第十六章 星の霊使

 ドン、ドロドロドロドロ、ドン、ドロドロドロドロ……夜明け前、遠くからラピナ軍の太鼓の音が響いてきた。

 トラピスタリアのウルファ駐屯地、ベダリウ城壁の中で、兵は皆おびえた表情で黙り込んでいる。だが一人、すがすがしい表情の青年が紺色のマントを揺らして陣幕から出てきた。

「クリノ」

 共に出てきたキルシュが問う。

「この先の計画をどうしても、聞かせてはくれないのか」

「うん、聞かせられるような計画らしいものはないんだよ。僕が生まれた理由だけがこの先の計画なんだ」

「もう何も、手伝えないのか」

「君は十分に手伝ってくれている」

 二十日間で心の底から打ち解けた二人であったが、クリノはどうやってラピナの進軍を止めるのかはキルシュに教えてくれなかった。ただ、出来るだけ多くの兵士をウルファに集めたい、彼らにラピナの進軍が止まる様子を見せたい、それが口伝えに国内広まれば魔術に対する認識が変わると言った。

 キルシュはその口伝えに、二百年にわたるウルファ平原の真実を便乗させる手配をした。沈痛な雰囲気の兵士たちの多くは、既にその話をウルファへの移動の最中に噂で耳にしており、異常に士気が低いのはそのせいでもある。

 キルシュと一部の軍士官によって、ラピナの進軍が止まり次第、トラピスタリア軍はウルファから撤退するように見せかけて革命軍に転じ、キルシュの先導で王都ヴァリヒタルに雪崩れ込む手はずも整っていた。ヴァリヒタルの有力者達の多くが、既にキルシュとクリノに協力を誓っている。

「しかし全員が魔術師のラピナ軍を、本当に君一人に任せるしかないのか」

「僕は一人じゃない。キルシュ、君はこの国のもう一人の僕だ」

 クリノは手を差し出した。その手を、キルシュはしっかりと握る。

「行ってくるよ。さあ離れていてくれ、友が降り立つ」

 強風が吹いてクリノのマントがはためく。

 キルシュは名残惜しげに唇を噛んで、クリノを残して後ろへ下がった。

 空から強風が吹き付ける。凄まじい風音が空から地へ、再び空へと駆け上がり、つられて空を見上げた兵士たちはどよめいた。角の生えた白馬が上空を駆けていたのである。

 白馬は旋回しながら降下し、クリノのもとへと降り立つ。軍馬よりもずっと大きなその体は光を放つかのように明るく、そよぐ風をまとっていた。

 初めて見る勇壮な霊司の姿にキルシュも兵士たちも目を見張る。

 だが白馬はキルシュの従兄に歩み寄るにつれて小さくやさしげな姿に変化し、親しげに鼻先を寄せた時にはかわいらしい子馬となっていた。

「あれが、風の精霊、ユニコ……」

 キルシュはクリノからの話と、幼い頃に本の中で夢見た最速の霊司の輝く姿を初めて目にして言葉を失う。兵たちも同じく、その神々しい白馬が「邪悪な暗黒界」とつながる生き物と思う者は誰一人としていなかった。

 クリノの足下に風がわき上がる。ゆっくりとクリノの体は地面を離れて白馬の背に乗りやすい高さまで浮き上がった。

 クリノがまたがると、白馬は再び大きく勇壮な姿に変化する。その足元から風が巻き上がるのを見てキルシュは叫んだ。

「クリノ! 俺たちはまた会えるよな!」

 クリノはキルシュを振り返らなかったが、その顔は朗らかに笑っており、うなずいたように見えた。

 風が強くなり目を開けていられなくなった時、白馬はまだ暗い空へと駆け上がっていった。


 ベダリウ壁を越え、ハクビはラピナ軍へと向かって空を駆ける。

「ハクビ! 東側から軍の後方まで一度回り込んでくれ!」

 東側へとハクビは方向を転換する。わずかに色が薄くなりつつある黎明の空に、ハクビの輝く姿が鮮明に浮かび上がった。

「隊列上空で、魔術が届かない高さで旋回を! 僕がいることを多くの人に知らせて!」

 ハクビはクリノの言葉を聞いていたが、挑発するように魔術が届く兵士の頭上すれすれまで舞い降りる。白馬の姿に気づいた兵士たちが杖を向けるがハクビは魔術の矢や刃を軽々と避けながら再び高度を上げる。

