返礼の祠

二ノ前はじめ@ninomaehajime

返礼の祠


 小さな祠の中に棲んでいた。

 山に建てられた石祠せきしで、苔むしていた。紙垂しでが垂れた注連縄が観音開きの扉を閉じている。まつられているわけでも封じられているわけでもない。ただそこにいた。

 時折、ふもとの里の人間が手を合わせた。中に神仏がいると思っているらしい。人の考えも口にする言葉も伝わらない。ただ拝み、ときには訴えた。供え物をする者もあり、その食物しょくもつに誘われた鳥獣ちょうじゅうたいらげた。

 長い歳月を祠の中で過ごした。山は四季によって表情を変え、春には新緑が眩しく、秋には色づいた。寒い季節には雪が降り、切妻きりづまづくりの屋根に白く積もった。

 外に出る気はなかった。祠の中は居心地が良かった。木漏れ日の中、樹上で小鳥たちがさえずっていた。くさむらが揺れ、狐が豊かな尻尾を揺らして鼻先を覗かせた。その瞳がこちらを見つめ、身をひるがえして消える。腹は減っていなかったから見逃した。

 人里離れた山の中でも十分に賑やかだった。これ以上の喧噪けんそうにはえられないだろう。祠の内側から覗く景色は色鮮やかで、目を細める。もう彩りはいらない。

 十二分に満たされていた。そう思っていた。あのわらべが来るまでは。

 小腹こばらいていた。祠の近くまで野兎でも近寄りはしないだろうか。そう思いながら微睡まどろんでいると、草を踏む音とともに何かが目の前まで来ていた。この好機を逃すまいと、石祠の扉から顎を飛び出させた。

 その歯で噛み砕く前に声が聞こえた。十に満たないほどの童が、しゃがみこんで両手を合わせていた。粗末な着物で、わらがほつれた草鞋わらじを履いていた。自らの上半身を呑みこもうとする口には気づいていない。目をつむり、何かしらの言葉を繰り返していた。

 これは祈りだろうか。

 口を収め、静かに観音開きの扉を閉じた。人を食わない理由はなかった。ただ、小さな人間の童が一人で山まで来ているのが珍しかっただけだ。帰り道に迷ったわけではなく、どうやら目的があって里からここまで登ってきたらしい。

 しばらく観察していると、童は立ち上がってお辞儀じぎをした。そのまま山道を駆けていく。気づけば、祠の前に供え物がある。茶褐色で不揃ふぞろいな形をした、泥団子だった。扉の隙間から舌を出して舐めた。

 とても食えたものではない。

 


 何度か太陽と月が入れ替わり、また童がやってきた。以前と同じ姿勢で手を合わせ、祈る。やはり意味はわからない。ただ瞼を固く閉じた表情は真剣で、おそらく大事なことなのだろう。通りかかった獣で腹を満たしたので、此度こたびも見逃すことにした。

 意味のない祈りを捧げ、立ち上がる。再び頭を深々と下げて去っていく。今日の捧げ物は泥団子ではなかった。鮮やかな紫色の菊の花が一輪供えられていた。そのうち風に飛ばされて、木立に消えていった。

 童は供え物を変えることが大事だと考えているらしい。足を運ぶたびに、さまざまな物を供えた。ふちが欠けたお椀にただの水を注ぎ、ごく少量の塩、さかきの枝葉などを添えた。ときには白米を固めた食べ物を持参し、祠に供えようとした。その手が止まり、童は白い食物を物欲しそうに見つめる。長いあいだ悩んだ末、素早く置いて一目いちもくさんに走り去った。小さな背中を見送った。

 木漏れ日の下で、白々しらじらとした米が輝いていた。しょくすると、獣の血肉に比べて素朴な味がした。

 幾度となく祈られても、この童が何を願っているのかわからなかった。おそらくは内容が聞き取れても理解できなかったに違いない。

 長く暮らした祠での生活で、小さな童との見えない交流はわずかな変化をもたらした。その来訪が不快だったならば、とうに血肉をむさぼっていただろう。必死に祈り、知恵を絞って供え物を置いていく。童は痩せており、山道に疲れたのか、祠にもたれて眠りこけることさえあった。

