筆に宿る空 (1/2話)
この物語には、死別の描写、死を連想させる描写、
自傷行為を示唆する描写が含まれています。
描かれた痛みがご自身の、あるいは誰かの傷に触れることのないよう、
慎重にご判断の上でお進みください。
――
明かりの消えた部屋で、窓辺のキャンバスだけが星明かりをすうっと受け止めていた。
ボクはその前に座り、染色のための色――"
筆をバケツの水に浸すと、ついていた色は音もなくほどけて、消えてゆく。
一つの
果実からもらった藍。
鳥の羽根からもらった群青。
蝶の鱗粉からもらった瑠璃。
鉱石から砕いた孔雀石の蒼。
手元の紙に塗り留めるが、どれも影のように黒が勝ち、うっすらと青が残るだけだ。
光が横にすべると、青はささやきのように形を変えた。
けれど、胸にひっかかるあの広がりには届かない。
朝焼けの橙、昼の蒼、夕暮れの紫、嵐の灰、夜の群青。
ボク――山猫の獣人、名をカイと申します――が描きたいのは、
そのどれでもあり、どれでもない「本当の空」の表情。
布をかけたままの一枚のキャンバスに、ボクはそっと指を添えた。
そこには、彼女が生きていたころに描いた、二人の思い出の場面がある。
贈り物を交換し合ったあの日の丘。
笑い声まで聴こえそうな手元、花、影――そして、頭上だけが白く残されたまま。
空が、欠けている。
最後のピースは、あの日からずっと見つからない。
私に、空をプレゼントして欲しいな
耳の先がぴくりと震える。
彼女の声は、紙片の角に引っかかった風みたいに、胸の奥を掠めていく。
布の向こうの青白い余白が、遠い呼吸をしているように見えた。
「ヒバリ、もう少しだけ待っててね」
ボクはそうつぶやき、彼女から貰った予備の筆に、視線を落とした。
まだ一度も、防滴ケースから出したことのない、しっとりとした毛先の筆。
ずっと隣で、描けない絵の側で、ボクと同じ方向を見てくれていた相方だ。
ケースの中で、昼と夜が交代するたびに、筆の柄がほんのり青を返した夜があった。
その
色を写し取る方法は、主に二通りと言われている。
存在そのものが持つ色、"
空には、触れることができない。
ならば、空の
――光や水や雪のように、空の姿を映しつづけるもの。
思案はやがて眠りにほどけ、冬空に浮かぶ星の粒は遠のいた。
*
空から生まれて手の届くところに降るもの――雪と霧。
白に染まる前の筆には、空は宿っているだろうか。
もう夏も近いというのに、雪の降りやまない、霧に覆われた村。
その入口で、灰色の毛皮をまとった獣人の少年が、雪かきの手を止めてこちらを見た。
「旅人さん? こんな寒い場所に、どうしたの」
「雪になる前の色を分けてほしくて」
少年は不思議そうに瞬きをしてから、頷いた。
霧紡ぎの
屋台の奥では、老いた霧狼族が節だらけの指で、吊るした筆の根元を慎重に返していた。
「霧の色の筆」だ。
霧の粒を何週間も吸わせて、やっと一筋の白灰を宿すのだという。
隣では、雪兎族の娘が雪片を壺に閉じ込め、せっせと筆先を沈めている。
畑の育たぬ土地で、常冬だけが人の手に残す収穫。
ここでは霧も雪も、大事な商品だ。
「にいちゃん、残念だが探してる
言葉をかけてきたのは、鼻先の黒い氷鼠族の青年だった。
彼の掌は氷に触れすぎたせいで、表皮は固くなり、ところどころひび割れている。
ボクは無理を言って、染まりきっていない「雪の色の筆」を一本分けてもらった。
礼を言い、筆先をじっと眺める。
ほんのりと染まった先端には、淡い光が感じられた。
市の端で、バケツの澄んだ水に自分の筆をひたし、音もなく色を落とす。
ぱちぱちと弾ける竹炭、立ち上る煙、煤けた火箸。
これらの
旅の思い出として残すために、いつか描くときの画材として残すために。
晴れ間を求めて、村から少し離れた丘へ。
その筆先が雲の縁をなぞると、紙の上で冷たい息が走った。
するりと、淡い気配が紙に立ち上がる。
まるで雪面の奥から、空が透けて見えるようだった。
心は跳ねた。
やっと何かに触れた気がして。
だけどすぐ、胸の熱が静まっていく。
――違う。温度がない。
雪の青は、きりりと鋭く美しい。
指先がそこを触れたとき、皮膚が締まるように冷え、息が白くなる。
でも、灯された光には、暖かさが足りない。
心の奥まで、熱が届かない。
期待がほどける音は、水をこぼした時の音に似ていた。
風が裾を叩き、足元を攫ってゆく。
ふと、ヒバリが隣で笑っていた小さな仕草がよみがえる。
筆をうっかり落としたボクに、
彼女は決まって肩をすくめて「見てたよ?」と目を細めた。
いたずらっぽい仕草の湿り気が、冷気の中にあたたかく残る。
俯いちゃダメだ。
笑おう。楽しもう。
描こうとしている空は、あの日の笑顔なのだから。
ボクは、筆をそっとケースに戻し、丘を後にした。
雪の降る灰色の空。
その雲の向こうに、確かな明るさが灯っていた。
