第6話 野営の夜③
「そういう君は、なぜ軍に入ろうと思ったんだ?」
椅子の前で腕や足を伸ばしてストレッチをしていたハーヴェイ中尉に訊ねてみる。
国軍は圧倒的に男社会だ。敢えてそこへ踏み入れた理由は何なのか、単純に興味が湧いた。
「ええと……」
准尉は少し困った様子で足元のカップを拾い上げ、席につく。そして、気恥ずかしそうに笑った。
「私の方、はくだらない理由なので……」
「あ、いや。言いにくいなら無理しなくていい」
返ってきた言葉に思わず身構える。話したくない理由があるのかもしれないと思ったからだ。
「言いにくいとか、そんなことは全然ないです」
さらりと言いきって、彼女はカップの中身を飲み干した。それから、空になったカップを地面に置いて、言葉を続けた。
「憧れだったんです」
口端を上げて相槌を打てば、それに呼応するように、彼女は話し始めた。
* *
国防軍の基地のすぐそばに、彼女は住んでいた。生まれてから、軍属になるまでずっと。
基地では年に数度の一般公開と、年に一度の基地祭が開催されており、幼い彼女は両親に手を引かれてそこを訪れたという。
「五歳くらいの時かな。そこで見た儀仗隊の展示があまりにも格好良くて。国を守る人たちはこんなに凄いんだと、感動しました」
准尉はそう言って、どこか遠くを眺めるかのように目を細めた。薄茶色の睫毛が、優しげな目元で揺れた。今も鮮明に残っている古い記憶をその瞳に映しているようだった。
「儀仗隊か……」
白い儀礼服に、儀仗銃。ドラムの音に合わせて一糸乱れぬ集団行動を見せるその姿は、幼き日の彼女へ鮮烈な印象を焼き付けたに違いない。
「それで、私もあんな風になりたいと思うようになったんです。単純ですよね」
急に恥じらいが押し寄せたのか、彼女は両手で顔を覆った。
「いや、立派な理由だよ」
本心のままに言う。
「えへへ、ありがとうございます」
ハーヴェイ准尉は額に貼りついた髪をかき上げて、嬉しそうに笑った。そんな彼女の姿につられて、口元が緩んだ。
訪れた静寂の中、ふと過去を回顧した。
思い出すのは、医科士官学校で過ごした日々のこと。
あの白い儀礼服を、俺も着ていた。それを伝えたら彼女は驚くかもしれない。
「学生時代、儀仗隊に入っていたよ。クラブ活動で」
「え?」
案の定、返ってきたのは驚きを孕んだ声だった。
そもそも彼女は、医科士官学校に儀仗隊がある事を知っていただろうか。士官学校とは似て非なるものなので、よく知らないかもしれない。
暫しの沈黙を経て、彼女の瞳がランタンの光を大きく取り込み、きらりと輝いた。
「それ本当ですか?!」
椅子から飛び跳ねんばかりに身を乗り出して、ハーヴェイ准尉は声をあげた。その音が存外に大きくて、遥か前を歩く警戒兵の視線がこちらに向く。
「声抑えて」
口の前に人差し指を立てて、興奮気味の准尉を制する。
「す、すみません……」
「いや、いいんだけど……」
分かりやすくしおれる彼女を見て、思わず苦笑した。しかし、そんなこちらの様子など彼女の目には映っていないようだった。
「嘘ぉ、ハインリヒ中尉が……」
胸のあたりをぎゅっと掴んで、声を震わせる。
俺にとってはなんてことはない、学生時代の話。それに対して彼女は心躍らせているらしい。あまりの温度差に、戸惑いを隠しきれない。
「別にそ、んな大した事では」
「大した事です!」
「っ……」
「ハインリヒ中尉の儀仗隊姿なんて絶対格好いいに決まってるじゃないですか! 見たかったです!」
どうにか落ち着かせなければ、なんていう俺の思考を蹴散らすようにして、准尉が力強く主張する。声量を抑えているが、迸る熱意は隠し切れていない。
格好いい?
見たかった?
