第36話 導かれるままに
社会人になって三年目の春、俺は新人の教育係を任されることになった。
俺が所属している営業部は、本業と雑務の境界が曖昧で、気づけば書類の山かクライアントからの電話に囲まれているような部署だ。入社早々にそんな部署に配属されるのだから、その新人は運が悪いとしかいいようがない。
でも、そんな環境に耐えかねて辞められでもしたら、評価が下がるのは俺個人だ。
初めて直属の後輩が出来ること自体、多少は喜ばしいことだが、正直、今の自分にとっては重荷でしかない。
「北見詩織です。よろしくお願いします」
「教育担当の世良翔太郎です。わからないことだらけだと思うけど、まあ気楽になんでも聞いてよ」
「じゃあ、さっそく聞きたいんですが、この辺でランチをするのに、おすすめの店はどこですか?」
「うん……最初にそれ聞く?」
「ダメでしたか?気楽に、って言われたので」
配属された新人は、北見詩織という少し変わった女性だった。
物好きにも、当初から営業部志望だったらしいが、社内でも密かに話題になるほどの逸材で、頭も回るし、対人スキルも申し分ない。受け答えは礼儀正しく、それでいて固すぎず、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。
俺は最初その態度を、仕事用の仮面だと思っていた。
でも、会話を重ねるうちに、そうではないことがわかってきた。たぶん、彼女は本質的に誰かに不安を与えない空気を自然に作り出せる人間なのだろう。
そう感じたのは、日常のささいな場面だった。
書類を渡すときの仕草、打ち合わせ後に一言つけ加える気遣い、黙っていても伝わる間の取り方、そして何より、北見と話しているときの俺の心の落ち着き方に、どこか懐かしさがあった。
外回りをしている車内で、北見がふと話しかけてきた。
「世良さんって、あんまり人のことを詮索しないんですね」
「……みんなそんなもんじゃないか?まあ、あくまで仕事だからね。深入りしてもしょうがないって思ってるだけだよ」
「そんな冷たい感じでもないんですよね。でも、こういう距離感って、私はちょっと好きです」
そう言って、北見は小さく笑った。
それは、俺に媚びるような言葉でも、社交辞令の一環でもなく、ただ、ふっと自然に漏れたもののように感じた。
「なんだそれ、口説いてるのか?」
「別にそんなつもりは……ただ、黙ってこちらが話すのを待ってくれるような、そういう人が隣にいてくれると、安心するんです」
北見は穏やかに笑い続けているが、その笑い方が、どうしようもなく、懐かしく感じられた。
この空気。昔、確かに感じていた。誰かと並んでいて、心の奥に安心感が沁み込んでくるような感じ。
あの頃、俺のすぐ隣にいた、あの優しさ。
北見と話していると、どんな悩みを口にしても、そっと受け止めてくれそうな、そんな不思議な感覚になることがあった。
そして気づく、北見は、優花に似ているんだと。
何気ない瞬間にふと漂う雰囲気。たとえば、話すときの目の動きや、時折見せるいたずらっぽい笑顔。そういうものが、かつての優花と重なって見えることがあった。
もちろん、それだけで北見に特別な感情を抱いたわけではない。誰かに似ているというだけで心を揺らすなんて、不誠実だとわかっている。
しばらくして、北見との仕事にも慣れた、ある日の夜だった。
大きな商談が無事に終わり、その帰り道、俺たちはその勢いのままで二人きりで飲みに行くことになった。
よくある居酒屋のテーブル席。まだ週の真っ只中だったこともあり、店内は静かだった。
仕事の疲れと、長く張り詰めていた緊張が、酒のおかげで一気に軽くなっていく。
俺は、いつになく陽気で、気が緩みきっていた。
そして、それは本当に、ふとこぼれ出ただけだった。
「北見だから言うんだけどさ……俺、昔ちょっと、しんどいことがあってさ」
酔いもあって、口が滑った。いや、きっとどこかで、誰かに話したかったんだ。
誰にも話さずにいたその記憶は、胸の奥にしまい込んだつもりでいたけれど、実際はずっとくすぶり続けていた。
一度口を開くと、もう止まらなかった。
高校時代に起きた、あの一連の出来事。
クラスの多くが命を絶ったこと。
親しい友人を、誰ひとり救えなかったこと。
何もかもから目を背け、自分を守ることだけに必死だったこと。
その結果、生き残ったという事実が、どれほど自分を縛っていたか。
北見は、驚いた様子は見せたものの、一度も口を挟まなかった。質問も否定もせず、ただ静かに、俺の話を聞き続けてくれた。
ようやく話し終えたとき、俺はうつむいて言った。
「ごめんな……引いた、よな?」
彼女は、少しだけ考えるように間を置いてから、首を横に振った。
「世良さんも、まだ過去から解放されていないんですね」
その言葉は、まるで北見もそうであるかのように感じられた。
「私も、少し似たような経験があるんです」と、北見は語り始めた。
高校時代、クラスでいじめを受けていたこと。
毎日が地獄で、学校では誰とも話さず、一日をやり過ごすことだけに必死だったこと。
家に帰っても、親には何も言えず、布団の中でただ、明日が来なければいいと願い続けていたこと。
「ある日、限界がきて……死のうと思ったんです」
そう言って、彼女はグラスを少し揺らした。
北見が命を断とうとして、ビルの屋上に立ったとき、偶然にも声をかけてきた人がいたという。
その人は、彼女を咎めもせず、説教するでもなく、こう言った。
「死ぬのは、いつだってできる。でもその前に、あなたの話を聞かせてくれませんか?」
その一言が、ずっと胸に残っていると彼女は言った。
それから何度かその人と会い、話をした。誰にも言えなかったことを、初めて言葉にした。すると、ほんのわずかだけど、生きるための光のようなものが、心に宿ったのだという。
「その人がいなかったら、私はここにいませんでした」
そう言った北見の声は、決して涙ぐんでも、感傷的でもなかった。
でも、その言葉の重さは、おそらく彼女の人生の深いところから出てきたものだった。
「その人、カウンセラーか何か?」
そう尋ねると、北見はゆっくり首を横に振った。
「いえ……なんと言えばいいのか。ちょっと変わった不思議な人です。職業とか、肩書きとか、そういうのでは収まらない。ただ、私にとっては……とても、大切な人です」
そして、北見は言った。
「もしよければ、世良さんにも、その人に会ってほしいんです。きっと、力になってくれると思います」
俺は少し戸惑った。話としては、あまりに唐突だった。でも、彼女が真剣なのは確かだし、それにどこか引っかかるものがあった。
「......北見がそこまで言うのなら、俺は構わないよ」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
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