「あれは、クリノか? なぜ……!」

 ラピナ軍の中にいたサウが気づいて隊列から外れそうになる。

「サウ、戻るんだ」

 止めたのはカティスリーだった。

「今、俺たちにできることはない。様子を見るんだ」

 後方の兵士のどよめきで、白銀の戦車に乗り先陣を切って進む光暁の賢者レリディア・レビオルも、ハクビの姿に気づいた。

「ユニコ?」

 目をこらしてその背に乗るクリノに気づいたが、レリディアは表情を変えず前に向き直った。

「かまわず進め! 列を乱すな!」

 レリディアの声に、ラピナ軍は乱れた隊列を組み直す。

「ハクビ、軍と城壁の間へ降りてくれ」

 ハクビは今度はクリノの言葉に従い、まだ距離のあるベダリウ壁とラピナ軍先陣のレリディアの中間をとって地に降りた。

 やさしい風がクリノを包みハクビの背から降りるのを手伝う。降りたクリノがハクビの背に手を当てるとハクビはゆっくりと方向を変え、二人はラピナ軍率いるレリディアと真っ向から向き合う形となった。

 レリディアは進行をやめない。

「ハクビ、ありがとう。もう大丈夫。行ってくれ」

「クレイユノ?」

 霊司が驚く姿を見た者は、そう、いないはずである。

「クレイユノ、お前をこの場へ置いて行けと言うのか」

「ああ。ハクビ、頼むよ」

 ハクビは苛立たしげに前足で地を掻いた。

「あの女、恐ろしいぞ」

「あの人と渡り合える力を、師匠と父は僕に与えてくれた。二人ともこの状況は不本意だろうけどね」

 クリノは首から提げていた小刀を出し、リンゴの木の杖を束ねるようにして合せて握った。反対の手のひらをゆっくりと柄から先に向けていくと、杖と小刀は一つになって輝く。

めしいたお前を置いて行けというのか」

「大丈夫、よく見えている」

 事実、クリノには手に取るように全てがわかっていた。ラピナ軍の数、その広がり具合、隊列の組み方、レリディアの形相。

「強い霊司が魅入った者の魂を呼ぶなど、人が作り上げた迷信だ。実体のある俺たちは、死んだ者とは関わりあえない。クレイユノの死を、俺は望まない」

「わかっているよハクビ。大丈夫だよ、友を信じろ。僕も君も、生まれたことには理由がある、でも運命は決められていることだけじゃない」

 ハクビはまだ、前足で地を掻いている

「ハクビ、僕の大切な友。僕の望みを言わなくても、わかってくれる心からの友」

 ハクビは確かに、クリノの望みを知っていた。仕方なしにクリノに鼻面をこすりつけてから走り出す。地を疾走し、レリディアを威嚇するように角を向け目前まで迫り空へ舞い、瞬く間に消え去った。

 ラピナの大軍とレリディアに対峙するのは、クリノたった一人となった。

 レリディアが問う。

「クレイユノ! お前を罪人扱いした国の盾になろうというのか」

「私は、自分が生まれたことの意味を示したいだけです」

「破壊の使か。お前が力を示したいだけの愚か者だとはな」

「何を破壊するべきか、何を新しく作り出すべきか、私は父の考えに賛同します」

 先に杖を振ったのはクリノだった。

 冷気がレリディアの髪の先をわずかに凍らせたかと思うと、レリディアの乗る白銀の戦車と、後方のラピナ軍の間に、氷の壁が高々とそびえた。

「レリディア様! 撃て! 壁を崩せ!」

 ラピナ軍は一斉に壁に向かって攻撃を始めたが傷一つつかない。ラピナ軍はレリディアから切り離された状態となる。

「氷に物理結界を合せたか。小賢(こざか)しい」

「敵を倒すには、大将からというではありませんか。それに私は一度、レリディア様とクパピルハールツムビを楽しんでみたかったのです。でも、私が見た競技舞台はこんな平原ではなかったあ」

 そしてクリノはレリディアに聞こえないよう小さな声でつぶやく。

「グノムス、頼むよ」

 地鳴りがして赤黒い大地が揺れた。揺れは激しくなりラピナ軍の兵士たちは立っていることも難しい。急に大きく地が裂け、クリノとレリディアのいる場所がラピナ軍と切り離された。揺れが更に激しくなり、今度はクリノとレリディアの周りが円形舞台のように高くせり上がる。

