忘却の花

山猫家店主

忘却の花



 午前十一時、陽ざしが柔らかく差し込むガラス窓の向こうで、桜が満開だった。

 風に揺れた花びらが、まるで呼吸をするみたいに、ゆっくりと舞っている。


 介護付き有料老人ホーム「ひかりの丘」の談話室。

 高井ミナトは、床に落ちた花びらをそっと拾って、窓辺の鉢に差し込んだ。


「また、ひとりで散歩してはったんですね」

 声をかけたのは、看護師の山本だった。


 彼女の視線の先には、白髪を丁寧にまとめた老婦人が、ソファに腰を下ろしていた。


 ──澄子さん。昨日、入居してきたばかりの人。


 上品な身なりに、微かな香水の香り。だがその目は、どこか遠くの誰かを追っていた。


「娘が来るはずなの。カエデっていうの。もうすぐ春だから、必ず戻るって……」

 澄子はそう呟いて、ミナトの顔をじっと見つめた。


 その瞳の奥に、微かな期待の光が揺れている。


「……そうですか」

 ミナトは、言葉を選ぶように答えた。


 彼女の言う“カエデ”は、とうの昔に亡くなっている。

 だが、その事実を伝えることが、彼女の心を壊してしまうかもしれない。


 ──嘘をつくのも、仕事のうちですから。


 施設長に言われた言葉を、ミナトはまだ受け入れきれずにいた。


「お名前、なんて言ったかしら?」

 澄子が、ふいに尋ねてきた。


「ミナトです。高井ミナト」


「ミナト……ああ、そう……あなた、カエデに似てるのね」


 そのとき、外から風が吹き込んできて、拾った花びらがふわりと宙を舞った。

 澄子は、目を細めたままその風景を見つめていた。まるで、そこに何かを見ているように。


 ──春になると、思い出す名前がある。

 その記憶の花が、いままた静かに、咲こうとしていた。

翌日も、澄子は朝食後すぐに廊下を歩いていた。

杖は使わず、静かに滑るように。まるで、誰かに会う約束でもあるような歩き方だった。


「カエデは……お花、好きだったわよね」

窓辺の植木鉢を見つめて、澄子が小さくつぶやく。


ミナトは、隣でその言葉を聞き流すふりをしていた。

彼女が娘の名前を呼ぶたび、胸の奥がわずかにきしんだ。


──カエデって、どんな人だったんやろ。


休憩室に戻ると、棚の一角に見慣れない箱が置かれていた。

「澄子様 私物」とだけ書かれた段ボール。


その中に、色あせたアルバムと、小さな日記帳があった。

表紙には、押し花が一輪、テープで留められている。カエデ、という名にふさわしい、赤く縁取られた葉だった。


ふと、ミナトはページをめくった。

中には、丁寧な文字で綴られた日々の記録。誰かに宛てたわけでもなく、

ただ静かに、その日見た景色や、読んだ本のこと、母と口喧嘩したこと――

すべてが、当たり前のようにそこにあった。


なかでも一文が、ミナトの心を引っかけた。


「お母さんはよく、春がくると泣く。

でも、泣いたあとは必ず、お茶をいれてくれる。

私はそれを、“忘却のお茶”と呼んでいる。」


思わずページを閉じた。

それは、誰かの記憶の中にしか存在しない、やさしい時間だった。


その夜。

澄子は部屋の片隅で、うつむいて泣いていた。

ミナトが駆け寄ると、澄子は顔を上げて、弱々しく言った。


「……カエデが、来ないの。私、何か悪いことをしたのかしら……」


ミナトは迷った末、小さく息を吐き、ゆっくりと頷いた。


「来ますよ。必ず、来ます。春になったら、きっと……」


その言葉に、澄子の肩の力が少しだけ抜けた。

そして、ふと彼の手を握りしめた。


「……ありがとうね。ミナトさん、あなた……カエデに、似てるのよ」


その夜、ミナトは眠れなかった。

胸の奥で、知らぬはずの少女の名前が、何度も繰り返された。


ミナトが澄子の部屋をノックすると、返事はなかった。

ノブをそっと回して入ると、澄子は窓辺に背を向けて座っていた。


「カエデ……今日は来ないのかしらね」

その声は、独り言のように静かで、どこか遠くを漂っていた。


ミナトは一瞬だけ躊躇し、それから意を決して声をかけた。

