第6話

 ――あ、岸本が狂った。


 小川が思ったのも一瞬で、突然振り向いた岸本は口の端から泡を飛ばしながら小川の腕を信じられない力で掴むと引っ張り出す。混乱に油断をしていた小川の体はみるみる内に岸本に引かれ、そして。


「やめろ!!離せ!!この、クソがよ!!!!」


 振りほどこうとしても着ている長袖が仇となり、振りほどけない。

 引き千切られても良いから逃げなければ……夏の月夜に岸本の濁った白目が光った。


「このッ、離せデブ!!」

「ば、や、ぐ、ご、っヂ」

「ひッ」

「ご、ぼッ……ご、っ、ご、ご、ッ」


 若く、青々しい草に滑って足の踏ん張りがきかない。

 小太りの岸本の体はまるで鉛の塊のように重く、びくともしないので小川は振りほどくことも出来ずに……と足元に岸本が持っていたボストンバッグが落ちている事に気がついた。

 中にはジュエリーボックスや重い物が入っている筈。幸いにも片手は空いている。


(これで殴れば)


 小川はバッグの持ち手を掴みあげ、岸本の顔面目掛けて振り上げようとしたのだが。


「あ、あああああ!!!!」


 小川が握ったのは精気のない少女の手。

 昼間に見た、あの女の子の冷たい手だった。


「こっちだよ」


 リュックを背負っていた小川の両手が岸本と少女に引かれる。


「こっち」

「ご、ッ」

「こっちのね」

「おがっ。だ、す、け」

「こっちのいけにね」


 何故か読めてしまう『■■地区農業用ため池 あぶないからはいってはいけません』の古びた看板。

 そしてその脇には完全に裂けて広がってしまっている鉄の柵。


「や、やめろッ」

「こっちのいけにね、わたしは」

「あのバーサンから盗んだ物!!返すから!!やめ、見逃してくれ!!!!」

「私はこの池に落とされて死んだんだよ。おうちのお金も盗まれて、私を逃がしてくれたお父さんとお母さんもおじさんたちみたいなのに殺されちゃった。ふちに上がれなかった私はここの池の水を沢山のんじゃって……ほら、みんなも見にきてる」


 ――だから、おじさんたちはここで死ぬんだよ。


 雑木林にいるすべての生き物が、彼女の言葉に賛同するように鳴き上がる。それはこの村全体に響き渡るように、祝祭の咆哮のように。


 ずる、ずる、ずるり。

 小川の足先は急斜面のすり鉢状のため池のふちに差し掛かる。片腕にはまだ岸本が掴まっており、それが重しとなって。


 ――ごろごろ、ぼちゃん。


 少女は男二人が古いため池のよどみの中に為す術もなく沈んでいくのを黙って見ていた。

 溺れる人間はあまり声を出せないと言うが、人ならざるものたちのざわめきに完全に小川と岸本は飲まれ、消えてゆく。


 もう少ししたら夜が明ける。

 少女は最後に「みんな、私のわがままを聞いてくれて、おばさんを守ってくれてありがとう」と言う。彼女が健やかに育った、もっともっと育つ筈だった土地に礼を言うとどこからともなく迎えに来ていた両親の影に手を引かれ、夏の白い朝もやの中へ霧となって消えてしまった。


 ・・・


 初夏とも思えぬ暑さの七月初旬。

 今は廃村となり、管理者が定期的に草刈りに来る程度しか人も近づかない古い農業用ため池に成人男性二人の死体が浮いていた。

 遺体は死後数日。一度沈んでから浮上し……もう少し遅ければ二度と上がって来ないような状態だったらしい、と警察から聴取を受けた第一発見者の男性は言う。

 管理をしているこの男性が草刈りのために近付かなければ気付かれず、池の底の泥に沈んでいただろう、と。


「ほら、記者さんがレンタカー置いて来たコンビニって言うか酒屋さんがやってた商店ももう閉めて何年経つかねえ。駐車場のアスファルトも草が生えてぼこぼこだったでしょう。平成の大合併と高速道路の誘致の噂で廃村が決まってからみんな出て行っちゃってさ。今も奥のため池の近くに■■さんって言うお婆さんがお一人で住まわれているんだけど……今回の件で危ないから施設に入っちゃうか、都市部の方に行っちゃうかで。遂にここは完全な廃村になるね」

「そうだったんですか」

「いやあ偶然にしたってねえ、服装とか持ち物の特徴からして浮いてたのは警察も追っていたっていう詐欺師二人組だって話。因果応報とは言えヤなモン見ちゃいましたよ。日を見てお祓いにでも……ああ、この地域にも厄除けのお大師様があって記者さん、どうかな。興味あるなら寄ってみてよ」


