筆に宿る空 (2/2話)

この物語には、死別の描写、死を連想させる描写、

自傷行為を示唆する描写が含まれています。


描かれた痛みがご自身の、あるいは誰かの傷に触れることのないよう、

慎重にご判断の上でお進みください。


――





ボクの一部を空に渡してしまえば。

もしかすると、空は完全になるだろうか。


その衝動は、長い喪の夜が積み重ねた、最後の選択肢のように思えた。


カバンの中に伸びた手が、自然と痛み止めの小瓶を確かめる。

預かった予備の筆と、いつもの筆の間を、迷った視線が行き来する。


ヒバリの笑い声が、遠くで聞こえる。


  うーん、私の一番好きなもの?

  えへへ、じゃあ意地悪言っちゃおうかな!

  私ね、――空が好きなんだ


ボクは深く息を吸い、天を仰いだ。



山の頂上。

ずっと追い求めてきた空が、近くに見える。

だが手を伸ばしても届かない。

こんなにも近いのに、こんなにも遠い。


敷かれたシートの上に、いつもの筆と、すぐ傍に予備の筆。

立てかけたキャンバス。

バケツとは別の綺麗な水。

タオル。

痛み止めの小瓶。


そして、小さなスプーンを、ひとつ。


金属の片側を、冷たい岩肌に這わせ、研いでゆく。

澄んだ静けさの中に、ザリザリとした泣き声が響く。



――ああ、誰か諫めてはくれないだろうか。


お前は一体、なんて馬鹿げた真似をしようとしているのか、と。

絵描きにとって大切な道具のひとつを、自ら手放すのか、と。


その色に、彼女は笑ってくれるのか、と。

誰かこの手を、止めてはくれないだろうか。


大地や湖に比べれば、ちっぽけな時間だろう。

けれど。

きっとボクは、誰よりも長い時間、空を追い求めてきた。


この瞳で。


ボクはそれを、この苦しみを、証明したかったのかもしれない。



痛み止めを舌で転がし、深く息を吸う。

空は澄み、風は薄い。

匙の冷たさが目尻に触れたとき、もうひとつの空が、そこに見えた。


……描写はここまでにしよう。

言葉にすれば、薄まってしまうものが残るだけだから。


起こったことは一行で事足りる。

世界が深い海の底へ沈んでいく感覚、片側に押し寄せる暗さ、手に落ちた重さ――

それらは、音のない抽象画にゆだねたい。


ただひとつだけ、確かなこと。

このときボクは、空を見つめることから逃げてしまった。


「見ている」ことをやめた瞳には。

もう何も映らない。


筆を近づけたが、何の色も生まれなかった。

見ていない"いま"の景色の織彩しきさいは、筆先にも宿らない。


失望は無かった。

描きかけの絵のように、ボクの気持ちは空虚なままだった。

遠くのほうで、痛みが叫んでいた。


揺れることが無いと思っていた空は、視界と共にぼんやりと滲む。

頬を伝う雫に筆の先を触れさせ、ぽたりとカードに閉じ込めた。


見上げた空は、抜けるような春空のはずなのに。

どこかぼやけて感じられた。



*



即席の眼帯を顔に巻き、空虚を閉ざす。

遠くの山鳴りが、タオルの内側で低く続く。


道具を片づける間に、筆を一本、手から落とした。


ああ、また笑われてしまうな。

そんなことを考えながら、筆を拾い上げようとして、


ふ、と止まる。


ボクの筆は、透明なケースのすぐそばに転がっていた。

何の色も吸っていないボクの筆の先に比べて、

ヒバリからもらった予備の筆のほうが、


わずかに。

ほんの僅かに。

その毛先を、淡く染めている。



  たくさんの表情を見せてくれるし、

  それにつられて世界の織彩しきさいが表情を変えるの



彼女の声が、真剣な横顔が。

風に攫われた鈴の余韻みたいに戻ってくる。

