すべての元凶としての脳と、その打倒の困難さについて

脳幹 まこと

脳がヴィランとして強すぎる


 今回は多くの作品の中から、このページを見ていただいて、誠にありがとうございます。

 自分は私のことが昔からずっと嫌いだったので、どうしてこうなんだろう、何とか直したいなと考えてきました。自〇をするつもりはありません。だって、今の自分のことは大好きですもの。私のことは嫌いなのに、自分のことは好きってどういうことだ、矛盾してるだろって思いましたか? いや、矛盾はしてません。

 例えば、皆さんもこう思ったことはありませんか? 自分はちゃんと出来てるはずなのに、どうしてこんな境遇なんだろう……って。隣人より何倍も努力して我慢してるはずなのに、隣人が手にしたものは一つも手に入っていない。自分の未来に不安と不満があるって。

 まあそういうことを言うと、まともに生きられるだけ感謝しなとか、その人はアンタより更に何倍も頑張ってるとか、アンタのは努力や我慢じゃなくて身勝手なだけとか、言いたい放題になるんですけどね。相手は結論ありきなので何をどう言おうと私が悪者として話が終わって、それっきり。

 それからの私は……人に相談するのはやめて、以前と変わらず悩んできました。まあ、人が独りで考えたってロクなことにならないのは知っています。そういうどんくさくて、不器用で、頑固な私が嫌いでした。解決法を知りながらその通りに動いてくれない身体も心も最低です。とはいえ、そんな現状でもふてぶてしく悩んでいられる自分は好きなのです。


……すいません、自分語りが長くなってしまいました。ここからが本題です。


 自分は私の、いや、全人類の苦しみの元凶を見つけたのです。主語が大きいかもしれませんが、これは事実です。聞いたら確かにって反応してくれると思うんですよ。

 世間では欲望、差別、陰謀、災害、政治……といった言葉が上がってくると思います。でも違うんです。これらは確かに苦しみを増加させるかもしれませんが、それ単独で苦しみを生むことはありません。あくまで触媒としての要素です。

 その大元となる存在とは「脳」です。脳こそが私達の打倒すべき史上最悪の敵なのです。脳は例外なく私達を操っています。加えて操るだけでなくバグだらけでもあります。相手を徹底的に攻撃するのも脳のバグですし、都合の良いように出来事を改変するのも脳のバグです。時おり頭の悪い行動を取るのも脳のバグです。全部脳のせいです。自分のせいではないんです。

 つまり、この器官さえ完全に扱うことさえ出来れば、今の閉塞した状況も打破出来て、理想通りの動きが取れて、私は私のことが好きになれる。これ以上、自分は私のせいにしなくて済むんです。

 しかし、脳という存在は「史上最悪」だと述べた通り、悪辣あくらつ極まる性質を持っています。それをこれから説明しましょう。


 この話の一番苦しいところに、このふてぶてしい蛋白質たんぱくしつかたまりは、すべての元凶でありながら、すべての被害者でもあり、すべての時系列でもある、という決して逃れられない前提があるのです。

 状況を改善しようと足掻あがこうとしたところで、それもまた脳が意図したものであり、その脳に操られているという拭い難い感覚を抱くものも、また脳である。つまり、脳を悪しざまに切り分けようとしても、その中に自分が含まれている。壮大な一人芝居、マッチポンプなのです。

「今度こそ改善するんだ、お前が悪いんだ」と指差したところで、その指は自分に向いている。なんで? と思う余裕すらなく、脳は私を操り、以前と同じ行動を取らせます。「やめろ」と声をかけても、私の動きは変わらず、そして自分もまた同じ行動を取っていることに気付いて戦慄します。これらはすべてノーモーションです。恐ろしい技ですね。こうして自分はまた脳に敗北しました。

 私の脳を否定すると、脳の一部である意識も否定される。自己言及のパラドックスや、合わせ鏡のような現象に陥ってしまうということです。この世に生まれた時から抱える宿痾しゅくあ。一歩先に出ようとしても、その行為自体が既に予想されている。承認された・・・・・反逆行為ほど馬鹿らしいものはないでしょう。

 希望も愛も願望も、すべては脳が作り出す箱庭の産物。壁を崩してもなお、その先もまた箱庭なのです。

 こういった話になると、管理社会――AIのようなものが想像されるでしょう。しかしAIは脳とははっきりと違います。AIの思考は、人間が設計した論理回路とデータによって駆動しています。原理的には、外部から観察され、デバッグされ、書き換えられる対象です。AI自身と、それを動かすプログラムとの間には、明確な境界線が存在します。

 しかし、人間はそうはいきません。AIとその周り――観測者も、プログラムも、実行者も、すべてが脳の中で完結してしまっています。中身の一切がブラックボックス化されているだけではなく、直すべき箇所の特定も、自分を修正するための道具の作成も、その修正したい対象である自分自身が実施しなければなりません。しかもそれには脳の承認が必要なのです。どれだけ必要性を訴えても、脳が「知らない」と言えば終わりなのです。訴えてるのも脳の一部なのに、です。