 完全に切り離されたラピナ軍は氷の結界越しに舞台上の二人を見上げるしかなくなった。

「攻め入るブリッジは、いりませんよね?」

 次に杖を振ったのもクリノである。宣誓もなく表情一つ変えずに、クリノは決死のクパピルハールツムビの火蓋を自ら切って落とした。

 レリディアはその身を舞い上がらせ逸らせ避けたが、クリノが放った風の刃は白銀の戦車を大破させた。完全に当たれば必死の一撃である。

 地に降りる前に今度はレリディアが杖を振る。

 すっと、音もなくクリノの体は横へと水平移動し、レリディアの攻撃は後方のベダリウ壁に吸収された。

 移動しながらクリノは次の一手を撃っている。杖から放たれた雷(いかずち)はまっすぐレリディアの正面へ。防御壁を作る暇がなく、レリディアはやはり身を舞い上がらせて雷を避けた。空中にいるレリディアに向けてクリノは追撃を立て続けに放つ。レリディアは結界で身を包み、雷を散らせた。

「クレイユノ……貴様!」

 クリノの本気を知ったレリディアは、情けを捨てた。

 白いマントを翻し、髪を振り乱し、直撃したら即死する程の衝撃波を、刃を、何百という魔弓を、次々とクリノに向けて放つ。

 クリノは紺色のマントを翻し、攻撃の全てを避け、跳ね返し、その合間にレリディアを更に激昂させる一撃を放つ。

 時にセルゲイのように黒い翼を生やし羽ばたき空を舞い、時にトリエルのように炎を生き物のように操る。それは意図せずともレリディアの過去を、思い出を、刺激する姿であった。

 しかし賢者の称号をその手に二十年、老獪な大四司とも渡り合い生きてきたレリディアは、短い時間を共にしただけのクリノの弱点もよく知っている。

「白虎!」

 白虎は白い煙と共に現れてレリディアの意のままに猛り狂いクリノに牙を剥く。

 白虎を打ち据えるのに躊躇したクリノのマントがその牙に裂けた。レリディアは白虎を操りながら更に呼ぶ。

「紅鹿!」

 赤い煙から現れて躍り上がり打ち下ろしてきた紅鹿の角を杖で受け止め、素手で防御と攻撃を繰り出すクリノを再び白虎の爪が、牙が襲う。

 いくつかの傷から血が滴る。

 キルシュとトラピスタリア軍の兵士たちは、城壁の上から、その光景を呆然と眺めているだけだった。

 ラピナ軍兵士たちは、その戦いの速さ、激しさに、隊列を崩して氷の壁から下がる者もいた。進撃の太鼓の音はいつの間にか止んでいた。

 氷の結界の壁は健在であったが、それを張ったのは大将レリディアと敵対しているクリノである。敵に守られている心許なさは否めない。

 レリディア、白虎、紅鹿、三方からの攻撃と結界の維持。先に息が上がったのはクリノだった。

 レリディアはそれを見過ごさない。クリノが反撃できぬよう攻撃の手を早める。しかしクリノは距離を取らず、白虎と紅鹿の隙をかいくぐってレリディアに接近戦を挑む。

 目の前に迫るクリノを絡め捕ろうとレリディアが光の網を広げた。

 だがレリディアの術に完全に捕えられる直前に、クリノの体を黒い煙のような何かが後方へと引き戻す。

 深傷を負う直前、その時を待っていたかのように、クリノの内から声がした。

「クレイユノ、我を呼べ。血を流しすぎては我を操れぬ」

「人としてはかなわず終わりか。仕方ないな」

 クリノは一度、自分の周囲に狭い防御結界を張った。そして呼び出しの呪文を唱える。

 明けかけていた夜空が再び暗転した。雷鳴が轟き、クリノの周囲に黒い炎が上がった。

 白虎と紅鹿がその気配に戸惑い下がる。レリディアも見たことのない召喚魔術に攻撃の手を止めた。

「暗黒の森の王、我と契約せし黒牙、この身に宿りし姿を現せ、我の光と名をかけた一夜契約、人の世の歪みを破壊せん」

 クリノの周囲の結界が、ガラスが砕けるようにして内側から破られる。

 黒々とした大きな何かに、クリノは姿を変えた。

 クリノの目はもはや翡翠色にあらず、眼窩がんかからは黒い炎が吹き出し、体は黒々とした山のように巨大化し、低く太い唸り声は如何なる獣とも似ても似つかぬ。裂けた口からは深紅の牙が露わになり、悲鳴のように、叫びのように、淡く成りゆく月に向かい吼える。

