姿見

名々井コウ

姿見

 最初の夜、鏡は泣いていた。

 アパートの一室。六畳の床に、段ボールが島みたいに残り、カーテンは量販の安物で、縫い目が片方だけ波打っている。

 美浜陽菜は帰宅してすぐスウェットに着替え、机の上のノートPCを閉じた。画面に残るのは、今日も修正の入った通販バナー。「春の新作—」のフォントを1ミリ右へ。仕事は、できれば美しいものに触れていたいのに、触れているのは“早い・安い・目立つ”。わかっている、最初はそういうものだ。けれど、今日はご褒美がある。

 壁際、段ボールのすぐ横に立てかけた古い姿見。木枠は飴色で、細い蔦が彫られている。背面の板は少し浮いて、釘が一本、不器用に打ち直されている。古着屋の閉店セールで、ひと目で欲しくなった。値札は「3,000」。店主の女性は「お母さんが大切にしてた鏡でね」と笑う。陽菜の胸の奥がざわりと揺れる。姿勢の悪さをごまかしたいのだと自分に言い聞かせて、財布からぎゅっと札を抜いた。

 鏡の前に立つと、部屋が二重になった。自分と同じ灯り、自分と同じカーテン、自分と同じ段ボール。違うのは、鏡の中の陽菜の目が、ほんの少し、うるんで見えること。ライトの反射、と言いかけたとき、鏡のなかの陽菜の頬を、ひと筋の水が下りた。触ると乾いている。拭いても、拭いても、次の涙が落ちる。


「……結露、かな」


 声に出すと、部屋が返事をやめた。冷蔵庫の小さなモーター音だけが続く。鏡のなかの陽菜は、唇を結び、その奥で誰かがしゃくり上げているみたいな顔をした。

 陽菜は息をのむ。喉の奥が、寒い。

 収まってくれと願いを込め、布巾で鏡を磨いた。けれど、鏡は泣き止まない。

 寝る前、陽菜は鏡に薄い布をかけた。「見なければ、怖くない」。電気を消し、布団に潜り、目を閉じる。耳のなかで、雨の音がする。天気予報は晴れだったはず。耳を塞ぐと、雨は止まず、それより近くで、かすれた声がした。


 ——ごめんね。

 ——ごめんね。

 ——ごめんね。


 声は三度、同じ高さで揺れた。陽菜は跳ね起き、布団の上で体を小さく丸める。鏡の布が、静かに膨らんでいる。誰かが内側から息を吐いているみたいに。布の端がふるえ、陽菜の方へ、少し伸びた。

 明かりをつけ、布を乱暴にめくると、鏡は黙っていた。泣いてもいない。ただ、陽菜の髪がひと筋、鏡のなかで逆向きに落ちていく。時間が、少しだけズレている。

 指先の血が引いていくのがわかった。スマホを掴み、時計を見る。午前一時十二分。実家に電話しようか、と一瞬思い、やめた。上京を反対されたときの母の顔が浮かぶ。「ほら、やっぱり」。その言葉の重さが、鏡より重い。

 翌日も泣いた。仕事から戻るたび、鏡はまるで一日分の水を貯めていたみたいに、頬に細い道を作る。

 試しに塩を盛った。百均の白い皿に山を作り、鏡の足元に置いた。山は、夜には湿っていた。次は、神社で買ったお札。貼ると、泣き止む。翌日、剥がれ、泣く。ネットで調べて特定の消臭剤も吹きかけてみたけれど、やはり夜には泣く。布をかけると、また声。——ごめんね。ごめんね。ごめんね。謝るのは、誰の罪に対して。

 三日目、陽菜は思い出した。大学のゼミに、変な名前の後輩がいた。「先輩、やばいのあったらDMくださいよ。うち、人脈あるんで」——軽口だと思っていた。けれど、今は掴みたい。


 ひさしぶり、元気? ちょっと相談が……』


 返信は早かった。


『はるな先輩!? 生きてた? え、なに、心霊相談? 知り合い、いる。女の人で、なんか、山にこもってたっていう』

『その人、怪しい?』

『怪しい。でも効く』


 送られてきた連絡先の名前は、短い二文字。「言周」。読み方のメモが添えられている。「げんしゅう」。陽菜は指が汗ばむのを感じた。

 メッセージを送る前、部屋の空気がゆっくりと冷えた。鏡のなかの陽菜は、こちらを見るのをやめ、どこか少し下を見つめている。鏡の下、木枠の角。そこに薄い指の跡が、ふたつ、押されているように見えた。——そこから、誰かが覗いている。


