最終話 今度こそあなたを

 後日、北見の案内で、俺はその人がいるという施設へと向かった。

 都内の住宅地の外れにあるその施設は、周囲を緑に囲まれ、都会の喧騒からは切り離されたように静かだった。

 真っ白な壁。幾何学的な外観。窓も少なく、どこか冷たい印象を受けた。

 そして、入り口の看板に書かれていた文字。


 『鑑の会』


 それを見た瞬間、頭の中に危険を知らせる違和感が走った。

 まずい、これは宗教施設だ。そう思った。

 俺はその場から一歩引き、それ以上は前に進めなかった。

「ごめん、俺はこういうの……ちょっと無理だ」

 北見は、俺の腕を軽く掴んで、引き止めた。

「待ってください!世良さんには、どうしても聞いてほしいことがあるんです!」

 彼女の表情は、とてもまっすぐだった。そしてなぜか、俺はその目から視線を逸らすことが出来なかった。


「ごめんなさい。実は……前に世良さんが話してくれたこと、私、初めて聞いたわけじゃないんです」

 北見は少し申し訳なさそうな顔をしながら、俺の腕から手を離した。

「え?じゃあ、誰から聞いたんだ?」

「今日、会ってもらいたい方から、以前、直接その話を聞きました。あのとき、あなたたちの教室で起きたこと」

 俺の心臓の鼓動が、段々と早まっていくのがわかった。

 そして、彼女は続けて言った。


「その方を、私たちは“ヒナミ様”と呼んでいます」


 その名前を聞いた瞬間、めまいがするような感覚に襲われた。

 陽南。優花。

 誰もいなくなった教室の、あの静寂。

 俺がしまい込んでいたはずの忌まわしい記憶が、雪崩のようにあふれ出した。

「……どういう、ことだよ」

 自分の声が、震えていた。

 北見はそのまま、まっすぐ俺を見続けている。

「あなたは、あの方に会うべきです。それが、きっとあなたのためにもなると思うんです」


 俺は悟った。あれは、終わったことなんかじゃない。

 ずっと鍵をかけて、閉じ込めてきたはずの教室の扉が、もう一度、俺の目の前で開こうとしている。

 俺はまた逃げるのか。死にきれなかったくせに、生きる理由を叫びながら生きてきたくせに、それでもまだ目を背けるのか。

 違う、もう逃げないと誓った。


「……わかった。行くよ」


 その言葉は、思った以上に静かに、俺の口から出た。 


 北見に案内されながら、俺は『鑑の会』と名付けられた施設の中を進んでいた。

 足を踏み入れた建物の内部を通る、白く無機質な廊下は、現実感さえ吸い込むように静かだった。

 左右対称に並ぶ白い壁と、微かに反響する自分の足音が、心の奥に張り詰めた不安を増大させていく。

 この施設は、病院のようでもあり、美術館のようでもある。いや、きっとこういった施設は、そのどちらも内包しているんだろう。そんな曖昧な空間の中を、俺はただ無言で歩き続けていた。

「この建物は、その……ヒナミ様って人の好みで作られたのか?」

 妙な緊張感に耐えられず、なんとなく北見に話しかけた。

「いえ、この会の会員の中には、資産家、アーティスト、建築家などが何人かいますので、そういった人たちが、ヒナミ様をイメージしてこの施設を作りました」

「へえ、そう。随分と大きな会なんだな」

 北見は、少しため息をつきながら続ける。

「私の慕うあの方は、こんな建物を作ることも、こういった組織じみた集団を作ることも望んではいませんでした。そんなあの方の素朴さが、私は大好きなんです。ですが、ヒナミ様を支持する人が増えれば増えるほど、それをまとめるための仕組みを作る必要がありました」

「そうなんだ……ということは、この会の実質的なリーダーは、君か?」

 俺が冗談交じりに尋ねると、北見はわずかに目を伏せた

「違います。私はあの方の傍で、それを支えているだけです。リーダー……強いて言えば、それはヒナミ様です」

「ん?何が言いたいのか、よくわからないんだけど」

 俺がそう問いかけたところで、北見が足を止めた。目の前には、重厚な木製の大扉がそびえ立っている。

「私の役目は、ここまでです。あとは世良さん自身で、それを確かめてください」

 そう言って、北見は深く一礼した。

 俺が何か言葉を返そうとしたときには、もう彼女の足音は、来た道の先へと消えていった。


 残されたのは、俺ひとり。

 その重い扉に手をかけ、ゆっくりと開いた。


 軋む音とともに目の前に現れたのは、外とは打って変わって、薄暗く、先が見通せないような広い部屋だった。

 窓はなく、天井からの光がスポットライトのようになり、部屋の床を一定間隔で均一に照らしている。

 その中央に、白いワンピースを身にまとった女性が立っていた。背を向けたまま、じっと立ち尽くしている。

 その容姿は、陽南とは違うものだった。少し背が高く、長い髪、まっすぐな背筋。その背中から漂う静けさに、俺の心臓が警鐘を鳴らす。

 俺は、声を絞り出して問いかける。

「……あなたは誰ですか?陽南じゃ……ないんですよね?」


 ゆっくりと、彼女が振り返る。

 その顔を見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。

 

