終章

エピローグ

 輝く上弦の月を窓から一人眠れずに眺めていると、子供の頃に森で遊んだ時を思い出した。

 明日、ラスケスタを発たなくてはならないせいかもしれないと、ため息が出る。

 部屋に飾られている花嫁衣装を見ても心は躍らずふさぎ込む。

 アデルはそっと、靴を履いてコートを羽織り、寝ている両親を起こさぬように外へ出た。


 数週間前、突然ルクランの領主に仕える若者との縁談が持ち込まれた。彼は領主の共でラスケスタを訪れた際、アデルを見初めたのだという。

 話を持ってきたのは領主と長年の友であるファルティノ司祭だった。司祭によると、貴族、領主たちは今、王族派と革命派に別れて国政が大きく動いているが、ルクラン領主は優勢である革命派に属している、将来を考えても悪い話ではないと。

 アデルの気持ちなどはそっちのけで話は進み、自分の嫁入り支度なのに周りの人々に振り回されて慌ただしく過ごし、明日、顔も見たことのない男のもとへ嫁ぐためラスケスタを発つのだ。

 幼い頃から何度通ったかわからない道を、アデルは一人、目的もなく、ぼんやりと歩く。

 やがて黒々と森が見えてきた。その手前にはクリノが暮らしていた小屋がぽつんと建っている。

 薬草の畑は雑草が生い茂り、小屋自体も手入れがされていない。

「どうしてクリノは野生の森の動物とも、そんなに仲良くなれるの?」

 子供の頃、クリノに聞いたことがある。

「どうしてかな。でも、初めて出会ったら、こんにちは、ってするよ」

「動物にあいさつするの? 言葉が通じるの?」

「言葉がわからないから、かわりにゆっくり、まばたきするんだ。何も言わずにじっと見られたら人間同士だって何だか困らない?」

 クリノはそう言って、まあるい、幼い翡翠色の美しい目をアデルに向けて、ゆっくりとまばたきしてみせた。

 戦場に連れて行かれ火に焼かれそうになったあの恐ろしい出来事。救ってくれたのは神使様だと司祭は言ったが、あれは確かにクリノだった。

 生きているのに、もう、会えないの?

 生きているのに、一緒にはなれないの?

 生きているのに、迎えに来ては、くれないの?

 今は、どこにいるの?

 アデルのどんな言葉も、もうクリノには届いていないのだろう。

 涙が落ちそうになった時、森の中に緑色の明りが見えた。

 夜、森に入るのはこの辺りではクリノだけだった。蛍火のように、ついたり消えたりするその緑の光はアデルを呼んでいるようだった。アデルは思わず明りに向かって走り出した。

 森の木立に入ると明りに向かっていると思っていたが、いつの間にかに見失ってしまった。

 愛しい者の名を叫ぼうとした時、声がした。

「アデル、僕の大好きなアデル」

「クリノ?」

 音もなく、いつの間にか、アデルはクリノの片腕の中にいた。

「明日花嫁になる人が、こんな所で一人でいちゃいけないよ」

「クリノ……クリノ! 今までどこにいたの? 私、ルクランなんて行きたくない、知らない人のお嫁になんてなりたくない!」

「ルクランの花婿を見てきたよ。とても、いい人だった。グラディスタ神のお力をお借りして君の未来を少しだけ見せてもらったよ。とても幸せな家の、お母さんになっていた」

「うそよ、そんなのうそでしょう。私、クリノと一緒にいたい」

 アデルは首を振る。クリノは静かに答えた。

「……アデル、君は幸せになるんだ。それも、ずっとずっと長く、君がお婆ちゃんになるまで君の側を離れずに愛してくれる奴の側で、幸せになるんだ。僕みたいに、近くにいてあげられない男のことなんて、忘れるんだ」

「クリノ、私を連れて行って。クリノのいる所へ連れて行って!」

「大好きなアデル、僕は君のことを忘れない。死ぬまでずっと君だけを愛してる。でも君は僕のことを忘れて。幸せになって」

 森が、やわらかい緑の光に包まれた。


 翌朝、アデルは目覚めた時、いつになく心も体も軽いように思った。

 婚礼を前に心が躍っているのかもしれない。花婿はどんな人だろう。自分を大切にしてくれるだろうか。

 ベッドから降りた時、靴を履いているのに気づいて驚いた。ここしばらく嫁入り支度で忙しかったせいかもしれないと、笑みがこぼれた。

 花嫁衣装を眺めてみる。ベールを手に取ってみる。

 衣装小物と並んで、たいそう美しい翡翠の耳飾りと髪飾りが置いてあったが、それが昨晩まではなかった物であり、誰が用意したのかわからない物であるのを、アデルは不思議に思うことすらなかった。


 終

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アウスグス賢王記 ~星の霊使、破壊の使~  powy @powy

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