囁き峠

二ノ前はじめ@ninomaehajime

囁き峠

「その木を右に曲がって」

 しきみの光沢がある枝葉の先で、奇妙な形をした袋果たいか裂開れっかいして種子が覗いている。その下を、編笠に合羽かっぱを身にまとった旅装束の男が歩いていた。獣道であり、人が通る道ではない。くさむらをかきわけて、彼は耳元で囁かれる声に疑いなく従う。

「次は左」

「おお、左だな。ありがとうよ、親切なお嬢さん」

 振分ふりわけ荷物を揺らし、脚絆きゃはんで下生えを割る。彼に同行者はなく、ましてや道案内など頼んだ覚えはなかった。理由もなく深い峠の森に立ち入り、見えない声に従って歩みを進めている。そのことに疑問を覚えた様子もない。

「そのまま真っ直ぐ」

 勾配こうばいの強い道を進んでいく。鬱蒼うっそうと茂っていた森林の向こうに、明るい日光が見えた。もうすぐ外に出られるだろう。

 心の片隅で違和感を覚えた。自分は一体、ここで何をしている。思考が追いつくより早く、足が動く。日差しが強くなってくる。

「もっと先」

 少女の声が誘う。足が動く。光に目がくらむ。果たしてこのまま進んでいいのだろうか。その思考が、わずかに歩みを鈍らせた。

 樹林が切れて、視界が晴れた。ほぼ同時に我に返り、旅人の男は草鞋わらじの先で小石が転がり落ちる崖を見下ろした。あと一歩進んでいれば。恐怖に足がすくんだ。

 その耳元で「あはっ」と笑う声が聞こえた。

「死ねば良かったのに」



 その峠はささやき峠と呼ばれ、旅人を崖下へと誘うかいがあるという。

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