「……僕で、よければ」


澄子がゆっくりと振り返る。

彼女の瞳に、わずかな戸惑いと、それ以上の安堵が浮かんだ。


「……カエデ?」


ミナトは何も言わなかった。ただ、頷いた。

澄子の目から涙がひとしずく、落ちた。


「ごめんね、ずっと待ってたのよ。あなたが、またお花を持ってきてくれるって……」

「……うん、持ってきたよ」

ミナトは、制服のポケットから昨日拾った桜の花びらをそっと差し出した。


それはもう、乾いて少し色褪せていた。

けれど澄子は、まるで宝物でも手にしたかのように、そっと掌にのせた。


「覚えてる? あのときの桜並木。あなた、小さな手で花びらを一枚ずつ追いかけて……」

「覚えてる。風が強くて、髪にいっぱい花びらがついて、大笑いしたんだ」


ミナトの口から、自然と出てきた言葉だった。

どこかで読んだ記憶だったかもしれない。

けれどそれは、彼の心の奥で“ほんとうのこと”になっていた。


「そう、そうよ。あのときのこと……忘れたくないの」

「忘れなくていい。俺が、覚えてるから」


沈黙が訪れた。

春の光が、カーテン越しに床をなでている。

二人の影が、まるで一つの記憶の中で寄り添うように重なっていた。


そのあと、澄子は少しだけ眠った。

ミナトはそっと椅子を引き、日記帳を開いた。


そこに、新しいページを一枚、そっと差し込んだ。

真っ白な紙に、たった一行だけ、ボールペンで綴った。


「春の返事は、今日、届きました。」


朝、ミナトが出勤すると、施設の玄関に花屋の小さな包みが届いていた。

差出人はなかった。中には、薄紅色のカーネーションが一輪だけ。


その日が、母の日だったことに気づいたのは、それを見たときだった。


ミナトは包みをそっと持って、澄子の部屋をノックした。

返事はなかったが、ドアの鍵は開いていた。


「……おはよう、カエデ

いつものように、澄子が言った。

ベッドの上、少し痩せた体を起こして、微笑んでいた。


「カーネーション、好きだったよね」

ミナトは花を渡した。

澄子は手に取ると、そっと頬に当てて、目を細めた。


「きれいね……ありがとう。覚えててくれたのね」


「うん。今日は大事な日だから」


そのあと、二人は窓辺に座り、少しだけ昔話をした。

桜並木のこと。

最初に自転車に乗れた日。

小さな失敗と、小さな笑い。


それは、ミナトの記憶ではなかった。

けれど、澄子の語る声が、いつのまにか彼の胸に染み込んでいた。


「……そろそろ、行かなくちゃ」


そう言ったのは、澄子の方だった。


「どこへ?」


「夢の続きよ。あなたが、また来てくれるその日まで」


ミナトは答えなかった。

ただ立ち上がり、澄子の前にひざをついた。


そして、はっきりとした声で言った。


「ただいま、お母さん」


澄子は目を閉じ、深く、深く、息を吐いた。

それは、まるで安堵に満ちた眠りへの橋渡しのようだった。



その日、夕暮れ時。

看護師が静かに報せに来た。


「澄子さん、眠るように……」


ミナトは、手の中にまだ残っていたカーネーションの花びらを、ぽつりと落とした。

風が吹いて、それはふわりと舞い上がり、どこかへ消えていった。


澄子の遺品整理の日。

日記帳の最後のページに、一枚の紙がはさまっていた。


「この子は、まだ生きている。記憶の中で、私の春を咲かせてくれた。

 ありがとう、カエデ。ありがとう、ミナトさん。」


ミナトは、それをそっと閉じた。


そして、花壇の隅に、小さな苗を植えた。


それは、澄子がかつて娘と育てていたという――楓の木。


春が来るたび、きっと誰かが思い出す。忘れてはいけない記憶が、そっと咲くように。


                                 了

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忘却の花 山猫家店主 @YAMANEKOYA

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