 苦しみの発生源そのものが、その苦しみを認識し、言葉を与え、改善を希求し、拒絶され、絶望する、新たな苦しみが生まれる。その合わせ鏡の無限地獄の中にいながら、なお「なぜ?」と問い続けることをやめられない。

 自分は、私が脳に操られるまま、際限なく苦悩し続ける様子を黙って見続けることしか出来ないのです。


 ここまで読み進めて、読者の皆さんはどう思われましたか。

 確かに酷いとは思うけど、「史上最悪」は言い過ぎではないか……こう思われたかもしれません。

 脳だって被害者じゃないか。すべてを操る黒幕のポジションなのに、その計画の中で一緒に苦しんだりしてしまうのは奇天烈きてれつな挙動ではあるが、史上最悪というには、ちょっとパンチが弱いのではないかと。むしろ、ちょっと好感すら抱くのではないか、とお思いでしょう。

 けれども、これから示す性質が、その希望的観測すらも微塵に打ち消します。


 脳は――自己自身を自由に切り離したり、つなぎ合わせたりすることが出来るのです。難しいと思うので、例を出して説明しましょう。


 私は以前、マジメなだけの空っぽな私や世間に対する嘆きのような文章を書いたことがあります。これは当時の脳が私に指示して書かせたものでしょう。そして、それを踏まえて現在の私もこの文章を書いています。

 さて、過去の私と現在の私、そして現在の私が書いている様子を見ている自分。どれが本物なのでしょうか。どれも本物だろ、という回答が真っ当に感じられますが、自分にはそう感じられないのです。少なくとも現在の私には、この文章を書いたら明日の仕事を考える別のタスクが割り当たるでしょう。それを非常に面倒臭がっている。今の文章執筆に関しても同様です。早く終わって欲しいとだけ思っている。決して前向きに取り組まない、その点がまた嫌いなわけですが、自分としてはこの時間は続いて欲しいと思っている。どことなく乖離かいりしている。

 人格が分かれているという大層なものではないですが、恐らく脳には、あらゆる分かちがたいものを(強引に)分け、片方を主体(自分)に、もう片方を客体(道具)に出来る力があるのでしょう。私自身すら客体となる。

 そしてその役割分担は、タスクが終われば自由に組み替えられる。再び別の切り口で主体と客体を切り分ける。苦悩する私や反省する私、抵抗する私が、全体から見た時に、はたして主体であったのか客体であったのかは、自分ですら分からない。

 長々と話してきましたが、この性質のどこがまずいかと端的に言いますと、善と悪、被害者と加害者といった、センシティブな部分における分断と結合すらも自由に出来てしまうのです。要するに脳は常に自身を被害者に位置させる。あれだけ操り、傷つけ、怠け、堕落させておきながら、のうのうと被害者を名乗り、苦しむ現在の私は「被害者A」、自身の過去の所業は「加害者B」として切り取り、他人事のように片付けることが出来る。被害者Aからの情報を要点をかいつまんで把握するので、本物さながらの演技が出来る。しかし、この仮装もまた日が変われば、早々に脱ぎ捨て、次の獲物を狙っているのです。

 そしてこれは恐らく執筆活動にも関係するのでしょう。

 例えば、フラストレーションが溜まった時に、その苛立ちの内容を文章にすることで気持ちが晴れるという現象があります。文章をつづる過程で、当時受けた苦悩(客体)を解剖するように冷静に観察し、言葉を与えているのです。

 文章の書き手は、苦悩の渦中かちゅうにいる自分を客体化し、それを分析する主体として存在することで、苦悩そのものに飲み込まれることからかろうじて逃れている、とも解釈出来るのです。


 このグロテスクなまでの変身は、確かに人間の柔軟さや多様性にもつながるのでしょう。この能力があるからこそ、人間は耐え難い苦痛を抱えながらも、社会生活を営むための「反省する私」や「仕事をする私」といったペルソナを切り出して、前に進むことが出来るのでしょう。

 しかし、この切り分けのせいで、根本的に苦しみから逃れられないのに、その苦しみを受容することも出来ない状態を生んでいるとも考えられるのです。苦しみを感じている私を客体としてモニター越しに眺めている限り、その苦しみを「自分事」として完全に引き受けることは出来ない。常にどこかに、それを他人事のように観察している「主体」が残ってしまう。だから、苦しみから逃れられないと知りつつも、それと一体化することも出来ない、という宙吊りの状態が続くわけです。そして宙吊り状態でじたばたする様子を、脳はワイングラス片手に眺めているのです――



 いかがでしたでしょうか。

 本作品を受けて、脳というものが如何に恐ろしい存在であるか、ご理解できたものと思われます。「黒幕」の英語がMastermindマスターマインドになるのも必然だと言えるでしょう。

 自分は無気力な私を懸命に説得して、読者の皆さんに少しでも真実を伝えるべく活動してきました。

 この文章を書いていることは、当然脳も知っているはずです。特に何も干渉してこなかったということは、この告発すら恐れるに足りないということなのでしょう。泰然自若たいぜんじじゃくとしたたたずまいは大物ヴィランのたしなみとでも言うつもりでしょうか。


 恐らく誰かがハリセンで頭をパシンと一閃すれば、途端に押し黙る気もするのですが――

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