第7話 野営の朝
鳥の囀りが聞こえる。寝ぼけた私の脳に、夜明けの音がしみこむ。
薄目を開けると、テント内に差し込む青白い光が見えた。
重い体を起こして、申し訳程度にテントの入り口を覆っていた幕を押し開ける。
ポンチョテントから半分はみ出したコットの上に座って軍靴に足をねじ込むと、掛け布団にしていた上着を拾い上げてゆっくりと立ち上がった。
「おはようございます……」
「おはよう」
寝起きの掠れ声で朝の挨拶をした私に、昨夜と変わらぬ様子のハインリヒ中尉が返す。
「眠れたか?」
「はい、とても」
気の抜けたような声で上官の問いに答える。
昨日の疲れが体に残っているのを実感しながらも、私の頭は不思議なくらいスッキリとしていた。本当によく眠れたんだと思う。
私は、朝を迎えるまで一度も目覚めなかったことに愕然としていた。
そんな私のこと見て、ハインリヒ中尉は小さく笑った。
「あんな設備でも疲れていると眠れるものさ」
「ですが……、仮眠を交代できず、申し訳ありませんでした」
椅子の背に上着をかけて、唇を噛む。
少しでも眠るようにと休息を勧められた夜の事を思い出し、私は罪悪感に襲われていた。
ちょっとのつもりが、朝まで眠ってしまったから。
数時間眠ったら交代しようと考えて目を閉じたのに、気が付いたら朝だった。
上官を差し置いて自分だけいい思いをするなんて、とんでも無い事だと思った。
「椅子で仮眠を取ったから大丈夫だよ」
そういって口角を上げた中尉の顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
こんな簡素な椅子に座ったままじゃ大して眠れなかっただろうし、寧ろ疲れているかもしれない。眠たそうな眼がそれを語っていた。
「……」
こくりと頷いて、黙り込む。
この人へ詫びなければいけないことが他にもあるというのに、喉の奥がつかえたように言葉が出ない。
どうにも気持ちが落ち着かなくて、私の瞳は前方のテントを見たり足元の草を見たりと、忙しなく動いていた。
いつまでもこうしてはいられないと、意を決して中尉の方へ視線を定める。
声を掛けようと思ったのに、私は言葉を発する事が出来なかった。
私の目に映ったハインリヒ中尉の横顔が、あまりに穏やかだったから。
この人のこんな顔を、私は見た事が無い。
寝不足や疲労のせいもあるかもしれない。
それでも、凪のように静けさを纏ったその顔は、私の心から憂鬱を洗い去るほどに清々しかった。
どうしよう。
昨日、この人の前で涙を流してしまったこと、まだ謝っていないのに。
出征すると決めた時。
―――違う。士官学校の門をくぐったその日から。
私は自分の命を賭して戦う兵士になると、覚悟したはずだった。
例え自らが袖を通す軍服が、死装束に近かったとしても。
そう覚悟して、ここに立っている筈だったのに。
私はなんて弱い人間なのだろう。
守られる立場の私が泣いていい理由なんてない。
「あの、……」
絞り出すようにして発した声は、あまりにもか細くて。言葉が続かなかった。
返事の代わりに、ハインリヒ中尉がこちらを向く。
静けさを纏ったその表情は優しくて―――でもどこか寂しげでもあった。
その人は、口の端を少しだけ上げて、静かに微笑んだ。
「……何も気にしなくていいよ」
低く、囁くような声。優しくて温かい声。
中尉は、私が何を言おうとしたのかを察しているようだった。
本当はここで食い下がって謝罪するのが部下として正しい姿なのかもしれない。
でも、彼の声を聴いたら。顔を見ていたら。これ以上何も言わないことが正解な気がした。
「ありがとう、ございます……」
震える声。必死に言葉を紡いだ。
ハインリヒ中尉の優しさで胸がいっぱいになって、また涙が出そうだった。
この人がこんなに優しい顔をしたり、こんな言葉を言ったりするなんて、少し前まで想像もしなかった。
いつも冷血なほど冷静で、鉄仮面で、何を考えているのかよく分からなくて。
前線に出ると、とても厳しくて。
それは人命救助を第一に考えての厳しさだということを、最近になって知った。
こうして毎日毎時間―――それこそ寝る時間以外はずっと一緒に過ごす中で、少しずつ分かっていったこと。