胸の奥で、糸がほどけて、別の糸が結び直される。


そうだ。


描くときも、空の色を探すときも。

ボクはずっとその筆を隣に置いていた。

色を含ませないよう、透明なケースの中で、カードには触れさせず、ただ空の下に。

蓋は閉じられていても、無色は光を拒まない。


予備の筆は、ずっとボクの隣で、空を見続けていたのだ。


ケースを開く手が震えたのは、痛みのせいではない。


ひとっ。


ボクはキャンバスにそっと筆先を触れ、すぐに離す。


ほんの点ほどの小さな痕が、

確かに青く、しかも動いている。


雲の端が、そこをゆったりと横切っていった。



喉が鳴る。

歓喜と恐怖が同時に胸に入ってきて、うまく呼吸ができない。

ボクは天を向いて倒れ込み、笑った。


  キミが一番喜ぶのって、筆かなあ、って

  あはは、何その顔!


はは、そんなひどい顔をしていたかい。


ヒバリ。

キミはあの日、世界でいちばん好きなものを、

キミが自分で持つのではなく、ボクに渡す道を選んだのか。


予備の筆――キミからの贈り物――は、何年も何年も、

他の織彩しきさいを寄せつけず、ただ空の光だけを吸いこみ続けていた。

カードに置けば染め上げられ、バケツに浸せば消えてしまう世界で、

ただ見守るという方法だけが、空の織彩しきさいを育てる道だったなんて。


キミは、知っていたのかい?


知らなかったんだろうね。



頬を伝う雫にボクの筆の先を触れさせ、ぽたりとカードに閉じ込めた。

先ほどのカードと同じ織彩しきさい

でも、それは僅かに違う色味が宿っているように見えた。


見上げた空は、抜けるような春空だった。


彼女の笑い声が、ころころと響き、

高く高くのぼっていった。



*



あの発見から、もう何年たったのだろうか。


それからの旅で、ボクはよく窓辺の席を選ぶようになった。

すぐ傍に、透明なケースに入ったままの、彼女の筆を置いて。


海沿いの町では、潮風がカーテンを揺らし、ボクらの影が床を薄く渡っていく。

砂漠の縁では、蜃気楼が窓枠の中で震え、夜は星が透明なケース越しに小さく宿る。

雨の街では、灯りの滲む窓ガラスに、細い軸の輪郭が溶け込む。


空色の筆に、それらすべてを見せた。

色を触れさせるのではない。

ただ隣に置き、宿を替え、季節を渡った。


織彩しきさいと光の関係は、日々、筆の奥で育つらしい。

朝は牛乳のように、真昼は磨かれた鉱石のように。

同じ「白」でも、空が変われば質感が変わる。

――それを、筆の毛一本一本が覚えていくのが分かった。


これまでどおり、絵は描き続けた。

空のない風景も、空を背にした肖像も、室内の静物も。

カードはその数を増やし、バケツは毎朝のように澄んでいた。

描くたびに「欠けたもの」の輪郭は増えるが、それでも手を動かす理由は消えなかった。


ヒバリの断片は、旅先の匂いや音としていつも隣にあった。

ある街では、彼女が好きだった柑橘の皮の匂いを商人が差し出し、

別の夜には彼女の笑い声が猫の鳴き声と重なった。


無邪気なキミは、いつもボクの手を引いてくれた。

その断片が、ボクの筆に静かな重心を与えていった。


描くたびに、「欠けたもの」が心にチクリと刺さる。

空が描けない自分を責める夜もあった。


――いや、違う。

責めているのは自分ではなく、無理にでも前に進もうとする心の癖だ。

あの一枚の前でこそ、終わらせたい。

そんなわがままが、いつの間にか原動力になっていた。


  だからいつか、君がすっごい画家さんになったらさ

  私に、空をプレゼントして欲しいな

  あっはは! そんな難しい顔しないの!


