錆色に沈む

水底まどろみ

錆色に沈む

 夜闇に包まれた廊下に革靴の硬い音が反響する。

 しつこくまとわりついてくる温い空気を振り払うように、十崎鳴彦とさきなるひこはシャツの胸元をパタパタさせながら、片手に持った懐中電灯で足元を照らす。

 リノリウムの床には砂利が薄く堆積しており、この建物が随分昔に放棄されたことを物語っている。

 ここは十数年前まで精神病院だった。

 しかし、およそまともな病院ではなかった。患者の家族に虚偽の説明を行って、入院の必要がない患者も家族と引き離していたのだ。

 そうして閉鎖的な環境を作り出し、患者に対する非人道的な行為や診療報酬の不正申請が横行していたのだが、内部告発がキッカケですべてが明るみになり、院長が逮捕され廃院となった。

 数十人の人間が望まぬ死を迎えた場所ということで、心霊スポットとしても有名になっており、スリルを求めた若者が時折訪れることがある。

 しかし、十崎の顔には向こう見ずな好奇心とは程遠い、切羽詰まった色が浮かんでいた。


 額に滲む汗を拭いながら廊下の突き当りまでたどり着いた十崎の前に、赤錆の浮いた扉が姿を現す。

 そのまま立ち尽くすこと数分。

 ドアノブに手を伸ばしかけてはおずおずと引っ込めてを何度も繰り返していた十崎だったが、ついに観念したように大きく息を吐いた。

 錆びついた金属の擦れる不快な音が鳴り響き、地下へと続く闇が口を開く。

 カビと鉄の臭いに顔をしかめつつ、十崎は一歩一歩階段を下っていく。


 この地下階は、この廃病院でも最も血塗られた場所だ。

 重症患者と称して不適切な薬を投与し続けた結果廃人となった人々。それを隔離病室という名の牢獄に押し込めていたのだ。

 十崎はその扉を少しだけ開き、隙間から懐中電灯の光を差し込んで中の様子を窺う。

 照らし出された壁や床には、乾いた赤黒い染みがこびりついている。

 狂った患者が自身の体が壊れるのもいとわずに脱出を試みたのだろう。

 ここで起きた惨劇に蓋をするように、十崎は沈黙したまま扉を閉め、また次の病室に向かう。

 一つ、また一つと死の痕跡を直視するたびに、十崎の呼吸は浅くなっていき瞳が小刻みに震え出す。

 そうして最後の扉に辿り着くころには、ほとんど過呼吸のような状態になっていた。

 より一層濃くなる錆の臭いに咽返むせかえりながら、震える手で扉に手をかける。

 十崎の探し求めていたものが、ここにはあるはずだ。

 祈るように天を仰いで何かを呟き、十崎は重い鉄扉に体重をかける。




 一歩踏み出した足が水音を響かせる。

 懐中電灯の光に赤い色が反射する。

 部屋の中心部に座らせられていた、一人の女性。

 それを見て十崎は小さく息を飲む。


 彼女の眼球があるべき場所はがらんどうになっており。

 本来臓物が収められているはずの腹部には、子供の頭部が詰め込まれ。

 はらわた珊瑚さんご色のおんぶ紐のようにして首のない小さな死体を背負っている。

 ああ、十崎の探し物はそこに存在していた。

 しかし、それは完膚なきまでに壊されていた。


 十崎は前のめりに崩れ落ち、血の海が広がる床に手をつく。

 胃の中の内容物を吐き出し、吐瀉物と血液が頬に跳ねる。

 着ていた高級そうなスーツが汚れるのも構わずに這いずり、十崎は妻子だった物に縋りつく。


「どうしてこんなことに……」

 

 すすり泣きに混じった小さな声が、錆のような匂いが充満した部屋に響く。 

 しかし……理由は自明なはずだ。

 この病院の実質的な支配者だった彼が、当時院長だった父親を身代わりにして逃げようだなんて許されるはずがない。

 今度は彼が味わう番なのだ。

 家族を奪われる絶望を。

 命を奪われる苦痛を。

 腹の内で赤黒く熟した憎悪を込めて、私は縮こまった背中に向けて鈍く光る刃を振り下ろした。

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錆色に沈む 水底まどろみ @minasoko_madoromi

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