白鞠童子

武江成緒

鞠の物語




 満ちた月は煌々と、真珠のいろにかがやいて。

 その光うけてがねの色にひかる浜は、海神わだつみのための舞台のよう。


 びとの一人とて立たぬ舞台に、ぽぉん、ぽん、と跳ね踊るのが見えるのは。

 ちいさな鞠のひとつだけ。



――― こうはまには、ふたりの童子が棲むのだそうだよ。



 幼きころ、婆やが潮風熱しおてりをわずらい共寝をしてくれなかった晩に、ぐずるわたくしに語ってくれた兄の声ががえります。



――― 南のうみへとつうじるくらざきを知っているだろう?

 天を刺すともいわれるあの高い岬の足許は、いつも轟々とうみが渦をまいている。


――― 年に一度は、玄天崎から身投げする者の話を聞くのは、あの海が人のはくを呼ぶからだそうだ。


――― 人のの明るい面をこんと呼び、暗い面を魄というのだ。

 父さまと母さまより授けられた骨肉をうしなえば、魂は天へと還ってゆく、魄はかげへと沈んでゆく。


――― 玄天崎から海へと落ちた者の身は、肉は魚族うろくずのごそうとなり、骨は波に砕け散って砂と化しては皓の濱へと積もってゆく。

 魂はあぶくとなってみなから天へと昇ってゆくけれど、魄は陰へ、溟のへ沈んでゆく。

 溟の底のまた底は、そうして海で命をおとした者どもの魄がつもり積もって、はるかな南のうみれる黒真珠であるかのような黒いかがやきをぼうと放っているのだそうだ。



 初めてそれを聞かされたとき、わたくしはぞくり寒気をおぼえ、兄にすがりついたものです。

 海の底の底、真昼の陽さえも届かず、魚すらもまっとうなものは泳がぬ、ただ醜い異形のうおしかまぬと聞く、暗くさびしい水の底。

 そこに堕ちて、永劫にただ、誰も目にすることのない黒いかがやきを投げかけるだけの無数の珠。

 それはどんなにおぞましく、どんなに哀しい眺めでしょうか。



――― けれど、月のあかるい夜には、皓の濱が白くてらされる晩には、二人の童子があらわれて、海の底の底につもった魄のうち、ひとつを拾い上げるのだそうだ。


――― 皓の濱のふたり童子は、遠いむかしは海神のとうとい御近侍おそばでありながら、あまつみを犯して海神宮わだつみのみやわれ、白く乾いた浜にまで流しやられたものだそうだ。


――― 月のあかるい夜にだけ、うなそこの光かがやく殿を思い出した童子らは、くらい溟になげうたを歌いかける。


――― 哀しい聲はふかく澱んだ水をもとおし、海底の深淵ふちに沈んだ魄どもの身にも響き、積もりつもったその一番いただきに座す一個が、ゆらり、ゆらりと、黒いかがやきを帯びながら、水面へのぼってくるそうだ。


――― うち寄せる波より魄を手渡された童子らは、海底のなつかしき香をかぎとって、磨かれし水を思いだして、嬉しのあまり、月にむかって魄を投げ、砂を踏んでは魄と舞い、厳めしい旭光がふたたびあぶりのとがをもたらすその時まで、夜の浜を踊るのだそうだ。


――― 月の光を照りかえし、黒い表面おもてを白くかがやかす魄をまりともて遊ぶゆえに。

 あるいは、鞠としてあそぶ魄を“白”と呼びかえて。

 浜のふたりの童子らを、はくきゅうどうと呼ぶのだそうだよ。





 そう語ってくれた兄は、十五の冬にご自身が、玄天崎の溟へ消えました。

 多くの者が嘆きながら、その理由わけを知るものは誰もおりませんでした。世をはかなみ来世に望みをもとめたものか、海路を抜けて南の洋へ逃れ去ろうとしたものか。

 いずれにせよ、その傍らにはあの女がいたはずです。


 人買いの手をまわり、はるか南、黒真珠の獲れる洋からきた女。

 日ごろ南方より買いつける黒檀の材をおもわせるはだの女。

 ほんの物珍しさだけであの女の身柄をあがない受けた父は、黒檀のたんでも買い入れるかのような気軽さで、女をやかたのうちに仕えるはしために迎え。

 自慢はばからぬ跡取り息子が、よもや異邦の異相の娘に燃えあがるなど夢にだも考えざりし浅慮をついて、のがれた二人が遺したものは。

 皓の濱に打ちあげられた兄の刀のしろりのさやと、いかな由来のあるものか、あの女が決して腕から解かなかった黒檀の腕輪。


 いかな顛末に終わったか、知るすべはもはや無くとも、兄と女は黒真珠のまどろむ洋へと逃れられることはなく。

 父は切歯慨嘆しておのれの浅はかさを悔やみ、舘の者ら、さとの民らは、どのようにして若様と異邦の女がかくも手際もあざやかに舘より抜けおおせたかと、いぶかりました。


 わたくしもまた嘆きました。兄をうしなったことを。あの女に奪われたことを。

 低頭する兄の願いを拒めずに、舘をのがれ、舟を持ちだす手伝いをしたことを。

 人の用心が及びにくいからと言って、舟底にうすくひび割れが入り、をささえるぐいがゆるんだ古い舟へと手引きした愚かさを。


 あとから振り返ってみれば、それはただの愚かさではなく、おもわずらず、兄が女とその故郷たる南のくにへと去ることをいとい、とにもくにもその道ゆきさえさんになればよいという浅はかな情念を。

 そう、幼きころに兄より聞いたその通り、人のたましいの見えざる暗い面たる魄のおもてに浮かんだ執念が、幼子がかんしゃくのままに親をもののしり打つがごとくに、兄の命運を暗い溟へと沈めたのではなかったかと、己を責める悔恨を。


 自責の念は日に日に大きく暗くなり、溟の底の淵にも思える闇陰となりてわたくしを圧しつぶし。

 とうとう玄天崎のいただきへ、その足元に渦をまいて轟々と吠える溟の底へと誘ったのでした。




――― あぁ。


 かつて兄から聞かされたとおり。

 満ちた月は煌々と、真珠のいろにかがやいて、その光うけててがねの色にひかる浜は、海神わだつみのための舞台のよう。


 そこに舞うのは、白と黒のふたりの童子。

 禁を犯し、浜へとわれたはずのふたりは、それでもまるで、恋も情も、男も女も忘れ去ったあどけなき童子そのままに、ころころと舞うて踊ります。

 童子らに弄ばれてともに踊るのは、うなそこ深淵ふちの陰のように、南のうみの真珠のように、黒いかがやきをぼうと放つひとつのまり


 白と黒の童子のあいだに弄ばれ、清浄たる月のひかりに照らし出された鞠にやどるわたくしのはくは、かくも醜くおぞましい、うみの底のまた底にまうと聞く、いやらしい大口より牙をむきだすめしいた異形の魚のようで。


 恥とねたみと哀しみを、誰も知らぬなげうたとして、わたくしは月のひかりに跳ね踊りました。




《了》

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白鞠童子 武江成緒 @kamorun2018

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