危機は、本を呼ぶ。

 相変わらず、エッセイを書くことがとことん苦手だ。ここ数日は、ことエッセイについては、僕はずっと頭を悩ませている。

 せっかく読者様からいただいたアドバイスをもってしても、文章が浮かばない。


 これでよく小説など書いているものだとつくづく思うが、「自由にやってください」というシチュエーションが、昔から大の苦手だ。

 そのくせ、変なこだわりがあるものだから、けして器用というわけでもない。どっちつかずなのである。


 ならばいっそと、体当たりの覚悟で何度かPCに向かったのだが、このエッセイだけは、一向にはかどらない。三回目の今日、はたしてどんな結末が待っているのか。


 最近、買い物にハマっている。というか、沼っている。いうまでもなく、対象は本だ。新刊相手にはさすがに派手には動けないが、古本相手なら、話は少し大きくなる。


 おかげで、レシートがすごいことになっている。家計簿は僕がつけているが、後悔先に立たずとはよく言ったもので、目減りする予算を見ては、愕然とする思いだ(本代は、我が家の家計簿では「雑費(日用品)」として、計上される)。


 しかもこの家計簿には、気分次第で妻の抜き打ち監査が入る。本代削減などの懲罰が恐ろしいので、裏帳簿でも作ろうかと、最近けっこう本気で画策している。


 余談だが、僕は豆乳が大好物で、一日最高四リットルを飲んだことがあるが、食費を圧迫するからと、今は二日に一本(一リットル)にまで、減量されてしまった。同じことを本で、しかも月単位でやられてしまっては、かなわない。

 ちなみに、これを書いている今も、豆乳を飲んでいる。もちろん、一リットルサイズだ。たぶん、五分もせずになくなるだろう。いつものことだから、気にする必要はない。


 いったい何の話だったか。そうだ、買い物の話だ。先ほど書いたように、新刊の冊数はそこまではないが、古本がとんでもないことになりかけている。しかも、何だかんだ黙って買っているのが大半なので、そろそろ良心の呵責が、とんとんと扉を叩いて、訪れそうな勢いである。いや、扉など、蹴り破るのか。それはもはや、恫喝であるが。いっそ、なまはげでも来れば、僕も改心することができるのだろうか。


 余談の繰り返しで恐縮であるが、僕は去年か、おととしまで、そこそこのヘビースモーカーだった。禁煙外来に三度失敗した末、けっきょく最後は禁煙アプリをたよりに自力で止めることができたのだが、いかんせん、本に対する物欲だけは、捨て去ることができない。というより、捨てる気がそもそもない。

 呑気に(でもないが)煙草に火をつける金で本でも買っておけば、在庫も潤い、よって今の購買状況も少しはマシになったのかもしれないと思わないでもないが、完全に後の祭りである。


 反省文のようになってきたが、よく考えれば、反省どころか、猛省をせねばならない。そのくらい、レシートの束がひどい。おまけに、近頃はオンラインで、店舗受け取りならどんなに安い本でも、送料抜きで取り寄せてもらえる時代だ。


 その行きつくところは、際限のない注文である。数えたくないので今数えないが、今まで受け取りに行った本は除いて、軽く十冊はある本が、各々時間差で、我が町を目指して向かって(発送されて)いる。送料と違い、本体はもちろん有料だ。くわばらくわばら、である。


 もちろん、読みたいから買っているわけなのだが、何だか、心の空白をとりあえず量で埋めようとしている気も、しないでもない。エッセイの趣旨が変わってしまうので省くが、いろいろにあったのだ。


 となると、こんなに買って、いったい何をやっているんだと、自嘲のるつぼにハマりそうにもなる。というか、なにかけた。

 ちょうどそんなときに、なんとも面白い文章を見つけた。


“つくづく買い物の本質は、「ものを探す=自分を探す」。だとすれば、いまは「(※過去に買ったものを)探した自分をじっくり検証する」ためのインターバル期間なのだろう。甲羅のなかに手足をいったんひっこめ、この先の進路を手さぐり中でもある。”


 エッセイスト・平松洋子氏のエッセイ集、「下着の捨てどき」(文春文庫)より、引用した。味わいのある文章で、もう二十年くらいしたら、こうした深みと温かみのある文章が書ければとも、思わされる。