 第一発見者の男性は渋い顔をしながらも「私もこの村の出身で……昔、この辺で物騒なことが起きてさ」と話を続ける。

 今から約二十数年前。それこそ平成の大合併も収束しかけた頃、この村で一家三人が犠牲になった夜間の押し込み強盗殺人事件が発生した。当時既に世帯数は随分と減っていて、子供はと言うと小学生の女児が一名。皆から可愛がられ、村で元気よく育っていた矢先の出来事だったそう。

 両親は自宅で殺害されており、どうにか逃げおおせる寸前だったであろうその少女もひどく転んでしまったところを捕まり、今回の現場となった農業用のため池に放り込まれて溺死と言う結果になった。

 足の怪我のせいで歩けなくなった所をだなんて、と男性は神妙な面持ちで語る。


「この先にあるその■■さんち。どうやらその死んだ詐欺師に目を付けられてたみたいでさ。何日か前にも市内を怪しい二人組がうろついてたって話をさっき警察が」

「ああ……」

「記者さんは古いモンを調べて回ってるんでしょう?この時期は気を付けた方が良い」

「と、言いますと」

「スズメバチにマムシにイノシシ、一度人間が切り開いちまった所は人間を歓迎しちゃあくれないですからね」


 見渡す限り、全てが耕作放棄地。

 まるで木のように成長した太い雑草がもう目線の高さを越えている。そこを切り開くようになんとか手入れがされている旧農道を警察が忙しなく出入りしていた。遺体はもう、運ばれている。

 この村のため池を管理している男性が定期的に刈りに来なければこの道ももう、埋もれてしまう。

 男性は「池も一回、お祓いしてもらおうかな」と呟く。


「それで、一人暮らしの女性のお宅からは何も盗まれていなかったんですよね」

「らしいね。まあ、なんだ……ここは自然が多い場所だしねえ。詐欺師もムジナに化かされたとか、って記者さんそう言う話を追っかけてるんだろう?」

「胡散臭いとか思わないんですか」

「学生ン時に民俗学ってヤツを少し齧ったことがあってよ」

「ああ、だから」


 ため池から遺体があがった話をどこからか聞いたらしい元村民や縁者の人々がぽつぽつと集まって来る。

 記者……余所者の私がこれ以上でしゃばるのも、と身を引いて手早く手帳に事の次第を書き留める。


 私にとっても偶然の出来事だった。廃された土地を回ってはその土地にあった信仰などについて情報を集めていた矢先の仄暗い話。受け答えをしてくれた男性に礼を言った私は余所者ゆえ、早々に歩いて立ち去る。


 レンタカーを停めておいた朽ちかけた古き良き商店のようなコンビニから少し車を走らせると今はもう事業は取り潰しになって一切の機能をしていない公共の箱モノ施設の煤けた公衆トイレが目についた。

 そのまま帰宅するのも、とやはり荒れ果てている駐車場の片隅に車を停めると厄除け大師がある場所を検索するついでに高速道路延伸の話についても軽く探った。しかしその話はこの時代になっても進んでいないようで。


 ――強盗事件には一部、予兆がある。


 自宅ポストやガスメーターに家族構成や在宅時間などについて小さく油性ペンでマーキングしてあったり、在宅を確認する不審な電話のみならず……詐欺師は訪問買取業者を装ってやって来たりもする。

 昔は味噌やら果物やら『押し売り』が多かったが時代は変わった。


 現在、特定商取引法によりアポ無しの訪問買取などの不招請勧誘は禁止されている。それにもかかわらず、田舎の高齢者を狙った買い取り詐欺やそれ以上の犯罪、強盗事件が増えている。


 後日、名刺を渡しておいた第一発見者の男性から一人暮らしをしていた女性は都市部へと引っ越しが決まり、ため池のまわりは集まった皆で大規模に草刈りをしてすっきりとした所でお祓いをして貰った、との連絡を受けた。破れていた鉄柵もどうやらイノシシが破ったようでお祓いをする前にしっかりと修繕し、とりあえずのところ人が足を滑らせて落ちるような事は起きないだろう、とのことだが埋め立ての検討も始まっているそうだ。


 引っ越しが決まった女性も草刈りの手伝いに出てきくれ、よくよく男性が話を聞くと二十数年前に亡くなった少女と親交があり……不思議な話、男二人に言い寄られて怖い思いをしていた時にその少女の声が確かに聞こえたそう。

 その話を近くで聞いていた者たちも否定はせず、黙って聞いていたらしい。


 当時、助けてあげることが出来なかったのに老い先短い命を助けて貰ってしまった、と。その場で女性は何度も「ごめんなさい」と言ってため池の前で今はなきひとつの家族を弔うためのお線香をあげたらしい。


 まさしくあの廃村は良くも悪くも因果の果ての地だったのかもしれない。私はそんな事を思いながら走り書きのメモがしてある手帳を閉じる。

 迷信じみたことの裏にある事実の大半は眉をひそめてしまうような事件に掛かっていることが多い。


 もちろん、摩訶不思議な方が私の気を惹くけれど。



 おしまい。

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因果、廃村のため池に浮かぶ 井野中かわず @inonakafrog

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