第10話 振り返る声
いつ目が覚めたのか、俺には分からなかった。目の前には、机と便箋と、窓辺にたゆたう灰色の光がある
だが、その光は本当に”朝”のものだったろうか?季節も、曜日も、今が何時なのかも、まるで分からなかった。ただ、俺はまた手紙を手にしていた。
ーー「俺」が、手紙を手にしている。
そんな意識だった。まるで、俺は俺自身を読んでいるようだった。指が、便箋の角をなぞる。紙は少し湿っていて、俺の指先を吸い込むように柔らかかった。この紙はーー本当に紙なのだろうか。
ふと、記憶の断片が浮かぶ。あの階段。彼女の影。ポラロイドの裏に記された、「あのとき、君は何を見ていた?」の文字。
ーー見ていたのは、俺か?
いや、それとも、誠司だったのか?
窓の外に目をやる。景色がぼやけている。それは霧のせいだろうか。あるいは、俺の目が、”まだ目覚めていないせい”かもしれない。
便箋の一枚目に目を落とすと、いつの間にか文字が浮かんでいた。それは黒インクではなかった。白紙の上に、うっすらと、まるで水の中で書かれたように滲む鏡文字。
〔おぼえているか〕
そう読めた気がした。
手紙の文面が、呼吸するように揺れる。紙が、文字が、”読む”という行為に応じて、変形していく。
読んでいるのか、読まされているのか。
紙の奥から声がした。
「わたしはまだ、そこにいる」
女の声だ。声に、名前はなかった。けれど、俺は確かに”彼女”の声だと理解していた。
ーーいや、そう思わされていた。
手紙の文字列が、静かに変化する。「彼女」の語りになっている。それも、俺の記憶の中の彼女ではない。”語っている彼女”だ。
その内容は、俺の知らない出来事だった。
〔私はあのとき、階段の踊り場で風を感じていた。あなたが立っていることは知っていた。でも、振り向かなかった。あなたが何をしようとしていたか、怖くて見られなかったから〕
俺の中で、景色が反転する。あの雨の日。彼女の背中。スカートの裾がわずかに揺れる。その布地の内側に、”言葉にされなかった恐怖’が宿っている気がした。
そのとき、俺は何をしていた?ーー「俺」は、そこで何を?
記憶が泡のように浮かび、また沈む。
視界が揺れた。いつの間にか、俺は立っていた。便箋は机の上にある。手は濡れていた。水か、汗か、それともーー
カーテンがゆれる。その隙間から、あの階段が見える。見えるはずがない。だが、確かに見えた。写真と同じ構図。灰色のコンクリート。雨の音がしないのに、水面が揺れている。
その場所、現実ではない。けれど、今の俺の足が向かう場所でもある。
階段を降りる。降りるたびに、風景が染みていく。手すりに触れた指に、既視感。いや、これは”追体験”だ。
ーー誰かが、俺の記憶を再生している。
階段の踊り場に着いた。誰もいない。だが、そこに”痕跡”がある。五本の小さな指の痕。壁に押しつけられた跡が、うっすらと残っていた。
「ねぇ、わたしのこと、おぼえてる?」
俺の背後。いや、頭の中?視界が歪み、立っていられなくなる。
倒れ込む。目を閉じる。ーーだが、まぶたの裏に、手紙の文字が浮かぶ。
今度は、それは誠司の筆跡だった。
〔君が”思い出す”たびに、彼女は少しずつ、君の中に入り込む〕
俺の中で、語りが混戦していく。”彼女”の声。”誠司”の筆跡。”俺”の記憶。
「俺」は誰か? 「彼女」は語り手か? それとも、読者か?
ーーあるいは、「俺」自身が、語りの亡霊なのではないか?
目を覚ます。気づけば、椅子に座っている。便箋が目の前にある。読みかけの手紙。
それでも、どこか一節が増えていた。
〔あなたが最後に語ったとき、私は振り向いた〕
そう記されていた。
だが、俺はその瞬間を知らない。振り向いた彼女の顔を、思い出せない。ーー思い出してはいけない気がした。
俺は、最後の頁をめくる」。
手紙ノ貌 福宮アヤメ @gena_rosso
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