 その寝顔は安らかであった。このまま夜になれば里には帰れず、山の獣の餌食えじきになるかもしれない。祠の中から舌を伸ばし、柔らかな頬を舐めた。童は飛び起きると、日が暮れかけていることに気づいて慌てた。こちらに一礼をし、山道を駆け下りていった。粗悪そあくな着物の背中を見送った。

 時の流れなど意識したことはなかった。ある日をさかいに、童が訪れなくなった。幾度となく朝と昼を迎えても、姿を見せなかった。静かな山中を、初めて退屈だと感じた。

 やがて童が再び現われた。みすぼらしい格好が、より貧相に見えた。その表情に生気はなく、目の下は落ちくぼんでいた。何事かを低く告げた。やはり人の言葉は入ってこない。

 ただ、おそらく願いは叶わなかったのだ。

 沈黙を守る祠に歯を食い縛り、童は木の下に落ちていた棒切れを拾った。ふらつきながら目の前で振りかぶり、振り下ろそうとした。

 やめろ。初めて誰かに願った。

 この祠を壊そうとするなら、食わねばならなくなる。

 童は両手で振り上げた木の棒を取り落とし、そのまま崩れ落ちた。こけた頬を涙が伝う。こちらにうるんだ目を向けて、たった一言だけ呟いた。意味が通じなくとも、その語感だけが印象に残った。

 うなだれていた童は立ち上がり、覇気のない足取りで祠の前から立ち去った。その背中が遠ざかるのを見送る。なだらかな山道で、蒲公英たんぽぽの黄色い花が静かに揺れていた。

 その日以降、童は訪れなくなった。何度も四季を繰り返し、冬には積雪に埋もれた。柔らかな木漏れ日の下、ほとんど目の潰れた黒猫が屋根の上で毛繕けづくろいをしており、させるがままにさせた。

 どれほどの年月が過ぎただろう。遠方から騒がしい気配が伝わってきた。このわずらわしい感覚には覚えがある。人は時折、お互いに争いたがる。多くの馬蹄ばていが大地を揺るがし、研いだ鉄を打ち鳴らして、力に劣る者たちを踏み潰していく。

 夜、山の麓がだいだいいろに染まっていた。火の手が上がっているのだ。食われる直前の獣が上げる断末魔と同じ声がこの山中まで伝わり、吹き抜ける夜風に血の臭いが混じる。おそらくは、一方的な殺戮さつりくが行なわれている。

 やがて急いで駆けてくる足音が聞こえてきた。祠の前を通り過ぎる。多少背丈が伸びていても、その姿形すがたかたちには見覚えがあった。あの童だった。右の肩を手で押さえている。指の隙間から血が流れていた。

 ひづめの音がした。馬に乗った男が松明たいまつの灯りをかかげ、甲冑かっちゅうに身を固めている。もう片方には細長い刀を手にしており、刃先から鮮血を垂らしていた。

 馬の脚に人がかなうはずがない。すぐに追いすがられ、成長した童は足がもつれて転んだ。立ち上がることもできずに後ずさり、自らの頭上に振り下ろされる刀身を凝視していた。

 本来ならば人同士の争いに関わることはない。

 ただ、返礼はしよう。

 石祠の扉を突き破り、顎を剥き出しにした。馬ごと人間の男を呑みこみ、噛み砕いた。咀嚼そしゃく音を響かせる。鉄の味がして、その残骸を吐き出した。やはり人が作る物は、とても食えたものではない。

 祠の中へ顎を引き戻すと、尻餅をついたままの童がこちらを見つめていた。その表情はひどく怯えていた。叫び声を上げて、こけつまろびつ闇夜にその背中が遠ざかっていく。

 ふと童が口にした言葉の響きを思い出した。確かこう言ったのだ。

 さようなら、と。

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