*
虹ならば、天から伸びて地に降りる。
空気の澄んだ山地では、午後になると必ずどこかに雨筋がかかる。
ボクは峠道で立ち止まり、澄んだ秋空を渡る一人に声をかけた。
空翔族の彼は、アステルと名乗った。
翼は肩から尾羽へ、明け方の瑠璃から宵の闇へ、
光にさらされる角度で質感から先に変わる。
陽の斜面では瑠璃に、陰の谷ではほとんど墨色に見えた。
「残念ながら虹は空と同じくらい高くて遠いんだ、近づこうとしても逃げていく」
そう言って彼は笑う。
滝壺に立つ七色の橋へと手を伸ばして、それが消えていく記憶が、胸の裏から顔を出す。
語気を落とすボクに、アステルは明るく肩をすくめる。
「なぁ、折角だから俺の絵も描いてくれないか」
――するり。
吹き抜けた風に、「君の絵、好きなんだ」と笑う彼女の記憶が混ざり合う。
受け取った指輪を天にかざし、まあるく天を切り取りながら。
アステルと同じように、透き通った期待が灯った表情で。
ボクは快くうなずき、キャンバスを広げた。
バケツの近くには、彼女から貰った筆の入った、透明なケースを置いて。
丘の木々は、かつて歩いた森でカードに写しておいた緑を借り、
岩肌は灰のカードから譲り受けた。
アステルの翼や肌は、直接筆で触れて、
一言断りを入れ、その色味をカードにも移しながら。
仕上がった絵に、彼は息を呑み、
それから「なるほどなあ……」と目を細める。
草花の乱れる山岳の絵、その中を悠々と飛ぶアステル。
その周囲だけが、白い。
空の色がない。
絵を見つめる彼の目に、寂しさが浮かんでいた。
空と共に生きる彼らにとっては、世界そのものが欠けたように見えるのだろうか。
「ありがとう。絵描き達が空の色を追い求める理由が、よく分かったよ」
胸の奥で、乾いた音が転がった。
描けないものがある、自分の中に穴がある。
描きたいものを描けない――それは絵描きにとって、翼をもがれるに等しい痛みだ。
届かないものに手を伸ばし、もがきながら進むことしかできない。
「絵描きさん、湖なんてどうだい。ずっと空を見ている鏡だぜ」
別れ際の言葉が、胸の暗がりに小さな灯りを点けた。
バケツを持ち上げた拍子に、水面が揺れ、輪が広がる。
そこに映った空は、あの日の彼女が、切り取った空のように見えた。
透き通った筆入れの中で休む細い軸が、一瞬だけきらりと星を呑み込んだ。
先を見つめよう。
次を探そう。
空はひとつじゃない、沢山の表情がボクを待ってるんだ。
ボクは無理に笑顔を作り、そっとカードをカバンに収めた。
頭上に広がる澄んだ秋空。
それはこの山肌の向こうにも、ずっと続いている。
*
風の止まる湖――。
古い地図では、鏡座湖と、かつて呼ばれた場所。
アステルの言葉を胸に、各地の湖を見て回り、あれからもう1年以上が過ぎていた。
春を迎えたというのに、岩は凍え、空気には銀粉みたいな冷たさが混ざる。
湖面は鏡そのものだった。
雲がすべっていく音まで聞こえる気がする。
ボクは予備の筆を傍らに置き、使い慣れた一本をそっと水面に触れさせた。
筆の獣毛が吸い上げるわずかな震えに耳が澄む。
肩に、瑠璃の蝶が止まった。
周囲の草花も背を伸ばし、世界全体が「静けさ」という音だけを奏でる。
半日ほど。
腕の感覚が別の誰かのものみたいになった頃、
持ち上げた筆先には、透きとおった青が宿っていた。
胸の奥が熱くなる。
いちどその筆をケースにしまい、キャンバスを立て、バケツを置く。
白地のカードに写すのではなく、直接、キャンバスへ。
筆先の通った後に、湖のような青がひろがる。
布の上を、絹の雲がゆっくり流れていく。
――ついに。
そう思った瞬間、キャンバスの青が、ひたりと揺らいだ。
風だ。
水面が波立つときの癖を、色がそのまま思い出してしまった。
空の真似をする鏡の
ただ、呆然と立ち尽くす。
言葉が、出てこなかった。
カードに
手は震え、水面が小さく波立つ。
蝶が飛び立つ気配だけが、骨に届いた。
彼女のいない思い出と、徒労感だけが、ボクの中に降り積もる。
心の温度が、ゆっくりと、冬へと戻っていった。
「空をずっと見つめてきた、揺れないもの……」
口の中で言葉が粉になって、空気に溶けてゆく。
空をずっと見続けている、しっかりとしたもの――なにか。
木や石は空に背を向ける時間がある。
水は揺らぎ、霧や雪は溶ける。
では、ずっと空を見てきたものは。
そうか。
そうだ。
ふらりと立ち上がり、さらに山頂へと足が向かった。
そのボクの目に。
空は映っていただろうか。
――
窓辺に光を受けるキャンバスと、白い余白の痛み。
画家は世界の色をカードに写して歩く。
出会いと別れの断片が、
でも窓の外の空だけは、彼の手に落ちない。
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