 言い訳に使うつもりはまったくないが、「ものを探す=自分を探す」というのは、まさに慧眼ではないか。なぜなら、人はそのとき(質は問わず、何かしらの理由で)自分に必要なものしか、探さないからだ。


 そして人間の連想とは面白いもので、この平松氏の文章を読んだとき、今度は今話題の書評家・三宅香帆氏が書かれた本のことを思い出した。

 そこに記されていたのは、いわゆる「積ん読」、あるいは「積読」(買ったはいいけれど、読むペースが追い付かなくて置いたままになっている本)の是非についての、こんな文章である。

 

“私が思うに人生において、本来もっとも小説を読むのに適したタイミングは、「自分の本当に切実な悩み」と「小説において描かれている切実な悩み」が重なった瞬間だと思う。”


“そして読者の私たち自身も、まったく同じテーマを抱き続ける人は少ない。(中略)だからこそ、読む小説のテーマと、自分の現在のテーマが、呼応するかどうかは、タイミングによる。”


(三宅香帆「読んだふりしたけど ぶっちゃけよく分からん あの名作小説を面白く読む方法」/角川文庫 より)


 高校から大学時代にかけて、僕はもう、それは溺れるように大量に本を読んだけれど、そのなかに「ともだち」のように思っていた本がある。


 「ななつのこ」(加納朋子・著)がそれで、主人公の名をとって、駒子こまこシリーズとして、「魔法飛行」「スペース」へと、続編が刊行されている。

 また、同じく加納朋子氏の本でいえば、「ささらさや」シリーズ第二弾、「てるてるあした」の照代もそうだ。


 駒子は、大学生。どことなく内気なところがあるけれど、ある絵本を頼りに、日常の謎を解決していく。そこにはいつも、駒子自身のやさしさがあった。

 照代は、置かれた環境もあり、常に他人が気に入らない女の子。ある出来事を機に、自分の道を、責任とともに生きることを学んでいく。


 同じ「ともだち」という言葉で言えば、同じ時期に「ともだち刑」(雨宮処凛・著)を絶賛していた形跡が、当時付けていたブログにあるのだけれど、それとは全然質が違う。文字通り、僕は本の中に、本物の友だちを見出していた(もちろん、現実に友だちは、いたのだけれど)。

 

 ほぼ取り柄のない(と思っている)僕だが、こと、一つだけ自分で自分に、信を置いている能力がある。本に対する、嗅覚が鋭いのだ。追い込まれたときになお、自分に必要な本を見つけ出す能力が、たぶん人並み以上にはある。


 これはもう、理屈とか理由抜きに、直感でしかない。矛盾する言葉だが、まったく偶然の出会いを、引き当てるのだ。そうやって出会った本にも、僕はだいぶ助けられてきた。


 例えば、重度のうつ状態に陥ったとき。好きな作家さんの本が何一つ読めないでいて、けれど何も考えずに手に取った「小公女」(光文社古典新訳文庫)を読んで、少しずつ本が読めるようになったなんて、自分でも不思議で仕方がない。

 だいたい、そもそもその「小公女」からして、数か月前に大型書店でたまたま見つけた、「挑発する少女小説」(斎藤美奈子・著)という、普段読まない、評論集というジャンルの本を読んでいたから、なんとなく持っていた本だったりもする。


 「類は友を呼ぶ」というが、危機は、同じような危機を迎えた友だちを連れてくるのかもしれない。彼らがいるのは、僕たちのいる現実ではなく、本という閉じられた世界の中なのだけれども。


 そうこうしているうちに、今回のエッセイは、ようやく焼きあがったらしい。

 あとは、読者様の食卓に、お気に召すように並ぶことを、願うばかりである。


 ちなみに、「小公女」の主人公・セーラが、さる令嬢の立場から転落し、その後の奴隷のような生活から抜け出すきっかけの一つになったのは、ある安価な焼き上がりのパン、数個だった。


 僕はどうせなるなら、お利口さんなセーラよりも「不思議の国のアリス」の、アリスのような大胆な性格になりたいのだけれど、どうもそうはいかないらしい。


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エンドロールは、ハッピーエンド!(だといいな) 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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