* * * * *


「鏡の幽霊? くだらない」


 電話口の女は、笑った。低い声で、乾いた笑いだった。


「くだらない、けれど、放っとくと家が湿る。湿ると、現実が負ける。明日、八時。玄関に塩は盛らないで。掃除、しておくこと。鏡は布を外すこと。」

「……料金は」

「あとでいい。効いたら払いなさい。効かなくても、私は払わせるけど」


 翌夜八時、チャイムが一度だけ鳴り、女は入ってきた。黒いワイドパンツに、浅葱色のシャツ。髪は短く束ね、首から細い数珠、腰に麻の袋。手はよく洗われた人のそれだった。スーパーの袋から、透明のコップと、コンビニのミネラルウォーターを取り出す。


「座って」

「えっと、あの、言周さん、ですか」

「ほかに誰がいると思うの」


 言周は靴を揃え、部屋に上がり、鏡の前にしゃがんだ。指で木枠を一度、軽く叩く。コツ、と音がした。女は鼻を鳴らした。


「樟脳と湯気と、古い糊。誰か、店をやめるのをやめたがってる。……いや、やめるのを“誰かに止めてほしかった”か」


 陽菜は喉を鳴らした。「見えるんですか」


「見えるのは匂いと跡。霊なんて基本、見えない。見えないものを“片づける”のが仕事。——で、あなた」


 言周は陽菜ではなく、鏡のなかに向けて口を開いた。


「泣いてばかりいないで、用件を言いなさい。ことわり抜きの接触は、こっちの呼吸を狂わせる。用件が“恨み”なら、帰りなさい。未練なら、三つまで。手伝えるのは、その範囲」


 鏡のなかが、少しだけ暗くなった。部屋の明かりは変わらないのに、鏡の世界だけ、薄い雲がかかったみたいに。涙の筋が浮かび、とても小さな声が、陽菜の耳ではなく、骨に触れてきた。


 ——店を、守りたくて。

 ——娘が、捨てようとするの。

 ——わたしが、言ったから。


「名前」


言周が短く言った。


 ——やすえ。大久保、安恵。


 陽菜は跳ねた。古着屋の店主が言っていた母の名前。


「あなた、どこにいると思ってる?」


 言周の冷たい声が続く。


 ——ここ。


「違う。ここ“だけ”じゃない。鏡は場所じゃない、関係。あんたが泣いてるのは、この子の部屋を湿らせてる。頼みごとは、二人分聞くことになる。——陽菜さん、あなたは?」

「わ、私?」

「あなたは何を望む? この鏡を捨てたい? 捨てられない? 捨てないなら、背負うことになる。その覚悟がある人だけ、片づけに立ち会える」


 陽菜は息を整えた。喉が乾く。コンビニの水を一口だけ飲んだ。


「……捨てたくない。きれいなんです、この鏡。私、服を作るのが夢で、立ち姿を毎日見てる。怖いけど……泣いてる理由は、わかる気がする。閉店、悲しいです」


 言周は目を細めた。


「いいわ。なら、三つ。まず、鏡の前に水。ガラスのコップ。明日の朝まで。その次、姿見を買った店に行く。営業終了後、店の人間に会わせる。三つ目、そこで頼みごとを一回だけ叶える。——順番を間違えない。間違えると、濡れたままになる」


 陽菜はうなずいた。手が震えているのが自分でもわかる。

 その傍らで、言周は鏡に視線を戻し、短く告げた。


「安恵。あなた、娘さんに言いなさい。冗談で縛った約束は、冗談で解けないって」


 鏡のなかで、涙がひと筋増えた。


* * * * *


 閉店後の商店街は、音がない。陽菜と言周は、姿見を毛布でくるみ、台車に乗せて押した。夜の石畳はうっすらと湿り、輪の跡を重ねる。シャッターの隙間から、どこかの店の残り香——コーヒー、油、紙。角を曲がると、『糸安いとあん』の看板が、薄い白で浮いていた。

