海つ罪、とはどのような罪なのだろう。
ともあれそれは、ふたりの童子が石もて海神の宮を追放されるほどの罪なのだ。
いっさいの業を波に洗われ、あどけなき丸い姿と変わり果てるも、昇天をゆるされぬ童子たち。
人心の明るい面を「魂」と呼ぶ。
人が死ぬと、魂は天へと昇る。
対して心の暗い面を「魄」と呼び、こちらは陽のひかりとて届かぬ陰へところりころりと転がり落ちて、千尋の底に堆積するという。
禁を犯した者どもよ、その姿を消した寂しき溟海からこの夜にこそ蘇れ。
水底に散り積もった魄の頂きにある珠をひとつ選び取れ。
あそぼうか。
あそぼうよ。
濱に彷徨い出でる童子たちにはもはや性別もなく、その手にしかと掴んだ魄はあやしげな白い影をひいている。
ぽーんぽーんと夜空に鳴る軽やかな鞠あそびの音に重なりゆくのは、ざぶりざぶりとした罪人の醜き自虐笑い。
今夜もあの崖から、誰かが投身したそうな。
黒真珠と変わった魄は、今も溟の底で黒々と照り映えながら、つやつやと月のひかりに泣いている。
表題はトラウマ曲として名高い『メトロポリタン美術館』の一節である。読後、私は久々にこの歌詞を思い出した。曲調からすれば、作曲者は恐怖シーンを描きたかった訳ではないのは明らかなのだが(トラウマになるほど怖い、と評する人の気持ちも理解はできる)。
まず提示されるのは、「魂を鞠にして遊ぶ童子たち」という幻想的な、しかし死の気配を孕むキービジュアルである。読者はその美しさに魅了されつつ、不吉な予感を覚えるであろう。この絵を芸術として鑑賞していられるのは、きっと序盤だけだと。
なぜ、メトロポリタン美術館を引き合いに出したのか──最後まで読めば、きっとご理解して頂けると思う。