 その姿を見てラピナ軍は結界の向こうの舞台にレリディアを残して後退した。後退、というよりは逃げ出した。残ろうとするサウを、カティスリーとその友が引きずるようにして下がる。

 レリディアは魔物を見据えて言った。

「児、邪悪な魔霊の声を聴き、破壊使となる……伝説の再来を避けられぬか」

 巨大な魔物は背を逸らし、溜め込んだ何かを勢いよく嘔吐するように真っ黒な炎をまき散らす。

「残念だクレイユノ。いや、もはやクレイユノでもない、友の弟子でも息子でもない。破壊の使よ、この手で一度は救った命だ、この手で始末をつけてやろう」

 魔物は咆吼を上げながら黒い炎を吐き続けている。

 レリディアは杖を持ち替えた。空いた手はレリディアが一瞬見えなくなる程の眩しい光を放ち、光はやがて凝縮されて金色に光る巨大な槍が形を成していく。

 黒いベダリウ城壁の上で成り行きを見守っていたキルシュは、震えていた。

 王家も魔道師狩りも異端審問所も、そして神さえも、恐ろしいと思ったことのないキルシュの膝が、震えが止まらず立っていることもままならなかった。

 魔物が恐ろしいのではない。

 ――両国の人々に、この星が生んだ魔術の素晴らしさと恐ろしさを同時に伝えてみせる。

 その真意を理解できず、利用できるものは利用するなどと大口を叩き、友を魔物にしてしまったのは自分だと思った。「革命」と「正義」を掲げて意気揚々と人々を操っている気になっていたが、その結果が引き起こした友の変貌が、恐ろしく、悲しく、苦しかった。

 そして魔術に憧れ続けた少年は、レリディアがその手に現した槍が何であるかを知っていた。キルシュは転がり震えながらも叫び、走り出した。ただ待つなど、できる訳がなかった。

「クレイユノ! だめだ、逃げろ! あれはゲイ・ボルグの槍だ!」 

 祖父の秘密の部屋で読みあさった魔術に関する本。魔術を使えぬ少年はその中でも武力に憧れた。幼き頃から何度もページをたどったキルシュは、怪力の巨人にしか扱えぬという記述と槍の形をはっきりと覚えていた。

 千年前、世界を滅ぼしに現れた魔物を退治するため、光暁の魔術師は一人の巨人に光り輝く槍を授けた。雷の投擲とうてき、ゲイ・ボルグと名付けられたその槍は投げれば三十もの雷の矢となり、突き刺せば三十もの雷の棘となる。体に刺されば全身に毒が回り、棘は内臓に打ち込まれる。

 一度目にしたい、一度触れてみたい、巨人に「放て」と命じたい、そう憧れた武器は今、決して放たれてはならない武器だった。

 だが城門を開こうとした時、キルシュは屈強な腕に捕まり羽交い締めにされた。

「行ってはならない!」

 ケルマンだった。五十を過ぎても強靱さを失わないその体は、十七歳の少年をがっちりと捕えて放さない。

「放せ! クリノを見殺しにする気か!」

「行って何ができる、キルシュアール・スツ・レイブン! お前はこの国の未来に必要だ。死なせる訳にはいかない!」

「放せ! 放せ!」

 叫び暴れるキルシュを、ケルマンは一度放して突き飛ばし、直ぐさまその顔を大きな拳で殴りつけた。

「エーレイの覚悟を! あの姿を! お前はその目に焼き付けておけ!」

 キルシュが殴られたのは、これが人生初めてのことである。

 城壁の外ではレリディアのゲイ・ボルグの槍が完全に形を成した。伝説では怪力の巨人にしか扱えぬとされていたが、レリディアは自らそれを肩の上に構え、狙いを定めて、渾身の力を込めて投げた。