 そこにいたのは、優花だった。


 あのときからいなくなったままで、もはや死んでしまっているとすら思っていた彼女が、今ここに立っている。

「優花……お前、優花だよな!?生きていて……くれたのか」

 俺の言葉に、彼女は小さく笑った。

 どこか懐かしい、でもどこか遠くにも感じる微笑みだった。

「優花……ああ……久しぶりに聞いた……私の……本当の名前だ。……翔太郎が、翔太郎が……もう一度、私の名前を呼んでくれた」

 そう言葉を噛み締めるように言う優花のその目から、涙がひとすじ、静かにこぼれ落ちた。

「優花が生きてた……よかった……本当によかった」

 俺もそれを受けて、思わず涙を流しながら言った。

 優花は、何も言わず、ただ涙を拭っている。

 俺は恐る恐る、優花に向かって一歩踏み出した。

「優花……あのあと、どこに行ってたんだよ。これまで、どうしてたんだ?」

 優花は少しだけ顔を伏せ、それから口を開いた。

「いろいろあったよ。私はあのあと、都会の中を転々としてたんだ。最初は生きていくだけで精一杯で、まともな居場所なんてなかったの」

 優花は、少しだけ言葉を詰まらせながら続けた。

「……だから途中から、陽南として生きることを選んだ」

 俺は言葉を失った。

「ひとりで生きていくには、別人になるしかなかった。だから、陽南の振る舞い方は本当に役に立ったよ。あの子みたいに笑えば、みんな私に親しみを持ってくれた。あの子みたいに話せば、みんな私の話を聞いてくれた。これは、私のままでは出来なかったことだと思う」

 優花がヒナミ様と呼ばれていた理由が、なんとなくわかった。彼女はあのあと、高野優花であることを捨て、内野陽南として生きてきたのか。

「でもね、翔太郎。徐々に……みんな、私の“中身”を見てくれるようになったんだ。私の言葉や行動が、誰かの心を癒すようになって、気づけば、私の周りには人が集まるようになったの。その結果、今では、こんな感じにまでなっちゃったけど」

 彼女は、冗談めかすように部屋の天井を見上げ、静かに笑った。

「これは私が望んだことだったのか、それとも状況に流されただけだったのか……それは、今もよくわからない。でも誰かの役に立てるなら、それでもいいって、そう思えたの」

 その言葉を聞いて、俺は静かに息を吐いた。

 彼女がどれほどの孤独を乗り越えてきたのか、言葉以上の想像は出来ない。でもその手に、ようやく触れられた気がした。

「……大変だったな、優花。知ってるかもしれないけど、俺もあのあと、いろいろあった。陽南も、クラスメイトの多くも……もうこの世にはいない。だけど、こうしてお前が生きていてくれたこと、俺は、心から嬉しく思うよ」


 そして、俺はまっすぐ優花を見た。

「優花、あのときは本当に申し訳なかった。俺は、お前に向き合うことが出来なかった。でも、今は違うってはっきりと言える。もし、お前が俺を許してくれるなら……あの日を、もう一度やり直せないか?……一緒に帰ろう、二人で」

 そう言って、俺はそっと手を差し出した。

 優花は、少し戸惑ったような表情で、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。

「ありがとう、翔太郎……本当に嬉しい」

 優花のその返答に、あのときをやり直せたような感覚になった。


 でも、優花の手は、俺の目の前でぴたりと止まった。

 そして少しの沈黙のあと、優花の表情が、急に笑顔に変わった。


「でも大丈夫だよ、翔太郎。もう、どこにも帰らなくてもいいんだよ?だって、私たちの居場所は、ここにあるから!」


 その瞬間、部屋の奥の壁が、まるでその声に反応するように開いた。

 眩い光が溢れ、室内全体を包み込む。

 目を細めながら奥を覗いた俺の眼下に、異様な光景が映った。

 壁の向こうに見えるその大きな空間の中では、大勢の人間たちが、祈りを捧げていた。

 皆、白装束に身を包み、こちらを仰ぎ見ている。

「ヒナミ様!今日のお言葉を!」「私にお救いを!」「御神託を!」

 皆が期待を込めた眼差しで、救いの言葉を求めている。

「……これが、俺たちの居場所だって?」

 いま目の前にある現実が、どんどんと過去に引き戻されてゆく。


 そして優花は、こちらに向かって大きく手を広げた。


「今度こそ、私が翔太郎のことを救ってあげるね!」


 ——俺の目には、優花のその姿が、まるで陽南のように見えた。


 あのとき、俺を救おうとした陽南。

 そして今、俺に救いを与えようとしている優花。

 その二人の姿が、ひとつになってゆく。


「お前は……どっちだ?」


 “彼女”は何も言わない。ただ、静かに、こちらに微笑んでいる。

 その微笑みの中には、優しさと恐ろしさ、その両方が静かに宿っていた。




(了)

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クラスの真ん中にいるあの子は、ただのカガミでした 江野 実 @enomi04

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