第6話 野営の夜 ②
士官学校の学生が衛生兵になると聞いたとき、なんて惨い選択をするのだと憤りを覚えた。
それは憐憫にも似た感情だった。
医学を学んでいる医科士官学校の学生ならまだしも、ただの士官学校の学生には荷が重すぎる。いくら人手が足りないとはいえ、どんな理由があってそんな事になってしまったのか。
そのペア要員に軍医が差し出される事となったとき、当然ながら誰もが首を横に振った。
何かしらの理由をつけて持ち場を離れられないことを主張した。
戦地に赴いたとはいえ、野戦病院内で事を終えられるならばそれが最もいい道に違いない。命の危険がある前線に進んでその身を投じたい者などいる筈もなかった。
だからこそ、俺が手を挙げた。
それは上官からの圧力やその場の空気感など、外的要因に依るものではない。
ただ自分が、医者であるからだ。
内勤だろうが外勤だろうが、人を助ける使命に変わりはないという認識だった。
『衛生兵に抜擢された士官学校の学生』と対面した時、俺は驚きを隠せなかった。
その学生が、小柄で華奢な少女だったからだ。
戦場に立つ兵士としては明らかに力不足な彼女のあどけない顔は、まるで子供のようだった。
その細い体で戦場を走り回り、負傷者を運ぶ事が出来るのか。
こんな少女に一体戦傷医療が務まるのだろうかと、不安が押し寄せた。
そんな第一印象に反して、彼女はとてもよい働きをする学生だった。
士官学校で軍事医学課程を履修しているそうで、想像していたよりも知識があった。衛生兵に選出されたのはそれが理由かもしれない。
彼女は話をよく聞き、自分のものとして吸収するのが早かった。
素直で聞き分けが良く、人当たりもよい。
士官学校でしごかれている分、内勤の現役軍人よりもずっと体力がある。
血に対する恐怖心はあまりない。
今まで指導してきた部下は男ばかりだったが、彼らは大抵、血液を目の当たりにして気を当てられていた。気絶する者もいて、困らされたものだ。そこは女性だからこその強さかもしれない。
何より努力家で、いつも前を向いている事に感心した。
彼女とならば、この地獄を無事に生き抜ける気がしていた。
* * *
夜の静寂の中で、つい、「これが俺の専門だから」とこぼした。
「……どういうことですか?」
怪訝そうな色を宿した瞳が、答えを求めて俺を見る。
自分の事を話すのはあまり好きではないが、何故か口走ってしまったのは、相手がハーヴェイ准尉だからこそかもしれない。
「研修医時代、国境戦の爪痕が残る西方司令部に配属されてね」
「はい」
こくこく、と相槌を打ちながら、興味ありげに瞬く眼が俺を捕らえて離さない。
「その頃は戦争の負傷者ばかり相手にしていた。前線に出された事もある。これまで軍病院での業務より、野戦病院にいた時間の方が長いんだ」
「そう、だったんですね……」
ほんの二年ほど前の事だ。医科士官学校を卒業した俺は研修医生活の中で、最も過酷な現場に抜擢された。戦傷医療への適正と、人手不足の煽りだった。
戦争真っただ中の今に比べればあの頃の方がいくらもマシだが、当時はどういう事かと戸惑ったものだ。
「今は中央軍病院の救命、戦傷医療班の所属だよ」
国境戦による負傷者の対応は、想像を絶するものだった。いわゆる“普通の医者”になっていれば知らなくて済んだはずの地獄が、そこにあった。
あの経験のおかげで今の自分があると言っても過言ではない。
「きっとこの先もずっと、俺はこんな仕事をしているんだと思う。この分野は人手不足だから」
深く頷いた准尉は、何かを考え込むようにして黙り込んだ。
辺りが静寂に包まれる。
聞こえるのは遠くの無線機から流れる通信やノイズの音と、虫の鳴き声だけだ。
「ハインリヒ中尉はなぜ、軍医になろうと思ったのですか」
暫くの沈黙を経て、彼女が口を開いた。
医科士官学校を卒業して以来、そんな事を聞かれたのは初めてだ。