 勢いよく放たれた雷の槍は、魔物の左肩に突き刺さった。魔物は耳を塞ぎたくなるような叫びを上げ、更に黒い炎をごうごうと、天に向けて地に向けて吐き散らす。

「一撃で、死なぬか」

 ゲイ・ボルグの槍は一撃必殺の攻撃である。レリディアとてそう立て続けに何度も放てる術ではない。しかし倒せぬとなれば、更なるゲイ・ボルグを放つしかない。レリディアは息を整え、魔物の吐出す黒い炎を避けながら、その手にもう一度光を集め始めた。

 夜明けを迎えているはずの空は更に暗くなり、黒い雲が垂れ込み、雨が降り始めた。遠くの空ではこの戦いを見ているかのように雷鳴が轟く。

 降り始めた雨に、レリディアの金色の髪が濡れて額に張りつく。

 魔物は、雨にも消えぬ黒い炎を吐出すだけではなくその体からも巻上げるようになり、肩に刺さった槍に苦しみの叫びを上げ続けいている。

 城壁から雨に打たれて見守るキルシュの願いも届かず、レリディアの手に再び雷の槍が形を成し、そして、放たれた。

 槍は魔物の右脚に刺さり、魔物は轟音を立てて、どうっと地へ崩れた。

「……黒牙、ありがとう」

 ――クレイユノ、これで良かったのか?

「ああ、もうすぐ終わるよ。大丈夫……」

 ――そうか。では我は契約で得たお前の光を糧にこの身を休めるとしよう。

 魔物の体から上がっていた黒い炎は灰がかった柔らかな色の煙となり雨の中へと消えていく。魔物の体は徐々に、徐々に小さくなっていき、やがて煙は完全に消えた。

 後に残ったのは、クリノのちいさな体一つ。

 左肩から腕はちぎれ落ち、右足はあらぬ方向へと折れ曲がり、しかし雨に打たれているその顔は微笑んでいるように見えた。

 レリディアは杖を収め、クリノに近づいた。

「……クレイユノ、一体、何と契約を結んだ。セルゲイの弟子を、トリエルの息子を、私が殺めたかったと、思うか」

 レリディアの美しい顔は雨に濡れ、その表情から思いを知ることは難しい。白いマントを泥に汚してクリノの側へとひざまづき、顔をのぞき込んだ。

 その時、クリノの右手がひくりと動き、レリディアのくるぶしをしっかりとつかんだ。

 レリディアがはっとした時、クリノのうめくようなつぶやきが聞こえた。

「……レリディア様、つかま、えた」

「クレイユノお前、何を?」

 その瞬間、レリディアの全身から何かが弾け飛ぶように、シャラリと音を立てて砕け散った。

「光魔術の自然結界が、壊れている……クレイユノ、お前」

「……闇の力の強い、霊の力を、借りました。師匠と同じ闇魔術の、自然結界を、私も張っていました。でも、あなたがそれを完全に打ち砕いたので、安心して、あなたを傷つけずに、触れることができる」

「……何を、お前は何をしようと」

「これで、師匠とあなたは……」

 雨が上がり、黒い空が晴れてゆく。その空の彼方の三方から光り輝く何かが近づいていた。

 それらの光はものすごい速さであっという間にウルファ平原へと達し、二人の頭上までやって来た。

 舞い降りたのは、まずは真っ白なハクビ。次に巨大な水竜ギンビ、そして赤毛の日熊に生まれ変わった火の霊司カルヤン。ハクビの背にはセルゲイが乗っており、ハクビが地に立つとすぐにセルゲイはその背を降りて二人に駆け寄った。

「クレイユノ! お前は、お前はまるで私の言うことを聞かずに! ……なんという姿に」

「ハクビ、ありがとう、師匠を……」

 セルゲイと大四司の壮絶な死闘に終止符を打ったのはハクビであった。後語りによると、既に弱まっていた結界を破り、セルゲイをその背に拾い上げてから、五十もの竜巻で四司ごと議会堂を跡形もなく消し去った。最速の霊司はセルゲイをその背に乗せて、ウルファへとって返したのであった。

 クリノの望みを知ってはいたが、それを叶えてもハクビは不機嫌そうに前足で地を掻いている。

「セルゲイ、これは、一体……私は、クレイユノを」

 呆然としているレリディアを、セルゲイはしっかりと抱きしめた。二十年の時を経て。

「私の弟子が望んだことだ。レイリーのせいではない」

 その時、地鳴りがして彼らのいる円形舞台と、呆然とこの光景を眺めるラピナ軍の間の地の亀裂からウワン、と羽蟻の群れが沸き上がった。円形舞台はゆるやかに平原へと戻ってゆく。

