【短編】水溜まりの海
先ほどまで降っていた大粒の雨が細く柔らかい小降りとなり、空が真っ黒な状態から雲が薄くなり白み始めている。ノニは降り始めにタイミング良く知り合いのところに居たため、運良く傘を借りることが出来た。夏が過ぎて肌寒くなりつつある季節で、雨が降れば気温は思っていたよりも下がる。セジュラは長いオコジョのような姿になってノニの首に巻き付いていた。
この街の道は最先端の素材と技術で水はけ良く造られてはいるが、さすがに土の上や経年で凹んだ部分はあるので地面には水溜まりがそれなりの数、出来ている。晴れて来ればあっという間になくなるそれにノニは何となく目をやって、そして中に光るものを見つけて立ち止まった。
水溜まりの中を、魚の群れが泳いでいる。
否、水溜まりの中というよりは水溜まりの下、というべきだろうか。魚群は体表をきらきらと光らせながら、まるで映像モニターの中に映っているように水溜まりから水溜まりへ移動してノニには見えなくなった。
「おい、セジュラ。」
「どっかの異界と繋がっちまったンだろ。こっちには出て来やしねェよ。」
眠いのかいつもより投げやりな口調で言ったセジュラに、ノニは顔をしかめて視線をやる。
「穴がどっかになけりゃァなァ。」
セジュラが言葉を続けた瞬間、ノニの足元のすぐ傍の水溜まりの中から剣のような鋭い角が伸びたかと思うと、アザラシによく似た何かが水面から頭を出した。そしてノニと目を合わせ、慌てる様子もなくまたスゥッと同じ姿勢で水溜まりの中に消えていく。角の先までが水溜まりに沈んでからそこを覗き込み、ノニは慎重に足を入れてみる。ぱしゃんと足裏に地面の感覚があり、ノニは眉をしかめて威嚇をするようにもう一度セジュラを見た。
「あんま覗くなよォ、さっきのがもう一回上がって来たら串刺しになるぜェ。」
「あれはたぶんイッカクだ、異形とか怪異じゃない。人体を串刺しにする力は……」
ノニはそう言ったが、本物を見たことはないしどういう生き物かもよく知らない。そもそも海とは人間にとっては異界そのものだ。遠い宇宙へ行ける技術は進歩を続けていても、未だに立っている地表より下の地下や海底の全調査は出来ていない。古来より地表に無数あった異界への穴は力を持った人間達が順を追って閉じて来たが、水の中までは手が届かず、未だに古代と同様、無限に開いているとされる。
「まあこの時期の雨は命を連れて行っちまうからなァ。あの世への道に行列が出来て、非常口を開けちまった気がするわァ。」
「迷惑な非常口だな……」
異界が一つなのかそれとも複数なのかすら分かってはいないが、宗教関連の逸話やフィクション作品として語られる天国や地獄、閻魔の裁判など、行政的な仕組みのようなものがあるらしいということはノニも聞いたことがある。だがそれは一部の先進国が認識しているものよりはもっと行き届かない一部地域、もしくは一つの異界の制度のようで、あの世という異界への門を通らずに、こういった不意に繋がった穴からどこかへ行ってしまうモノは、生死を問わずごまんといるらしいことも知っている。
「晴れたらすぐ閉じるだろうし、まァこんな水溜まりじゃ生きてるヒトは抜け出られねェよ。」
セジュラはそう言って「ふぁあ」とあくびをする。
「『なにか』に引きずり込まれねェ限り、足元からならヒトは水に浮くし頭も出ると思うけどなァ。」
やがて雨が上がって薄日が射して来たところで、ノニは傘を閉じて雨露を振り払って丁寧に折り畳む。一度干してから返さねばならないが、今は持ち歩きには邪魔だ。水溜まりの中に不意にヒトの形のようなものが一瞬見えたが、動きが速く視覚で捉え切れなかったので、怪異の類だろう。
顔を上げたところで、待ち合わせをしていたセンムの姿が目に入る。その金の髪は薄暗い今の天候でも目立つ。向こうもノニに気付いたようで、雨宿りしていたのかカフェの軒先から出て来てこちらに向かって来た。
「ノニく」
そう声を上げたセンムの足元に、黒く細いヒトの手の形が目の端に入り、ノニは水溜まりのない地面を一瞬で判断して走り出した。
ぱしゃっと水溜まりを踏んだセンムの片足が膝まで沈み、一瞬で腰元まで黒く細い髪のような手が巻き付いたところで、ノニはセンムに体当たりして胸元に抱きついて弾き飛ばした。
センムを抱えて反転し地面に転がしながら、まだ繋がっている黒く細い手に渾身の力で傘を突き立て、引き千切りながら回転して振り返り地面に半円の線を引く。センムを庇いながらその水溜まりに地面に引いた線越しに対峙して、ノニはそこでやっと呼吸を止めるのをやめて息を吐いた。
「去れ。お前にやるものは無い。」
手ではなく水溜まりに向かってノニがそう言うと、水溜まりからラジオの音声が混ざったワヤワヤとした聞き取りにくい、しかし確かに「声」がした。だが数秒で伸びて引き千切れた手をずるずると水溜まりにしまい込み、センムに巻き付いていた細かい黒い線のようなものが霧散して、ふと気配が消える。
セジュラがノニの首から離れて地面に降り、いつもの大きな耳の立った犬の姿で水溜まりをばしゃんと踏み、中を覗き込んだ。
「……っぶなかったなァ、センム。ノニが間に合ったのが奇跡だぜェ。」
顔を上げてそう言うと、セジュラはぴょんぴょんとセンムの方へ走り寄る。濡れた地面に転がされて薄汚れているが、センムは座ったまま「う、うん」と何とか声を出したという様子で返事をした。
「怖……あれ何?」
「………さあ?」
彼の当然の疑問にノニは返事をしながら手を差し伸べる。疑問でいっぱいの顔をしながら、それでもセンムは手を差し出してノニの手を握った。
「わからないってこと?」
「分かりやすいのはいるが、異界も怪異も分かるものの方が少ない。」
そう言いながらセンムを引っ張り上げて立たせ、尻の泥を払ってやる。
「ちょ……っと、自分でやるよ。」
「見えないだろ、背中の方は。」
ノニはそう言ってから、鏡や道具を使えば見ることは出来ても、己の目で己の背中を見ることは絶対に出来ないのだと、何となく考える。それは身近でありながらも傍にある異界と同等なような気がしたのだ。
「セジュラ、引き込まれてたらどうなったと思う?」
「さっきとおんなじだろォ? すぐ閉じて干渉出来なくなったと思うぜ。」
それを聞いてノニはセンムの顔を見上げ、何となく安堵する。
海の中に閉じ込められた姿を目の前に見ながら、助けることも出来ずに見送るのは、その瞬間は恐ろしいほどの衝撃はあっても、他人であれば忘れることも出来るだろう。
見知った顔であれば、親しい友人であれば、それが記憶に焼き付いて生涯苛まれるであろうことは想像に難くない。
「そうだな、助けられて良かった。」
ノニは二重の意味でそう言って、センムの金の髪についた泥を指で払った。
了
怪異専門 便利屋譚 グーテーモク @YAGI_cocoro
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