 中には、女がいる。陽菜が昼間見た店主——大久保ゆらの。彼女は今、カウンターで書類に判を押している。既に棚は半分抜かれ、ハンガーラックは金属だけになって寂しい。姿見がなくなった壁には、明るい長方形の跡が残っている。そこだけ時間が若い。


「すみません、閉店後に」


 陽菜が頭を下げると、ゆらのは眉をひそめた。


「鏡をお買い上げの方? ……何か不具合でも?」

「不具合というか……泣いてて」

「鏡が?」

「ええ。——あの、変なこと言ってるって自分でもわかってます。でも、どうしても」


 言周が一歩前に出る。


「大久保ゆらのさん。あなた、ここを人に貸すつもりね」

「どなた?」

「掃除屋。見えないものの」

「掃除?」


 ゆらのは鼻を鳴らした。


「占いとか、そういうのは間に合ってます」

「占いは未来。わたしのは現在。——あなた、母親に言われたでしょう。“店を粗末にしたらこの鏡に映り込んでやる”って。笑いながら」


 ゆらのの指が止まった。判子が紙の上で小刻みに震える。


「……なんで、知ってるの」

「知る必要があったから。冗談で縛った約束は、冗談で解けないのよ。あなたは今、冗談のまま店を手放そうとしてる。冗談のまま母親を置いていく。——その結果、無関係の人の部屋が濡れてる」


 ゆらのの目が、姿見の包みに落ちた。


「……鏡、持ってきたの?」

「お返ししに。これがあるべき場所で、最後の話をするために」


 シャッターの隙間から、人影が差し込んだ。男が一人、入ってくる。


「山本です。契約前の最終確認で——」

「すみません」


 陽菜は頭を下げ直した。


「少しだけ、時間を」

「いえ。……どういう状況です?」


 言周が簡潔に説明すると、山本は何も笑わなかった。むしろ、奥のバックヤードを見渡し、静かにスーハーと息を吸ってから言った。


「この店、匂いがいい。洗い立ての布と樟脳と、スチーマー。——“手入れの匂い”が残ってる。簡単には捨てない方がいいですよ」


 ゆらのが、ふっと息を漏らした。目元の皺がわずかに濡れる。


「捨てたいわけじゃないの。体が、もうついていかないと思って。お客さんも、減って。……でも、母がね、最期の週に、笑いながら言ったの。『粗末にしたら鏡に映り込むよ』って。私、そのとき、笑って『じゃあ映ってみせて』って返したの」


 言周が毛布を外した。

 姿見は店に戻り、壁の若い長方形の前に立った。木枠はしっくり馴染む。鏡のなかで、店内が二度写り、その奥で、白い影がかすかに揺れた。

 陽菜の喉が熱くなる。


「お母さん」


 ゆらのが鏡の前に立つ。


「映り込まないでよ。——いや、映って。映って、ちゃんと怒って」


 鏡のなかで、水がひと筋、落ちた。


 言周は、ガラスのコップを取り出して鏡の前に置いた。


「安恵。ここが、あなたの“仕事場”ね。未練はひとつ。娘が店を“場所”だと思っていること。あなたが残したのは“手入れの手癖と関係”で、場所じゃない。言いなさい」


 声が、骨の芯に戻ってきた。


 ——場所は、変えてもいい。

 ——関係は、捨てないで。

 ——店は“服を合わせる手”のこと。


 ゆらのが泣いた。静かに、でも堰を切ったみたいに。

 山本は視線を逸らさず、ただ立っていた。


「やり方、考えましょう」


 山本が言う。


「リース契約は保留にして、共同でやる。古着はあなた。新作は、誰か、若い人にお願いして——」


『人脈あるんで』――ぽんぬのメッセージが、陽菜の頭の片隅で弾けた。自分の喉が勝手に動くのを感じる。


「あの、わたしに、やらせてください。——WEBの仕事してますけど、服を作りたくて。古着に合わせる“今の形”なら、勉強してきました」


 ゆらのは、驚いた顔で陽菜を見る。鏡のなかの陽菜は、少し、背筋が伸びて見えた。

 言周は、ふっと笑った。


「決まり。——じゃあ、最後の片づけ。安恵、あなたの未練は娘の手の温度に置いていきなさい。鏡のなかへ連れて帰らない。ここで、ほどく。水は朝晩、三日。鏡の前に置くのは、ガラスだけ。布はかけない。お札は要らない。掃除をすること。手入れをすること。それが供養」