この部下の口から、そんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。
彼女と戦場で出会って、今日まで過ごす中で知ったのは、軍人として、医療者としての彼女の姿でしかない。それ以上もそれ以下も、俺は知らない。
ただ、儀仗隊への憧れが昂じて士官学校に進むまでに至った少女の心が今、とても平静を保てる状況に無い事だけは確かだった。
「いや、その……」
どうしたものかと目を泳がせる。
傍まで椅子ごと近づいてきた彼女は、熱を帯びた眼差しでこちらを見つめた。
「近いよ……、っ」
彼女の膝が俺の内腿に触れて、思わず体が強張った。自分の青臭さに嫌気が差す。
だいたいこの子は、なんでいい匂いがするんだ? 今日一日汗だくになった筈だろう。
「当時の写真、ないんですか?」
「い、家にある……」
「見たいです」
「ええ……?」
「見せてください。お願いします。絶対かっこいいから…」
戸惑う俺をよそに、ハーヴェイ准尉は畳みかけるように言う。
彼女の瞳に宿る光は、真剣そのものだ。
学生時代も儀仗隊という花形に憧憬を抱く女学生はいたものだが、なんというか―――、彼女は熱量が違う気がする。
「えーっと」
どうしたものかと思案を巡らせた。
しかし考えは一向に纏まらないどころか、正直何も考えられない。
「ハインリヒ中尉、後生ですから……」
「あー……、うん」
その懇願するような声とあまりの情熱に気圧されて、ついに白旗を上げた。
断るのも薄情なような、申し訳ないような、そんな気がして。
抗いようがなかった。
「無事、帰ったらな」
困ったように笑いながら言う。
ぱあっと顔を明るくした彼女は、今にも歓声を上げそうだった。
「はい! 帰ったら―――」
元気よく頷くハーヴェイ准尉の声。
それが突如、消え入るように弱々しくなった。
彼女の明るい声が途絶えた事により、遠くで鳴いた虫の声がいやに大きく聞こえる。
戸惑う俺の目に映ったのは、予想もしない光景だった。
彼女は、泣いていた。
「帰ったら、……あれ?」
涙の粒が少女の頬を伝う。
「あれ、すみませか……、なんで……」
なぜ涙が出るのか―――。
本人さえも理解が追い付かないらしく、泣き笑いのような顔で戸惑っている。
ヘーゼルの瞳が忙しなく瞬くたびに、大粒の涙が零れ落ちた。
「あの、私……」
「ハーヴェイ准尉……」
どう声を掛ければよいのか分からなかった。
咄嗟に彼女の名を呼んだものの、言葉を詰まらせてしまった。
女性に泣かれるのはあまり気分のいいものではないという事を、そのとき俺は初めて知った。
つい先ほどまで輝く笑顔を見せていた彼女が、泣きじゃくっている。
そんな彼女を前に、狼狽する事しか出来ない俺はひどく滑稽だ。
優しい言葉でもかけてあげられたら、どれだけ良かっただろう。
きっと疲れているんだ。そういう時は心が乱れる―――。
そう言おうとして、口を噤んだ。
そんなものは、自分の気持ちを落ち着かせるための詭弁でしかないのを知っているからだ。
涙の訳がもっと深い所にあることくらい、分かっている。
彼女の心境の変化を思うと、胸が苦しくなった。
「……死にたくないです」
嗚咽に混じって震える声で紡いだのは、切実な願い。
ああ、そうだ。
そうだよ。
『無事帰ったら』が叶う保証なんて、ここには無いんだ――――
凄惨な日々の中で生まれたのはきっと、死への恐怖と生への執着だろう。
この先に続く道を歩んでいきたい。
死にたくない。
生きていたい。
そんな当たり前の思いが、彼女の心と体を強く支配しているに違いない。
顔を伏せ、声を押し殺して泣き続ける彼女の背に、手を伸ばす。
一瞬の躊躇いが生まれたが、そのまま手の平を下ろして背中をさすった。
戦闘服を身に纏った少女の背中は、思いのほか小さかった。
「生きて帰ろう。必ず」
涙で濡れた彼女の瞳を見つめて、囁くように言う。
俺もまた、今にも泣き出してしまいそうなほどの感傷に包まれた顔をしていたことに、彼女は気づいただろうか。
水辺に棲む生き物が小さく跳ねて、静寂の中に湿った音が響き渡る。
遠くで鳴り続ける無線機のノイズが、夜の戦場に溶けて消えた。
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