回想の声は、痛みではなく、歩幅を整える合図になった。



アステルに偶然再会した峠で、

彼はボクの顔色を見て、何も聞かずに翼をたたんだ。


「楽しみにしているよ。そのときは、空にも見せてやってくれ」


そう言って彼は微笑む。

嬉しかった。

見抜かれたことより、その言葉が背中を押したことが。



誰にも言わないが、ボクは時折、ケースにそっと手を置いてから眠った。

旅を共にする道具に、期待と不安を預けるみたいに。


眼前に広がる星空は、

まぶたの裏でも、パチパチと輝き続けていた。



*



沢山の景色を見た。


様々な空を見た。


そうして、いったい何十年の時が流れたのだろうか。


指の節は太くなり、耳の先は白が目立つようになった。

けれど、その指先の動きは、若い頃と変わらない。


長い旅の果てに。

すっかり老いたボクは、あの丘の家へと戻ってきた。

彼女の眠る場所に近い、小さな家に。


一番最初の夜と同じように、布のかかったキャンバスが窓辺で星明かりを飲んでいる。

机の上では、カードが薄い呼吸をし、乾ききったバケツが曖昧な影を這わせていた。

積もったほこりに、夕星が一粒、膝の鼓動に合わせて目くばせをする。


布を外す。

二人の笑い声が蘇る。

絵の中の若い二人は、贈り物を差し出し合っている。


男は指輪を。

女は一本の筆を。


贈り物を交換し合ったあの日の丘。

笑い声まで聴こえそうな手元、花、影――そして、頭上だけが白く残されたまま。



胸の奥が静かに波打つ。

ここまで来たのだという実感と、ここまでしか来られなかったのだという恐れ。

ボクは深く息を吸い、筆の入ったケースを開けた。


細い柄に触れる。

軽い。

けれど、何年分もの空の重みが、掌の皺にそっと沈んでくる。


バケツには触れない。

カードにも触れない。


窓の外で、雲がひとつ、ゆっくりかたちを変える。

一度だけ、彼女の声が重なる。


  ずっと傍で見ててあげるから

  ずっと  ね?


筆先が、布の白へ、そっと降りる。

触れた瞬間、窓の風が止み、世界の呼吸がその一点に集まった。


空白に、するりと青がひらく。

絵に乗せた織彩しきさいたちを巻き込んで、次々と表情を変えていく。


朝の白は牛乳みたいにのっぺりと息を潜め、

真昼の白は磨かれた鉱石のようにきっぱりと立ち、

夕暮れは紫を含んでほどけていく。


雲が浮かび、雨が兆し、虹の糸が遠くにかかり。


やがて。

夜には、小さな月がのぼる。

星は、視線の動きに合わせてひそやかに瞬く。


空が、そこにいる。


絵は、その瞬間に完成した。

世界でたった一枚の「空の絵」として。


筆先を離す。


胸が、やっと温かくなった。

満ちたというより、静かに戻ってきた――そんな感覚。


ボクは椅子に腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じる。

窓から吹き込む夜風が、乾きかけのキャンバスを撫でていった。



絵の中で、若い二人が笑っている。

月明りが彼らの輪郭をやわらかく照らし、夜空は抜けるように澄み渡る。

最後のピースは、もう、どこにも欠けていない。


その絵は世界に一枚しかない。

雲が浮かび、雨が降り、虹がかかり、月がのぼり、星が瞬く。

織彩しきさいは、光の角度で表情を変え、季節にあわせて呼吸をする。


空は、そこにいる。

ボクの、そしてヒバリの、長い長い贈り物として。


  私ね、――空が好きなんだ


おまたせ、と唇がかたどる。



ボクの指先から離れた筆が床を転がり、

旅の中で作り上げたカードが収められた、数冊の本の山にぶつかる。


筆先は、床に小さな空の筋を描き、

筆の織彩しきさいはそこで使い果たされた。



外の本当の空から月明りが差し込む。



窓辺の風鈴はひとつ、やさしく鳴った。



――


透明な箱に宿る筆は、空の表情を覚えていた。

時間にさらされた観察が、色を定着させる。

老いた画家が最後に紡ぐのは、一作の贈り物。

その世界の中で、季節は静かに息をする。

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