 ——ありがと。

 ——ありがとね。

 ——ありがと。


 鏡のなかで、最後の涙が落ちる。それは、床に落ちる前に消えた。

 店の空気が乾きはじめ、ハンガーラックの金属がほんの少し明るさを帯びる。

 言周は数珠を指で弾き、簡単な印を結ぶと、コップの水をひと口飲んだ。


「片づけ完了。——あとは生きた人の仕事」


* * * * *


 しばらくして、陽菜の実家に一通の招待状が届く。差出人は陽菜。封を開けると、厚手の紙に、控えめな金の版押しで店名が載っている。


【糸安 / Itoyasu  Reopening】


 古着と、デザイナーの新作の隣り合う空間。紙には、ハンガーの線画と、糸巻きの小さなモチーフ。送り主の手書きで「帰ったら、母さんのコート着させて。肩の傾いたツイードのやつ」と添えられていた。


* * * * *


 オープンの日、商店街は久しぶりに人の流れを取り戻していた。店内には古着のやわらかな匂いと、新しい布の糊の匂いが混じる。奥の一角には、小さな試作台、糸、針、トワル。

 陽菜の作ったトップスは、古いスカーフの柄から拾った色で縁取りされ、ハンガーで並ぶと、どれも人の肩の幅に合って見えた。

 ゆらのはレジに立ち、来客の肩にそっと手を添え、姿勢を整える。山本は奥で在庫をさばき、オンラインの注文と配送の段取りを睨む。

 姿見は、入口から少し入った柱の前に戻された。朝晩、ガラスのコップの水を替える。掃除のたび、木枠を布で撫でる。鏡は泣かない。けれど、ときどき、開店前の静けさのなか、ほんの一瞬だけ、陽菜は自分の背中が少し遅れて動くのを見る。遅れはすぐに追いつき、姿勢は揃う。——それは恐怖ではなく、手癖の確認のようだった。安恵の“関係”が、まだ薄くここにいるのだ、とわかるだけ。

 閉店後、シャッターを半分だけ下ろし、陽菜は姿見の前に立った。母のコートを羽織り、肩を落としてみる。ゆらのが横に来て、襟を少し内側に折る。


「ここを折ると、肩の丸みが出るわよ」

「はい」

「うちの母……本当に、あの鏡の前で、人の癖をよく直したの。似合うと、鏡が少し明るくなるって」


 陽菜が微笑む。


「今日も、少し明るいです」


 言周からは、短い請求書が届いていた。


 ――片づけ代 一式

   ※掃除と水替えの継続を条件として割引。


 陽菜は笑って、ゆらのに差し出した。


「折半しましょう」

「もちろん」


 シャッターの外、商店街の明かりがひとつ、またひとつ消えていく。最後に『糸安』の灯りが落ちると、鏡のなかの闇が部屋の闇と重なった。耳を澄ますと、遠くで電車の音、近くで布の擦れる音。誰も謝らない夜。誰も泣かない鏡。湿りが、乾いていく音がした。


* * * * *


 翌朝、陽菜は早めに店に入り、鏡の前のコップの水を替えた。透明な水面がわずかに揺れ、陽菜の顔をふたつに割った。ひとつは、昨日までの陽菜。もうひとつは、少しだけ背筋の伸びた陽菜。ふたつはすぐにひとつになり、陽菜はドアの鍵を開けた。外の空気が流れ込む。鏡のなかで、光が細く縦に走った。


「おはようございます」


 陽菜の声に、鏡は何も答えない。ただ、光だけが呼吸した。コップの水が、揺れをやめる。今日は晴れる。湿りは、干される。今日もまた、手入れが始まる。

 ——冗談で結んだ約束は、手でほどく。

 陽菜は、その言葉を胸の奥に戻した。鏡の沈黙は、もう怖くない。ここは、場所ではなく、関係。関係は、手と手で続けるものだ。手入れの手癖が、鏡の向こうとこちらとを、ほどよく繋いでいる。

 店のドアが開き、最初のお客の影が差す。姿見は、静かに立っている。泣かない鏡に映る一日の始まりを、陽菜は深く吸い込んだ。

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姿見 名々井コウ @nanaikou

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