囁き峠・弐

「その木を右に曲がって」

 樒の光沢がある枝葉の先で、奇妙な形をした袋果が裂開して種子が覗いている。その実を無造作にもぎ取り、筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうとした青年がかじる。「あ」と囁く声に困惑が生まれた。

 菅笠の紐を顎で結び、肩に提げた振分荷物の下にカモシカの毛皮を纏っている。紐でくくった長い髪、萌葱もえぎ色の袴に脚絆。特に目立つのは、背中に担いだ竹の大弓だった。真竹まだけを芯に黄櫨はぜ側木そばきとする。見事に弓幹ゆがらが反り返り、末弭うらはずが木漏れ日を照り返している。

「平気なの?」

「ああ、まだれていないな。それで、この先は?」

 実を頬張りながら、青年は先を促す。声は少し沈黙した。

 樒の実は毒である。

「……次は左に向かって」

「おお、左か。お前は、親切だな」

 疑う様子もなく、能天気に言った。彼に同行者はなく、道案内を頼んだ覚えもない。深い峠の森に立ち入り、見えない声に従って力強く歩みを進めている。そのことを疑問に思っていないらしい。

「そのまま真っ直ぐ」

 勾配の強い道をしっかりとした足取りで進んでいく。腰の矢筒の中で白羽の矢が乾いた音を立てた。鬱蒼と茂っていた森林の向こうに、明るい日光が見える。もうすぐ外に出られるだろう。

 青年は特に迷う素振りもなく、直進していく。もっと日差しが強くなってきた。

「もっと先」

 少女の声が誘う。足が動く。光に目を細めた。樹林が切れて、視界が晴れた。その先には険しい崖があった。毛皮を纏った青年は一度立ち止まる。その耳元で「あはっ」と笑う声が聞こえた。

「死ねば――」

 その囁きに構わず、青年は呟く。

「確かに近道だな」

「え?」

 少女の声が困惑する。青年は膝を曲げて、そのまま跳躍した。

「ちょっと、待っ――」

 後ろで呼び止める声が遠ざかる。風が頬をなぶる。崖肌に突き出た木の枝に掴まり、尋常ではない身体能力で崖を下っていく。その様子は機敏に跳ねるカモシカによく似ていた。

 巧みに勢いを殺しながら、崖底へと着地する。竹弓の青年は振り仰ぎ、大声で礼を述べて大きく手を振った。遥か崖の上では、少女らしい顔がこちらを覗きこんでいた。

 そのまま引っこんだ。



 これ以降、囁き峠で旅人をまどわす怪はなくなったそうだ。

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囁き峠 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime

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