、足は人間の全てではないにしても武器としては十分に有用だということです。本作の救いはまさにそこにあります。

敷島の活躍について、ここで繰り返す必要はないでしょう。足の落とし前は足でつける。こうして、足の権威が多少なりとも回復されるところにカタルシスがあります。まさに、「足をすくわれ、足に救われる物語」ではないでしょうか。

かように徹底した演出意識に貫かれた本作ですが、一方で、そうした意図に気づかずとも苦々しくも瑞々しい青春小説として清冽な魅力を放っているのが何よりも得難い美質だと思います。男勝りな女子高生・鮎の生き生きとした一人称。ヒーローにしてヒロイン(?)敷島との微妙な距離感。総じてどこか陰を抱えた登場人物たち。地方都市の空気感。それらの要素が本作をどれだけ豊かなものにしているかはもはや説明するまでもないでしょう。

光陰矢の如し。出会ってから間もなく二年が経ちますが、今日に至るまで、いまだ心に残り続ける作品です。

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