少し思案しながら、椅子に背を預けて座り直す。金属の軋む音が静寂の中に響いた。
「両親を事故で亡くしてね」
そう言った声がやけに掠れている。ちらりと横を見れば、気まずそうな顔をした准尉の姿が目に入る。配慮の無い発言だったかもしれない。
「もう遠い昔の事だ。いまさら感傷に浸るようなことじゃないよ」
補足するように言えば、彼女はいくらか安堵した顔を見せる。忙しなく表情が変わって面白い。
「救命医になりたいと思った。だが、医者になるには莫大な費用がかかる」
そんな話をしながら俺は、当時の頃を思い出していた。
どうやっても捻出できない金。捨てきれない夢。
あの頃の俺は、今よりずっと狭い世界で生きて、必死にもがいていた。
ハーヴェイ准尉は黙ったまま頷きながら、顔を曇らせている。
彼女のヘーゼルの瞳が、俺を射抜くように見つめていた。
ほんの一瞬だけ、この後に続ける言葉を躊躇した。それを言ったらどう思われるかなんて、普段は考えもしない事が頭を過った為だ。
冷め切ったコーヒーを口に含む。躊躇いを流し去るようにして、それを飲み下した。
「だから医科士官学校を選んだ。十年以上の任官と引き換えに、学費が免除される」
なんて打算的なのだろうかと、自嘲の笑みが浮かぶ。
俺は元より、軍人になろうなんて思ってもいなかったんだ。
そう。当時の俺は、国を守ろうという高尚な考えは持ち合わせていなかった。
ただ、医者になる手段を探していて、医科士官学校はその目標に手を伸ばす為の踏み台でしかなかった。
「それは……、ひとつの戦略として?」
ハーヴェイ准尉が静かに訊く。ランタンの光を浴びるその顔は、なにやら神妙だ。
こくりと肯定の相槌を返して、夜の景色に視線を戻した。
「軽蔑してくれても構わない。俺はこういう人間なんだ」
カップの底に残っていた黒い澱みを胃へと流し込む。
今でこそ軍への忠誠心は持ち合わせているし、信頼を得て軍医と言う職務を全うしている。しかし、過去の自分が狡猾だったことは確かだ。
「軽蔑なんてしません」
語気を強めてそう言う彼女は、少し怒っているような気がした。
「医科士官学校でも当然、軍人としての教育を受けますよね」
「ああ、まあ。
「私はいま士官学校で色々な訓練を受けていますけど、正直かなりきついです」
話が見えない。何を言おうとしているのだろうか。
「そんなきつい訓練と、医師になるための勉強や実習、どちらもこなすのってきっと、大変なことだと思うんです」
「……うん」
ハーヴェイ准尉は膝の上に手を置いて、真剣な面持ちで言葉を続けた。
「鬼のように厳しい基礎トレーニングも、足がちぎれそうになる行軍訓練も、精神をすり減らす射撃訓練もこなして。軍の一員になったらこうやって、命を危険に晒すような任務もある」
言葉に熱が込められている。訓練の日々を現役学生が表現するとより現実味があって、その言葉がすっと体に浸み込んでくる。
だからこそ、話が見えてきた気がした。
「これらは全て、普通に医科大学へ行ったなら、しなくてもいいはずの苦労ですよね」
ああ、彼女は―――。
何を言いたいのか。何を言わんとしているのか。
それをすっかり理解して、俺は息をするのも忘れていた。
「だから、医者になりたいという一心で軍に属する道を選んだのって、すごい事だと思います。私はそんなハインリヒ中尉を尊敬します」
そう言って、彼女はふにゃりと笑った。
この少女が時折見せる、蕩けるような、とびきり甘い笑顔。
心臓がどきりと跳ねる。
不覚にも脈が速くなったのを感じて、俺は彼女から目を逸らした。
正直言うと、こんな俺を受け入れてもらえた気がして嬉しかった。
「……ありがとう」
柄にもなく、震えた声で言う。
それに応えるように小さく笑った少女の笑声が、星空の下に溶けて消えた。
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