第6話 野営の夜 ①
階級が遥かに上の上官から、私が衛生兵として前線に出る事が決まったと聞いたとき、膝から崩れ落ちてしまいそうなほどの衝撃が走った。そんな約束で出征に同意したわけではなかったのだから。
命の危険がすぐそばに迫る事を想像したら、体の震えが止まらなかった。
ずるずると引きずりこまれるようにして、私は本当の地獄へと足を踏み入れた。
前線での日々を過ごすなか、何度も心が折れそうになった。
体力の限界を毎日実感した。
圧倒的な知識不足に歯がゆい思いをした。
酷いものをたくさん見た。
これが戦争の現実なのだと、毎日思い知らされていた。
それでもここまでなんとかやり抜くことが出来たのは、上官の存在があったからに他ならない。
初めてその人と顔を合わせたとき、なんだか気難しそうな人の下に就くことになってしまったと思った。
会話を交わしていてもあまり表情の変化がないし、いつも冷たい雰囲気を纏っていて。日ごろ関わりのある同年代の男の子とは違った大人の余裕みたいなものが、その人にはあった。
ひどく冷静で、厳しくて、白黒はっきりとした物言いをするその人は、何も知らない私に色々な事を教えてくれた。時間のない中で簡潔かつ明瞭に話してくれたその説明はとても分かりやすくて、私の衛生兵としての知識は格段に上がっただろう。
だからこそ、私は安心してその人の下に就くことが出来たのだと思う。
* * *
ランタンの光にぼんやりと照らされた上官の顔を見る。
整った顔をしていると、何度見ても思う。
男所帯の軍ではなく、いわゆる普通の病院に勤めていたら。
看護婦や患者から大人気だったかも、なんて下らない事を思った。
「ハインリヒ中尉」
その人の名を呼ぶ私の声がやけに深刻な感じがして、自分でも少し驚いた。
「ん?」
いつもと変わらない、大人しそうなその人の顔がこちらを向いた。
金色の睫毛が青い瞳の縁で揺れる。いつもはきちっと整えらえている前髪が今はボサボサと乱れていて、何だか別人のようにさえ見えた。
端正な顔に見つめられて心臓が跳ねたのを悟られまいと、思わず視線を逸らす。
「中尉は、
高鳴る鼓動に反して、私の声は思いのほか沈んでいた。
ずっと心に抱えていた蟠りを吐き出すように言えば、ハインリヒ中尉はほんの少しだけ驚いた様子で目を瞬いた。
「……聞こえていたのか」
「『学生を死なせてはいけない。あなたが衛生兵をやっているはそのためだ』という、言葉だけ」
十四区での初日に聞いた言葉を、私はずっと反芻していた。
私とアイラ、二人の話が途絶えたほんの僅かなその時に聞こえてきたのが、そんな言葉だった。前後の流れは分からなかったけれど、それだけでも十分に深刻さが伺えた。
最初から分かっていた。士官である軍医が衛生兵として前線に出る事がおかしなことだって。
衛生兵は普通、もっと低い階級の人たちが担うものだという事くらい、軍に片足でも踏み入れた人ならば知っていて当然なのだから。
それなのにこの人が衛生兵として死地を駆け回っているのは、他でもない。
学生である私という存在があったからだ。
「たまたまそこだけ、聞こえてしまったんです」
目を伏せて自分の手元を見る。
ごちゃごちゃとしたよく分からない感情を処理しきれずに、指先が震えていた。
「気にすることはない」
中尉は緩く首を振ってそう言った。
それは、安心させようという気遣いかもしれないけれど、私の心は穏やかでない。
「気にしますよ……」
声が震えてしまった。罪悪感で喉の奥が詰まったから。
ハインリヒ中尉は椅子に預けていた背を起こして、少し困ったような顔で私を見た。
「准尉、」
「申し訳ありません。私のせいで、あなたまで危険に晒してしまって」
彼が何か言おうとしたのを遮るようにして、深く頭を下げる。
本当はそんな失礼な事をしてはいけないけれど、聞くのが怖かったから。
私がこの道を選ばなければ、この人はこんな目に合わなくて済んだ筈だという事実が、あまりにもつらい。苦しくてたまらない。
「君が謝るようなことじゃないよ」
罪悪感に押しつぶされそうな私の頭上から降り注いだ声。
その声が驚くほどに優しい音をしていて、驚いた。
この人、そんな声を出す事ができたんだ。
「あの……」
ゆっくりと顔を上げると、どこか寂しそうな表情を浮かべた中尉がそこにいた。
「学生保護のため俺が衛生兵になったのは事実だが、それだけが理由じゃない」
じゃあ、他にどんな理由があるの?
私は、中尉が言葉を続けるのを待った。
「確かにきっかけはそうだったかもしれないが……、人手不足によって、軍医の前線投入があちこちで始まっているんだ」
子供を優しく諭すような語調で、中尉は言った。
「君とペアを組んでいなくとも遅かれ早かれ、俺も衛生兵部隊に流れていたよ」
「そう、なんですね……」
中尉の言葉はきっと事実を告げているんだと思う。
この人は裏の無い性格のような気がするから。
安心したような、余計に不安になったような、複雑な気持ちになった。
戦況の激化を知って、途方も無いような徒労感が迫りくるのを感じていたから。
そんな私の心の中を察したのか、ハインリヒ中尉は口元に微かな笑みを浮かべた。
「これが俺の専門だから」
それは自嘲にも似た、悲しそうな微笑みだった。
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