 ギンビが巨大な体をのし、のしと動かし、銀色の尾でぐるりと皆を囲むようにして輪を作る。

「闇夜」

 ハクビがセルゲイを呼ぶ。

「クレイユノが銀の粉を持っている。透明な容れ物だ」

 セルゲイはクリノのマントをまさぐり、懐からジャムの空き瓶を取出した。

「ゲイ・ボルグの傷に。少しは毒を中和する。ゴリニチが幼霊の時にだけ尾から出す万能薬だ」

 ギンビがオタマジャクシだった時に尻尾から振りまいた粉を、師に傷に振りまいてもらいながら、クリノは思う。ハクビは何だか、いつも、偉そうだと。意識が遠退きながらの心の声が聞こえたのか、ハクビがクリノの髪を噛んだ。

「クレイユノ、まだだ。まだ終わっていないぞ。あんなに俺が人間に気をつけろと言ったのに」

「……で、この後は、どうしたらいいんだよ。もうくたくただ」

 ハクビの声が、夜明けの星の空へと響き渡った。

「我等、千年に一度生まれ変わりし四霊司。人間が歪めたその死を、生を、本来のものと正すべく、星の魔霊の声を聴き破壊と調停を行ったクレイユノ・トマ・ティ・ラナイを、星の霊使、人間の王として認める」

 城壁からキルシュが、ラピナ軍の中からサウが、カティスリーが走り出してくる。

 クリノには、ハクビの言葉があまりよく、聞こえていなかった。



ラナイ伝記より 抜粋

 クレイユノ・トマ・ティ・ラナイは短命であった。しかし常にその胸にアウスグスの羽根飾りをつけ、盲目で左腕がなく、右足がひしゃげた若き王を、民は親しみを込めてアウスグス賢王と呼び、長きにわたり語り継ぐ。


 カエディアル世紀百六十年、ラピナ国にて王位に就く。

 その即位式には人だけでなく真の四霊司、ユニコ、ゴリニチ、グノムス、カルヤンも集う。

 ラナイ王の望みにより、高等魔法学校ヴァレリアンの子供たちにより作られし花冠を、父、トリエル・ティ・ラナイの姿である精霊より戴冠する。

 四霊司には「国」の概念がなく、ユニコ、ゴリニチ、グノムス、カルヤンはラナイを「人間の王」と呼ぶ。


 大四司議会を廃し、商議会、民議会と、貴族議会、軍議会の格差を廃し、代って各議会の代表からなる総議会を興す。国政決定権は放棄。脆弱な体を捺して、自らを民の奴隷と称し、国内の改革と外国との停戦交渉に努めた。


 時の光暁の賢者、レリディア・レビオルは薬学と医学理論を表し、薬師会、医師会を改革。老若男女問わずその学を得る機会を与える。ラピナ医学の礎はレビオルによって築かれ、サミ・サヘリアを始めとする多くの弟子により世界に広まった。


 時の闇夜の賢者、セルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフはラナイ王の師でありながら常にその傍らで助力に努めた。対外国交渉のみならず、人権論、精霊との共存理論を表し、レビオルと共に国内の学校制度を改める。

 軍教育施設を廃し、高等魔法学校の上位校として、大学術院を各地方に創設。光魔術、闇魔術は禁忌を解かれ、院生の中でも二賢者に認められし者が学ぶことを許される。

 政治と教育理念はサウ・サヘリアに、闇魔術はカティスリー・ヒルに受け継がれたが、シュワルツニコフの弟子は生涯を通してラナイ王一人のみだった。


 ラナイ王の尽力により、全ての交戦国との停戦条約が締結される。その後ラピナは魔術による戦争を放棄。如何なる国とも同盟を結ばず、中立を保ち続けた。

 他国間交渉にラナイ王が招致されることも多く、王の出生国トラピスタリアもその仲裁により隣国ティクリートとの停戦を迎える。


 ラナイ王の行く所良き風が吹き稔り豊かな年を迎えると、まことしやかに語られる。


 カエディアル世紀百六十七年、ラナイ王はその短い生を閉じた。だがラナイが王位に就きし後の千年は、人類その歴史上稀にみる、世界的に戦争、紛争が少ない平安期であった。

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