この人は医師として、私が知る中で誰よりも熱い想いを持っている。
人を救うことに心血を注いでいる。
なんて高尚な人だろう。
そんな彼から向けられた優しさを全身に浴びて、胸が熱くなった。
「……顔を洗ってきます」
そう言って椅子を立った私は、顔を隠すように俯いて水場へと向かった。
見慣れた風景が、滲んで見えた。
* * *
「戻りました」
「おかえり」
洗顔などを済ませて戻ると、白いマグカップを片手に地図を眺めていたハインリヒ中尉がそう言って迎えてくれた。コーヒーのいい香りがする。
さっきまでいかにも眠そうだった中尉は、すっかりいつも通りに戻っていた。
隈が浮かんでいたり髪が乱れていたりして疲れていそうだけど、顔はきりっとしている。
相対してボロボロな私。
冷たい水で顔を洗って心を落ち着かせてきたので、先ほどまでの感傷は落ち着いたけれど、見た目が最悪だ。髪はボサボサだし、あちこち薄汚れている。
防暑下衣のシャツはよれよれ。体よりも大きなサイズだから、余計にだらしなく見える。
その上、あんなに眠ったくせに、水場の鏡で見た顔はひどいものだった。
そんな姿を中尉の前に晒しているのかと思うと気まずい。
ただがむしゃらに前線を走り回っていた日々の中では、そんなことちっとも気にならなかったけど、何故だか今は恥ずかしくてたまらない。
そんな思考を振り払うように頭を振る。
椅子に腰を下ろして、背もたれに掛けてあった上着を肩に羽織ると、小さく息をついた。
白けていた空はだいぶ明るくなり、基地内の賑わいも徐々に増えてきている。
もう一時間ほど経てばノースポート地区野戦病院の車がここに着く予定だ。
移動の事を考えると朝食は摂らない方がいいかもしれない、なんて考えながらふと視線を横に移せば、椅子の間にあったランタンが別の物へ替わっていることに気が付いた。
それは、膝の高さほどの木箱だった。
側面を下にしてサイドテーブル代わりに使っている。
『弾薬用』の焼き印が押された卓上には湯気の立ったマグカップが一つ、置かれていた。
「淹れたばかりだから温かいよ。飲むと良い」
右手に持ったカップを掲げて、ハインリヒ中尉が言った。
私が席を外している間に、私の分までコーヒーを用意してくれたなんて。
この人はやっぱり優しい―――。
感動なのか、喜びなのか、それとも別の何かなのか。よく分からない感情が私の中に湧き上がっていく。戦場で弱った私の心はこの上官によって、すっかり篭絡されてしまいそうだった。
「ありがとうございます」
白い陶器のカップをそっと手に取り、縁に口をつける。
流れ込んできた熱い液体が胃を温めて、徐々に体が目覚めていく。
「ハインリヒ中尉が淹れたコーヒー、いつも美味しいです」
「インスタントだ」
中尉はしれっとそう言うけれど、本当に美味しいんだもの。
「優しさの味がします」
「なんだそれ」
困ったように笑う中尉は、ちょっとだけ嬉しそうだった。
ふと、静けさが私たちを包み込んだ。
初夏の香りを乗せた風が吹き抜ける。頬を撫でる涼しさがとても心地がよい。
このままもうひと眠りしたいような、微睡みにも似た空気が辺りに満ちている。
気を抜くと意識を手放してしまいそうだった。
カフェインを摂ったというのに、体は疲れに従順だ。
「車が来るまで寝ててもいいが」
あくびを嚙み殺した私に気づいて、中尉は真面目くさった顔で言った。
「ね、寝ませんっ」
「無理しなくていい」
「してないですっ」
「してる」
「してないですってば!」
私はぶんぶんと大きく首を振って、むきになって言った。
「中尉こそ寝てください、昨日徹夜されてるんですから!」
「俺はそういう訳にはいかない」
「では私もそういう訳にはいきません」
「強情だなあ」
「なんとでも」
そんな会話を交わしながら、ちょっとの間をあけて。
ふたり、笑い合う。
こんな平和な時間がいつまでも続いてほしい。
戦場の片隅で、私は密かにそんなことを願った。
ある戦傷医療小隊の話 櫻庭七 @sakuraba7
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